大石友好
![]() さいたま市営浦和球場にて(2017年) | |
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町) |
生年月日 | 1954年1月15日(69歳) |
身長 体重 |
179 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト3位 |
初出場 | 1980年4月5日 |
最終出場 | 1991年10月15日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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大石 友好(おおいし ともよし、1954年1月15日 - )は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
経歴[編集]
プロ入りまで[編集]
海南高校では尾崎健夫とバッテリーを組み、2年次の1971年に春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れて四国大会には進めなかった。同年夏も県予選準々決勝で池田高に敗れ、甲子園には出場できなかった。他の高校同期に北川裕司、後にセ・リーグ審判となる谷博がいた。高校卒業後の1973年、北川と共に神奈川大学へ進学。神奈川五大学リーグでは在学中5度の優勝を経験し、ベストナイン1回[1]受賞。
大学卒業後は1977年に河合楽器へ入社。1979年の都市対抗では大昭和製紙に補強され、後にプロで同僚となるエース杉本正らを擁し準々決勝に進むが、日産自動車に惜敗[2]。しかしこの試合では名取和彦から本塁打を放っている。
現役時代[編集]
1979年のドラフト3位で西武ライオンズに入団。
1980年から早くも首脳陣に期待され、徹底的に鍛えられた。4月5日の日本ハムとの開幕戦(後楽園)で、新人ながらいきなり8番・捕手で先発起用され、プロ入り初出場を果たした。この開幕戦では、開幕投手の東尾修が好投するも打撃の援護がないまま延長10回裏に1-2のサヨナラ負けを喫したが、大石が試合終了までマスクをかぶり続けた。同10日の南海戦(西武)で、山内新一から二塁打を放ちプロ入り初安打を記録。その後は田淵幸一が指名打者に回ったこともあって吉本博・野村克也とレギュラーを争うが、そんな中で東尾が先発する試合だけは大石が先発捕手で起用され、東尾が先発登板した33試合中28試合で大石が先発マスクを被った。その結果、先発捕手が大石であった試合の東尾は、16勝9敗という好成績を収めている[3]。7月以降のシーズン後半は、松沼博久・雅之兄弟や森繁和ら若手投手陣が先発時に大石が先発で起用される回数が増え、最終的にプロ1年目から捕手として75試合に出場し経験を積むことができた。
1981年には正捕手の座を獲得。
1982年はリーグ優勝・日本一に貢献するが、シーズン後半には同年南海より移籍してきたベテランの黒田正宏が台頭。同年の中日との日本シリーズは主として黒田が先発出場したため、大石は後半2試合の先発にとどまり、出場機会は少なかった。
1983年は黒田・伊東勤と併用される形となり、2年連続リーグ優勝・日本一を果たすが、巨人との日本シリーズでは控えに回る。
1984年からは伊東が定位置を獲得。
1985年キャンプイン直前に田尾安志との交換トレードで杉本正と共に中日ドラゴンズへ移籍。
1987年8月9日の巨人戦(ナゴヤ)では高卒新人近藤真一の一軍初登板ノーヒットノーランをサポート。
1988年には勝ち試合でリリーフエースの郭源治とバッテリーを組む「リリーフキャッチャー」としてリーグ優勝に貢献[4]し、同年の古巣・西武との日本シリーズでも小野和幸が先発した第1戦と第5戦の2試合に先発マスクを被るがいずれも敗戦。打撃の方でも3打数0安打で終わり、1勝4敗で敗退。
1991年限りで現役を引退。
引退後[編集]
引退後は中日に残って一軍バッテリーコーチ補佐(1992年)に就任したが、12年ぶりの最下位に終わった。
1993年から1994年まで二軍バッテリーコーチを務めて退任。
1995年にはバッテリーを組んだ東尾の監督就任に伴い、一軍バッテリーコーチとして古巣・西武に復帰。
1996年は一軍総合コーチを務めたが、62勝64敗4分に終わり球団としては1980年以来16年ぶりの負け越しに終わった。
1997年に再び一軍バッテリーコーチを務めていたが、同年オフにプロ野球脱税事件に関与していた事が発覚し解任された。
1998年には浪人生活を1年間した。
1999年には一軍バッテリーコーチとして現場復帰。
2001年には再び一軍バッテリーコーチを務めた。退団後はダイエー→ソフトバンク一軍バッテリーコーチ(2002年 - 2008年)を務めたが、2005年オフに城島健司が抜けた以降3年間正捕手を固定できなかったり、盗塁阻止率もリーグ最低記録を残すなど指導力を問われかねない事態に陥った。12年ぶりの最下位となった2008年限りで解任となり、同年オフ、退団した黒江透修ヘッドコーチの後任として西武一軍チーフコーチに就任。8年ぶりに西武に復帰したが前年のリーグ優勝・日本一から一転して4位に低迷。
2010年は一軍バッテリーチーフコーチを務めたが解雇された[5]。
2011年からは「大石知宜」名義でJ SPORTS解説者を務め、5月4日の西武-ロッテ戦(西武D)でデビュー[6]。2012年からは、中日時代の恩師である星野仙一が監督の東北楽天ゴールデンイーグルス二軍バッテリーコーチに就任[7]。
2016年からは二軍ヘッドコーチを勤めていた。
2018年10月5日に来季の契約をしないことを通知された[8]。大石解任後、二軍ヘッドコーチというコーチ職は廃止された。
2019年より、元広島の高橋慶彦と共に城西大学附属城西高等学校の特別コーチに就任[9]。
また、2011年に発生した東日本大震災で、当時、楽天がヤクルトと戸田で試合を行っていた為、寮に帰ることができなかった。その際に近くにある戸田リトルシニアのグランドを貸してもらったのをきっかけに、同チームの八木橋治郎監督と出会った。2019年より、同チームのアシスタントコーチを務める[10]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | 西武 | 77 | 180 | 156 | 16 | 32 | 4 | 1 | 0 | 38 | 8 | 2 | 2 | 8 | 1 | 9 | 0 | 6 | 17 | 5 | .205 | .273 | .244 | .517 |
1981 | 80 | 246 | 219 | 19 | 50 | 4 | 0 | 5 | 69 | 25 | 6 | 3 | 9 | 2 | 14 | 0 | 2 | 33 | 5 | .228 | .278 | .315 | .594 | |
1982 | 101 | 279 | 227 | 23 | 42 | 5 | 1 | 1 | 52 | 24 | 3 | 2 | 16 | 1 | 28 | 0 | 7 | 36 | 5 | .185 | .293 | .229 | .522 | |
