レオ・ゴメス
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ボルチモア・オリオールズ時代 (1993年4月5日) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1966年3月2日(59歳) |
| 身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 180 lb =約81.6 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1985年 アマチュアFA |
| 初出場 |
MLB / 1990年9月17日 NPB / 1997年4月4日 |
| 最終出場 |
MLB / 1996年9月29日 NPB / 2002年7月3日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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レオナルド・ゴメス・ベレス(Leonardo Gómez Vélez , 1966年3月2日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(内野手)。
1997年から2002年まで6シーズン、NPB(セントラル・リーグ)の中日ドラゴンズに所属。1997年・1999年にはシーズン30本塁打以上を記録し、1999年には中日のセ・リーグ優勝に貢献した。中日時代の通算成績は660試合出場、2355打数、690安打、打率.293、153本塁打、449打点。
中日入団前はレオ・ゴーメッツ[1]とも表記されていた。
経歴
[編集]メジャー昇格まで
[編集]1985年12月、ルイス・エルナエス・ネボネス高校からボルチモア・オリオールズにドラフト外入団した[2][3]。兄のマルコもミルウォーキー・ブルワーズのマイナーリーグ球団でプレーしたが、成功しなかったという[2]。
1987年にはマイナーリーグA級ヘイガースタウンで打率.326を記録し、カリフォルニアリーグの首位打者を獲得した[3]。また1989年にはAA級イースタンリーグの三塁手として最多補殺数(257個)を記録した[2]。
1990年にはAAA級ロチェスターでインターナショナルリーグの打点王(97打点)を獲得し、同リーグの三塁手として最多併殺参加(26回)を記録した[3]。また同年にはAAAで3打席連続本塁打も記録している[4]。
オリオールズ時代
[編集]1990年にオリオールズでメジャー初昇格を果たすと、12試合に出場して39打数9安打、打率.231を記録した[2]。同年から1995年までに、オリオールズの三塁手としてはブルックス・ロビンソン、ダグ・デシンセイに次ぐ球団史上3位となる443試合に出場している[2]。
1991年には118試合に出場、391打数91安打、打率.233、16本塁打、45打点を記録した[2]。
1992年も137試合に出場、468打数124安打、打率.265、17本塁打、64打点を記録した[2]。
1993年は71試合と出場機会を減らし、244打数45安打、打率.197と低迷したが、10本塁打、25打点を記録した[2]。
1994年には84試合に出場、285打数78安打、15本塁打、56打点を記録[2]、特に得点圏打率.379、満塁時の打率.571、7回以降2点差以内という状況では打率.341と、勝負強さを発揮していた[5]。また守備面でも、アメリカンリーグの三塁手として2位となる守備率.975を記録した[3]。
1995年6月に右足首を捻挫し[5]、同年はその影響で53試合の出場に終わり、127打数30安打、打率.236、4本塁打、12打点の成績にとどまった[2]。また出場機会の減少については、当時の監督であったジョニー・オーツから好まれなかったためであるという報道もある[2]。
カブス時代
[編集]1995年オフにはオリオールズを解雇された一方[2]、中日ドラゴンズはこの時点でゴメスを新外国人の候補としてリストアップしていたが、当時は足首の故障の治療が長引く心配があったため、ゴメスの獲得は見送り、彼より遅くリストアップされていたダネル・コールズを獲得した[3]。中日は1993年から1995年にかけ、ブルック・ジャコビー、ディオン・ジェームズ、メル・ホールと3年連続で故障のある外国人選手を獲得して失敗に終わってきたことから、候補選手の故障歴などを徹底的に調べ、コールズを獲得したと報じられている[6]。また同年には読売ジャイアンツ(巨人)も新外国人候補の一人としてゴメスをリストアップしていたが、最終的にはジェフ・マントを獲得した[7]。
