有吉道夫

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 有吉道夫 九段
名前 有吉道夫
生年月日 (1935-07-27) 1935年7月27日(82歳)
プロ入り年月日 1955年5月15日(19歳)
棋士番号 66
出身地 岡山県備前市
師匠 大山康晴十五世名人
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 1期
一般棋戦優勝回数 9回
通算成績 1088勝1002敗(0.5206)

有吉 道夫(ありよし みちお、1935年7月27日 - )は、将棋棋士、九段。2010年、引退。大山康晴十五世名人門下。棋士番号は66。岡山県備前市出身。

棋聖のタイトル獲得1回のほか優勝9回。また、タイトル戦の舞台での大山との師弟対決は4度実現。

現役55年を数え、2001年には史上6人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。過去に4人しかいない『六十歳代A級棋士』の一人でもあった[1]順位戦A級在籍21期。同じ関西本部所属では、内藤國雄とは自他ともに認めるライバル関係で[2][3]、共に関西棋界を長年にわたって牽引した。

棋歴[編集]

将棋に熱中したきっかけは、「矢倉囲いの美しさに感動したから」だという[2]

年齢差が12歳ほどしかない大山の一番弟子で、1951年に15歳で入門してからの奨励会の4年間、大山のもとで内弟子生活を送る。

1955年、19歳でプロ入り。

初参加から2期目の第11期(1956年度)C級2組順位戦で、10勝2敗で1位となり、C級1組へ昇級。さらに、翌年も同じく10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でB級2組へ上がる。

1957年度、難関・王将リーグ(第7期)に、初めて入る。第12期(1962年度)には、二上達也加藤一二三升田幸三山田道美らを破り6勝1敗で1位タイとなるが、プレーオフで二上に敗れ、挑戦権を逸する(一方の二上は、その勢いに乗ったまま大山から王将位を奪取する)。

第14期(1959年度)B級2組で9勝3敗の2位とし、B級1組へ昇級。第19期(1964年度)B級1組順位戦で10勝4敗の2位の成績を収め、1965年4月1日をもってA級八段となる。

1966年、第7期王位戦の王位リーグを抜け、挑戦者決定戦で山田に勝ち、タイトル初挑戦。師匠の大山との初のタイトル戦でもある。七番勝負の結果は1勝4敗で敗退。

第11回(1966年度)高松宮賞争奪選手権戦の決勝三番勝負で加藤一二三を2勝1敗で破り、同棋戦の最後の優勝者となる。

第7回(1967年度)最強者決定戦の準決勝で前回優勝者の内藤國雄を破るが、決勝三番勝負で山田に敗れる。

第9期(1968年度)王位戦で、大山に2度目の挑戦(2勝4敗で敗退)。また、第23期(1968年度)A級順位戦で8勝2敗で優勝し、ついに、名人戦七番勝負(第28期名人戦)の舞台で大山名人と戦う。3勝2敗として大山を追い詰めるが、そこから2連敗で惜敗。

第17回(1969年度)王座戦で決勝三番勝負に進出。中原誠に1勝2敗で敗れる。同年、第9回最強者決定戦の決勝三番勝負では大友昇を2勝0敗で破り、優勝。

第21期(1971年度)王将リーグで、内藤、升田、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで中原を破り、王将戦七番勝負に初登場。大山王将に3勝4敗で敗退。これ以降、大山とのタイトル戦での対決はなく、師匠の壁を打ち破ることはできなかった。

第12回(1972年度)最強者決定戦で、決勝三番勝負で原田泰夫を2勝1敗で破り、同棋戦で2度目の優勝。

第21期(1972年度後期)棋聖戦 で中原棋聖(名人・十段と合わせ、三冠王)に挑戦。五番勝負では2連敗の後に3連勝し、タイトル奪取1973年2月5日)。しかし、翌期は米長邦雄にタイトルを奪われてしまう(一方の米長は、これが初のタイトル獲得であった)。結果的に、これが棋士人生で唯一のタイトル獲得歴となった。

第13期(1974年度)から第17期(1978年度)まで、トッププロが名を連ねる十段リーグに連続在籍。

第25期(1975年度)王将リーグで、大山、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで大山に勝ち、中原王将に挑戦するが、七番勝負は1勝4敗で敗退。また、第27期(1977年度)王将リーグでは、米長邦雄、加藤一二三らに勝ち、6勝1敗で挑戦権を得るが、中原王将に2勝4敗で、またも敗退。第32期(1978年度前期)棋聖戦でも中原棋聖に挑戦し、五番勝負は0勝3敗で敗退。これが有吉の、最後のタイトル戦登場となった。

