矢倉囲い
矢倉囲い(やぐらがこい)は、将棋において主に居飛車#相居飛車戦法・相振り飛車戦法で使われる囲い。単に矢倉(やぐら、英: Yagura[1], Fortress[2])と呼ばれることが多く、美濃囲い、穴熊囲いと並んで代表的な囲いの1つ。矢倉は相掛かり、角換わり、横歩取りと並ぶ相居飛車の四大戦法のひとつ。居飛車で互いに矢倉囲いに組んで戦う戦型のことを相矢倉(あいやぐら)と言い、これも矢倉と略されることが多い。
概要[編集]
この戦型のオーソドックスさと歴史、格調について米長邦雄は「矢倉は将棋の純文学だ」と述べ、将棋の世界では広まった言葉になっている[* 1][3]。矢倉定跡は矢倉を志向する者たちの想いゆえに、とてつもなく深い考察がなされる。一方で「矢倉は難しい」という声が非常に多く、確かに矢倉は難しくまた類型が多く、覚えることも多いとされており、難しい矢倉であるからこそこれほど多様化し、重厚な姿、美しい手順隆盛の理由はそれだけ多くの将棋指しを魅了してきたからとされている。その結果、どんどん進化して、そして深化し数えきれないほどの形が生まれて指されて時に消えて、そして復活し、91手定跡という驚愕の手順まで誕生している。戦後から平成の時代には大きなシェアを占める、超人気戦法でもある。
相振り飛車でも用いられるが、その場合右側に矢倉囲いを作ることになる。
通常矢倉囲いとは、(相居飛車の先手番の場合)玉を8八に、左金を7八、右金を6七に、左銀を7七に移動させたものをいう。相手の飛車先を▲7七銀と受け、そこに▲6七金右と1枚加わった形で、上部に厚いのが特徴である。通常の矢倉を金矢倉(きんやぐら)ということもある。角の初期位置に玉が来るため、角をうまく移動させることが必要になる。相矢倉では6八の位置に角が来ることが多いが、4六や5七、2六の位置に来ることもある。後手は7三に持ってくる場合が多い。上部からの攻撃には強い反面、7八の金を守っている駒が玉1枚だけであり、横からの攻撃にはそれほど強くないという特徴がある。ただし6八には金銀3枚の利きが集中しているので、八段の守りが薄いというわけではない。端は金銀の利きが無いためやや弱く、例えば桂香飛角を利かせて一気に攻め立てる雀刺しという戦法がある。
2010年代からは居飛車戦法の中でも雁木、角換わりなど、ほかの戦法に押され気味ではあったが、いまでも根強い人気を誇る。
それだけに金矢倉、銀矢倉など多くの形が生まれた。
非常に古い戦型で、江戸時代には同じ音の「櫓」の文字を当てており、分家六代目大橋宗英が著した『将棋歩式』などの定跡書でも「先手櫓」「櫓崩し」などと表記していたが、昭和後期には「矢倉」の表記が一般的となった。ただ、升田幸三や山口瞳など、昭和前期に将棋を修行した人の著書では「ヤグラ」というカタカナ表記も登場していた。近年ではほとんどが「矢倉」である。語源については、近年では、加藤治郎が「お城の富士見矢倉、物見矢倉に形が似ている所からついたもの」と述べているように、日本の城郭建築の櫓に形が似ていることから名前が付いたと記述する文献が見られるようになった。しかし、享保年間に出た『近代将棋考鑑』には『この駒立やぐらというなり。いにしえ大阪北濱やぐら屋の何がしという人好みてこの駒立を指し申すによつてしかという』と記載されており、「矢倉」の語源の有力な説となっている。
歴史[編集]
江戸時代の矢倉[編集]
現存の棋譜では1618年(元和4年)8月11日_(旧暦)の本因坊算砂と大橋宗桂の対局が初出である。本因坊が矢倉囲いを用いた[4]。
