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1902年のメジャーリーグベースボール

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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1902年のできごとを記す。1902年4月17日に開幕し10月5日に全日程を終え、ナショナルリーグピッツバーグ・パイレーツが2年連続2度目の優勝を、アメリカンリーグフィラデルフィア・アスレチックスが初優勝した。またミルウォーキー・ブルワーズがセントルイスに本拠地を移転しセントルイス・ブラウンズとなった。

1901年のメジャーリーグベースボール - 1902年のメジャーリーグベースボール - 1903年のメジャーリーグベースボール

できごと

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  • ルーブ・ワッデルはこの年にフィラデルフィア・アスレチックスに移籍してきた。1897年にデビューしてから4年で3球団を渡り、1902年に4球団目のフィラデルフィア・アスレチックスに来た理由は彼の成績ではなく彼の奇行が各球団の監督にとって扱い切れないからであったと言われている。ちょうどナップ・ラジョイの移籍に絡む問題でフィラデルフィア・フィリーズから訴えられたアスレチックスはラジョイをクリーブランド・ブロンコスに放出し、シカゴ・オーファンズにいたルーブ・ワッデルを獲得する。そのワッデルはこの年最多奪三振210を記録し、以後6年連続最多奪三振を達成し、1902年から7年連続で奪三振200以上で1905年には投手三冠を達成するなど活躍し、コニー・マック監督は後に「チーム史上最高の投手だった」と述べた。
  • ジャック・チェスブロピッツバーグ・パイレーツで4年目になったが、前年21勝でパイレーツの初優勝に貢献し、この年はさらに28勝で最多勝となってパイレーツはリーグを連覇した。速球とカーブにこの年からスピットボールを球種に加えていた。まだ合法としていた時代である。チェスブロは翌年に新興チームのニューヨーク・ハイランダース(後のヤンキース)に移籍した。

コニー・マック

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アメリカンリーグではフィラデルフィア・アスレチックスがリーグ加盟2年目で初優勝した。コニー・マック監督はこの年40歳で、1886年に当時ナショナルリーグに加盟していたワシントン・ナショナルズ (1886-1889年)に入団し、その後1890年に、プレイヤーズ・リーグバッファロー・バイソンズ (1890年)で1年プレーして、1891年からピッツバーグ・パイレーツに在籍し1894年以降はパイレーツの選手兼任監督となり、1896年まで試合に出場し、その後は監督に専念した。身長185センチ、体重68キロでポジションは捕手であった。痩身で通算打率,244の成績で選手としての評価は低かった。そしてパイレーツを離れて、たまたまマイナーリーグのウェスタンリーグのミルウォーキー・ブルワーズ(後のセントルイス・ブラウンズから現ボルチモア・オリオールズ)の監督を務めていた時に、ウェスタンリーグ会長のバン・ジョンソンに認められ、そしてバン・ジョンソンがウェスタンリーグをアメリカンリーグに改称し、メジャーリーグに昇格した時にジョンソンはコニー・マックの人気・人格・球歴を考えて新しいリーグの目玉にしようとした。すでに指導者としての非凡さを見抜いていた。コニー・マックはジョンソンに請われるままフィラデルフィア・アスレチックスの共同オーナー兼監督に就任し、アメリカンリーグに参加した。以後1950年まで足かけ50年間、コニー・マックは必ず背広姿でアスレチックスのダグアウトから指揮を取った。

バン・ジョンソンとジョン・マグロー

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1899年に解散したボルチモア・オリオールズ(NL)に長年在籍し、1900年にセントルイス・カージナルスに在籍していたジョン・マグローは、アメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンに説得されて1901年からオーナー兼監督兼三塁手としてボルチモア・オリオールズ(AL)に在籍していた。なお、このボルチモア・オリオールズ(AL)には、当初ニューヨークへの進出を試みたがニューヨーク・ジャイアンツの反対に遭い断念し、代わりにボルチモアへ進出したという経緯があった。

