1965年のメジャーリーグベースボール

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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1965年のできごとを記す。

1965年4月12日に開幕し10月14日に全日程を終えて、ナショナルリーグロサンゼルス・ドジャースが2年ぶり15度目のリーグ優勝で、アメリカンリーグミネソタ・ツインズがワシントン・セネタース時代の1933年以来32年ぶり4度目のリーグ優勝であった。ワールドシリーズはロサンゼルス・ドジャースがミネソタ・ツインズを4勝3敗で破り、2年ぶり4度目のシリーズ制覇であった

できごと[編集]

ナショナルリーグは前年打線の不振で6位に終わったロサンゼルス・ドジャースが、この年はサンディ・コーファックス(26勝)、ドン・ドライスデール(23勝)の左右の両エースが活躍し、とりわけコーファックスは最多勝、最優秀防御率2.04、最多奪三振382で投手三冠に輝き、サイ・ヤング賞をも受賞して、ジャイアンツ、パイレーツ、レッズとの優勝争いを勝ち抜き、リーグ優勝した。モーリー・ウィルスが盗塁94で6年連続盗塁王となったがこれが最後の盗塁王であった、小粒な打線は如何ともしがたく、新人王となったジム・ラフィーバー二塁手(1973年にロッテ入り)とルー・ジョンソン外野手のシーズン本塁打12本がチーム最多本塁打で、両エース以外にも先発でクロード・オースティーン、救援でフィル・リーガンがいて投手王国であったことが優勝の原動力であった。この極端に投高打低のチーム事情は翌年ワールドシリーズで明暗が逆転することになる。リーグMVPはコーファックスでなく、2年連続4度目の本塁打王となったジャイアンツのウィリー・メイズ(打率.317・本塁打52本・打点112))が選ばれた。メイズはこの後に本塁打王を取ることは無かったが引退時に通算660本の本塁打でベーブ・ルースに次ぐ記録を残した。パイレーツのロベルト・クレメンテ(打率.329)が2年連続3度目の首位打者で、打点王はレッズのデロン・ジョンソン(本塁打32本・打点130)、2年前に新人王となったピート・ローズ(打率.312・本塁打11本・打点81)が最多安打209本、これに主砲フランク・ロビンソン(打率.296・本塁打33本・打点113)がいて、レッズは好打者が揃ってきたのだがシーズン終了後にロビンソンをオリオールズにトレードすると翌年ロビンソンは三冠王を取り、レッズはチームの補強に失敗したがやがてジョニー・ベンチの入団で1970年代に黄金時代を迎える。

一方アメリカンリーグは前年リーグ5連覇しワールドシリーズには敗れたが対戦したカージナルスの優勝監督ジョニー・キーンを引き抜いて新監督に就任させたヤンキースだったが、エルストン・ハワードのひじ痛、トニー・クーベックの肩痛、ロジャー・マリスの手首の故障、ミッキー・マントルの不振、そしてエースジム・バウトン投手の絶不調で1925年以来40年ぶりに勝率5割を割って6位に終わった。ミネソタ・ツインズは前年まで3年連続本塁打王のハーモン・キルブルーが8月初めまで本塁打22本でトップだったが故障で7週間戦列を離れたが、前年新人王で首位打者のトニー・オリバ(打率.321・安打185本)が2年連続首位打者で最多安打、ソイロ・ベルサイエスが最多得点126の活躍で、またこの年から投手コーチにジョニー・セインを迎え、2年前までに3年連続最多奪三振だったカミロ・パスカル が開幕から8連勝しその後に肩の故障で離脱したが、マドキャット・グラント(21勝)、ジム・カット(18勝)、リリーフから先発に回ったジム・ペリー(12勝)がいて、リリーフに37歳のジョニー・クリップスタイン、36歳のアル・ワシントンが奮闘して7月以降は首位の座を譲ることなく、2位ホワイトソックスに7ゲーム差をつけてセネタース時代に遡って32年ぶりのリーグ優勝であった。マドキャット・グラントが最多勝でソイロ・ベルサイエスがリーグMVPに選ばれた。ベルサイエス(打率.273・本塁打19本・打点77)は最多二塁打45本・最多三塁打12本で守備では遊撃手としてゴールドクラブ賞にも選ばれており自身最高のシーズンとなったがその後は成績が落ち1972年に広島カープに入団して引退した。本塁打王はレッドソックスの20歳のトニー・コニグリアロ (本塁打32本)で、2年後にはデビューから通算本塁打100本を22歳で達成し将来を嘱望されたがその直後に顔面に死球を受け波乱に満ちた人生を送ることになる。打点王はインディアンスのロッキー・コラビト(打点108)で1959年の本塁打王に続くタイトルを獲得した。

