西正文

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西 正文
永和商事ウイング ヘッドコーチ #54
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 (1960-11-25) 1960年11月25日(57歳)
身長
体重
169 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手遊撃手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 大阪ガス(1993年 - 1995年)
  • 永和商事ウイング(2012年 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球
1988 野球

西 正文(にし まさふみ、1960年11月25日 - )は、兵庫県出身の野球選手二塁手)。

小柄ながら走攻守に優れた二塁手として活躍し[1]ソウルバルセロナの両五輪の野球競技に、日本代表としては唯一連続で参加した。

経歴[編集]

浦風小学校野球を始める。小田南中学を経て尼崎小田高校に進むが、野球部は強豪ではなく、将来は公務員になる事を考えていたという[2]。設備などの環境は必ずしも充実していなかったが、主体的に考えて練習に取り組む姿勢が身についたと語っている[2]。3年生で迎えた1978年夏の兵庫大会は4回戦で東洋大姫路と当たり、2-3で惜敗。この試合を観戦していた大阪ガスの関係者に勧められ、8月9日に同社野球部のセレクションを受けて合格した。

社会人

1979年に大阪ガスに入社したが野球部は復部2年目で、都市対抗野球大会は大阪府予選での敗退が続いた。野球に対する意識の高さなどから社会人野球で通用する実力を身に付け[2]ロス五輪の日本代表選出では最終選考まで候補として残り、1984年には日本生命の補強選手として初めて第55回都市対抗野球大会に出場した。翌1985年アジア野球選手権大会野球日本代表に初めて選ばれ、また日本生命の補強選手として第56回都市対抗野球大会優勝に貢献している。一方、ロス五輪に参加出来なかった悔しさなどから、アマ球界に残ってソウル五輪への出場を目指す事をこの頃に決意した[2]

1986年は大阪予選を突破してチームが都市対抗に初出場を果たし、本大会でもベスト8進出を果たした。目標だった1988年のソウル五輪では日本代表に選ばれ、主に遊撃手として出場した。予選リーグの対オランダ戦以外は葛城弘樹とともにスタメンの一、二番を形成し、葛城の代打に野村謙二郎が入った時は三塁手の守備も務めている[3]。準決勝の対韓国戦で1打点を挙げるなど銀メダル獲得に貢献した[4]が、決勝のアメリカ戦では最後の打者となっている[2]

多くの代表選手がプロ入りしたこともあってさらにバルセロナ五輪も目指し、1991年9月に31歳の最年長選手として自身初のアジア予選に参加。オーストラリアには負けたが、最終戦となった対台湾戦で延長10回にサヨナラヒットを放ち五輪出場を決めている。

バルセロナの本大会では二塁や遊撃の守備につき、打順は二番ないし六番だった[5]。全9試合中6試合に出場し、19打数10安打でチームトップとなる打率.526を記録した[6]。準決勝の対台湾戦では、敗れはしたものの郭李建夫から3打数3安打で1打点を挙げ[6]、3位決定戦の対アメリカ戦では指名打者として途中出場して2打数2安打と、同大会での銅メダル獲得に繋がる活躍を見せた。ソウル・バルセロナの両五輪に出場した野球選手は西のみであり、1992年には社会人ベストナイン特別表彰を受けている。翌1993年には都市対抗10年連続出場を果たし、同年限りで現役を引退して大阪ガスのコーチとなった。

現役引退後

1995年に4年ぶりに都市対抗出場を逃すと、同年で野球部を退部。1999年からは日本野球連盟の競技力向上委員を務めている。

2004年3月に大阪ガスを退社し、同年のハーレム大会には日本代表の守備走塁コーチとして参加した。2007年には第7回AAAアジア野球選手権大会の日本代表監督を務めている。その後大阪府の専門学校チーム履正社学園の監督を3年間務めた後、2012年に設立された永和商事ウイングに招聘されてコーチを務め、2015年には同チームの監督兼コーディネーターに就任している。

主な記録・表彰[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ JBABトピックス
  2. ^ a b c d e 高校野球情報.com インタビュー
  3. ^ 別冊宝島、1545号、P.68
  4. ^ 別冊宝島、1545号、P.70
  5. ^ 別冊宝島、1545号、P.79
  6. ^ a b 別冊宝島、1545号、P.82

関連項目[編集]