佐藤真一
東京ヤクルトスワローズ 二軍外野守備走塁コーチ #81 | |
---|---|
![]() 2011年10月15日 横浜スタジアムにて(ヤクルトコーチ時代) | |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
出身地 | 北海道札幌市南区 |
生年月日 | 1965年8月7日(55歳) |
身長 体重 |
185 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト4位 |
初出場 | 1993年4月11日 |
最終出場 | 2005年10月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム |
![]() |
五輪 | 1992年 |
この表について
|
オリンピック | ||
---|---|---|
男子 野球 | ||
銅 | 1992 | 野球 |
佐藤 真一(さとう しんいち、1965年8月7日 - )は北海道札幌市南区出身[1]の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
北海道拓殖銀行、バルセロナオリンピック野球日本代表を経て、27歳でプロ入り。実働12年で、40歳を迎えるまで現役選手としてプレーした。 引退後は東京ヤクルトスワローズ、オリックス・バファローズでコーチを務めた。
来歴・人物[編集]
アマチュア時代[編集]
学生時代、勉学は常に学年でトップクラスの成績だった。甲子園などの大舞台への出場はならなかったが、野球部の中心選手として「文武両道」を地でいく活躍を見せ、東海大学付属第四高等学校時代には「松前賞」を受賞している。卒業後は東海大学へ進学した。同期には荻原満がいる。首都大学リーグ通算28試合出場、104打数30安打、打率.288、15打点。卒業後は北海道拓殖銀行に入行した。
1989年は都市対抗野球で大昭和製紙北海道の補強選手として準優勝[2]。1990年8月アトランタでのアマチュア野球ワールドオールスターゲームで東軍代表(アジア・欧州・オセアニア、名誉監督王貞治、監督山中正竹)として出場し、ハンク・アーロンが名誉監督の西軍代表(アフリカ・アメリカ)を破り初代最優秀選手となった。
1992年のバルセロナオリンピックではプロ入り後にもチームメイトとなる小久保裕紀や伊藤智仁と共に山中監督率いる日本代表に選ばれた。当時から強肩で知られていたが、一次リーグ5試合目イタリア戦ではピッチャーとしてマウンドにも上がっている。打撃でも全日本の3番を打ち、銅メダル獲得に貢献した。
その年のプロ野球ドラフト会議でダイエーホークスから4位指名を受け、27歳にしてプロ入りを決めた。即戦力として期待され、背番号は「7」が与えられた。契約金1億円は下位指名では史上最高額で、史上初の1位指名以外で契約金1億円を突破した。
プロ入り後[編集]
ダイエー時代[編集]
1993年は、1年目から一軍で56試合に起用されている。同年オープン間もない福岡ドームで開催されたフレッシュオールスターゲーム出場した(同年4月17日福岡ドーム初の公式戦でスコアが0-1で9回裏1アウト走者二塁の場面で代打で出場し、同試合完封記録の野茂英雄・光山英和のバッテリーにキャッチャーへのファウルフライを喫した)
2年目の1994年は一軍で24試合に出場して1安打に留まった。当時の監督根本陸夫は、4番を打っていた秋山幸二が負傷欠場した際、他の選手の打順を繰り上げずに佐藤を4番で起用したこともあった。しかしこのように期待をかけられるも打撃で結果を出せずに徐々に出番が減っていき、控えに甘んじることも多くなる。 王が監督に就任した1995年には僅か7試合の出場に終わり、同年オフに田畑一也と共に、柳田聖人・河野亮との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍した。
ヤクルト時代[編集]
ヤクルトスワローズ移籍後は、背番号「00」が与えられた。野村克也が監督在任中は守備固め中心の起用が続くことになるが、徐々に出場機会が増加していく。1997年の日本シリーズでは、8回裏1死2塁の場面で打席が回り、ダメ押しとなる2点本塁打を放っている。
同じ道産子の若松勉が監督に就任した1999年は、シーズン途中6月からシュアな打撃で3番に定着した。最終的に113試合に出場し、規定打席未到達ながら打率.341、13本塁打、10盗塁と才能を開花させている。この時の25試合連続安打は、2014年現在もヤクルトのチーム記録である。
翌2000年も中心選手として期待され、背番号も東海大野球部の偉大な先輩原辰徳の現役時代と同じ「8」が与えられた。同年5月の中旬に右肘靱帯を断裂し、シーズンオフに右肘靭帯再建術のち1年半のリハビリのため、2001年はプロ入り後初めて一軍出場なしとなった。
2002年はキャンプ・オープン戦も二軍で過ごしたが、前年3番をつとめた稲葉篤紀が安定感に乏しく、5月に1軍に登録されると、6月には一時的に3番としてスタメンに返り咲いた。際立った成績は残せなかったものの、以降もセンターが手薄だったことから、強肩を期待されてたびたび起用されている。
2003年もほぼ1年間を一軍でプレーし、8月16日の対中日ドラゴンズ戦では、9回表に抑えの大塚晶則から逆転となる二塁打を放つなど、代打の切り札的存在としてパワーある打撃を見せた。驚異的な代打成功率を誇り、その勝負強さを発揮している。
翌2004年は体力を不安視される形で打席数こそ減ったものの、スタメン出場も多く、一時4割を越える高打率をマークした。最終的にも.323の打率をマークしている。
2005年シーズンを最後に現役引退。プロ入りが28歳の年と高齢入団だった事もあり、40歳まで現役を続けることが目標であったと語っており、その目標を叶えた上での引退となった。現役引退の年となった2005年には、生え抜きの有名選手以外では珍しく、引退セレモニーも行われた。現役最終打席は代打で出場し、横浜ベイスターズの那須野巧からあわや本塁打というライトフェンス直撃の二塁打を放った。
引退後[編集]
引退後の2005年オフに守備・走塁コーチ(主に二軍、一軍は馬場敏史)就任(2007年オフからは一軍守備・走塁コーチとなった馬場の代わりに角富士夫との体制に)、2009年からは一軍打撃コーチ、2011年からは一軍打撃コーチ兼作戦担当を務める。