1996年はシカゴ・カブスに在籍し、136試合に出場して362打数86安打、打率.238、17本塁打、56打点を記録した[2]。同年、故郷プエルトリコで開催されたウィンターリーグでは、中日入りが発表された12月18日までに30試合に出場し、打率.270、8本塁打、23打点を記録しており、本塁打・打点ではいずれもリーグトップであった[2][8]。同年までのMLBにおける通算成績は611試合出場、1916打数、466安打、打率.243、79本塁打、259打点、4盗塁[5]。
中日時代
[編集]1996年12月18日、金銭トレードで星野仙一が監督を務めていた中日に入団することが発表された[8]。移籍金は1000万円で、入団時の契約内容は契約金2000万円、年俸1億2000万円だった[2][8]。契約期間は1997年シーズンの1年だったが[2][8]、球団側に2年目(1998年)の契約更新を選択する権利があった[9][10]。
同年の中日打線は「強竜打線」と評された一方で「四番不在」とも言われていたことから、中日は同年オフ、新外国人として「四番を打てるスラッガー」か「攻・走・守三拍子そろったスピードのある選手」を求め[2]、打率.302、29本塁打と安定した力を発揮したコールズを足の故障などを理由に解雇しており、彼に代わる新外国人として四番を任せられる三塁手を探し、ゴメスを獲得した[3]。また前述のように一度獲得を見送った経緯もあったが、1996年シーズンの活躍から故障は完治したと判断、獲得に踏み切った[5]。同年オフにはMLBの球団数が28から2つ増え、30に拡張されることが決まっていた(1997年のMLBエクスパンションドラフトも参照)ことから、新外国人選手は例年より「小粒」と評されていたが[11]、ゴメスはその中でもマイク・グリーンウェル(阪神タイガースに入団)やマーク・キャリオン(千葉ロッテマリーンズに入団)とともに、数少ないMLBで一応の実績を残している選手だった[12]。
1997年
[編集]ゴメスは来日1年目の1997年から、勝負強い打撃で主に四番打者として活躍した。同年5月5日の対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)では1点リードの5対4で迎えていた7回表、高津臣吾から満塁本塁打を放つなど、4安打でチームの勝利に貢献した[13]。同年10月1日の対ヤクルト28回戦(ナゴヤドーム)では5対5の同点で迎えていた9回裏、二死一塁で岩崎久則から30号サヨナラ2点本塁打を放った[14]。翌2日の対横浜ベイスターズ25回戦(ナゴヤドーム)でも、2点ビハインド(2対3)で迎えた8回裏の打席で西清孝から逆転31号2点本塁打を放ち、これが決勝打となった[15][16]。
同年のチームは、本拠地をナゴヤ球場からグラウンドが広いナゴヤドームに移転した直後で、その適応に苦しみ、セ・リーグ最下位に低迷したが、ゴメスはそれを苦にしない長距離打者として135試合に出場し、打率.315、31本塁打、81打点、OPS.966と好成績を残した[17]。打率・本塁打・打点の全てがチームトップであり[9]、特に本塁打数は本塁打王のタイトルを獲得したドゥエイン・ホージー(ヤクルトスワローズ:38本)、松井秀喜(読売ジャイアンツ〈巨人〉:37本)、金本知憲(広島東洋カープ:33本)、清原和博(巨人:32本)に次ぐリーグ5位で、チーム最多だった[18]。また来日1年目に30本塁打以上を記録した中日の外国人選手は、ジーン・マーチン、ゲーリー・レーシッチに次いでゴメスが3人目であった[14]。このような好成績から三塁手部門でセ・リーグのベストナインに選出され[19]、また球団はゴメスが家族の暮らすアメリカ合衆国へ帰国する同年10月7日以前に契約延長を決定していた[9]。
しかし、戸部良也はゴメスが本塁打の出にくいナゴヤドームを「モンスターだ」と恐れていた旨を述べている[20]。また同年のチームの低迷の要因としては、ゴメス以外に主軸打者を担っていた大豊泰昭、アロンゾ・パウエル、山崎武司がいずれも低迷していたことが挙げられており、『中日スポーツ』は同年にそれぞれセ・パ両リーグで優勝を果たしたヤクルトや西武ライオンズには四番打者の古田敦也や鈴木健だけでなく、彼らとともに主軸を打ったドゥエイン・ホージーやドミンゴ・マルティネスといった強打者がいたことと比較する形で、四番打者1人の活躍だけではチームは浮上できないと指摘していた[21]。
