ロジャー・ペキンポー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロジャー・ペキンポー
Roger Peckinpaugh
1924年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州ウースター
生年月日 1891年2月5日
没年月日 (1977-11-17) 1977年11月17日(86歳没)
身長
体重
5' 10.5" =約179.1 cm
165 lb =約74.8 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
初出場 1910年9月15日
最終出場 1927年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ロジャー・ペキンポー(Roger Thorpe Peckinpaugh、 1891年2月5日 - 1977年11月17日)は、アメリカ合衆国オハイオ州ウースター出身のプロ野球選手遊撃手)。右投げ右打ち。

1925年のアメリカンリーグ最優秀選手で、ヤンキースでは長くキャプテンを務めた。

経歴[編集]

1910年にクリーブランド・ナップスに入団し、主に守備要員として試合に出ていた。1912年には70試合に出場したが、翌年は殆ど試合に出る機会がなく、同年5月にニューヨーク・ヤンキースにトレードに出された。

ヤンキースでは1914年からレギュラーの遊撃手となり、この年からヤンキースのキャプテンを任される。この年に500補殺を記録するなど主に守備の面で活躍し、同年9月以降は監督も兼任した。ヤンキース在籍中の1921年までの間に、ペキンポーは遊撃手としての補殺数でリーグ最多を3度、また併殺数リーグ最多を2度記録している。打つ方では目だった活躍はなかったが、1919年に自身唯一の打率3割(.305)を記録した。

1921年、ペキンポーは一度レッドソックスにトレードに出され、その後レッドソックス、セネタース、アスレチックスの間の三角トレードでワシントン・セネタースに移籍し、ヤンキースのキャプテンはペキンポーからベーブ・ルースが受け継ぐことになる。セネタースでは1923年に510補殺と105の併殺(いずれもリーグ最多)、また打つ方では40もの犠打を記録するなどチームを引っ張り、翌1924年のセネタース初のリーグ優勝とワールドシリーズ制覇に貢献する。

1925年にはセネタースをリーグ2連覇に導き、ペキンポーはこの年の最優秀選手に選ばれた。しかし2連覇をかけた1925年のワールドシリーズでは、7戦で計8つものエラーをしてしまったことが響き、セネタースはパイレーツの前に敗退した。

ペキンポーは1927年まで選手を続け、引退後はインディアンスの監督に就任した。監督を退いた後は、インディアンスのゼネラルマネージャー及び球団代表を務めた。1977年にクリーブランドで死去。

詳細情報[編集]

打撃成績[編集]

※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。

















































O
P
S
1910 CLE 15 50 45 1 9 0 0 0 9 6 3 3 1 1 15 .200 .234 .200 .434
1912 70 260 236 18 50 4 1 1 59 22 11 4 6 16 0 46 .212 .262 .250 .512
1913 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
NYY 95 374 340 35 91 10 7 1 118 32 19 9 24 0 47 .268 .316 .347 .663
'13計 96 374 340 36 91 10 7 1 118 32 19 9 24 0 47 .268 .316 .347 .663
1914 157 635 570 55 127 14 6 3 162 51 38 17 13 51 1 73 .223 .288 .284 .572
1915 142 626 540 67 119 18 7 5 166 44 19 12 33 49 3 72 .220 .289 .307 .596
1916 145 635 552 65 141 22 8 4 191 58 18 20 62 1 50 .255 .332 .346 .678
1917 148 629 543 63 141 24 7 0 179 41 17 20 64 2 46 .260 .340 .330 .670
1918 122 517 446 59 103 15 3 0 124 43 12 25 43 3 41 .231 .303 .278 .581
1919 122 539 453 89 138 20 2 7 183 33 10 23 59 4 37 .305 .390 .404 .794
1920 139 623 534 109 144 26 6 8 206 54 8 12 14 72 0 47 .270 .356 .386 .742
1921 149 696 577 128 166 25 7 8 229 72 2 2 33 84 2 44 .288 .380 .397 .777
1922 WSH 147 602 520 62 132 14 4 2 160 48 11 6 23 55 3 36 .254 .329 .308 .636
1923 154 673 568 73 150 18 4 2 182 62 10 8 40 64 1 30 .264 .340 .320 .660
1924 155 620 523 72 142 20 5 2 178 73 9 6 20 72 0 45 .272 .360 .340 .700
1925 126 494 422 67 124 16 4 4 160 64 13 4 22 49 0 23 .294 .367 .379 .746
1926 57 178 147 19 35 4 1 1 44 14 3 0 3 28 0 12 .238 .360 .299 .659
1927 CWS 68 246 217 23 64 6 3 0 76 23 2 3 7 21 1 6 .295 .360 .350 .710
MLB:17年 2012 8397 7233 1006 1876 256 75 48 2426 740 205 74* 314 814 22 670 .259 .336 .335 .672

表彰[編集]

  • シーズンMVP:1925年
  • ワールドシリーズ出場:3回(1921,1924,1925年)
  • 犠打数リーグ最多:1922年
  • リーグ最多補殺(遊撃手):1916,1918,1919,1923年
  • 通算犠打数:314(歴代8位)

監督としての戦績[編集]

※順位は年度最終順位

年度 チーム リーグ 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 備考
1914年 NYY AL 20 10 10 .500 6位 9月15日~、選手兼任
1928年 CLE 155 62 92 .403 7位
1929年 152 81 71 .533 3位
1930年 154 81 73 .526 4位
1931年 155 78 76 .506 4位
1932年 153 87 65 .572 4位
1933年 51 26 25 .510 4位 開幕~6月8日
1941年 155 76 79 .487 4位
通算 995 500 491 .505

関連項目[編集]

外部リンク[編集]