森信雄

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 森 信雄 七段
名前 森 信雄
生年月日 (1952-02-10) 1952年2月10日(65歳)
プロ入り年月日 1976年4月5日(24歳)
棋士番号 126
出身地 愛媛県伊予三島市
師匠 南口繁一九段
段位 七段
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
通算成績 403勝590敗(0.4143)
2017年5月17日現在

森 信雄(もり のぶお、1952年2月10日 - )は、将棋棋士。棋士番号126。愛媛県伊予三島市(現四国中央市)出身。南口繁一九段門下。

棋歴[ソースを編集]

  • 1970年に奨励会入り後、6年でプロとなる。1980年の新人王戦(第11回)では、島朗を破って優勝した。
  • 2001年よりフリークラスに転出。2007年4月1日 に七段に昇段。
  • 2017年3月31日、フリークラス規定により同年度の最終対局をもっての引退が確定。3月末時点で第30期竜王戦・6組昇級者決定戦のみに出場権を残していたが、5月16日の対局で大橋貴洸に敗れ引退が決定した[1]

棋風[ソースを編集]

  • 振り飛車党。中でも振り飛車穴熊が一番好み[2]。引退が決まった最後の対局も四間飛車だった。終盤巧者であり、詰将棋も得意である[3]。詰め将棋は作家としても著名で、1985年に、自身初の詰将棋作品集『水平線』を刊行。
  • 『将棋世界』誌で「あっという間の3手詰」というコーナーを担当しており、超短手数(主に5手以下)の問題集を多数出版している。将棋教室のカリキュラムにも必ず詰将棋を採り入れており、「こつこつ詰将棋を解くことが将棋上達につながる」というのが持論。実際に門下からは数多くの棋士を輩出している。特に3手詰については「必ず類問2問をセットにした形で1作品として発表する」のがポリシー[4]

人物[ソースを編集]

  • 父親は幼少時に蒸発。3兄弟の末っ子であった信雄を背負いながら母が育てた。体も小さく腕力ではかなわなかったが将棋では負けなしであったと語る。高校卒業後、大阪の工場勤めに。南口の元へ弟子入りするも年齢も年齢であったため、南口も当初は推挙するつもりはなかったが熱意に押され推薦状を書いたという。
  • 奨励会時代は、当時の関西将棋会館[注 1]に塾生として住み込んでいた[2]。塾生として雑用をこなしながら「一日中将棋漬け」の日々を送り、本人も後に「あの期間がなかったら、絶対に棋士にはなれなかったです」と振り返っている[2]
  • プロ棋士となってからは「将棋とは関係のない、気持ちのよいところ」に住みたいという理由で奈良市に転居。ところが家から徒歩5分のところに奈良競輪場があり、競輪の開催があると打鐘の音がうるさく将棋の勉強どころではなかったという[4]。当時はかなりのヘビースモーカーで、1回の対局でタバコを4~5箱空けるのがざらだった[4]
  • 自身最初の弟子として育て上げたのが村山聖である。病身の村山とは通常の師弟関係を超えた親身な関わりを持った。村山は、四段昇段時に「森が師匠でなければ自分は四段にはなれなかった」と記している。『聖の青春』(大崎善生著)には、村山と森との師弟愛が描写されている。没後に村山の生地で顕彰するために行われている村山聖杯将棋怪童戦に、一門が協力として名を連ねている[5]。また森門下の竹内雄悟は同大会第2回・第3回の優勝者である[6]
  • かつては結婚を諦め「一生独身で行く」と覚悟を固めていた時期もあったというが、自身が開いている将棋教室の生徒からの紹介で1994年1月に結婚(仲人はミステリー作家の黒川博行が務めた)。ただなぜか弟子筋の誰にも結婚の話を教えなかったため、村山は結婚の事実をスポーツニッポン紙上の記事で知った[7]。また披露宴では、事前に招待客に対し祝辞等の依頼を全くしていなかったため、司会の神吉宏充は当日現地で祝辞の依頼に追われたという[8]
  • 阪神・淡路大震災で、弟子の船越隆文(当時奨励会2級)を喪う。福岡県から弟子入りし半年あまり経ったところで、誘惑の多い街中から、集中できる森の自宅そばのアパートに転居を薦めたが、皮肉にもそのアパートが倒壊し巻き添えとなった。そのことで森は自身を責め、弟子を取ることをやめようと決めたが(実際に当時内弟子だった山崎隆之を実家に帰らせている)、船越の母の「息子のためにも弟子を育ててください」との説得により、再度弟子を取るようになる。その後震災の記憶を忘れぬために、1月17日を一門の日として、一門で集合するようにしている。
  • 2007年、約15年ぶりに昇段。この時、本人は現役を引退してから七段にと考えていたため、通知が来るまで昇段の事実を知らなかった。また、周囲からも「先生ご昇段おめでとうございます。でも(教室の)看板を変えないといけまへんなあ」「六を七に変えるだけなのに意外に大変やねえ」「七より六の方がええなあ」などと、昇段より現実問題を心配したという。
  • 次の一手制作も得意であり、『将棋世界』誌に難解な「次の一手」問題集も長期連載しており、『スーパートリック109』『次の一手逆転のスーパートリック』として刊行した。また、将棋世界付録の「トリック39」は人気を博し作品集も刊行されたことがある。
  • 「王手のかかった局面で詰めをいかに逃れるか」を主題とした『逃れ将棋』を刊行し、第26回将棋ペンクラブ大賞技術部門大賞を受賞した[9]
  • 趣味は写真撮影と競馬で、「将棋世界」誌に写真紀行を連載していたほど。ブログ記事に訪れた競馬場の写真を添えることもある。
  • 動物が好きで朝日新聞夕刊の「かぞくの肖像」にヨウムの金太郎と共に掲載された。
  • 自身のブログには、「金太郎」と森はじめ弟子たちとの交流写真に加え、自作詰将棋も多数記載しており、ここでは中手数の作品が数多く見られる。
  • 口癖は「冴えんなあ」。「聖の青春」内にも頻繁に記載がある。