走者別の打撃成績内訳は、走者なしで打率.305(269打数82安打)、17本塁打、17打点、一塁のみの場合は打率.371(105打数39安打)、8本塁打、18打点、二塁のみの場合は打率.250(28打数7安打)、2本塁打、8打点、一・二塁の場合は打率.279(43打数12安打)、1本塁打、12打点、三塁のみの場合は打率.400(10打数4安打)、0本塁打、4打点、一・三塁の場合は打率.313(16打数5安打)、2本塁打、14打点、二・三塁の場合は打率.000(2打数0安打)、0本塁打、0打点、満塁の場合は打率.300(10打数3安打)、1本塁打、8打点であった[21]。得点圏打率では打率.284、6本塁打、46打点の打撃成績だった[22]。なお守備では全135試合で三塁手として出場した[23]。
1998年
[編集]1998年は大豊、パウエルが放出されたチームにあって、ゴメスは山崎とともに本塁打を量産できる数少ない打者として期待された[24]。開幕直後の4月は打率は低かったものの、リーグトップの6本塁打を記録していたが、5月以降はしばしば左膝を痛め、打線は6月末まで得点数がリーグ最低に陥っていた[25]。体重増が裏目に出て膝を故障したため、シーズン中2度にわたって戦線離脱した[26]。6月28日には左膝痛で出場選手登録を抹消されている[27]。一方で後半戦には勝負強さを発揮し、打率も9月10日時点で2割8分台まで上げてきたことを評価され、同日時点では既に翌1999年シーズンの残留の内定を得ていたが[28]、チームが横浜とリーグ優勝争いをしていた同月には[26]、18試合で2本塁打、3打点の成績に終わり、これが原因でチームは横浜に振り切られて優勝を逃す結果となった[29]。星野はこの不振の要因について、シーズン途中で翌シーズンの契約を明言したことが要因になったためではないかと述べている[29]。
しかし、シーズンでは打率.274、26本塁打、76打点を記録した[30]。本塁打数は同年のセ・リーグの外国人選手としては最多で[31]、リーグ全体でも本塁打王を獲得した松井(34本)や、広島の江藤智(28本)、そしてチームメイトの山崎(27本)に次ぐ4位であった[32]。守備では三塁手として114試合に、一塁手として3試合に出場した[33]。同年10月12日に帰国したが、その前に現状維持となる年俸1億5000万円で翌シーズンの契約を締結していた[30]。
1999年
[編集]1999年は前年の故障を踏まえ、減量して春季キャンプに臨んだ[17][34][35]ほか、打撃フォーム改造にも取り組んだ[17]。それが功を奏し、オープン戦から打率4割超、6本塁打と好成績を残し、開幕後も四番打者として中日打線を牽引[17]。
開幕から12試合連続で本塁打を打てずにいたが[36]、4月18日に東京ドームで開催された対巨人3回戦では[注 1]2回表に先発投手の岡島秀樹からシーズン初本塁打となるソロ本塁打、3回表にも岡島から2打席連続となる3点本塁打を放った[4]。これにより、チームは同回終了時点で5対0と大量リードを果たしたが、その裏の守備で、二死満塁の場面で清原和博の三塁ゴロをトンネルしてしまう[4]。これがきっかけで、チームは同回に6点を失い、先発投手の鶴田泰がノックアウトされてしまった[31]。しかし5回表、「鶴田に悪いことをした」[31]「(自身の失策を)なんとかしたい」と第3打席に立ち、岡田展和から3打席連続となる再逆転2点本塁打を打った[4]。その後、8回表には二死満塁で5打席目を迎え、ここで満塁本塁打を打てばNPB史上初かつMLBでも達成した者のいない「サイクル本塁打」(サイクルホームラン)が達成されるところであったが、空振り三振に倒れ、記録達成はならなかった[36]。それでもこの試合で来日後始めて3打席連続本塁打を記録した[34]。
その後、4月下旬から5月にかけて調子を落とした時期もあった[34]ものの、復調し、6月27日の横浜戦(ナゴヤドーム)では自己最速となる65試合目で20号本塁打に到達した[37]。7月21日の対巨人戦(東京ドーム)では岡島から27号本塁打を放ち、巨人戦で売った本塁打を11本としたが、これは1968年の江藤慎一と並ぶ球団タイ記録であった[38]。8月18日の対巨人20回戦(ナゴヤドーム)では[39]、1回裏[40]、斎藤雅樹から29号3点本塁打を放ち[39]、球団新記録となる対巨人戦シーズン12本塁打を記録したが、セ・リーグ全体では1984年に阪神の掛布雅之以来、15年ぶり7人目の快挙だった[40]。また前年とは異なり、シーズン中に残留内定を通告されることはなったが、9月に入ってからも好成績を残し続けた[29]。同月16日の対巨人最終戦となる27回戦(ナゴヤドーム)では、斎藤雅樹から31号本塁打を放った[39]。