第3回(1976年度)名将戦の決勝で大山を2勝0敗で破り、優勝。同棋戦では、第6回(1979年度)でも大山と決勝を戦い、そのときは0勝2敗で敗れている。

1978年度、テレビ棋戦の第12回早指し将棋選手権で優勝(準決勝の相手は中原、決勝の相手は大山)。1980年度には、同じくテレビ棋戦の第30回NHK杯戦で優勝(決勝の相手は中原)。

1984年、49歳にして史上初の公式戦20連勝の記録を樹立[4]。同時期に、第7回(1984年度)オールスター勝ち抜き戦で歴代1位タイ(当時)の11人抜きを達成(5人抜き以上は優勝扱い)。また、第43期(1984年度)B級1組順位戦で9勝3敗で1位となり、A級に復帰。

第36期(1986年度)王将戦の二次予選決勝で大山を破り、王将リーグ入り。

第21回(1987年度)早指し将棋選手権で、52歳にして2度目の優勝。破った相手は、二上、中原、中村修(準決勝)、森下卓(決勝)ら。

第48期(1989年度)B級1組順位戦で10勝2敗で1位となり、55歳にしてA級に2度目の復帰。以降、61歳までA級に在位した。なお、この間(1992年度のリーグ戦の途中)に大山が逝去し、有吉に不戦勝が記録されている。

第12回(1991年度)JT将棋日本シリーズで決勝進出。羽生善治に敗れ、準優勝。

引退間際の戦い[編集]

2003年度(第62期)C級1組順位戦で2勝8敗、2004年度には1勝9敗の成績で2期連続の降級点を取り、C級2組へ降級。2005年度(第64期)C級2組でも1勝9敗で降級点を取った。ところが、2006年度(第65期)C級2組順位戦では一転して7勝3敗の成績を収め、順位戦勝ち越しの最高齢記録(71歳)を樹立した。しかし、2007年度には10戦全敗で降級点が累積2点となり引退の危機となった(通常はC級2組から陥落するとフリークラスの棋士になるが、有吉の年齢がすでにフリークラスの定年を超えていたため)。

そして迎えた2008年度の第67期順位戦C級2組最終局(2009年3月10日)は、負ければ3勝7敗で降級点累積3点となり、規定により引退の可能性大という戦いとなった[5]。一方、有吉の対局相手は、自身が勝てば昇級という新鋭の高崎一生であったため、この一番は大いに注目され、対局場所の関西将棋会館には数多くの報道陣が集まった。結果は有吉の勝ち。対局後のインタビューでは「将棋そのものが好きだし、面白い」と、現役続行の意欲を語った。有吉の将棋への情熱に対し、谷川浩司は「棋士室で若手棋士と研究会に励む姿は、これからも多くのメッセージを与える事でしょう」とコメントを残している。

しかし、翌2009年度(第68期)のC級2組順位戦では序盤から苦戦が続き、9回戦の松本佳介との対局に破れて、最終局を待たずにC級2組からの降級及び引退が決まった(最終成績は2勝8敗)[6]日本将棋連盟による当初の発表では、引退の日付は2010年3月31日とされていたが、2010年2月23日、NHK杯戦予選を3連勝で通過し、本戦出場を決める。これを受けて、2日後の2月25日、連盟は引退規定の変更を発表し、最終対局日(テレビ棋戦の場合は放映日)まで引退そのものも延長することとした(棋士 (将棋)#引退引退#将棋 も参照 )[7]。なお、74歳でのNHK杯本戦出場は丸田祐三の73歳を凌ぐ史上最高齢記録となった。また、3月24日には棋王戦予選3回戦で村田智弘を破り、棋王戦でも現役を続行出来るようになった。

2010年3月2日、第23期竜王戦5組昇級者決定戦・浦野真彦七段との対局で、2手続けて指す反則(二手指し)を犯して敗れた。通算999敗目となったこの敗戦の総手数は、わずか17手だった。なお、二手指しはプロの公式棋戦では、二歩に次いで2番目に多く発生している反則である[8]

2010年3月9日、第68期順位戦C級2組の最終10回戦(対・村中秀史六段)が、ちょうど通算1000敗目(1086勝)となった。これは加藤一二三以来、史上2人目である(1000勝と1000敗の両方を記録した棋士としても2人目)。この記録は、現役年数が長いことだけでなく、タイトル戦などの番勝負や、王位戦、王将戦、十段戦の挑戦者決定リーグに数多く登場したことを反映している[9]

