深浦康市

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 深浦康市 九段
名前 深浦康市
生年月日 (1972-02-14) 1972年2月14日(45歳)
プロ入り年月日 1991年10月1日(19歳)
棋士番号 201
出身地 長崎県佐世保市
師匠 花村元司
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 3期
一般棋戦優勝回数 9回
2015年9月30日現在

深浦 康市(ふかうら こういち、1972年2月14日 - )は、将棋棋士。棋士番号201。長崎県佐世保市出身。花村元司九段門下。日本将棋連盟非常勤理事(2012年6月- )。

棋歴[編集]

1984年に奨励会に入会。5級昇級に1年かかったがその後は順調に昇級・昇段し、1991年10月1日に19歳でプロデビュー(四段昇段)。デビュー直後から頭角を現し、1993年(1992年度)の全日本プロ将棋トーナメントにおいて、決勝五番勝負で米長邦雄を3-2で破って優勝。

1993年度、早指し新鋭戦で優勝。これにより、同年度の早指し将棋選手権への出場資格を得たが、こちらでも優勝(決勝の相手は羽生善治)。一つの年度にテレビ東京の両棋戦で通しの優勝を成し遂げたのは深浦だけである。

以上のように、四段でありながらの年間優勝3回という成績により、この年度の将棋大賞の新人賞と敢闘賞を同時受賞。五段昇段前にこうした実績を挙げていたため、当時、棋士仲間から「深浦君は、まだ四段なの?」と、からかい混じりに褒められていた[1][2]

タイトル初挑戦は、羽生善治に挑戦した 1996年の第37期王位戦である。しかし、1勝4敗でタイトル獲得はならなかった。このシリーズの第一局では、初手に端歩を突き(▲9六歩)、位取り中飛車に構える極めて珍しい作戦(5五龍中飛車)を採用して話題となった。また、フィアンセとその両親を対局場に招待するという、粋なところを見せた。

また、通算勝率7割以上を長く保っていた深浦であるが、順位戦ではデビュー以来C級2組のままで停滞していた。しかし、結婚直後の1997年度から2期連続昇級でB級2組に昇級する。しかし、B級2組の1年目では9勝1敗の成績を挙げながら、不運にも3年連続昇級を逸する。

1999年から2001年にかけて、早指し新鋭戦で3連覇を果たす。

2003年(2002年度)、準タイトル戦の第21回朝日オープン将棋選手権において、初代朝日選手権者の堀口一史座に挑戦し3-1で奪取して、2代目の朝日選手権者となる(翌年、羽生善治に奪取される)。

2007年、第48期王位戦で羽生善治に挑戦。11年前と同じタイトル戦で同じ顔合わせとなった。七番勝負はフルセットの熱戦となったが、4勝3敗で制し、35歳にして初タイトルとなる王位奪取に成功して、「九州にタイトルを持って帰る」という対局前の言葉を現実のものとした。九州出身棋士のタイトル獲得は、1984年の加藤一二三福岡県出身)以来23年振りで、奇しくも同じタイトル(王位)であった。七番勝負の中で、特に最終局(第7局、出だしは後手の羽生の中飛車)は、中盤から終盤にかけての攻防が非常に難解で、NHK BS2囲碁・将棋ジャーナルで解説をした佐藤康光は「歴史的な終盤の名局」と絶賛[3]。この対局は将棋世界2008年3月号の「プレイバック2007(プロ棋士が選ぶ2007年名局集ベスト10)」で第1位に輝き、第35回将棋大賞の名局賞を羽生とともに受賞した。

2008年、初のタイトル防衛戦[4]となる第49期王位戦七番勝負で、リターンマッチを仕掛けてきた羽生をフルセットの末に破り[5]、2連覇。同時に準タイトル戦の朝日オープンを含めタイトル獲得3期の扱いとなり、規定により九段昇段を果たす[6]

同年、第2回朝日杯将棋オープン戦で史上39人目となる通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。600勝達成時の勝率6割8分1厘は、羽生善治、大山康晴中原誠の3人の永世名人に次ぐ歴代4位の記録[7]であり、深浦の実力の高さを示している。

2009年(2008年度)、羽生に挑戦した第58期王将戦七番勝負では、第5局終了時点で3勝2敗とし初の二冠に王手をかけるとともに、羽生との対戦成績を26勝26敗のタイとした。しかし、第6局、第7局で連敗し、タイトル奪取はならなかった。

2009年、第50期王位戦七番勝負で木村一基の挑戦を受ける。最初の3局で3連敗して防衛失敗の瀬戸際に追い込まれ、負けられない状況となった。しかし、出身地の長崎県佐世保市で行われた第4局に勝利したのをきっかけに4連勝を返し、史上2度目[8]となる3連敗4連勝での逆転防衛で、3連覇を果たした。深浦は防衛成功後のインタビュー[9]では、「内容はひどかった。いかに地元での対局を戦うかということで、その辺りから集中できた。」と語った。