最終的には133試合に出場し、打率.297、36本塁打[41]、OPS.959[17]、そしてリーグ3位の109打点を記録[41]。36本塁打は、本塁打王を獲得したヤクルトのロベルト・ペタジーニ(44本)、松井(42本)、横浜のロバート・ローズ(37本)に次ぎ、広島の緒方孝市と並んでリーグ4位だった[42]。打点は当時の球団外国人選手の最高成績[26](2006年にタイロン・ウッズが144打点で記録更新)で、同年の中日のリーグ優勝に貢献した[17]。特に優勝争いをしていた巨人戦に強く、27試合で打率.359、13本塁打、28打点を記録したが、巨人戦シーズン13本塁打は球団史上最高で、NPB史上でも1973年に田淵幸一(阪神)が記録した16本塁打に次ぐ歴代2位だった[29]。巨人戦11本目を打った同年7月21日時点では、桑田真澄から5本塁打、岡島から3本塁打を記録しており[38]、桑田相手にはシーズン通算打率.444と好成績を残していた[43]。また巨人の本拠地である東京ドームでは6本塁打、14打点と好成績を残していた[44]。1997年から同年まで3年連続で20本塁打を記録したが、中日が本拠地をナゴヤ球場からナゴヤドームへ移転した1997年以降で、3年以上連続で20本塁打以上を記録した選手はゴメスが初である[45]。守備面では111試合で三塁手、63試合で一塁手として出場した[46]。同年はセ・リーグ三塁手部門で自身2度目のベストナインに千沸されたが、ペタジーニが選出された一塁手部門でも2票を獲得した[47]。
同年の日本シリーズ終了後の10月29日、年俸2億円(前年比5,000万円増)の1年契約を締結した[35][41]。
2000年
[編集]2000年の開幕直後は不振で、4月は打率.178と、規定打席到達者最下位に低迷していたが、5月に復調して打率.344、6本塁打、23打点を記録、来日2度目となる月間MVP[48]を受賞[49]。同年7月28日にはナゴヤドームの対巨人戦でサヨナラ打を放ったが、チームはこれ以降、翌2001年5月11日(後述)までナゴヤドームで巨人相手に1分けを挟んで7連敗を喫していた[50]。8月に寝違えにより、頸椎を捻挫した[51]。
最終的には打率.289、25本塁打、79打点の成績を残した[49]。本塁打、打点はチームトップで、前年までに引き続き、4年連続でシーズン20本塁打以上を記録した[49]。同年は一塁手として51試合[52]、三塁手として109試合に出場した[53]。
2001年
[編集]中日退団と復帰
[編集]球団は翌2001年もゴメスと契約する方針だったが、2000年10月5日、アメリカに住む長男の教育問題や、膝・背中の故障などを理由に退団することを発表した[17][49]。
2001年はピッツバーグ・パイレーツのキャンプに参加し、MLB復帰を目指していたが、開幕直前に解雇され、マイナー行きを拒否してFAとなっていた[54]。その後は故郷・プエルトリコでトレーニングをしていたが[55]、古巣の中日から復帰のオファーを受け、同年4月21日に中日への復帰が発表された[54]。当時、中日は新外国人のティム・アンローやオジー・ティモンズを含めて打線が不振で[54]、アンローは二軍に降格しており、オープン戦では好調だったティモンズも開幕後は不振に陥り、4月23日時点ではスターティングメンバーを外されていた[56]。当時は三塁手は福留孝介の定位置になっており、また一塁手は山﨑と同年からチームに復帰した大豊が起用されていた[56]。中日からの提示条件は年俸80万ドル(当時の為替レートで約9600万円)だった一方、韓国プロ野球のサムスン・ライオンズからも年俸100万ドル(約1億2000万円)の契約条件でオファーを受けていたが、家族の暮らしやすさを考え、サムスンからのオファーを断って中日復帰を選んだ[44]。
復帰後
[編集]4月28日に再来日し、同年5月3日に碧南市臨海公園グラウンドで開催されたウエスタン・リーグトーナメント碧南大会の中日対サーパス神戸戦で復帰後初出場を果たした。パイレーツのオープン戦に出場してから約1か月のブランクがあったため、星野は当初、最低5試合は二軍戦で起用してから一軍昇格の是非を検討する方針だったが[57]、チームの打線が深刻な不振に陥っていたため、5月3日の二軍戦に出場しただけで4日に一軍昇格[58]。同日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)から試合に出場した[58]。このような経緯から、首脳陣はゴメスに実戦勘を取り戻させるため、一軍昇格直後の同月8日にはデーゲームで開催された二軍の対広島戦(ナゴヤ球場)に出場させ、同日夜の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)にも出場させるという形(いわゆる「親子ゲーム」)で調整を行わせた[59]。
