大橋勲

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大橋 勲
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県
生年月日 (1941-03-25) 1941年3月25日(77歳)
身長
体重
172 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1963年
初出場 1963年
最終出場 1972年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大橋 勲(おおはし いさお、1941年3月25日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手捕手)。

来歴・人物[編集]

土佐高校では1957年、2年生の時に秋季四国大会県予選決勝に進むが、高知商山崎武昭森光正吉の継投に抑えられ惜敗。翌1958年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、またもや高知商の森光に完投勝利を許し、甲子園出場はならなかった。

卒業後は慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、2年生からレギュラー捕手として打線の中心となる。1960年秋季リーグの早慶六連戦で全試合マスクをかぶったことで知られる。1962年秋季リーグでは、同期のエース藤悟郎(のち日本石油)、2年生の渡辺泰輔らとバッテリーを組み優勝。リーグ通算79試合に出場し、263打数73安打、2本塁打、50打点、打率.278。ベストナイン2回[1]。他の大学同期に榎本博明外野手(のちサッポロビール)がいた。

大学卒業にあたって、読売ジャイアンツ阪神タイガース中日ドラゴンズ大洋ホエールズ東映フライヤーズによる争奪戦となる。大橋の父親が当時の近鉄バファローズ監督であった別当薫のファンであったことから、近鉄との対戦があるパ・リーグのチームには入団させない旨の声明文を出し、まずは東映が脱落。また、阪神はヘッドコーチ青田昇が大橋について肥満気味で動作が緩慢であると藤本定義監督に進言したこともあり、撤退。巨人・中日・大洋の中で大橋は巨人入りを希望していたが、巨人では森昌彦が次々入団する有望新人捕手をはねのけて正捕手を守っていた。対して、1961年に正捕手の吉沢岳男を近鉄に放出し、1962年江藤愼一を外野から回してしのいでいた中日であれば、大橋自身もレギュラーを獲得できる自信があった。一方で、契約金は巨人・大洋・中日の順で、最も出場できるチャンスがある中日が一番低かった。この状況の中で、結局1963年に巨人へ入団する。[2]プロ入り当初は大型捕手として注目を集め、森昌彦と正捕手の座を争い、春の宮崎キャンプでは首脳陣も大橋と森との競争を煽ったという[3]。しかし、森の壁は破れず控え捕手に甘んじた。1967年は開幕から安易に盗塁を許し弱肩を露呈した森の代役でマスクを被る。広島古葉竹織中日高木守道中利夫といったセ・リーグの俊足選手の盗塁を次々と阻止する一方、打撃も好調で打率も一時は3割を超える。だが、大洋戦で伊藤勲から右肩ファウルチップの直撃を受けて、1ヶ月も戦線離脱を余儀なくされる間に森に正捕手の座を奪い返された。さらに、リーグ優勝後に大井競馬場にいたことを監督の川上哲治に咎められ、5万円の罰金と1週間の謹慎処分を課せられた。結局、日本シリーズでも起用されることはなかった。翌1968年になると、第二捕手として槌田誠が起用されるようになって大橋の出場機会が大幅に減少し、同年オフに桑田武との交換トレードで大洋に放出された[1]

大橋がシーズン中に競馬場に行って譴責を受けたことに関して、もとより競馬場に行った理由が「競馬場の関係者にサイン色紙を渡してくれ」と森から依頼を受けたためであった。しかも、川上から連絡があったのは、競馬場から帰宅した直後で、当時大橋の行動を追いかけているマスコミは皆無であったことから、森が川上にリークした可能性が高かった[4]。大橋は森について「私は何一つ教えてもらえなかった。あらゆる手段を使ってライバルを蹴落とそうとしていた」と語っている。

大洋2年目の1970年には70試合に先発出場するが、伊藤勲からレギュラーを奪取するまでには至らなかった。しかし、精神的に弱いところがあった平松政次をリードしてエースにのし上げ、1970年6月9日の対ヤクルトスワローズ戦では鬼頭洋とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成している[5]1972年オフに現役引退。

引退後、1976年から渋谷区神南コーヒー店「B&B」を経営する。後に故郷・四国に帰り、1989年より2009年までホテルサンルート松山の代表取締役を務めた[1]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1963 巨人 18 20 19 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 4 1 .053 .053 .053 .105
1964 30 40 38 2 7 3 0 0 10 5 0 0 0 0 2 0 0 9 1 .184 .225 .263 .488
1965 30 31 29 1 5 1 0 0 6 1 0 0 1 0 1 0 0 3 0 .172 .200 .207 .407
1966 42 62 60 1 16 2 0 0 18 5 0 1 0 0 1 0 1 11 3 .267 .290 .300 .590
1967 60 128 117 5 32 6 0 1 41 11 0 0 3 1 6 1 1 11 8 .274 .315 .350 .665
1968 19 20 18 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 1 1 0 0 5 0 .111 .158 .111 .269
1969 大洋 44 85 77 5 17 1 0 2 24 12 0 0 1 0 7 0 0 14 3 .221 .286 .312 .597
1970 93 262 244 21 52 9 0 3 70 21 0 0 6 0 11 0 1 42 4 .213 .250 .287 .537
1971 66 149 142 1 24 4 0 0 28 9 0 0 2 0 5 0 0 15 7 .169 .197 .197 .394
1972 39 78 72 5 12 1 0 2 19 8 0 0 1 0 5 0 0 8 1 .167 .221 .264 .485
通算:10年 441 875 816 41 168 27 0 8 219 74 0 1 15 2 39 1 3 122 28 .206 .245 .268 .513

背番号[編集]

  • 7 (1963年 - 1968年)
  • 8 (1969年 - 1971年)
  • 20 (1972年)

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『プロ野球人名事典 2003』110頁
  2. ^ 『背番号の消えた人生』216-217頁
  3. ^ 『巨人軍に葬られた男たち』162頁
  4. ^ 『巨人軍に葬られた男たち』165-167頁
  5. ^ 『巨人軍に葬られた男たち』167頁

参考文献[編集]