2010年度、第81期棋聖戦で羽生への挑戦権を得たものの、年度前半の勝率は4割台と不調。棋聖戦では(初めての五番勝負・1日制のタイトル戦)、3連敗のストレート負け。また、その直後の第51期王位戦で広瀬章人に2勝4敗(2千日手)で敗れ、3年ぶりに無冠となった。なお、この王位戦の第6局(最終局)は、第38回将棋大賞の名局賞に選ばれた[10]

2011年度、佐藤天彦六段を破り、第82期棋聖戦で羽生への挑戦権を獲得するも、3連敗でタイトル奪取ならず。

2015年度開催の第23期銀河戦では決勝で佐藤天彦を破り、実に12年ぶりの一般棋戦優勝を果たした。

順位戦における不運[編集]

  • 1994年度、3度目のC級2組順位戦(第53期)で、9勝1敗で4位(次点)。このときの昇級者は、久保利明(10-0)、三浦弘行(9-1)、中川大輔(9-1)。
  • 1999年度(第58期)、B級2組順位戦で、9勝1敗で3位(次点)。このときの昇級者は、藤井猛と三浦弘行(いずれも9勝1敗)。
9勝1敗で昇級を逃した経験が2度ある棋士は、順位戦の長い歴史の中でも深浦だけである。
  • 2003年度(第62期)、B級1組順位戦では最終成績11勝1敗とし、最終局まで2局残した状態で初のA級昇級を決める。
  • 2004年度(第63期)、初参加のA級順位戦は、最終9回戦で羽生に勝てば勝ち越しで残留であったが、敗れたため谷川浩司丸山忠久、三浦弘行、鈴木大介とともに5名で4勝5敗に並んで終える。深浦は昇級直後で順位において下位(9位)であったため、B級1組へ降級となった。
  • 2005年度(第64期)、B級1組順位戦では最終成績10勝2敗とし、最終局まで2局残した状態で1期でのA級復帰を決める。
  • 2006年度(第65期)、2度目のA級順位戦は、佐藤康光、丸山忠久、藤井猛、久保利明、三浦弘行とともに6名で4勝5敗に並んで終える。またしても順位で下位(再び9位)であったため、B級1組へ降級(最終局で勝利するものの、残留争いでライバルとなっていた久保利明と丸山忠久がそれぞれ佐藤康光と郷田真隆[11]に勝利したため)。
A級順位戦で4勝しながら降級した経験が2度ある棋士は、順位戦の長い歴史の中でも深浦だけである。
  • 2007年度(第66期)、B級1組順位戦では最終成績9勝3敗とし、最終局まで2局残して鈴木大介と共にA級復帰を決める。
  • 2008年度(第67期)、3度目のA級順位戦では、三浦弘行、鈴木大介とともに3勝6敗という最下位の成績に終わり、順位が上の三浦が残留、深浦と鈴木が降級した。なお、A級在籍のタイトル保持者がB級1組に陥落するのは史上初である(当時は王位)[12]。これで、A級とB級1組との間を6年連続で往来したことになる。

なお、4度目となる2012年度(第71期)のA級順位戦では3勝6敗であったが、2勝7敗者が3名いたため7位となり、自身初のA級残留を決めている。

棋風[編集]

若手時代から、手厚さ、強靭な受けを特徴とする安定した将棋を指す棋風であり、長年、棋界指折りの通算勝率(約7割)を維持した。その一方、数々の大舞台で深浦と戦っている羽生善治は、深浦の将棋を「アグレッシブ」、「積極的」と評している[13]

基本的には居飛車党であり、矢倉角換わりを指すことが多い。2006年頃以降は振り飛車戦法も指す、いわゆるオールラウンドプレーヤーになっており、また、積極的な攻めも合わさった幅の広い棋風となってきている。2007年からの羽生とのタイトル戦でもその傾向が見られる。

序盤の研究家としての側面もあり、序盤作戦の指針となる『これが最前線だ!』『最前線物語』『最前線物語2』の三部作を著している。

人物・エピソード[編集]