当時は振飛車全盛期であり、雁木 (二枚銀) が最有力戦法として流行した。草創期は、図1-1から片矢倉にしている。これを見る限り、形のうえでは現代と変わってはいないが、将棋の考え方という点では大きな開きがある。ただし振飛車の早囲い (6二銀) も居飛車側の舟囲いも、すでにこのときに考案されていることが知れる。ともあれ矢倉将棋はこの宗桂・算砂戦に端を発し、さまざまな創造と修正の努力を繰り返しつつ、大きな発展をとげて、現代に生きつづけるのである。
ところで、後に駒落戦でも矢倉を採用されている。図1-2は右香車落(元和七年)で、先手引き角は旧型の雁木である。他、図1-3はの角落戦(対局年は不許であるが、角落矢倉の第一号局、1600年代前半とされる)が知られる。
図1-4は、左香車落 (対局年は不詳、1600年代前半とされる) で、それぞれに矢倉の形が微妙な違いを見せている。
江戸期に死闘を演じた若き英才、大橋宗銀と伊藤印達は57番勝負を繰り広げるが、1709年(宝永6年)の57番勝負の第6局が図1-5で(前後逆)ある。10代同士の一戦。当時は雁木と矢倉の対決が最大のテーマであった。先手は7八銀から7七銀としている。矢倉への第一歩で、当時では珍しい着想であった。後手は3二金と立ち、6二銀から5三銀のコースで雁木を目指す。当時に会っては新の矢倉と旧の雁木の対決で、雁木から矢倉の優秀性が認識された注目すべき対戦であったといえる。
次の代は7世名人・伊藤宗看が出現し、さらに新しい実験を試みた。矢倉は形が重く守勢という風潮の中で矢倉を指す将棋師への再評価があったとみられる。宗看時代は5七銀型が常識になっていたが、実戦を重ねて4八銀型に修正されていったのもこの時代である。さらに当時は厚みを重視し、飛車先を切らせる指し方をしていたが、この観念に果敢に挑んでいたのが宗看であり、弟の贈名人である看寿であった。図1-6は1753年(宝暦3年)の御城将棋の対戦で、いつでも飛車先を切る権利をもつことで作戦勝ちになるとみられるが、当時飛車先を切って1歩を手にする利をさほど重視していないことがわかる。
図1-7は1774年(宝永3年)の御城将棋、後手の印寿とはのちの八世名人・九代大橋宗桂で、図では6五歩の位取りが出現し、力強いさし方が見られるが、この将棋が四手角の原型とみられ、仕掛けたほうが不利になるとされた。現代の四手角も、千日手になる可能性が強くなって姿を消してゆく。ただし、この四手角が背負う千日手の宿命を克服しようとして、新しい現代流の矢倉戦法が開発されていくわけである。
図1-8は、1811年(文化八年)の御城将棋で、後手は江戸時代で最後の将棋所を勤めた十世名人・六代伊藤宗看である。当時、先代の九世名人・大橋宗英が新しい相掛り戦の研究に取り組み、いっぺんに振飛車がすたれるとともに、矢倉将棋も勝率という点で芳しからず、次代の大橋柳雪と天野宗歩の新研究を待つ情勢であった。矢倉の欠陥は、銀が左右に分かれて中央が手薄になるという認識であった。その矢倉の欠点を衝いたのが、図1-8で見る宗看の5二飛の手であった。「矢倉に中飛車」が、矢倉の隆盛をはばむ決め手となったのである。
その後、大橋柳雪が宗英の新感覚を承け継ぎ、それを天野宗歩に伝えていった。
図1-9は、1817年(文化14年)8月、英節時代の柳雪が深野孫兵衛と戦った矢倉戦で、2四歩と大胆に飛車先を切って出たとこである。いまでは当然の手でもあるが、当時は飛車先を切る利を重視しなかった。柳雪は早くもそこに着目して、2四歩と切って出たものである。
将棋の戦いで一歩得の「実利」を作戦としてはっきり認識したのは柳雪であった。