ワールドシリーズは、第1戦・第2戦を両エースで落としたドジャースが第3戦からオスティーン、ドライスデール、コーファックスで3連勝して盛り返し、第7戦で中2日で登板したコーファックスが奪三振10で2安打完封し、ドジャースの2年ぶり4度目の制覇となった。リーグMVPになれなかったコーファックスがシリーズMVPに選ばれた。

新人選手選抜会議(新人ドラフト会議)[編集]

前年暮れにそれまで新人選手に多額の契約金を出すことに批判を受けていたメジャーリーグが、ついに新人選手の交渉を1球団にその権利を与えるドラフト会議を設置することを決定した。この規則は1965年5月1日に発効して、この日以降はアメリカ国籍を持つ全てのアマチュア選手と個々に契約することは一切禁止されて、新人選手との交渉権をドラフト会議で選択することになった。そして1965年6月にニューヨークで大リーグ初の新人選手選抜会議が開かれた。このドラフト会議はその後毎年1月中旬、6月中旬、9月初旬の3回行なわれてそこで獲得した交渉権は次の会議の15日前まで有効で、交渉権を得た球団との契約を選手が拒否した場合は次のドラフト会議で「特別選抜」に付されることとなった。最初の「正規選抜」の時は前年度シーズンのチーム成績の最下位から順に上位の球団が選手を指名し、交渉を拒否した選手を次のドラフト会議にかける場合の「特別選抜」の時は指名権の順番をクジ引きで決められた。

この年6月の第1回ドラフト会議では、正規選抜でメジャーリーグが各球団1名を指名し、その後に3Aが2名、2Aが3名、Aが無制限で指名した。マイナーリーグ球団の指名といっても全てメジャーリーグ球団の傘下に入っているので実質はメジャーリーグ球団が10名以上指名しているのと同じで、1965年6月にニューヨークで開かれた初めてのドラフト会議では合計814名の選手が選抜されて20球団が交渉権を獲得した。この第1回会議の最初の正規選抜は前年1964年のシーズン成績に基づいて、ワールドシリーズに負けたリーグの最下位チーム、次はワールドシリーズを勝ったリーグの最下位チーム、そして第9位チーム、第8位チームとリーグ交互に順番を決めて、この年の場合は前年ヤンキースがカージナルスにワールドシリーズで負けたので、指名する順番はアメリカンリーグのアスレチックス、ナショナルリーグのメッツ、アメリカンリーグのセネタース、ナショナルリーグのコルト45s、・・・の順番となり、指名する最初のチームとなったカンザスシティ・アスレチックスはアリゾナ州立大学のリック・マンデーを指名した。

リック・マンデーはアリゾナ州立大学時代にはカレッジ・ワールドシリーズに優勝しMVPにも選ばれて、1年後輩にレジー・ジャクソンがいた。ジャクソンは翌1966年にドラフトで同じカンザスシティ・アスレチックスに入団するが、大学時代のマンデーを「まぶしいくらいの存在だった」と後に述懐している。マンデーはアスレチックスに入団後、1972年にシカゴ・カブス、1977年にロサンゼルス・ドジャースにトレードされ19年間で通算打率.264、通算本塁打241本の成績で1984年限りで引退した。ドジャース時代の1981年のリーグ優勝決定シリーズ最終戦でモントリオール・エキスポズを相手に9回決勝本塁打を打ったことが記憶されている。そして彼には「史上初めてドラフトで指名された選手」としても記憶されている。

コミッショナーの交代[編集]

第3代コミッショナーのフォード・フリックが1965年9月21日で第2期の任期満了をもって退任した。前年8月にその意向を表明していたので、この年3月の両リーグ合同会議で後継者の選定作業を開始し、156人の候補者(このリストにはリチャード・ニクソンも入っていた)の中から、11月17日に退役軍人で元空軍中将ウィリアム・エッカートを第4代コミッショナーに選出した。エッカートは野球とは全く縁がなくまた野球界の事情にも疎い人物であった。選出の理由はオーナーたちが御しやすいと考えていたことであった。しかしエッカートの選手側と経営側との間で公正な立場で良心的な姿勢を保とうとすることがオーナー側の不興を買い、3年後の1968年11月に任期途中で突如解任された。

この1968年には選手の年金問題と審判の不当解雇問題が絡んで選手側と審判側が経営者側と鋭く対立する状況となっていた最中の出来事で、初めて選手側が1969年のスプリングキャンプをボイコットしてストライキの姿勢を見せて労使間で対立を深めていた時期であった。エッカートの後任は辣腕の弁護士ボウイ・キューンがなり、1966年に選手協会事務局長になったマービン・ミラーとでメジャーリーグは労使対立が長く続く時代に入る。

ミルウォーキー訴訟[編集]