同年4月30日、竜王戦5組残留決定戦で勝ち、相手の木下浩一を6組に降級させ、自らは次期竜王戦に参加できないにもかかわらず、5組に「残留」した。5月23日、NHK杯本戦1回戦で高橋道雄に敗戦、翌5月24日に棋王戦予選4回戦で矢倉規広に敗戦し、参加中だった全ての棋戦への参加が終了した[10]。引退決定となる対局からなお10局を指し、6勝4敗であった。

棋風[編集]

を堅く囲った後、一転して猛烈に攻める棋風で、「火の玉流」と言われる。矢倉戦の先手番で右のを▲4六から使う戦法は「有吉流」と言われる。対振り飛車では玉頭位取り戦法を好み、著書も出している。

人物・エピソード[編集]

  • 1974年から1989年の長きに渡って日本将棋連盟常務理事を務めた。
  • 趣味は毎日欠かさない散歩
  • 四段になった弟子には、同郷の坪内利幸有森浩三がいる。
  • 2007年の第66期順位戦C級2組2回戦で東和男七段と対戦した際に、東が先手番であるにもかかわらず後手の有吉が1手目を指してしまい、反則負けした。

昇段履歴[編集]

  • 1951年 3級 = 奨励会入会
  • 1953年 初段
  • 1955年5月15日 四段 = プロ入り
  • 1957年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1958年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1960年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1965年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1979年4月1日 九段(九段昇格規定 30点)
  • 2010年5月24日 引退

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 2090戦 1088勝1002敗 勝率 0.5206

獲得タイトル[編集]

  • 棋聖 1期(第21期-1972年度後期)
タイトル戦登場回数9、獲得1

一般棋戦優勝[編集]

優勝合計9回

在籍クラス[編集]

  • 順位戦A級 通算21期(第20-36※, 44-46, 49-54期) ※第31-35期順位戦は存在しないため、12期連続A級。
  • 竜王戦1組 通算6期(第1-6期)

将棋大賞[編集]

  • 第8回(1980年度) 連勝賞
  • 第12回(1984年度) 勝率第一位賞・最多勝利賞・連勝賞・技能賞

記録[編集]

  • 順位戦最年長勝ち越し(C級2組、71歳)
  • NHK杯戦本戦最年長出場(74歳)

表彰[編集]

  • 1979年 現役勤続25年表彰
  • 1980年 将棋栄誉賞(通算600勝)
  • 1987年 将棋栄誉敢闘賞(通算800勝)
  • 1994年 現役勤続40年表彰
  • 2001年 特別将棋栄誉賞(通算1000勝)
  • 2001年4月 備前市市民栄誉章
  • 2001年4月 倉敷市将棋文化栄誉章
  • 2001年5月 岡山県文化特別顕賞
  • 2004年 現役勤続50年表彰
  • 2009年11月3日 倉敷市文化章[11][12][13] - 将棋界では師匠の大山康晴(1953年)に次ぎ、2人目の受章

脚注[編集]

  1. ^ 有吉以外で六十歳代でA級棋士だったのは、花村元司大山康晴加藤一二三の3人
  2. ^ a b 将棋世界(日本将棋連盟)2000年1月号付録
  3. ^ ただし「有吉道夫名局集」(日本将棋連盟)では、「内藤さんは自分にとって好敵手ではあるがライバルではない」と否定的な発言をしている。
  4. ^ その後、塚田泰明神谷広志丸山忠久らが、公式戦連勝記録を塗り替えている。
  5. ^ C級2組に在籍する棋士に3度目の降級点がついた場合、フリークラスに陥落することになるが、有吉の73歳(当時)という年齢はフリークラスの定年(C級2組からの陥落の場合60歳)を超えるため即引退を意味していた。降級点の付く棋士は8名(内4名は最終局前に決定していた)で、有吉の成績は最終局開始前の段階で下から10番目の成績となっていた。このため、有吉が負けても降級点が付くかは確定しない微妙な情勢(有吉より成績が悪く、かつ、降級点が付くことが決まっていない5名のうち2名以上が勝つと有吉は引退)であった。結果的にはこの5名全てが負けたため、有吉は負けていたとしても引退は決定していなかった。
  6. ^ 有吉道夫九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
  7. ^ 引退規定の変更について|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
  8. ^ 将棋#反則または禁じ手を参照
  9. ^ 有吉道夫九段 通算1000敗となる|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
  10. ^ 有吉道夫九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
  11. ^ 倉敷市文化章・平成21年度贈呈式
  12. ^ 倉敷市文化章・これまでの受章者
  13. ^ 有吉道夫九段が「平成21年度倉敷市文化章」を受章|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]