ジョー・ペピトーン

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ジョー・ペピトーン
Joe Pepitone
Joe Pepitone 2009.jpg
2009年7月19日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク市ブルックリン区
生年月日 (1940-10-09) 1940年10月9日(77歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
初出場 MLB / 1962年4月10日
NPB / 1973年6月20日
最終出場 MLB / 1973年5月25日
NPB / 1973年8月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ニューヨーク・ヤンキース (1982)

ジョゼフ・アンソニー・"ジョー"・ペピトーンJoseph Anthony "Joe" Pepitone, 1940年10月9日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手内野手)。

経歴[編集]

メジャーリーグ時代[編集]

ニューヨークブルックリン区生まれ。

1962年に地元のMLBチーム、ニューヨーク・ヤンキースに入団。地元出身の天性のホームランバッターということもあり、地元ファンから「ミッキー・マントルの後継者」と期待され、1964年のワールドシリーズの第6戦で満塁本塁打を放つなど、1966年までは打率こそ低いもののなかなかの成績を残していた。また3度ゴールドグラブ賞を獲得するなど、一塁手としての守備力には高い評価がされていた。

しかし、もともと確実性に欠けるうえに選球眼もよくないことから、1967年以降は下降線を辿り、期待外れの成績しか残せなくなる。その上、天衣無縫の遊び人であるため、グラウンド外でトラブルを起こすようになり、さすがに球団も見限って1969年シーズンを最後に所属契約を解除される。その後、ヒューストン・アストロズシカゴ・カブスアトランタ・ブレーブスと球団を転々とする。

ヤクルト時代[編集]

1973年、日本のヤクルトアトムズは、助っ人外国人選手として活躍してきたデーヴ・ロバーツアルト・ロペスの2人に衰えが見え、シーズン中盤に入って対応策を検討していた。

そして6月16日、ヤクルトは「日本人以上の日本人」とまで言われた人格者ロバーツを所属契約解除し、その代わりにペピトーンを、メジャーリーグ時代のトラブルメーカー振りについて全く調査しないまま獲得した。

ペピトーンは6月20日に初来日。3日後の対巨人11回戦(後楽園)の6回表に決勝タイムリーを放ち、その打棒に期待をさせたが、球団が「ペピトーン・デー」と位置付けた6月30日の対中日12・13回戦ダブルヘッダー神宮)の第2試合を欠場。そのまま夫人(当時)との離婚裁判に出席を理由に無断帰国してしまい、解決後の8月8日に再来日。しかし、それから10日少ししか経たない8月19日の対阪神22回戦(神宮)を最後に、アキレス腱を痛めて欠場。であるにもかかわらず当時赤坂にあったディスコ「ビブロス」にて足の痛みを忘れたかのように朝まで踊り狂っている様子を何度も目撃されており[1]、球団関係者からはペピトーンのアキレス腱痛は病院へ行けば行くほど悪化していったと皮肉られる有様であった。このような経緯で勝手に自分のシーズンを『終了』してしまい、9月12日には治療名目で無断帰国した。

しばらく部屋を共にしていたクリート・ボイヤー(ヤンキース時代の同僚で、当時大洋ホエールズに所属)の手元に1500ドル以上にのぼるアメリカへの長距離電話代と1000ドル以上の雑費の請求書を残しヤクルト球団がその支払いの肩代わりをする羽目になる[1]など私生活の面でもトラブルが絶えず、また練習嫌いで、仮病を使って休むことも多かった[2]。あまりのわがまま振りに、当時の三原脩監督は「ペピトーンを来期の戦力に加えないように」とフロントに告げたが、翌年も在籍[3]。その理由は球団が代理人と「たとえ成績が悪くとも途中で契約を解除できない」という内容の2年契約を結んでいたためである[4]。だが、裏側では球団の調査不足が発覚し、その結果としてファンからの球団フロントへの批判が起きることを恐れたという要因もある。

しかし、ペピトーンは2年目の1974年も、オープン戦が始まっても来日しなかった。球団から「球団指定日(3月15日)までに来日しないと所属契約を解除する」と最後通牒を突きつけられても来日せず、さらにようやく連絡が取れた際、ペピトーンは前年来日時の荷物輸送料金と犬の空輸料金を要求。ヤクルトは結局、3月20日コミッショナー事務局に任意引退選手公示申請をして契約解除し、ヤクルトを退団した(3月21日に公示)。

