コンテンツにスキップ

金高清吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 金高 清吉 八段
名前 金高 清吉
生年月日 (1919-03-09) 1919年3月9日
没年月日 (1960-02-16) 1960年2月16日(40歳没)
プロ入り年月日 1941年
出身地 千葉県天津小湊町(現・鴨川市
所属 将棋大成会(関東)
日本将棋連盟(関東)
師匠 木村義雄十四世名人
段位 八段
順位戦最高クラス B級
2022年2月14日現在
テンプレートを表示

金高 清吉(かねたか せいきち、1919年3月9日 - 1960年2月16日)は、将棋棋士。贈八段。木村義雄十四世名人門下。千葉県天津小湊町(現・鴨川市)出身。

経歴

[編集]

1946年順位戦C級に参加し、成績上位のために六段へ跳び昇段。翌年にB級に昇段する。B級2組在籍のまま、1960年に逝去。

棋風

[編集]

珍形、変形、手損等は気にしない棋風で、「悪力の金高」の異名があった[1]

人物

[編集]

海釣りが好きで、釣った魚のことをけなされると、闘志満々で戦ったという[2]

非常に酒が好きであり、清野静男間宮純一との三人で「将棋界の三奇人」とよばれた[3]

初の「反則負け」

[編集]

将棋の現行規則においては、指し手に反則行為が生じた場合には反則を犯した対局者の即負けが規定されているが、かつては反則を定めた明文規定がなく、反則規定が設けられたのは昭和32年頃であった[4]。公式戦で対局者の反則行為による「反則負け」が適用されたのは、王手放置の反則を犯した金高七段であった[4]。対局相手の間宮純一六段の王手に気付かず金高が他の手を指した直後、間宮は相手の玉を取り上げ「玉のただ取り」として自分の着物の中にしまい込むと、部屋を出て行ってしまった[4]。記録係が会長・加藤治郎八段に取り扱いを確認し、この対局の棋譜が新聞掲載予定だったこともあり加藤会長も頭を悩ませた上で、改正規定に則り金高七段の反則負けと確認された[4]

昇段履歴

[編集]
  • 1941年 四段
  • 1947年5月10日 六段へ跳び昇段(順位戦C級上位)
  • 1948年4月1日 七段(順位戦B級昇級)
  • 1960年2月16日 逝去
  • 1973年11月3日 八段(表彰感謝の日表彰 追贈)

脚注

[編集]
  1. ^ 升田幸三『升田十五番勝負』(秋田書店)P.144
  2. ^ 天狗太郎『棋士の世界』(時事新報社)P.238
  3. ^ 能智映『愉快痛快棋士365日』(日本将棋連盟)P.9
  4. ^ a b c d 団鬼六「自在流将棋エッセイ・鬼の千日手『禁じ手について(連載第12回)』」『小説club 1991年12月号』桃園書房、1991年12月15日、40-43頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション

関連項目

[編集]