ミルウォーキー・ブレーブスはこの年限りで、次の年にアトランタへ本拠地移動することがシーズン前に発表された。1953年にボストンからミルウォーキーに移ってからリーグ優勝2回(シリーズ制覇1回)して、年間観客動員数は1961年まで9年連続100万人を超え、特に1954年から1957年まで200万人の大台に乗せるなど順調に見えたのだが、1962年以降は100万人を割り込み70万人に落ち込んでいたためアトランタへ移ることになった。ところが本拠地のミルウォーキー市営球場の使用契約がまだ期限に達していなかったことでミルウォーキー市が反発して球団との確執が生じ、8月にミルウォーキー市はブレーブスとナショナルリーグを相手に反トラスト訴訟を起こし、また一方でミルウォーキー市は「ミルウォーキー・ブルワーズ・ベースボールクラブ」を設立してナショナルリーグに加盟申請を行い、この混乱した状態は翌年まで続き、裁判は連邦最高裁まで持ち込まれた。

日本人大リーガー[編集]

サンフランシスコ・ジャイアンツ村上雅則投手は、前年9月に日本人として初めてメジャーデビューを果たしたが、二重契約問題で南海ホークスとサンフランシスコ・ジャイアンツとの間での協議の結果、この年はジャイアンツでプレーして翌1966年には帰国して南海ホークスでプレーすることで決着した。そしてこの年は45試合に登板して4勝1敗8セーブ、防御率3.75の成績を残した。以後1995年に当時近鉄バッファローズの野茂英雄投手がロサンゼルス・ドジャースからデビューするまで、30年間日本人のメジャーリーガーは誕生しなかった。

記録[編集]

  • 8月19日、シンシナチ・レッズのジム・マロニー投手が対シカゴ・カブス戦で10回まで投げてノーヒットノーランを達成した。延長10回での達成は史上4人目である。
  • 9月9日、ロサンゼルス・ドジャースのサンディ・コーファックス投手が対シカゴ・カブス戦で完全試合を達成した。これは前年のジム・バニングに次ぐ史上8人目である。また1962年にノーヒットノーランを初めて達成して以来4年連続4度目でこれはメジャーリーグの最高記録となった(当時)。なお後にノーラン・ライアンがカリフォルニア・エンゼルス時代の1973年から1975年にかけて3年連続4度目のノーヒットノーランを達成して、引退時には7度達成するメジャーリーグ記録を樹立した。
  • ロサンゼルス・ドジャースのサンディ・コーファックスが、この年にシーズン382の奪三振記録を作り、これはメジャーリーグの新記録であった。8年後の1973年にカリフォルニア・エンゼルスのノーラン・ライアンが奪三振383の新記録を樹立したが、コーファックスの記録は現在でもナショナルリーグの最高記録である。

最終成績[編集]

レギュラーシーズン[編集]

アメリカンリーグ[編集]

チーム 勝利 敗戦 勝率 G差
1 ミネソタ・ツインズ 102 60 .630 --
2 シカゴ・ホワイトソックス 95 67 .586 7.0
3 ボルチモア・オリオールズ 94 68 .580 8.0
4 デトロイト・タイガース 89 73 .549 13.0
5 クリーブランド・インディアンス 87 75 .537 15.0
6 ニューヨーク・ヤンキース 77 85 .475 25.0
7 ロサンゼルス・エンゼルス 75 87 .463 27.0
8 ワシントン・セネタース 70 92 .432 32.0
9 ボストン・レッドソックス 62 100 .383 40.0
10 カンザスシティ・アスレチックス 59 103 .364 43.0

ナショナルリーグ[編集]

チーム 勝利 敗戦 勝率 G差
1 ロサンゼルス・ドジャース 97 65 .599 --
2 サンフランシスコ・ジャイアンツ 95 67 .578 2.0
3 ピッツバーグ・パイレーツ 90 72 .556 7.0
4 シンシナティ・レッズ 89 73 .549 8.0
5 ミルウォーキー・ブレーブス 86 76 .531 11.0
6 フィラデルフィア・フィリーズ 85 76 .528 11.5
7 セントルイス・カージナルス 80 81 .497 16.5
8 シカゴ・カブス 72 90 .444 25.0
9 ヒューストン・アストロズ 65 97 .401 32.0
10 ニューヨーク・メッツ 50 112 .309 47.0

オールスターゲーム[編集]

  • ナショナルリーグ 6 - 5 アメリカンリーグ

ワールドシリーズ[編集]

  • ツインズ 3 - 4 ドジャース
10/6 – ドジャース 2 - 8 ツインズ
10/7 – ドジャース 1 - 5 ツインズ
10/9 – ツインズ 0 - 4 ドジャース
10/10 – ツインズ 2 - 7 ドジャース
10/11 – ツインズ 0 - 7 ドジャース
10/13 – ドジャース 1 - 5 ツインズ
10/14 – ドジャース 2 - 0 ツインズ
MVP:サンディー・コーファックス (LAD)