かくして、ペピトーンは、日本で大した成績を残すこともなく、「日本プロ野球史上最悪の外国人選手」という悪しき評価のみを、日本のプロ野球史に残すことになった。当時の日本の野球ファンはペピトーンのことをダメ男の代名詞として笑いの種にしていたほどであった[1]

ヤクルト退団後[編集]

その後ペピトーンの代理人である弁護士が、コミッショナーを通じて「前夫人への慰謝料を払うためにメジャーに復帰したいが、任意引退選手では球団の許可が必要だから、自由契約にしてほしい」という旨の要求を出してきた。ヤクルトは任意引退選手にした関係で、それ以降外国人選手を1人[5]しか獲得できず、事実上の全枠使いきり(任意引退選手の保有権は前年所属球団にある)状態となり、新外国人を獲得できなかったという事情もあって了承し、ペピトーンはMLBへの復帰を目指して動き始めた。

ペピトーンは帰国翌年の1974年にニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで激しく日本を批判した。「私は毎日、夜中の3時にベッドの傍らにひざまづき、神様、どうか私をこの日本で死なせないで下さい、と祈った。英語の喋れる人間はいなくて、タクシーに乗っても行く先を理解させるのは一苦労。しかも球団の提供したマンションのドアの高さはたった4フィート5インチ(約1m31cm)しかなく、出入りは大変。しかも球団が払ってくれたとはいえ、この家賃が2000ドル(60万円)もする。東京は物価が高くて非常に生活しにくい。アメリカでは安いマクドナルドハンバーガーが1個5ドル(1500円)にもなる。妻が本国に帰った後はその電話代だけで1ヶ月1800ドル(54万円)も掛かった。あまりの酷さに、帰国して、飛行機がカンザスシティに着いた時、思わず大地にキスをした」など。太平洋クラブライオンズマーティ・キーナート企画広報室長はこれに「あんな奴は我々アメリカ人の面汚しだ」と憤慨し、「英語を理解する者がいないと言うが、そんな事は大嘘。どこに言っても言葉は通じる。今や日本では、英語は第2の母国語といった感じになっている。ドアの高さがたった4フィート5インチと言うが、そんな酷いマンションは見た事が無い。もしあったら見せてもらいたいぐらいである。マグドナルドのハンバーガーも確かにアメリカと比べれば高いが、それでも50セント(150円)から90セント(270円)くらいで、5ドルとは程遠い。電話代1800ドルなんて言うけど、それはきちんと自分で払った人間が言う言葉だ。現に彼はボイヤー(クリート・ボイヤー)家で使った電話のツケを1000ドル(30万円)も溜めているそうだ。日本の野球をブッシュ(草野球)なんて貶しているが、ペピトーン自身こそがブッシュなのだ」と結ぶ反論をニューヨーク・タイムズ紙とMLB24球団全部に送った[6]

アメリカ球界でも、日本で起こした数々の問題行動は広く知られるところとなり、またこのことが原因となって、日本球界全体に外国人選手排除の雰囲気が広がっているという情報が各方面から伝聞されるに至り、疑問、懸念を大きく持たれていた。そのため、ペピトーンはマイナーも含めたMLB各球団に入団希望を打診するもことごとく拒否され、MLBへはついに復帰できることなく野球選手としてのキャリアを終えた。1982年6月、古巣ヤンキースのバッティングコーチに就任するもシーズン終了後に所属契約を解除され、それ以降は球界に復帰することがなかった。

その後もコカインの不法所持で服役したり、の不法所持、暴行、飲酒運転などで繰り返し逮捕され、近年では1995年に飲酒運転で逮捕されている。また、離婚歴が3度あり、おもに度々繰り返す不祥事によってその消息が伝えられることが多い。現在は地元のニューヨーク郊外に住み、サイン会などでメディアに時々出るようになっている。2011年には始球式を行った。