弟子[ソースを編集]

上記村山をはじめとして弟子が非常に多く、村山の存命中にプロ棋士になった弟子としては、増田裕司山崎隆之がおり、その後、安用寺孝功片上大輔糸谷哲郎もプロ棋士になる。そして第44回奨励会三段リーグ戦(2008年10月~2009年3月)において澤田真吾大石直嗣が同時に四段昇段、第52回奨励会三段リーグ戦(2012年10月~2013年3月)でも千田翔太竹内雄悟が同時四段昇段を決め、森一門は大所帯となる。第60回三段リーグでは西田拓也が四段昇段を決めた。物故者も含めて11名という棋士数は、近代将棋界の黎明期を除けば、佐瀬勇次門と並ぶ最多記録タイである。

女流棋士室谷由紀山口絵美菜石本さくら、指導棋士の江越克将と川﨑大地も弟子であり、奨励会も含めて弟子は多いため、同じく弟子の多い所司和晴と並べて「平成の名門」「東の所司、西の森信」[注 2]と呼ぶ者もいる。

正棋士となった門下生[ソースを編集]

名前 四段昇段年月 最高位と2017年現在
村山聖 1986年11月 5日 八段、A級在籍3期(在籍中に29歳で死去、追贈九段) 
増田裕司 1997年10月 1日 六段
山崎隆之 1998年 4月 1日 八段(B級1組)。2000年に七段に昇段し、師匠が現役のまま追い抜く。
安用寺孝功 1999年10月 1日 六段
片上大輔 2004年 4月 1日 六段
糸谷哲郎 2006年 4月 1日 八段、B級1組、竜王(1期)
澤田真吾 2009年 4月 1日 六段
大石直嗣 2009年 4月 1日 六段
千田翔太 2013年 4月 1日 六段(新人賞)
竹内雄悟 2013年 4月 1日 四段
西田拓也 2017年 4月 1日 四段

昇段履歴[ソースを編集]

昇段規定は、将棋の段級 を参照。

主な成績[ソースを編集]

棋戦優勝[ソースを編集]

在籍クラス[ソースを編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞[ソースを編集]

  • 第44回(2016年度) 東京将棋記者会賞

主な著書[ソースを編集]

監修[ソースを編集]

関連書籍[ソースを編集]

  • 大崎善生 (2000-2). 聖の青春. 講談社. ISBN 9784062100083.  前述村山聖の師匠として森が登場する。
  • 船越明美 (1996-5). 棋士になりたい―震災が奪った十七歳の夢. 葦書房. ISBN 9784751206393.  前述船越隆文奨励会員の師匠として森が登場する。

[ソースを編集]

  1. ^ 現在の施設に移転する前で阿倍野区に所在していた。
  2. ^ 所司和晴は「詰将棋は棋力向上の役に立たない」が持論であり、森信雄とは全く対照的である(wikipedia 「所司和晴」の項)。

出典[ソースを編集]

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関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]