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小島啓民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小島 啓民
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県諫早市
生年月日 (1964-03-03) 1964年3月3日(60歳)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

小島 啓民(こじま ひろたみ、1964年3月3日 - )は、日本野球選手、野球指導者。第16回アジア大会日本代表チームなどの監督を務めた。

経歴

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諫早高校では第61回全国高等学校野球選手権大会第52回選抜高等学校野球大会に出場[1]。2年春は一番・三塁手として、2回戦の対東海大三戦で決勝タイムリーを放つなどの活躍をしている[2]。高校卒業後は早稲田大学に進み、2年時からレギュラーになった[1]

大学卒業後は社会人野球三菱重工長崎に進み、1991年には四番打者として第62回都市対抗野球大会での準優勝に貢献。久慈賞を受賞し、同年は初の社会人ベストナインにも外野手として選ばれている。1992年バルセロナオリンピック野球日本代表にも選ばれ、同五輪では8試合に全て指名打者として出場。計17打数4安打と打率は低かったが、予選の対スペイン戦と対ドミニカ戦では計7打点を挙げるなど、勝負強さを見せた[3]。また、決勝トーナメントでは3試合全てに指名打者として先発出場している[4]

1995年には三菱重工長崎で選手兼任の監督となり、のち専任監督として2000年まで務めている[5]。この間1999年には第70回都市対抗野球大会で準優勝を果たした。

監督引退後の2000年9月からJOC在外研修生としてサンディエゴ・パドレス傘下の1Aの球団に1年間帯同している。

帰国後は社内で太陽電池部門の立上げに携わり[6]、その後2004年ハーレムベースボールウィーク2006年アジア大会2009年IBAFワールドカップなどで社会人野球日本代表のコーチを務め、2010年第16回アジア大会では監督としてチームを3位に導いた。また、NPO・ながさきベースボールアカデミーの代表も務めている。2011年9月にパナマで開催された第39回IBAFワールドカップで社会人野球日本代表監督となった。チームは2勝5敗で第1ラウンドで敗退した。続く2014年第17回アジア大会はグループA首位で通過したが、準決勝で台湾に4対10で敗れ、3位決定戦で中国に10対0と勝利し、銅メダルの成績を残して監督を辞任した。

また、社業では2011年4月から人事交流で長崎県環境部のナガサキ・グリーンニューディール推進室に出向した[6]

2018年4月、新たに創部された北海道ガス硬式野球部の監督に就任[7]2020年3月末に退任した[8]

2021年現在はチョープロで新エネルギー事業開発部長を務める[9]

脚注

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  1. ^ a b ながさきベースボールアカデミー 代表挨拶
  2. ^ 読売新聞、1980年4月1日付朝刊、P.17
  3. ^ 別冊宝島、1546号、P.82
  4. ^ 別冊宝島、1546号、P.80
  5. ^ 朝日新聞、2000年4月5日付朝刊、長崎地方面
  6. ^ a b 毎日新聞、2011年5月8日付朝刊、長崎地方面
  7. ^ 北ガス野球部が創部 小島監督&渡部コーチがタッグ
  8. ^ 北海道ガス、都市対抗目指す 渡部新指揮官の初陣飾った”. スポーツ報知 (2020年6月14日). 2021年2月27日閲覧。
  9. ^ “野球 小島啓民 銅メダル獲得に貢献 「初打席で急に脚が震えだした」 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン”. 長崎新聞. (2021年2月18日). https://nordot.app/734942386677678080 2022年10月7日閲覧。 

関連項目

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