それでもこの時期柳雪以外は顧みず、これを有利と決定づけるのは、次代の棋士、天野宗歩の出現からであった。7八から7七銀及び7九角の着想が新しく、それによって2四歩が可能となった。柳雪が矢倉近代将棋の先駆である。
近代将棋の父と仰がれる宗歩は、傑出した新感覚の持ち主で、著書『精選定跡』は、特に宗歩の将棋理論の集大成といえるが、その先駆として宗英と柳雪があり、二人に先達に学んだことは実戦譜に如実に示されている。
当時、草創期から棋界の主流をなした振り飛車が廃れ、居飛車将棋が主潮をなす土壌のなかで、主役を演じたのは宗歩であり、前代の7八から7七銀を修正し、7八銀-7七角-6八角の手法を用いて飛車先を切って出る。他の将棋師が飛車先を切らずに戦う中で宗歩のみが飛車先を切ったのは、既成概念を取り払って1歩得の利を有利とする大局観からである。
さらに宗歩の名前を不朽にさせるのは、天野矢倉の創造である。図1-10は1837年(天保4年)正月28日、深野宇兵衛との一番。6八に金を構えて矢倉を完成させ、ここから2筋と4筋の歩を切って2歩を持ち、実利とともに序盤の一手の大事さを示す。こうした序盤感覚の鋭さも、近代将棋を開拓した宗歩の功績である。著書『精選定跡』は実戦がそのまま定跡となり、さらに実戦の実験によって修正を加えてより完璧なものとしていった。
角交換の矢倉も宗歩が初めて試みた手で、ほかに、四手角にも新機軸を出した。
図1-11は、1845年(弘化二年)10月20日、市川蘭雪との対戦。相矢倉となり、当然ながら同型をたどってゆく。いまもそうであるが、同型のばあい、どこで後子が手を変えるかが興味の焦点になっている。図1-11から先手は、1六歩と突き、後手の宗歩は同型を避けて、7三銀と変化した。先手の1六歩の手を緩子にしようという着想で、これで一挙に攻めの主導権をにぎろうとした。序盤作戦の鋭さと からさがみうけられる。
昭和初期の矢倉[編集]
宗歩がすばらしい矢倉の新感覚をみせたのに後続が絶え、幕末から明治・大正期までは相掛かりの全盛時代となった。すでに振り飛車は影をひそめ、つづいて矢倉将棋も全くの低迷期に入った。幕末から明治までは将棋界の衰逸期であったし、当時の人びとは江戸時代の模倣として、相掛り戦一本で戦いつづけている。戦法には時代の世相の反映もあり、流行ということもあるが、この長い期間の矢倉の低迷は、そのまま棋界の衰徴を物語るものであった。ただ将棋師は、いつかは低迷する暗雲をはらいのけて、未知の世界を切り拓いていく。それが、天才児の出現によって大正の盛時を作り上げていったのである。
江戸時代に指されていたころは矢倉はあくまで居飛車戦で行う囲いの一つであって相掛かりからの流れで矢倉に組むケースがほとんどであった。そうしてまれに指されていた矢倉は、明治から戦中まで、ほとんど姿を消していた。
昭和期に入り、土居市太郎名誉名人が、天野矢倉を改良して土居矢倉を創始した。
1940年(昭和十五年)6月25・26・27日の第二期名人戦第三局は、対局場の名を冠して「定山渓の名局」と喧伝されるが、序盤は当時流行の相掛りコースからスタートし、先番の土居は角交換に出て相矢倉模様に局面を導いた。図1-12は天野矢倉の踏襲であり、同時に土居矢倉への創造である。厚みとさばきを特徴とし、敗者の木村義雄十四世名人は「敗局の名局」と讃えるが、名局かどうかよりも、矢倉将棋の復活に寄与したという点で、大きく評価される一局である。
升田・大山時代の矢倉[編集]