個人タイトル[編集]

アメリカンリーグ[編集]

打者成績[編集]

項目 選手 記録
打率 トニー・オリバ (MIN) .321
本塁打 トニー・コニグリアロ (BOS) 32
打点 ロッキー・コラビト (CLE) 108
得点 ソイロ・ベルサイエス (MIN) 126
安打 トニー・オリバ (MIN) 185
盗塁 バート・キャンパネリス (KCA) 51

投手成績[編集]

項目 選手 記録
勝利 マッドキャット・グラント (MIN) 21
敗戦 ビル・モンブケット (BOS) 18
デーブ・モアヘッド (BOS)
ジョン・オドナヒュー (KCA)
防御率 サム・マクダウェル (CLE) 2.18
奪三振 サム・マクダウェル (CLE) 325
投球回 メル・ストットルマイヤー (NYY) 291
セーブ ロン・クライン (WS2) 29

ナショナルリーグ[編集]

打者成績[編集]

項目 選手 記録
打率 ロベルト・クレメンテ (PIT) .329
本塁打 ウィリー・メイズ (SF) 52
打点 デロン・ジョンソン (CIN) 130
得点 トミー・ハーパー (CIN) 126
安打 ピート・ローズ (CIN) 209
盗塁 モーリー・ウィルス (LAD) 94

投手成績[編集]

項目 選手 記録
勝利 サンディー・コーファックス (LAD) 26
敗戦 ジャック・フィッシャー (NYM) 24
防御率 サンディー・コーファックス (LAD) 2.04
奪三振 サンディー・コーファックス (LAD) 382
投球回 サンディー・コーファックス (LAD) 335⅔
セーブ テッド・アバーナシー (CHC) 31

表彰[編集]

全米野球記者協会(BBWAA)表彰[編集]

表彰 アメリカンリーグ ナショナルリーグ
MVP ソイロ・ベルサイエス (MIN) ウィリー・メイズ (SF)
サイヤング賞 -- サンディー・コーファックス (LAD)
最優秀新人賞 カート・ブレファリー (BAL) ジム・ラフィーバー (LAD)

ゴールドグラブ賞[編集]

守備位置 アメリカンリーグ ナショナルリーグ
投手 ジム・カート (MIN) ボブ・ギブソン (STL)
捕手 ビル・フリーハン (DET) ジョー・トーリ (ML1)
一塁手 ジョー・ペピトーン (NYY) ビル・ホワイト (STL)
二塁手 ボビー・リチャードソン (NYY) ビル・マゼロスキー (PIT)
三塁手 ブルックス・ロビンソン (BAL) ロン・サント (CHC)
遊撃手 ソイロ・ベルサイエス (MIN) レオ・カーデナス (CIN)
外野手 カール・ヤストレムスキー (BOS) カート・フラッド (STL)
トム・トレッシュ (NYY) ロベルト・クレメンテ (PIT)
アル・ケーライン (DET) ウィリー・メイズ (SF)

その他表彰[編集]

表彰 アメリカンリーグ ナショナルリーグ
カムバック賞 ノーム・キャッシュ (DET) バーノン・ロー (PIT)
最優秀救援投手賞 エディ・フィッシャー (CWS) テッド・アバーナシー (CHC)
ハッチ賞 ミッキー・マントル (NYY) -
ルー・ゲーリッグ賞 - バーノン・ロー (PIT)
ベーブ・ルース賞 - サンディー・コーファックス (LAD)

アメリカ野球殿堂入り表彰者[編集]

ベテランズ委員会選出

出典[編集]

  • 『アメリカ・プロ野球史』第7章 拡大と防衛の時代≪新人選手選抜会議≫ 210-211P参照  鈴木武樹 著 1971年9月発行 三一書房
  • 『アメリカ・プロ野球史』第7章 拡大と防衛の時代≪エッカートとミルウォーキー訴訟≫ 214-215P参照
  • 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1965年≫ 123P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
  • 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1965年) 108P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
  • 『メジャー・リーグ球団史』≪ロサンゼルス・ドジャース≫ 295P参照 出野哲也 著  2018年5月30日発行 言視社 
  • 『メジャー・リーグ球団史』≪ミネソタ・ツインズ≫ 3434P参照
  • 『メジャー・リーグ球団史』≪サンフランシスコ・ジャイアンツ≫ 553P参照
  • 『スラッガー 8月号増刊 MLB歴史を変えた100人」≪リック・マンデー≫ 88P参照 2017年8月発行 日本スポーツ企画出版社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]