2013年10月23日、2014年シーズンより一軍ヘッドコーチに就任することが発表された[3]。2014年10月8日に今季限りで退団することが発表された[4]。10月16日にダイエー時代の同僚森脇浩司が監督を務める[5]オリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任したものの[6]、開幕から低迷が続き4月3日の時点でチーム打率がリーグワーストの.193まで沈むなど不振の要因となったため、2015年4月19日の西武戦終了後二軍打撃コーチに降格となった[7]。同年10月15日にフロント入りすることが発表された[8]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | ダイエー | 56 | 107 | 100 | 11 | 18 | 6 | 0 | 0 | 24 | 6 | 1 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1 | 19 | 0 | .180 | .234 | .240 | .474 |
1994 | 24 | 14 | 14 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .071 | .071 | .071 | .143 | |
1995 | 7 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
1996 | ヤクルト | 61 | 138 | 124 | 19 | 24 | 8 | 0 | 2 | 38 | 7 | 1 | 1 | 0 | 0 | 11 | 1 | 3 | 14 | 3 | .194 | .275 | .306 | .582 |
1997 | 61 | 45 | 40 | 8 | 9 | 1 | 0 | 2 | 16 | 7 | 3 | 0 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 9 | 1 | .225 | .273 | .400 | .673 | |
1998 | 30 | 24 | 21 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 8 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 2 | .190 | .292 | .381 | .673 | |
1999 | 113 | 366 | 337 | 57 | 115 | 25 | 1 | 13 | 181 | 48 | 10 | 4 | 3 | 2 | 19 | 0 | 4 | 44 | 6 | .341 | .381 | .537 | .918 | |
2000 | 70 | 253 | 230 | 30 | 52 | 11 | 0 | 8 | 87 | 19 | 4 | 0 | 1 | 2 | 18 | 1 | 2 | 33 | 8 | .226 | .286 | .378 | .664 | |
2002 | 84 | 237 | 220 | 20 | 50 | 7 | 1 | 4 | 71 | 20 | 1 | 2 | 4 | 0 | 13 | 0 | 0 | 43 | 8 | .227 | .270 | .323 | .593 | |
2003 | 76 | 221 | 206 | 16 | 57 | 7 | 2 | 4 | 80 | 31 | 4 | 1 | 1 | 3 | 6 | 0 | 5 | 33 | 1 | .277 | .309 | .388 | .697 | |
2004 | 40 | 134 | 130 | 9 | 42 | 3 | 0 | 2 | 51 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 13 | 6 | .323 | .343 | .392 | .736 | |
2005 | 7 | 15 | 14 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | .214 | .267 | .286 | .552 | |
通算:12年 | 629 | 1558 | 1440 | 175 | 376 | 70 | 4 | 36 | 562 | 155 | 25 | 12 | 10 | 8 | 84 | 2 | 15 | 220 | 37 | .261 | .307 | .390 | .697 |
記録[編集]
- 初出場:1993年4月11日、対西武ライオンズ2回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に山口裕二の代打として出場
- 初先発出場:1993年5月9日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、2番・中堅手として先発出場
- 初安打:同上、6回表に前田幸長から
- 初打点:同上、6回表に遠山昭治から
- 初盗塁:1993年7月11日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表に二盗(投手:伊藤隆偉、捕手:高田誠)
- 初本塁打:1996年4月10日、対読売ジャイアンツ2回戦(明治神宮野球場)、5回裏にバルビーノ・ガルベスから
背番号[編集]
- 7 (1993年 - 1995年)
- 00 (1996年 - 1999年)
- 8 (2000年 - 2005年)
- 82 (2006年 - 2014年)
- 89 (2015年)
- 81 (2021年 - )
脚注[編集]
- ^ 「12球団全選手カラー百科名鑑2004」 (廣済堂ベストムック)
- ^ - 都市対抗野球大会60年史
- ^ “【ヤクルト】高津氏一軍投手コーチに就任”. 日刊スポーツ. (2013年10月23日)
- ^ “契約満了のお知らせ” (プレスリリース), 東京ヤクルトスワローズ, (2014年10月8日) 2015年10月7日閲覧。
- ^ “【オリックス】長内、古久保両コーチが退団 佐藤氏、前田氏が後任に”. 2014年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月20日閲覧。スポーツ報知、2014年10月17日
- ^ “佐藤真一打撃コーチ、前田大輔バッテリーコーチ就任のお知らせ” (プレスリリース), オリックス・バファローズ, (2014年10月16日) 2015年10月7日閲覧。
- ^ “オリックス佐藤1軍コーチと下山2軍コーチが入れ替え”. 日刊スポーツ. (2015年4月19日)
- ^ “オリ来季コーチ陣 1軍は準総取っ替え”. デイリースポーツ. (2015年10月15日)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 佐藤真一 - NPB.jp 日本野球機構
|
|
|