ディック・ハウザー

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ディック・ハウザー
Dick Howser
ホワイトハウス訪問時のハウザー(1985年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州マイアミ
生年月日 1936年5月14日
没年月日 (1987-06-17) 1987年6月17日(51歳没)
身長
体重
5' 8" =約172.7 cm
155 lb =約70.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1961年
初出場 1961年4月11日
最終出場 1968年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

リチャード・ダルトン・ハウザー(Richard Dalton Howser、1936年5月14日 - 1987年6月17日)はMLBで活躍した野球選手、監督。 選手としては内野手遊撃手)。右投右打。のち監督としてもカンザスシティ・ロイヤルズを率いて1985年ワールドシリーズ優勝を果たす。アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ出身。

人物・来歴[編集]

フロリダ州立大学では、遊撃手として2度全米大学選抜チームに選ばれる。カンザスシティ・アスレチックス1968年オークランドに移転)に入団し、1961年には新人ながら158試合に出場して打率.280、37盗塁、108得点を記録。新人王投票でも次点につけ、オールスターにも出場した。

だが、以後レギュラーとして起用されたのはクリーブランド・インディアンス移籍後の1964年のみ。この年は全162試合に出場し、打率.256、39盗塁、101得点であった。 1967年ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、1968年限りで現役を引退した。

引退後、翌1969年にはすぐにヤンキースのコーチに抜擢され、1978年まで務める。 この間、2回のワールドシリーズ制覇にも貢献。1978年にはビリー・マーチン解任(1回目)後、1試合だけ代理監督を務めている。 1979年は母校フロリダ州立大のヘッドコーチを務める。

1980年にヤンキースの監督に就任。いきなりこの年103勝をあげ、地区優勝を果たすが、ア・リーグチャンピオンシップシリーズカンザスシティ・ロイヤルズに敗れる。ヤンキースの監督としては、ジョージ・スタインブレナーの干渉を拒否することに成功した数少ない監督の1人であった。 リーグチャンピオンシップシリーズ第2戦で三塁ベースコーチマイク・ファレーロが判断ミス。 1点リードを許している8回表ヤンキースの攻撃で、一塁走者ウィリー・ランドルフが打者ボブ・ワトソンの二塁打で、ファレーロの指示で本塁に突っ込み、タッチアウト。スタインブレナーは激怒し、ファレーロの即時解任を言い渡したが、ハウザーが拒絶。すると、このシリーズの敗退後に、ハウザーを解任した。

1981年はヤンキースのスカウトを務めていたが、8月31日に今度は前年のチャンピオンシップシリーズで敗れたロイヤルズの監督に就任。50日間に及ぶストライキでシーズンが中断、二分されたこの年は後期優勝を果たすがディビジョンシリーズオークランド・アスレチックスに敗れる。 1982年1983年はいずれも2位に終わったが、1984年に地区優勝。 しかしリーグチャンピオンシップシリーズではデトロイト・タイガースに敗れる。

そして迎えた1985年、91勝71敗の成績で地区優勝を収める。この年から7回戦制となったリーグチャンピオンシップシリーズでは、トロント・ブルージェイズに1勝3敗と追い込まれるが、そこから3連勝してワールドシリーズ進出を果たす。 セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでも、1勝3敗の窮地に追い込まれるが、そこから3連勝してチームを初のワールドチャンピオンに導く。

1986年は、指揮を執るオールスターまでは40勝48敗。アストロドームで行われたオールスターではア・リーグを3-2の勝利に導いた。しかし、試合前から体調不良を感じていて、翌日脳腫瘍の診断を受け入院。手術を受け、残り試合は三塁コーチのマイク・ファレーロが指揮を執ることとなった。

1987年のスプリング・トレーニング(日本でいう春季キャンプに相当)には復帰したが、2月下旬の診断でがんへの転移が見つかり、監督を辞任。ビリー・ガードナーが後任監督となったが、次のオールスターを見ることなく6月17日にカンザスシティで死去。51歳没。亡骸は故郷フロリダに葬られた。ロイヤルズは半旗を掲げ、選手・関係者は亡き監督に黙祷を捧げた。

ハウザーのロイヤルズ在籍時の背番号「10」。
カンザスシティ・ロイヤルズの永久欠番1987年指定。

同年7月3日、ハウザーの背番号10』はロイヤルズ初の永久欠番に指定された。また、大学野球の最優秀選手に贈られる賞が「ディック・ハウザー・トロフィー」と名付けられ、母校フロリダ州立大も球場名にハウザーの名を冠し、ブロンズの胸像を設置して、故人の業績を称えている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1961 KCA 158 719 611 108 171 29 6 3 221 45 37 9 8 3 92 0 5 38 8 .280 .377 .362 .739
1962 83 337 286 53 68 8 3 6 100 34 19 2 9 3 38 0 1 8 5 .238 .326 .350 .676
1963 15 49 41 4 8 0 0 0 8 1 0 0 1 0 7 1 0 3 0 .195 .313 .195 .508
CLE 49 190 162 25 40 5 0 1 48 10 9 3 4 2 22 0 0 18 5 .247 .333 .296 .630
'63計 64 239 203 29 48 5 0 1 56 11 9 3 5 2 29 1 0 21 5 .236 .329 .276 .605
1964 162 736 637 101 163 23 4 3 203 52 20 7 16 4 76 1 2 39 12 .256 .335 .319 .654
1965 107 377 307 47 72 8 2 1 87 6 17 4 10 2 57 0 1 25 5 .235 .354 .283 .638
1966 67 161 140 18 32 9 1 2 86 4 2 4 4 2 15 0 0 23 4 .229 .299 .350 .649
1967 NYY 63 179 149 18 40 6 0 0 46 10 1 4 3 0 25 0 2 15 0 .268 .381 .309 .689
1968 85 189 150 24 23 2 1 0 27 3 0 1 3 0 35 0 4 17 4 .153 .321 .180 .501
MLB:8年 789 2937 2483 398 617 90 17 16 789 165 105 34 58 16 367 2 13 186 43 .248 .346 .318 .664
  • 各年度の太字はリーグ最高

監督成績(代理を含む)[編集]

年度 チーム 地区 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 備考
1978 NYY AL東 42 1 0 1 .000 1 / 7 1試合のみの代理監督
1980 NYY AL東 44 162 103 59 .636 1 / 7 地区優勝
1981 KC AL西 45 33 20 13 .606 後期優勝 
1982 KC AL西 46 162 90 72 .556 2 / 7  
1983 KC AL西 47 162 79 83 .488 2 / 7  
1984 KC AL西 48 162 84 78 .519 1 / 7 地区優勝
1985 KC AL西 49 162 91 71 .562 1 / 7 ワールドシリーズ優勝
1986 KC AL西 50 88 40 48 .455 3 / 7 順位は最終順位
通算 933 507 425 .544    

ストライキにより前後期制

外部リンク[編集]