ゴメス加入を受け、不調だったティモンズも5月10日時点では、ゴメスの来日以降は打率.313、一軍合流後は打率.333と好成績を残していた[60]。同月11日の対巨人戦(ナゴヤドーム)では、3回裏に三澤興一から決勝点となる2点適時打を放ち、復帰後初打点を挙げ、チームは前年から続いていたナゴヤドームでの対巨人戦の連敗を7で止めた[50]。同月13日の同カードでも2回裏に桑田から復帰20打席目で先制ソロとなる復帰後初本塁打を放ち、チームは2年ぶりにナゴヤドームで対巨人3連戦勝ち越しを決めた[43]。なお、同日の試合では5回裏にはベンチに下げられた山﨑に代わって三塁手から一塁手に守備位置を変更され、三塁手には守備固めとして福留が入った[61]。同月15日の対横浜戦(横浜スタジアム)では延長10回表に決勝打となる2点二塁打を放ったが、同日までに28打席で三振は0だった[62]。同月27日の対広島戦(ナゴヤドーム)では体調不良を訴えて途中交代し[63]、翌28日にはナゴヤドームで行われていたチーム練習を休んでいたが[64]、29日の対横浜戦(ナゴヤドーム)では3回裏の適時二塁打を含む4安打を記録した[63]。
同年6月3日の対ヤクルト戦(千葉マリンスタジアム)では2回表に高木晃次から先制3号1点本塁打を放ち、6回表にもジョナサン・ハーストから4号2点本塁打を放った[44]。なお、7月からは右膝の痛みをこらえながらプレーするようになり[65]、左膝も痛めてからは三塁手の守備に就けない状態になったため、夏場からは代打のみの出場や、一塁手としてのスタメン出場が増えていた[66]。その要因としては、一軍合流直後に試合に出場するようになったため、体が絞り切れておらず、当時は体重100 kgを超えていたことが挙げられている[66]。8月7日の対巨人戦(札幌ドーム)では10号1点本塁打を放ち、5年連続2桁本塁打を達成したが、同日の8回表の打席では三塁線を破る安打を打ったものの、膝痛のため一塁で止まっていた[67]。
同年は一塁手として48試合(最多は山﨑の102試合)、三塁手としてチーム最多の59試合(立浪和義が54試合、福留が51試合)に出場した[68]。同年9月17日までに打率.306、19本塁打を記録していたが[69]、同月16日の対巨人戦(ナゴヤドーム)でかねてから抱えていた右膝痛が激しくなり、残り17試合すべてでスタメン出場することが困難になったことや[70]、自宅が同月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件で標的となったペンタゴンから車で30、40分程度のボルティモアにあったことから、不安を抱いていた家族を支えたいという理由のため、同月16日にアメリカへ帰国、そのまま再来日することなくシーズンを終えた[69]。この右膝痛は1998年から悩まされてきたもので[71]、この年は右膝痛がひどく、特注のサポーターを着けてプレーしていた[72]。ゴメスに代わり、5月17日から二軍に降格していた大豊が一軍に昇格した[73]。同年オフには年俸200万ドル(当時の為替レートで約2億4800万円)で中日と翌2002年シーズンの契約を締結した[74]。
2002年
[編集]監督が星野から山田久志に交代した2002年の北谷春季キャンプ前には膝への負担を減らすため[71]、膝の治療と並行してランニング、ウエイトトレーニング、食事管理などのダイエットを行い[66]、体重を約7 kg減量した[71]。同年2月の来日時点では、体重は前年のシーズン中より9 kg軽い92 kgだったと報じられている[75][66]。開幕前は、膝の状態に不安が残ることから三塁手ではなく一塁手としての起用も想定され[76]、その場合は山﨑や大豊泰昭、高橋光信との一塁手のポジション争いが想定されていた[77]。山田は二遊間を荒木雅博、井端弘和の2人で固定する構想だったため、一塁手と三塁手をゴメス・山﨑・立浪の3人に競争させることを構想しており[78]、ゴメスを一塁手として起用し山﨑を控えに回すか、ゴメスを三塁手として起用できる場合は立浪を控えに回すという構想[79][80]、またゴメスを一塁手、山﨑を三塁手で起用するという構想もしていた[81]。
