種田仁

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種田 仁
Taneda hitoshi.jpg
2011年8月30日(こまちスタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府八尾市
生年月日 1971年7月18日(44歳)
身長
体重
173 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手三塁手外野手
プロ入り 1989年 ドラフト6位
初出場 1990年8月20日
最終出場 2007年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴

種田 仁(たねだ ひとし、1971年7月18日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手内野手外野手)、野球指導者。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1989年上宮高校3年時の第61回選抜高等学校野球大会では、決勝の東邦戦10回裏、優勝まであと1死まで迫りながら自らの悪送球(記録上は右翼手のエラー)により逆転サヨナラ負けを喫して準優勝(水谷勝海#来歴・人物に詳述)。第71回全国高等学校野球選手権大会ではベスト8で大越基率いる仙台育英に2-10で敗退。

同年のドラフト中日ドラゴンズから6位指名を受け、専修大学進学内定を辞退し入団。下位指名ではあったが推定契約金は上位指名選手並みの4,000万円で背番号は一桁の0を与えられるなど、高く評価されていた。

中日時代[編集]

1年目の1990年から1軍出場を果たす。同年は無安打だったが8試合に出場した。

2年目の1991年仁村徹から二塁手のレギュラーを奪う形で後半戦からスタメンに定着。最終的に107試合に出場し、5本塁打、打率.272をマークした。

1992年、この年から就任した高木守道監督の現役時代の背番号1を与えられる。肩に不安を抱えていた遊撃手立浪和義と交代する形で二塁手から遊撃手へとコンバートされた。この年は前年を下回る成績だったが102試合に出場した。

1993年は初めて規定打席に到達し、打率は低かったものの、10本塁打を記録し、初の全試合出場を果たすなど活躍した。

1994年は怪我などの影響で不調に陥り、41試合出場に終わる。10.8決戦では出場機会がなかった。

1995年に復調するものの鳥越裕介の加入もあり、89試合の出場に終わった。

1996年、遊撃手のレギュラーを鳥越に奪われ40試合の出場に終わった。

1997年はさらに少ない8試合の出場に終わった。その年のオフにプロ野球脱税事件に関与。脱税額が少なかったため起訴猶予処分となった。

しかし、翌1998年は前年の脱税事件の影響で開幕から3週間の出場停止処分を受けた。この年、背番号も翌年入団する福留孝介に1を用意するため、49に変更。阪神から移籍してきた久慈照嘉の活躍もあり、打率は.280であったものの43試合の出場に終わった。

1999年も43試合の出場に留まり低迷してしまい、チームはリーグ優勝を果たしたものの、貢献できなかった。

だが、翌年2000年に「ガニマタ打法」(後述参照)を開発し、代打で11打席連続出塁という日本記録を樹立。規定打席には満たなかったものの102試合に出場して、打率.314、7本塁打、31打点を記録してカムバック賞を受賞した。

2001年は開幕から8試合に出場した後、4月に波留敏夫との交換トレードで、山田博士と共に横浜ベイスターズに移籍。

横浜時代[編集]

移籍後の2001年は98試合に出場し打率.278を記録、ユーティリティプレイヤーとして重用された。同年は中日時代と合わせ、106試合に出場した。

2002年は前年より打率を下げたが、1993年以来9年ぶりとなる100安打をマークした。

2003年は前年同様守備に不安があり打撃でも安定感を欠く内川聖一古木克明、この年から入団した村田修一らに代わり、二塁手三塁手、時には外野手として数多くの試合にも出た。この年は92試合の出場に終わったが、打率.287と打撃は好調だった。

2004年の開幕当初は控えであったが、5月頃からスタメンで起用されると好成績を挙げ規定打席に到達するなどレギュラーに定着。打率も規定打席到達では初となる3割をマークした。

2005年も開幕から二塁手としてスタメン起用され、自己最多の145試合に出場。自己ベストとなる打率.310(セ・リーグ9位)の好成績を残した。このシーズンは1試合の欠場があったが、これはアウトの判定に大激怒して球審の上本孝一に体当たりした上突き飛ばしたために退場宣告および出場停止処分を受けたもの[1]

2006年の故障の影響で不振に陥り80試合の出場に終わる。打率.217は横浜に移籍してからはワーストの成績。

2007年巨人から移籍した仁志敏久の活躍もありスタメンでの出場が激減。主に代打での出場で打率は.258の成績を残したが、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。本人は現役続行を希望し、埼玉西武ライオンズに入団。背番号は2

西武時代[編集]

2008年は1軍の内野陣はこの年本塁打王に輝いた中村剛也中島裕之、控えでも日本シリーズで活躍した平尾博嗣など選手層の厚さに阻まれて1軍出場無しに終わった。2軍では78試合に出場したものの10月1日に西武から二度目の戦力外通告を受けた。その後、12球団合同トライアウトに参加したが、獲得球団はなく、現役を引退。12月2日に自由契約公示された。

引退後[編集]

