トミー・ラソーダ

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トミー・ラソーダ
Tommy Lasorda
TommyLasorda.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州ノリスタウン
生年月日 (1927-09-22) 1927年9月22日(89歳)
身長
体重
5' 10" =約177.8 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1945年
初出場 1954年8月5日
最終出場 1956年7月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1997年
選出方法 ベテランズ委員会選出
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
2006年

トミー・ラソーダThomas Charles Lasorda, 1927年9月22日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ノリスタウン出身の元プロ野球選手投手)・監督。

経歴[編集]

1944年フィラデルフィア・フィリーズに入団。1949年ブルックリン・ドジャースに移籍。1954年にドジャースでメジャーデビュー。翌シーズンもドジャースでプレーするが、1956年にはカンザスシティ・アスレチックスでプレー。メジャーではこの3シーズンしかプレーしておらず、通算成績は0勝4敗、防御率6.48と全く振るわなかった。

しかし、ラソーダが他の選手の相談によく乗っていたのを見ていたドジャースのフロントは、ドジャース傘下のマイナーチームのコーチ就任を要請、ラソーダもこれに応じた(一時スカウトを行なっていた時期もあった)。その後、プレーヤーが徐々に上のリーグに上がっていくように、ラソーダも指導者としての腕を上げ、シングルA,ダブルA,トリプルAの監督を歴任。

そして1977年に名将ウォルター・オルストンの後を継いでドジャースの監督に就任。オマリー家の家族経営の影響からか、他のチームが頻繁に監督のすげ替えを行なう中、1996年に健康上の不安を理由に自ら辞任するまで20年にもわたってドジャースの監督を務めた。監督として確固たる地位を築いていったラソーダには、常に他球団への移籍の噂が絶えなかった。ある日、新聞記者がその件についてラソーダに直撃取材したところ、「私の体にはドジャーブルーの血が流れてるんだ」という言葉で移籍の噂を一蹴したのは有名である。

とかくマイナーリーグでは自分が上のリーグでプレーしたいことから、スタンドプレーに走りがちになり、またメジャーリーグでも優勝が絶望的になると契約上のインセンティブを狙いに個人プレーが目立つようになるが、ラソーダはそのようなときに、「背中の名前(=個人)のためにプレーするのではなく、胸の名前(=チーム)のためにプレーしろ」と諭した。監督としての通算成績は1599勝1439敗(勝率.526)。地区優勝8回、リーグ優勝4回、ワールド・シリーズ優勝2回。1998年にはドジャースの副社長に、2005年には同球団の名誉顧問に就任した。なお、監督時代の背番号『2』はドジャースの永久欠番となっている。1997年アメリカ野球殿堂入り、2006年にはカナダ野球殿堂入りの栄誉を受けた。

2000年のシドニーオリンピックではマイナーリーグの選手中心で編成された野球アメリカ合衆国代表チームの監督を当時72歳という高齢ながら引き受け、チームを金メダルへ導いている。

2005年、アメリカのプロフェッショナル・ベースボール・スカウト基金(PBSF)は、「20世紀最高の監督」にラソーダを選出、と同時に2006年以降、「トミー・ラソーダ賞」を創設し、各年の最高の監督に対して同賞を贈ることを決定した。

2017年3月22日のWBC準決勝日米戦で野茂英雄と共に始球式に登場した。

人物[編集]

日本球界との親交[編集]

1995年、日本の球団(近鉄)との契約がこじれてメジャーリーグに挑戦してきた野茂英雄と契約して、野茂を頻繁に登板させた監督として日本でも非常に有名になり、またラソーダもその後幾度となく来日し日本製品のCMに出演する程の親日家となった。「長嶋茂雄星野仙一は私の兄弟。野茂英雄は私の歳の離れた息子」とも豪語している。

2001年には近鉄のスペシャルアドバイザーとなり、ドジャースの若手有望株選手(ショーン・バーグマンジェレミー・パウエルショーン・ギルバートら)を次々に日本に送り込み2001年の近鉄優勝に貢献した。[1]2006 ワールド・ベースボール・クラシックではアジア地区における親善大使を引き受け、1次リーグでは始球式も行なっている。2008年には長年にわたる日米の野球交流の功績から、旭日小綬章が送られた。

上述の「背中の名前(=個人)のためにプレーするのではなく、胸の名前(=チーム)のためにプレーしろ」という言葉は技術指導のために来日した際、近鉄の選手にも投げかけられている。

詳細情報[編集]

通算成績[編集]





















































W
H
I
P
1954 BRO 4 0 0 0 0 0 0 0 -- -- 39 9 8 2 5 -- 0 5 0 0 5 5 5.00 1.44
1955 4 1 0 0 0 0 0 0 -- -- 24 4 5 1 6 0 1 4 4 0 6 6 13.50 2.75
1956 KCA 18 5 0 0 0 0 4 1 -- .000 220 45.1 40 6 45 3 3 28 7 0 38 31 6.15 1.88
通算:3 年 26 6 0 0 0 0 4 1 -- .000 283 58.1 53 9 56 3 4 37 11 0 49 42 6.48 1.87

監督としての戦績[編集]

脚注[編集]

  1. ^ とはいえ紹介された全ての選手が活躍したわけではなく、近鉄最後のシーズンとなった2004年に来日したヘクター・カラスコは近鉄では充分な活躍ができなかった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]