同年3月31日にナゴヤドームで開催された開幕戦の対ヤクルト戦では、4回裏に同点本塁打を放った福留に続いて藤井秀悟から勝ち越し本塁打を放ったが[82]、チームは逆転負けを喫した[83]。同年5月31日の対横浜戦(ナゴヤドーム)で左翼5階席に飛び込む推定飛距離140 mの特大本塁打を放った[84]。6月12日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で6回裏に井川慶から左越に同点となるソロ本塁打を放ち、通算150本塁打を達成した[85]。6月24日の対横浜戦(横浜スタジアム)では、杉本友から8回表に16号3点本塁打を放ったが、同日までに放った全16本塁打のうち、14本は2点差以内の場面で放ったものだった[86]。一方でこのころには右膝痛が悪化しており、試合前の守備練習にも参加していなかった[86]。また、この本塁打は結果的に同年、そして中日時代に放った最後の本塁打となった。
7月3日の対巨人戦(東京ドーム)で[87]、試合中に打席に立っていたところ、右膝を捻って痛め、4日に出場選手登録を抹消される[88]。このため、翌4日の対巨人戦(東京ドーム)では渡辺博幸が代役で四番打者・一塁手としてスタメン出場し[89]、同月6日には4月末から二軍生活を続けていた山﨑がゴメスの代役として一軍に復帰した[90]。渡辺を四番で起用した理由は、一番・三番・五番をそれぞれ井端・福留・立浪で固定したいという考えからだった[91]。この怪我は古傷とは異なる場所が患部であり、当初はオールスターゲーム明けには復帰できると見られていたが[88]、その後も経過が思わしくないため、7月11日に右膝の精密検査を受けるためアメリカに帰国したが、この時には家族全員を引き連れ、家財道具もすべて持って帰国していた[92]。帰国後、8月14日に手術した[93]。帰国直前の7月10日時点で、セ・リーグの本塁打数ランキングではペタジーニの20本塁打、ジョージ・アリアス(阪神)と松井の18本塁打に次ぎ、エディ・ディアス(広島)と並んでリーグ4位タイの16本塁打を記録していた[94]。
同シーズンは66試合に出場したのみで[95]、16本塁打、43打点と振るわなかった[96]。同年は一塁手として63試合[注 2]、三塁手として11試合(チーム最多は立浪の116試合)に出場した[98]。山田はゴメスが戦線離脱して以降、一塁手のレギュラーを固定できなかったと語っている[99]。
10月1日の『中日スポーツ』の記事で、同年限りでの退団が決定的となったことが報道され[100]、11月23日に翌年の契約を結ばないことが正式に発表された[101]。同年限りで現役を引退した[17]。
引退後
[編集]2010年時点では、オリオールズ傘下のマイナー球団でコーチをしていた。同年8月17日、オリオールズ対マリナーズ戦を星野が訪問した際、再会を果たす[102]。
選手としての特徴
[編集]来日前は打率のキャリアハイは1994年の.274だった一方、1992年に17本塁打を記録するなど、7年間で5回の2桁本塁打を記録しており、安打の3分の1以上が本塁打であった[5]。来日時からパワフルな打撃が長所とされていた一方、打撃に安定感があるとも評されていたが、1996年シーズンは打率が.238と低調だったことから、来日当初は後者の評価については疑問を呈する声もあった[11]。その打撃はアッパースイングであり、ほとんどゴロを打たないとも評されていた[2]。
また守備でも安定感があり、強肩であるとも評されていた[2]。一方で来日前はMLBで7シーズンプレーして5回故障者リスト入りしていること、1993年から1996年までの4年間で1996年の1盗塁のみと足が遅いことが懸念事項として挙げられていた[2]。
人物
[編集]趣味は水上オートバイである。明るい性格で知られ、「陽気なプエルトリカン」の愛称で呼ばれ、子供のファンも多かった一方、日本人投手への対策を真剣に練る一面もあった[17]。また真面目な性格で、飲酒も喫煙もしなかったという[2]。
敬虔なクリスチャンでロッカーで聖書を読んでいたり、将来の夢は牧師になることと語る。また、試合前にグレゴリオ聖歌を聞き、心を落ち着けていた。
好調時はヒゲを伸ばし続ける験担ぎを行っていた。
女優の武井咲はゴメスのファンであったことを公言している[103]。そのため、2012年の開幕戦で武井が始球式[注 3]を務めた際には、中日の応援団がゴメスの応援歌を演奏していた。なお、この応援歌はゴメス入団の前年に在籍していたコールズの曲の流用である。また、この年には10年ぶりに来日し、11月29日にTBS系列で放送された『ひみつの嵐ちゃん!』内のコーナー「嵐シェアハウス」に宅配業者役で登場し、同番組にゲスト出演していた武井と初めて対面した[103]。
