コニー・マック

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コニー・マック
Connie Mack
MackInStands1916.jpg
コニー・マック(1915年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 マサチューセッツ州イーストブルックフィールド
生年月日 1862年12月22日
没年月日 1956年2月8日(満93歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
150 lb =約68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1886年
初出場 1886年9月11日
最終出場 1896年8月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1937年
選出方法 ベテランズ委員会選出

コニー・マックConnie Mack)こと、コーネリアス・アレクサンダー・マギリカディ・シニアCornelius Alexander McGillicuddy, Sr., 1862年12月22日 - 1956年2月8日)は、元プロ野球選手捕手)・監督アメリカ合衆国マサチューセッツ州出身。ニックネームは「The Tall Tactician」(ザ・トール・タクティシャン)。

MLBパイレーツで3年、アスレチックスで50年と、計53年間にわたって監督として指揮をとった。

経歴・人物[編集]

選手歴[編集]

1887年(選手時代)

1886年、ワシントンD.C.にナショナルズ(現在の球団とは別)が設立された際、イースタンリーグのハートフォード球団からナショナルズに入団した。5年目の1890年に、マックは他の選手と共にプレイヤーズ・リーグバッファロー・バイソンズで1シーズンを過ごす。マックは打力のある選手ではなかったが、プレイヤーズ・リーグでは20もの死球(リーグ最多)を受けた記録が残っている。

プレイヤーズ・リーグ解散後の1891年から1896年までパイレーツに在籍、1894年以降はパイレーツの選手兼任監督となり、1896年まで試合に出場していたが、その後は監督に専念するようになった。

監督歴[編集]

1894年から3年間はピッツバーグ・パイレーツで選手兼任監督を務める。1901年フィラデルフィア・アスレチックスの球団創立に共同経営者として参画し、自ら初代監督に就任した。ユニフォームではなくスーツ姿で指揮を執っていた[1]

1915年。前列左の女性がマック夫人
1926年。ワシントン・セネタースとの開幕戦でセネタース監督のバッキー・ハリスと握手するコニー・マック(右)

その後、1950年までの50年間、87歳まで監督として指揮を執り続け、この間に9度のアメリカンリーグ制覇と5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げる。退場処分となったのは1895年にパイレーツの選手兼任監督の時に1度あるきりで、アスレチックスを率いていた50年間は一度も退場処分を受けたことがなかった。スーツ姿で指揮を執り続けたマック監督は、20世紀前半のMLBの象徴でもあった。1922年にオーナー、ベン・シャイブが亡くなった後は、オーナーとなったベン・ジュニアより経営の全権を委任され、ベン・ジュニアが亡くなった1936年以後はオーナー兼監督となった(現在ではオーナーが監督・コーチ又は選手となることは禁止されている)。1934年には日米野球のため日本を訪れ、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグチャーリー・ゲーリンジャーらMLB選抜チームの監督として、日本各地で試合を行った。

当時のアスレチックスの本拠地シャイブ・パークは、マックの功績を称えて「コニー・マック・スタジアム」と呼ばれ、アスレチックスが1950年代カンザスシティに移った後もナショナルリーグフィラデルフィア・フィリーズの本拠地として1970年まで使われた(1976年に老朽化のため取り壊された)。また、現在のフィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークのそばにマックの銅像が建てられている。

コニー・マックとジョン・マグロー(右)
1938年4月18日
1957年に建立されたコニー・マックの銅像

監督退任後の1956年、93歳で死去。

53年に及ぶ監督生活の中で、通算3731勝(3948敗)を記録するが、これはMLB史上最多勝利数である(敗戦数も最多)。

1937年に米球界で殿堂入りを果たしている。

息子アール・マック1910年から1914年にアスレチックスの選手で、1937年1939年には病気休養の父に代わって代理監督を務めた。孫コニー・マック3世1983年から2001年の間、下院議員・上院議員を務め、その子(曾孫にあたる)コニー・マック4世2005年から2013年まで下院議員を務めた。

1934年の日本訪問[編集]

1934年に日米野球で日本を訪れたマックはマスメディアに向けて日本に対する印象を語っている。「日本の選手の試合に臨む態度は実に立派」であって、アメリカ合衆国へこのまま連れて行っても「絶対に恥ずかしくない」と断言した。初の日本訪問だったにも関わらず球場に詰め掛ける日本人に対して温かい眼差しを向け、「野球好きの日本人が敵になる筈が無い」と確信していた。

私は予ねてから日本及び日本人に非常な好感を抱いている。例えば日米間の色々な問題、或いは国際連盟並びに満州問題などに対して、それが起こるたびに常に日本側に加担して物を考えてきた。ところで今こうして日本の風物に接し、色々な人に接して、自分が本国で想像していた事が決して感情から生まれたものでは無い事が解った。自分の想像が絶対に裏切られなかった事が、より一層自分の今までの気持ちを濃厚にしてくれた事を嬉しく思っている。日本人の真の性格と云うものは、本の上で読んだり人から聞いて見ただけではその真髄が解らない。実際に触れて見ると、何とも言えぬ奥床しいところを持っている国民である事を知った。私は日本の少年少女から手紙を幾つか貰ったが、一々松本さん(明治大学教授)にお願いして返事を出して貰っている。少年少女の偽らぬ感情の中から、日本人に対する愛着の念が一層深くなった。・・・・・・私は今後一層日米親善のため出来るだけ尽力したいと考えている。[2]