マグローは勝負に厳しくまた相手選手の走塁妨害などラフプレーを厭わない監督で、ナショナルリーグのような規則の無いところでの荒っぽいプレーや喧嘩や騒動の絶えない野球ではなく、厳格なルールの適用と審判の権威の強化を目指していたジョンソン会長と衝突。やがてボルチモアからニューヨークへの本拠地移転問題で決定的な対立が生まれた。ニューヨークへの進出を諦めていなかったジョンソン会長に反抗したマグローは1902年のシーズン半ばにナショナルリーグに鞍替えし、ニューヨーク・ジャイアンツの監督となった。その1週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜きを行い、オリオールズは試合ができない状態に陥った。この強引な行動に対しアメリカンリーグ側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、他球団が放出した選手を補充することでオリオールズは何とか残りの試合をすることができた。

シーズン終了後にオリオールズは解散。翌1903年のオーナー会議でアメリカンリーグの球団をニューヨークに置くことについての投票が行われ、15対1の賛成多数で承認された。この球団こそメジャーリーグを代表するチームとして歴史に刻まれていく後のニューヨーク・ヤンキースである。

記録

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最終成績

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アメリカンリーグ

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チーム 勝利 敗戦 勝率 G差
1フィラデルフィア・アスレチックス8353.610--
2セントルイス・ブラウンズ7858.5745.0
3ボストン・アメリカンズ7760.5626.5
4シカゴ・ホワイトストッキングス7460.5528.0
5クリーブランド・ブロンコス6967.50714.0
6ワシントン・セネタース6175.44922.0
7デトロイト・タイガース5283.38530.5
8ボルチモア・オリオールズ5088.36234.0

ナショナルリーグ

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チーム 勝利 敗戦 勝率 G差
1ピッツバーグ・パイレーツ10336.741--
2ブルックリン・スーパーバス7563.59327.5
3ボストン・ビーンイーターズ7364.58129.0
4シンシナティ・レッズ7070.50033.5
5シカゴ・オーファンズ6869.49634.0
6セントルイス・カージナルス5678.41844.5
7フィラデルフィア・フィリーズ5681.40946.0
8ニューヨーク・ジャイアンツ4888.35353.5

個人タイトル

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アメリカンリーグ

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打者成績

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項目 選手 記録
打率ナップ・ラジョイ (PHA/CLE).378
本塁打ソックス・セイボールド (PHA)16
打点バック・フリーマン (BOS)121
得点 デーブ・ファルツ (PHA) 109
トプシー・ハートセル (PHA)
安打チャーリー・ヒックマン (BOS/CLE)193
盗塁トプシー・ハトーセル (PHA)47

投手成績

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項目 選手 記録
勝利サイ・ヤング (BOS)32
敗戦ビル・ディーニーン (BOS)21
防御率エド・シーバー (DET)1.91
奪三振ルーブ・ワッデル (PHA)210
投球回サイ・ヤング (BOS)384⅔
セーブジャック・パウエル (SLA)2

ナショナルリーグ

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打者成績

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項目 選手 記録
打率ジンジャー・ビューモン (PIT).357
本塁打トミー・リーチ (PIT)6
打点ホーナス・ワグナー (PIT)91
得点ホーナス・ワグナー (PIT)105
安打ジンジャー・ビューモン (PIT)193
盗塁ホーナス・ワグナー (PIT)42

投手成績

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項目 選手 記録
勝利ジャック・チェスブロ (PIT)28
敗戦スタン・ヤーキース (STL)21
防御率ジャック・テイラー (CHC)1.33
奪三振ビック・ウィリス (BSN)225
投球回ビック・ウィリス (BSN)410
セーブビック・ウィリス (BSN)3

出典

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  • 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1902年≫ 40P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
  • 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪バン・ジョンソン≫41P参照
  • 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪ジャック・チェスブロ≫42P参照
  • 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪コニー・マック≫47P参照
  • 『スラッガー 8月増刊 MLB歴史を変えた100人』≪バン・ジョンソン≫ 42P参照 2017年8月発行  日本スポーツ企画出版社 
  • 『誇り高き大リーガー』≪ジョン・マグロー≫ 8-13P参照 八木一郎 著 1977年9月発行 講談社
  • 『オールタイム大リーグ名選手101人』≪ルーブ・ワッデル≫ 1997年10月発行  日本スポーツ出版社

外部リンク

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