1997年のみ中日でチームメイトになったアロンゾ・パウエルとは顔見知りで、来日に関して相談し合ったという[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | BAL | 12 | 48 | 39 | 3 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | 7 | 0 | 2 | .231 | .362 | .231 | .592 |
| 1991 | 118 | 445 | 391 | 40 | 91 | 17 | 2 | 16 | 160 | 45 | 1 | 1 | 5 | 7 | 40 | 0 | 2 | 82 | 11 | .233 | .302 | .409 | .711 | |
| 1992 | 137 | 552 | 468 | 62 | 124 | 24 | 0 | 17 | 199 | 64 | 2 | 3 | 5 | 8 | 63 | 4 | 8 | 78 | 14 | .265 | .356 | .425 | .782 | |
| 1993 | 71 | 284 | 244 | 30 | 48 | 7 | 0 | 10 | 85 | 25 | 0 | 1 | 3 | 2 | 32 | 1 | 3 | 60 | 2 | .197 | .295 | .348 | .644 | |
| 1994 | 84 | 333 | 285 | 46 | 78 | 20 | 0 | 15 | 143 | 56 | 0 | 0 | 0 | 4 | 41 | 0 | 3 | 55 | 5 | .274 | .366 | .502 | .868 | |
| 1995 | 53 | 149 | 127 | 16 | 30 | 5 | 0 | 4 | 47 | 12 | 0 | 1 | 0 | 2 | 18 | 1 | 2 | 23 | 0 | .236 | .336 | .370 | .706 | |
| 1996 | CHC | 136 | 427 | 362 | 44 | 86 | 19 | 0 | 17 | 156 | 56 | 1 | 4 | 3 | 2 | 53 | 0 | 7 | 94 | 8 | .238 | .344 | .431 | .775 |
| 1997 | 中日 | 135 | 562 | 483 | 84 | 152 | 23 | 1 | 31 | 270 | 81 | 2 | 0 | 0 | 2 | 74 | 3 | 3 | 76 | 13 | .315 | .407 | .559 | .966 |
| 1998 | 116 | 488 | 420 | 57 | 115 | 14 | 0 | 26 | 207 | 76 | 1 | 1 | 1 | 5 | 57 | 7 | 5 | 66 | 10 | .274 | .363 | .493 | .856 | |
| 1999 | 133 | 560 | 474 | 84 | 141 | 19 | 1 | 36 | 270 | 109 | 4 | 1 | 0 | 9 | 70 | 10 | 7 | 59 | 15 | .297 | .389 | .570 | .959 | |
| 2000 | 122 | 509 | 440 | 59 | 127 | 19 | 1 | 25 | 223 | 79 | 1 | 2 | 1 | 5 | 57 | 8 | 5 | 75 | 18 | .289 | .373 | .507 | .880 | |
| 2001 | 88 | 343 | 291 | 30 | 89 | 13 | 0 | 19 | 159 | 61 | 0 | 0 | 1 | 4 | 47 | 5 | 0 | 35 | 10 | .306 | .398 | .546 | .944 | |
| 2002 | 66 | 279 | 247 | 34 | 66 | 10 | 0 | 16 | 124 | 43 | 0 | 0 | 0 | 2 | 29 | 4 | 1 | 39 | 4 | .267 | .344 | .502 | .846 | |
| MLB:7年 | 611 | 2238 | 1916 | 241 | 466 | 92 | 2 | 79 | 799 | 259 | 4 | 10 | 17 | 25 | 255 | 6 | 25 | 399 | 42 | .243 | .336 | .417 | .753 | |
