斎藤銀次郎

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斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年明治37年)10月7日- 1979年昭和54年)12月15日)は、将棋棋士[1]石井秀吉七段門下[1]

人物[編集]

東京府で生まれる[1]1929年(昭和4年)に四段[1]1937年(昭和12年)に八段[1]。第2期名人戦1937年 - 1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加[1]1965年(昭和40年)に引退[1]

借金癖があり、所属する日本将棋連盟に多数の苦情が寄せられる事態となり、引退後の1967年(昭和42年)に日本将棋連盟を退会した[1][注釈 1]1979年(昭和54年)12月15日に脳軟化症で死去[1]。75歳没。

斎藤の死去は毎日新聞で報じられた[2]

弟子に平野広吉七段[1][3]。平野門下には所司和晴がおり、所司門下の、渡辺明(永世竜王・永世棋王資格者)をはじめとする多数の棋士・女流棋士は、斎藤の曽孫弟子となる。

2017年現在、日本将棋連盟公式サイトの「棋士データベース 七段 平野広吉」に「師匠:(故)斉藤銀次郎八段」とあり、僅かながら斎藤の名前と段位呼称が残っている[3]

昇段履歴[編集]

  • 1927年 二段で石井秀吉に入門[4]
  • 1928年 三段[4]
  • 1929年 四段[4]
  • 1931年 五段[4]
  • 1933年 六段[4]
  • 1934年 七段[4]
  • 1937年 八段[4]
  • 1965年 引退[1]
  • 1967年 日本将棋連盟を退会[1]

編著書[編集]

  • 斎藤銀次郎(編)『将棋紳士録』、1965年(第1版)-1977年(第13版)。[8]
    • 日本全国のアマチュア有段者の段位と住所を記した名鑑。
    • 余白ページには斎藤による観戦記や随筆、詰将棋などが掲載されている[9]
    • 1977年版(第13版)の斎藤の巻頭言[4]によれば、初出版は1965年で、以降1977年まで毎年出版していたという[4]。この1977年版巻頭言で斎藤は、自身の健康状態の悪化のため「今回の第13回刊行を以て、本誌の発行に終止符を打たざるを得ぬかと存じております[4]と述べている。
    • また斎藤は1977年版の巻頭言で、1965年の初出版時には日本将棋連盟の一部から反対を受けたとも述べている[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1968年に刊行された「将棋年鑑〈昭和43年版〉」の「引退棋士一覧」には、斎藤の名前がない。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 加藤治郎、原田泰夫 1999, pp. 177-179, 連盟を守るためつらい決断
  2. ^ 毎日新聞』1979年12月17日東京朝刊19頁
  3. ^ a b 棋士データベース 七段 平野広吉”. 日本将棋連盟公式サイト. 2017年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 斎藤銀次郎「将棋紳士録十三週年〔ママ〕を迎えて」『将棋紳士録 1977年版』、1977年、12-13頁。
  5. ^ 『東京都三多摩地方将棋愛棋家名鑑』斎藤銀次郎(編)、三多摩地方将棋名鑑発行所、東京都日野町、1960年。東京都立中央図書館所蔵
  6. ^ a b 「目次」『東京都三多摩地方将棋愛棋家名鑑』、1960年、4-5頁。
  7. ^ 「推奨の言葉 日本将棋連盟会長加藤治郎/推奨の言葉 十四世名人木村義雄/発刊に当たり 日本将棋連盟八段斎藤銀次郎」『東京都三多摩地方将棋愛棋家名鑑』、1960年、2-3頁。
  8. ^ 『将棋紳士録 1977年版』斎藤銀次郎(編)、将棋紳士録発行会、東京都日野市、1977年。東京都日野市立図書館所蔵
  9. ^ 「将棋紳士録52年度版全目次」『将棋紳士録 1977年版』、1977年、22-23頁。

参考文献[編集]

  • 加藤治郎原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ、1999年。

関連項目[編集]