その後、戦後を迎えた当初は、なお戦前派の相掛り戦が主流をなしていた。そのなかで、1947年(昭和二十二年)5月30日、第六期名人戦第六局、塚田正夫八段(当時)と木村義雄名人の対戦は、先手の塚田が角交換に出て天野矢倉に局面を導いた。この木村・塚田戦は相掛り全盛時代から、矢倉将棋復活への貴重な実験であり、新時代への脱皮となる。
矢倉がひとつの囲いから戦法へと昇華するのは戦後で、特に大山康晴が1950年代は「矢倉の大山」とうたわれ、1952年に木村義雄を倒して名人位を奪取した一番の銀矢倉が特に知られる。このころの矢倉戦は5筋を付き合うスタイルでなく、当時の相掛かり戦の延長で、先手▲4六歩、後手△6四歩とどちらかが4筋(6筋)を突く、あるいは4筋と6筋を付き合うパターンであった。
矢倉の流行の始まりは、タイトル戦での相次ぐ採用である。図1-13は、1948年(昭和二十三年)四月十日、第七期名人戦第二局、塚田正夫名人と大山康晴八段(いずれも当時)の対戦。先手は矢倉のコースをとり、後手は、3二金。面白い手で、普通は、4二銀から3三銀とするところ。
これで、3二金から4一玉ー3三角として、従来の四手角の手順を三手角に修正し、序盤の一手の「からさ」を追求しようとした。
図1-14は、1950年(昭和二十五年)六月十二、十三日の第九期名人戦第六局の木村・大山戦。矢倉は持久戦という常識を打破し、右銀を前線に繰り出して急戦矢倉が出現した。
昭和二十年の後半に至って、升田幸三九段と大山康晴十五世名人とで相矢倉の戦いがはじまり、数多く現代矢倉に連なる定跡を創作した。そして勝負のたびに新手が出て、その修正の繰り返しによって多種多様な矢倉が実験されるなかで、矢倉戦法は飛躍的に進歩するとともに、「升田の攻勢」「大山の守勢」というパターンも定着した。
主だったものだけを列記すると、次の通り。
新旧対抗。5筋を突くのが新で、6筋を突くのが旧とし、この戦型で戦いつづけた。
- 右銀を繰り出す急戦矢倉。
- 持久戦の相矢倉。
- ソデ飛車矢倉。図1-15は、1953年(昭和二十八年)四月二十七・二十八日の第十二期名人戦第二局で、後手がソデ飛車に変化した。
- 矢倉中飛車の流れ。左銀を中央に繰り出す変化。
- 棒銀型。図1-16は、1954年(昭和二十九年)四月十五,十六日の第十三期名人戦第一局。先手の升田が、2六銀と棒銀に出た。
- 矢倉中飛車。図1-17は、1954年(昭和二十九年)五月十、十一日の第十三期名人戦第三局。
- 銀矢倉。図1-18は、1954年(昭和二十九年)六月七,八日の第十三期名人戦第五局。後手の大山が腰掛け銀から組む銀矢倉を愛用するようになった。
升田,大山戦のあと、さらに矢倉が多様化して個性的な形が続出した。
図1-19は、1955年(昭和三十年)四月十九,二十日の第十四期名人戦第二局の大山・高島一岐代八段戦。大山が、1七香の手を見せ、後手は高島流に組み上げて戦った。その後の展開は、先手は2筋交換、後手は菊水矢倉から△7五歩の展開になる。
図1-20は、1956年(昭和三十一年)五月十五.十六日の第十五期名人戦第二局の大山・花村元司八段戦。3七銀型から3五歩と仕掛ける手が出現した。
その後、1956年11月5日 九段戦升田幸三 vs. 灘蓮照など、升田幸三九段や 灘蓮照九段も指し出し、灘は▲3八飛(△7二飛)と飛車を一間寄って、▲3七銀から3五歩という戦術を愛用していく。
図1-21は、1957年(昭和三十二年)五月七、八日の第十六期名人戦第一局の升田・大山戦。先手の大山が四手角を採用した。金・銀三枚で玉を囲い、あとの飛・角・銀・桂で攻めるという、四手角の理想である。