  • サッカー好きであり、日本将棋連盟のサッカー部初代部長を務めた。
  • 1999年、将棋漫画「歩武の駒」(週刊少年サンデー)の監修。
  • 2006年7月2日に行われたJT将棋日本シリーズ・対丸山忠久戦において途中、同一局面が4回現れ千日手指し直しとなるはずが、両対局者、記録係、大盤解説者(加藤一二三)、聞き手(中倉宏美)の誰もが気付かず対局が進められた(結果は深浦勝ち)という珍しい事件が起こった。[14]
  • NHK-BS2で毎年正月に放送される「大逆転将棋」(司会は神吉宏充)では、ゲストがプロに勝てる可能性を作る変則ルールの将棋が行われる。深浦は、その変則ルールのアイデアマンを務めた。
  • 朝食は生粋のご飯党で、生卵は欠かさないという。
  • 王位戦で羽生からタイトルを奪い、翌年、羽生を相手に自身初の防衛戦で勝利するなど羽生善治にも比較的善戦している[15]。その一方で、兄弟子である森下卓とは共同研究をする仲だからなのか、第29回JT将棋日本シリーズ決勝で森下と対戦した際のインタビューで「羽生さんよりも森下さんとの対局の方がやりにくい」と語っている。なお、森下はこれに対し、「奨励会時代、あるいは若手の時に深浦君ぐらい努力した棋士は多いかもしれない。しかし、三十半ばを過ぎても深浦君ほど努力している棋士は数人だろう」と評し[16]、この努力が羽生に対して臆することなく立ち向かう自信の源になっているのだろうと指摘している。
  • 時にメディアで「羽生世代の一人」と書かれることがあるが、一般的に「羽生世代」と呼ばれている棋士達より学年で1 - 2年若い。
  • 息子は将棋とサッカーをやっており、「ピラメキーノ」の3ONストライカーに出演したことがある。
  • 2012年6月8日、日本将棋連盟非常勤理事に就任。
  • 弟子に佐々木大地がいる。2017年4月時点で順位戦A級に所属する棋士の中で弟子がプロになっているのは深浦だけである。

昇段履歴[編集]

主な成績[編集]

獲得タイトル[編集]

  • 王位 3期(2007年度 = 第48期 - 2009年度)
登場回数8回 獲得合計3期

一般棋戦優勝[編集]

合計 9回

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

記録(歴代1位または唯一のもの)[編集]

珍記録
  • A級順位戦における4勝5敗での陥落 通算2回(第63、65期)
  • 順位戦で9勝1敗での頭ハネ 通算2回(第53期C級2組、第58期B級2組)
  • 現役タイトル保持者としてA級から陥落(当時、王位)[12] 第67期(2009年3月3日)

将棋大賞[編集]

  • 第21回(1993年度) 新人賞・敢闘賞
  • 第22回(1994年度) 敢闘賞
  • 第23回(1995年度) 最多勝利賞・最多対局賞
  • 第31回(2003年度) 技能賞・勝率第一位賞
  • 第35回(2007年度) 敢闘賞・名局賞(第48期王位戦七番勝負第7局 対羽生善治王位戦)
  • 第38回(2010年度) 名局賞(第51期王位戦七番勝負第6局 対広瀬章人六段戦)
  • 第44回(2016年度) 名局賞(第75期A級順位戦第8局 対佐藤康光九段戦)

その他表彰[編集]

  • 2007年 長崎県県民表彰・特別賞

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ NHK杯テレビ将棋トーナメントで司会の女流棋士が証言。
  2. ^ 2016年度現在の昇段規定が当時に施行されていたとすると、全棋士出場棋戦であった全日本プロ将棋トーナメントで優勝の時点で五段昇段となっていた。
  3. ^ 佐藤はさらに「こんなにすごい終盤は記憶にない。」「(2枚の金を1枚の角と交換し、その角を5三に打つ手順の詰みは)すごい手。なかなか見ない筋。奇跡的な詰みと言ってもよい。」と評している。
  4. ^ ただし、タイトル戦以外では、朝日オープンで2004年(2003年度)の第22回に防衛戦の経験あり。
  5. ^ 羽生の挑戦を退けてタイトルを防衛したのは谷川浩司藤井猛佐藤康光森内俊之に続いて史上5人目。
  6. ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「深浦康市王位、九段に昇段(2008年9月26日付)
  7. ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「深浦康市王位、600勝を達成
  8. ^ 渡辺明による史上初めての3連敗4連勝での防衛(竜王戦)からわずか9ヶ月後のことであった。
  9. ^ インタビューは、2009年10月3日放送の「囲碁・将棋ジャーナル」で紹介された。
  10. ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「第38回将棋大賞が決まる!
  11. ^ 郷田は最終局を待たずして名人挑戦を決めていた。
  12. ^ a b A級順位戦の途中にタイトルを失い、A級からも陥落した例としては、第29期の内藤國雄棋聖)、第41期の二上達也(棋聖)、第42期の内藤國雄(王位)、第48期の田中寅彦(棋聖)、第58期の郷田真隆(棋聖)、第61期の郷田真隆(棋聖)がいる。
  13. ^ 2010年9月4日「囲碁・将棋ジャーナル
  14. ^ 棋譜(公式サイト) - 54手目△2二飛(1回目)から▲4八飛△4二飛▲2八飛△2二飛(2回目)▲7七金寄 △6五銀▲6七金寄△7四銀引(3回目)▲7七金寄 △6五銀▲6七金寄△7四銀引(4回目)。
  15. ^ 2013年8月現在、深浦の28勝38敗。
  16. ^ 将棋世界 2009年2月号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]