2009年は芸能事務所「ホリプロ」に所属し、テレビやラジオ、東京中日スポーツテレビ愛知を中心に野球解説者として、またタレントとしても活動した。

2010年韓国プロ野球三星ライオンズ打撃コーチを務め、同年11月に東北楽天ゴールデンイーグルス二軍内野守備走塁コーチに就任した。2011年5月15日、一軍内野守備コーチに異動。2012年は二軍内野守備走塁コーチに復帰する予定だったが、同年1月に本人の申し出により退団した[2]

ギャンブルで作った多額の借金により、2015年6月3日付で自己破産していた事が週刊新潮で報じられた[3]

人物[編集]

愛称は「タネタネ」「アパッチ」「マイケル[4]」。

ガニマタ打法と呼ばれた打法は、打席に入ると左肩が内側に入りすぎる悪癖を矯正するために種田自ら開発したものである。この打法により際どいコースも見極められるようになったという[5]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1990 中日 8 6 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 1 0 0 1 0 .000 .250 .000 .250
1991 107 368 298 44 81 12 3 5 114 15 13 5 33 2 31 0 4 42 7 .272 .346 .383 .729
1992 102 357 317 42 78 11 4 3 106 27 7 2 22 1 17 1 0 35 0 .246 .284 .334 .618
1993 132 578 512 65 130 13 4 10 181 40 10 6 29 2 30 1 5 85 8 .254 .301 .354 .654
1994 41 139 120 14 19 5 1 3 35 10 6 0 7 1 11 0 0 27 7 .158 .227 .292 .519
1995 89 275 244 25 55 10 0 8 89 22 8 3 9 1 20 0 1 48 3 .225 .286 .365 .650
1996 40 122 107 6 19 1 0 1 23 6 2 3 6 1 7 0 1 17 1 .178 .233 .215 .448
1997 8 19 13 1 1 1 0 0 2 0 0 0 5 0 1 0 0 2 0 .077 .143 .154 .297
1998 43 113 100 10 28 4 1 3 43 8 2 1 4 1 8 1 0 11 4 .280 .330 .430 .760
1999 43 61 51 6 10 3 1 0 15 2 3 0 4 0 6 0 0 10 0 .196 .281 .294 .575
2000 102 295 264 30 83 14 3 7 124 31 4 4 3 2 25 0 1 30 5 .314 .373 .470 .843
2001 8 18 17 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .176 .222 .176 .399
横浜 98 278 237 30 66 12 2 4 94 42 1 3 12 4 22 2 3 15 9 .278 .342 .397 .739
'01計 106 296 254 30 69 12 2 4 97 43 1 3 12 4 23 2 3 16 9 .272 .335 .382 .716
2002 116 438 397 47 100 18 0 5 133 29 5 0 14 1 22 0 4 84 6 .252 .297 .335 .632
2003 92 281 261 24 75 13 0 3 97 21 3 4 4 0 10 1 6 34 8 .287 .329 .372 .700
2004 120 470 410 52 123 27 3 8 180 52 2 6 15 5 38 1 2 50 11 .300 .358 .439 .797
2005 145 606 529 66 164 24 1 9 217 61 7 3 10 2 60 3 5 62 16 .310 .384 .410 .794
2006 80 268 230 33 50 9 0 1 62 17 3 1 8 1 25 1 4 25 5 .217 .304 .270 .573
2007 60 76 66 6 17 6 1 1 28 17 0 0 3 0 6 1 1 7 1 .258 .329 .424 .753
通算:18年 1434 4768 4176 501 1102 183 24 71 1546 401 76 41 190 24 341 12 37 586 91 .264 .323 .370 .693

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:2003年8月19日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、6番・二塁手として先発出場 ※史上388人目
  • 1000本安打:2005年8月30日、対広島東洋カープ14回戦(平塚球場)、4回裏に大竹寛から右前安打 ※史上237人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 0 (1990年 - 1991年)
  • 1 (1992年 - 1997年)
  • 49 (1998年 - 2001年途中)
  • 12 (2001年途中 - 2003年)
  • 3 (2004年 - 2007年)
  • 2 (2008年)
  • 81 (2010年 - 2011年)

関連情報[編集]

出演[編集]

解説者転進後

脚注[編集]

  1. ^ 種田本人の主張では審判に突き飛ばされ、2回目に体当たりに向かっていった時、上本塁審に小手投げを喰らったという。
  2. ^ コーチ契約・チームスタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2012年1月31日). 2012年1月31日閲覧。
  3. ^ 【ワイド】七転八起の七転八倒(3)自己破産したガニマタ打法元中日「種田仁」のギャンブル狂週刊新潮 2015/07/02日号(2015/6/25 発売)
  4. ^ 命名者は入団当時の星野仙一監督。マイケル・ジャクソンが飼っていたチンパンジーの「バブルス」に似ていたからである。
  5. ^ 【7月12日】2000年(平12) ガニマタ打法で開眼!種田仁、前人未到の代打記録”. Sponichi Annex. 2014年6月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]