マックは日本に忍び寄る軍国主義の影も同時に感じ取っていた。自伝には「日本人の笑顔の背後に何があったか解らない。だが戦争の影はこの当時まかれていた。我々の部屋は絶えず監視され、それはどこへ行っても付きまとっていた」と記している[3]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1886 WSH 10 36 36 4 13 2 1 0 17 5 0 0 0 2 .361 .361 .472 .833
1887 82 325 314 35 63 6 1 0 71 20 26 8 3 17 .201 .228 .226 .454
1888 85 325 300 49 56 5 6 3 82 29 31 17 8 18 .187 .249 .273 .523
1889 98 409 386 51 113 16 1 0 131 42 26 15 8 12 .293 .333 .339 .672
1890 BUF 123 570 503 95 134 15 12 0 173 53 16 47 20 13 .266 .353 .344 .697
1891 PIT 75 308 280 43 60 10 0 0 70 29 4 19 9 11 .214 .286 .250 .536
1892 97 373 346 39 84 9 4 1 104 31 11 21 6 22 .243 .298 .301 .598
1893 37 148 133 22 38 3 1 0 43 15 4 10 5 9 .286 .358 .323 .681
1894 70 270 231 33 57 7 1 1 69 21 8 14 21 4 14 .247 .320 .299 .619
1895 14 59 49 12 15 2 0 0 17 4 1 2 7 1 1 .306 .404 .347 .750
1896 33 126 120 9 26 4 1 0 32 16 0 1 5 0 8 .217 .248 .267 .515
通算:11年 724 2949 2698 392 659 79 28 5 809 265 127 17 170 64 127 .244 .305 .300 .604

獲得タイトル・記録[編集]

  • リーグ最多死球:1890年
  • リーグ最高守備率(捕手):1892年

監督としての戦績[編集]

年度 チーム リーグ 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 備考
1894 PIT NL 23 12 10 .545 7位 選手兼任、9月3日~
1895 135 71 61 .538 7位 選手兼任
1896 131 66 63 .512 6位
1901 PHA AL 137 74 62 .544 4位
1902 137 83 53 .610 1位
1903 137 75 60 .556 2位
1904 155 81 70 .536 5位
1905 152 92 56 .622 1位
1906 149 78 67 .538 4位
1907 150 88 57 .607 2位
1908 157 68 85 .444 6位
1909 153 95 58 .621 2位
1910 155 102 48 .680 1位 WS優勝
1911 152 101 50 .669 1位 WS優勝
1912 153 90 62 .592 3位
1913 153 96 57 .627 1位 WS優勝
1914 158 99 53 .651 1位
1915 154 43 109 .283 8位
1916 154 36 117 .235 8位
1917 154 55 98 .359 8位
1918 130 52 76 .406 8位
1919 140 36 104 .257 8位
1920 156 48 106 .312 8位
1921 155 53 100 .346 8位
1922 155 65 89 .422 7位
1923 153 69 83 .454 6位
1924 152 71 81 .467 5位
1925 153 88 64 .579 2位
1926 150 83 67 .553 3位
1927 155 91 63 .591 2位
1928 153 98 55 .641 2位
1929 151 104 46 .693 1位 WS優勝
1930 154 102 52 .662 1位 WS優勝
1931 153 107 45 .704 1位
1932 154 94 60 .610 2位
1933 152 79 72 .523 3位 ASG出場
1934 153 68 82 .453 5位
1935 149 58 91 .389 8位
1936 154 53 100 .346 8位
1937 120 39 80 .328 7位 開幕~9月2日
1938 154 53 99 .357 8位
1939 62 25 37 .403 7位 開幕~6月28日
1940 154 54 100 .351 8位
1941 154 64 90 .416 8位
1942 154 55 99 .357 8位
1943 155 49 105 .318 8位
1944 155 72 82 .468 5位
1945 153 52 98 .347 8位
1946 155 49 105 .318 8位
1947 156 78 76 .506 5位
1948 154 84 70 .545 4位
1949 154 81 73 .526 5位
1950 154 52 102 .338 8位
通 算 7755 3731 3948 .486

脚注[編集]

  1. ^ 公認野球規則においては監督にユニフォームの着用を義務付ける規定はない
  2. ^ 波多野勝. 日米野球史―メジャーを追いかけた70年. PHP新書. p. 102-103. ISBN 978-4569618487. 
  3. ^ 波多野勝. 日米野球史―メジャーを追いかけた70年. PHP新書. p. 123-125. 

関連項目[編集]

出典・外部リンク[編集]