| NPB:6年 | 660 | 2741 | 2355 | 348 | 690 | 98 | 3 | 153 | 1253 | 449 | 8 | 4 | 3 | 27 | 334 | 37 | 21 | 350 | 70 | .293 | .382 | .532 | .914 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]- NPB
記録
[編集]- NPB
- 初出場・初先発出場:1997年4月4日、対横浜ベイスターズ1回戦(ナゴヤドーム)、4番・三塁手として先発出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、1回裏に盛田幸妃から右前適時打
- 初本塁打:1997年4月15日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、2回表に中込伸から先制2ラン
- 100本塁打:2000年5月28日、対読売ジャイアンツ8回戦(東京ドーム)、8回表に河本育之から左越同点2ラン ※史上209人目
- 150本塁打:2002年6月12日、対阪神タイガース12回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に井川慶から左越同点ソロ[85] ※史上120人目
- オールスターゲーム出場:1回 (2000年)
背番号
[編集]- 15 (1990年)
- 11 (1991年)
- 10 (1991年 - 1995年)
- 12 (1996年)
- 4 (1997年[注 4] - 2002年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、第47巻第17号(通巻:第1936号)、1992年4月25日、35頁「ボルティモア・オリオールズ 1992年度メンバー」NDLJP:7909753/18。 - 1992年4月25日増刊号「'92大リーグ総ガイド」。
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- ^ “バンチ&ゴメス退団決定的 あの勇姿、もう見られない”. 中日スポーツ (2002年10月1日). 2004年11月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧。
- ^ “竜ファン感謝デー 来季はもっと楽しい一時を”. 中日スポーツ (2002年11月24日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月25日閲覧。
- ^ 「星野氏がイチローら訪問」『SANSPO.COM』産業経済新聞社(共同)、2010年8月17日。オリジナルの2010年8月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 「【芸能・社会】 武井咲 憧れの元中日ゴメス氏と夢の共演 「ひみつの嵐ちゃん!」」『中日スポーツ』中日新聞社、2012年11月21日、紙面から。オリジナルの2012年11月28日時点におけるアーカイブ。
参考文献
[編集]- 『1998 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1997年12月25日。ISBN 978-4583034850。 NCID BN06200347。国立国会図書館書誌ID:000000048670・全国書誌番号:00054192。
- 『1999 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1998年12月25日。ISBN 978-4583045412。 NCID BN06200347。国立国会図書館書誌ID:000000048670・全国書誌番号:00054192。
- 『2000 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1999年12月25日。ISBN 978-4583036229。 NCID BN06200347。国立国会図書館書誌ID:000000048670・全国書誌番号:00054192。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 レオ・ゴメス - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)