1983 | 76 | 176 | 143 | 21 | 30 | 5 | 0 | 4 | 47 | 19 | 0 | 0 | 14 | 1 | 17 | 0 | 1 | 20 | 4 | .210 | .296 | .329 | .625 | |
1984 | 13 | 16 | 13 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | .077 | .250 | .077 | .327 | |
1985 | 中日 | 74 | 177 | 155 | 11 | 38 | 3 | 1 | 1 | 46 | 12 | 0 | 0 | 4 | 1 | 15 | 2 | 2 | 25 | 8 | .245 | .318 | .297 | .615 |
1986 | 54 | 96 | 88 | 2 | 15 | 4 | 0 | 0 | 19 | 4 | 0 | 0 | 2 | 0 | 4 | 1 | 2 | 19 | 0 | .170 | .223 | .216 | .439 | |
1987 | 42 | 86 | 78 | 5 | 16 | 4 | 0 | 1 | 23 | 8 | 0 | 1 | 2 | 0 | 4 | 1 | 2 | 14 | 2 | .205 | .262 | .295 | .557 | |
1988 | 74 | 115 | 103 | 3 | 19 | 3 | 0 | 0 | 22 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 5 | 0 | 1 | 21 | 1 | .184 | .229 | .214 | .443 | |
1989 | 33 | 19 | 19 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .158 | .158 | .158 | .316 | |
1990 | 36 | 39 | 35 | 1 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | .229 | .243 | .229 | .472 | |
1991 | 23 | 6 | 5 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .400 | .500 | .800 | 1.300 | |
通算:12年 | 683 | 1435 | 1241 | 102 | 256 | 34 | 3 | 12 | 332 | 111 | 11 | 8 | 63 | 7 | 101 | 4 | 23 | 196 | 32 | .206 | .277 | .268 | .544 |
年度別守備成績[編集]
年 度 |
球 団 |
捕手 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
失 策 | ||
1980 | 西武 | 75 | 58 | 35 | 23 | .397 | 4 |
1981 | 77 | 60 | 40 | 20 | .333 | 6 | |
1982 | 100 | 68 | 49 | 19 | .279 | 2 | |
1983 | 76 | 49 | 32 | 17 | .347 | 4 | |
1984 | 11 | 2 | 2 | 0 | .000 | 0 | |
1985 | 中日 | 72 | 52 | 36 | 16 | .308 | 3 |
1986 | 54 | 35 | 24 | 11 | .314 | 0 | |
1987 | 39 | 15 | 8 | 7 | .467 | 2 | |
1988 | 73 | 30 | 17 | 13 | .433 | 0 | |
1989 | 32 | 7 | 2 | 5 | .714 | 0 | |
1990 | 35 | 14 | 8 | 6 | .429 | 0 | |
1991 | 23 | 10 | 7 | 3 | .300 | 0 | |
通算 | 667 | 400 | 260 | 140 | .350 | 21 |
記録[編集]
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1980年4月5日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(後楽園球場)、8番・捕手で先発出場
- 初安打:1980年4月10日、対南海ホークス前期2回戦(西武ライオンズ球場)、山内新一から二塁打
- 初本塁打:1981年4月4日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(川崎球場)、5回表に村田兆治からソロ
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1981年)
背番号[編集]
- 41 (1980年 - 1981年)
- 9 (1982年 - 1984年)
- 8 (1985年 - 1991年)
- 87 (1992年)
- 96 (1993年 - 1994年)
- 76 (1995年 - 1997年、1999年 - 2001年)
- 84 (2002年 - 2010年)
- 79 (2012年 - 2018年)
登録名[編集]
- 大石友好 (1980年 - 1994年)
- 大石知宜 (1995年 - 2018年)
脚注[編集]
- ^ 神奈川大学野球リーグガイドブック
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 先発捕手が大石以外だった試合の東尾は1勝4敗。
- ^ この事は「燃えよドラゴンズ!」の'88年度版でも歌われている。
- ^ V逸CS敗退の西武7人解雇で人事改革 日刊スポーツ、2010年10月28日
- ^ 当初はオープン戦でデビューする予定であったが、震災による節電で西武ドームでの試合が開催されなかったため上記のようになった。
- ^ “来季のコーチ契約について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年10月31日). 2011年11月1日閲覧。
- ^ 来季のコーチ契約に関して 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト(2018年10月5日配信)2018年10月5日閲覧。
- ^ 城西大附属城西高等学校 硬式野球部
- ^ “スタッフ”. Toda Little Senior 戸田リトルシニア. 2022年5月19日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 大石友好 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)