なお、ペピトーンが日本で繰り広げた問題行動について、MLB側でも真剣に懸念した者は少なくない。とりわけこの日米関係の悪化を懸念した者としてロサンゼルス・ドジャースピーター・オマリー会長が挙げられ、彼は性格的にこの状況下での日本行きを任せられる選手としてチャーリー・マニエル1976年入団)を選び、ヤクルトへと委譲した。マニエルは1年目こそ振るわなかったものの、日本の野球に慣れた2年目からは大車輪の活躍を遂げ、1978年にはヤクルト初の日本一に貢献するなど、ペピトーンの残した不信感を払拭して余りある成果を残した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1962 NYY 63 141 138 14 33 3 2 7 61 17 1 1 0 0 3 0 0 21 5 .239 .255 .442 .697
1963 157 615 580 79 157 16 3 27 260 89 3 5 0 5 23 2 7 63 10 .271 .304 .448 .752
1964 160 647 613 71 154 12 3 28 256 100 2 1 2 5 24 7 3 63 17 .251 .281 .418 .698
1965 143 580 531 51 131 18 3 18 209 62 4 2 3 1 43 11 2 59 12 .247 .305 .394 .699
1966 152 621 585 85 149 21 4 31 271 83 4 3 0 5 29 6 2 58 14 .255 .290 .463 .753
1967 133 545 501 45 126 18 3 13 189 64 1 3 3 4 34 4 3 62 16 .251 .301 .377 .678
1968 108 421 380 41 93 9 3 15 153 56 8 2 0 3 37 9 1 45 7 .245 .311 .403 .714
1969 135 546 513 49 124 16 3 27 227 70 8 6 0 2 30 11 1 42 13 .242 .284 .442 .726
1970 HOU 75 299 279 44 70 9 5 14 131 35 5 2 0 1 18 9 1 28 7 .251 .298 .470 .767
CHC 56 234 213 38 57 9 2 12 106 44 0 2 4 2 15 2 0 15 2 .268 .313 .498 .811
'70計 131 533 492 82 127 18 7 26 237 79 5 4 4 3 33 11 1 43 9 .258 .304 .482 .786
1971 115 460 427 50 131 19 4 16 206 61 1 2 2 3 24 8 4 41 14 .307 .347 .482 .830
1972 66 233 214 23 56 5 0 8 85 21 1 2 0 3 13 4 3 22 4 .262 .309 .397 .706
1973 31 122 112 16 30 3 0 3 42 18 3 1 0 1 8 0 1 6 1 .268 .320 .375 .695
ATL 3 12 11 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 1 2 .364 .417 .364 .780
'73計 34 134 123 16 34 3 0 3 46 19 3 1 0 1 9 0 1 7 3 .276 .328 .374 .702
1973 ヤクルト 14 49 43 1 7 0 0 1 10 2 0 0 0 0 5 3 1 7 0 .163 .265 .233 .498
MLB:12年 1397 5476 5097 606 1315 158 35 219 2200 721 41 32 14 35 302 73 28 526 124 .258 .301 .432 .733
NPB:1年 14 49 43 1 7 0 0 1 10 2 0 0 0 0 5 3 1 7 0 .163 .265 .233 .498

表彰[編集]

MLB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 25 (1962年 - 1969年)
  • 9 (1970年 - 同年途中)
  • 8 (1970年途中 - 1973年途中)
  • 7 (1973年途中 - 同年途中)
  • 5 (1973年途中 - 同年終了)

脚注[編集]

  1. ^ a b c ロバート・ホワイティング著・松井みどり訳『菊とバット 完全版』246-247頁、早川書房、2005年1月20日
  2. ^ 8月14日の巨人戦では「帰国していた間、バッティング練習をしすぎて手にマメができた。痛くてバットを握れない」、8月20日の阪神戦では「前日の試合で外野を守った時、右アキレス腱が炎症を起こした」という理由で休んだ。同僚に「大リーガーが外野守備で怪我するなんて」と陰口を叩かれると、「実は外野守備練習の際、芝のくぼみに足をとられた」と理由を変更した。
  3. ^ ロペスはその年契約解除となる。
  4. ^ ペピトーンの契約を破棄して、キューバイサシ内野手とレッドソックスカール・ヤストレムスキー外野手を獲得しようとする動きはあったが、獲得交渉は決裂した。
  5. ^ 前年太平洋クラブでプレーしていたロジャー・レポーズ
  6. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 232-233. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]