田代富雄

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田代 富雄
読売ジャイアンツ コーチ #72
T tashiro20140913.jpg
西武ドームにて(2014年、楽天コーチ時代)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県小田原市
生年月日 (1954-07-09) 1954年7月9日(63歳)
身長
体重
185 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1972年 ドラフト3位
初出場 1976年4月4日
最終出場 1991年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手内野手)、監督コーチ解説者

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

小田原市立酒匂小学校在学時にソフトボールを始め、小田原市立酒匂中学校在学時に野球部に所属し、当初は投手で、4番打者でエースだった[1]。当初両親は小田原市内の相洋高校へ進学させようとしていたが、藤沢商業高等学校の金子裕(野球部監督)の説得により特待生条件で同校へ進学し、1年生の5月から4番打者となり、2年生の時に野手三塁手)へ転向[1]

高校通算42本塁打を放ち、1971年夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、大塚喜代美(三協精機-日本鋼管-ライト工業)、土屋恵三郎のバッテリーを擁する桐蔭学園に惜敗[1]。桐蔭学園は甲子園で全国制覇を果たす[2]。翌年も県予選4回戦で敗退し、甲子園出場はならなかった[1]

高校卒業後は大学進学を考えていたが、高校3年の秋に父親が54歳で死去したため、野球で一家の生活を支えるためにプロ野球および社会人野球志望となった[1]

現役時代[編集]

1973年のドラフト3位で大洋ホエールズが指名し、当初の契約金700万円・年俸100万円の提示に対し「この額であればノンプロ(社会人野球)へ行く」と伝え、交渉の結果、契約金800万円・年俸120万円で入団し、契約金は母親へ全額渡した[1]。背番号は生涯26番だった。

入団後2年間は二軍で、1975年イースタン・リーグで首位打者と打点王になったが、秋山登監督の評価は「3年目だ。これ以上の伸びしろはない。」というものだったため、一発のある三塁手の補強を望んでいた読売ジャイアンツ高田繁を左翼から三塁にコンバートしたが、前例なく心配されていた)が、田代のトレードを大洋に打診したものの、クリート・ボイヤーヘッドコーチが「田代は近い将来、クリーンアップを打てる。俺は来年、彼を一軍に推薦する。」と意見してトレードを止めた[1]

1976年の開幕に一軍初昇格し、開幕2試合目の4月4日にスタメン起用されて初打席で初安打を放った[1]1977年4月に初の開幕スタメンとなり、開幕から5試合連続を含む11本塁打、打率.388、20打点で月間MVPを獲得すると、三塁手のレギュラーに定着し、監督(長嶋茂雄)推薦でオールスターゲームに出場した[1]。この年は、130試合フル出場。持ち前の長打力を発揮した。

1979年には、4月7日の開幕戦でリーグ初となる3打席連続本塁打を放つ[1]など主力として[3]チームの2位躍進に貢献。1980年には自己最多の36本塁打を記録。1983年には横浜スタジアム初の場外ホームランを放っている[1]

現役前半は主に三塁、後半は一塁を守る事が多かった。1980年から6年連続20本塁打以上、1977年から10年連続2桁本塁打の記録を残し、大洋の主砲として活躍。

1986年6月18日の対広島東洋カープ戦にて一塁の守備中、打者走者の正田耕三と激突し左手首骨折[1]。その故障以後、打撃成績は下降。

1989年は一軍定着後初めて本塁打なし、1990年は3本塁打で、そろそろ潮時と感じ、引退の意思を打ち明けられた妻は、かねて計画していたラーメン屋の開店準備を始めたが、1991年に就任した監督の須藤豊監督と打撃コーチの大杉勝男から説得されて現役を続けた[1]

1991年10月10日、引退試合となった対阪神タイガース最終戦(横浜スタジアム)に3年ぶりに先発出場し、第2打席で葛西稔から満塁本塁打を放った[3]。この本塁打は、この年田代が放った唯一の安打で、当初は試合の最後まで出場する予定だったが、この満塁本塁打を最後の打席とするために途中交代した[3]

引退後[編集]

1992年から1996年まで、テレビ神奈川ニッポン放送解説者をする傍ら、ラーメン好きが高じて茅ヶ崎市の自宅でラーメン店「田代ラーメン」を経営[1]。味で勝負するために、現役時代の写真や、来店する選手の写真・サインなどは一切置かなかった[1]。テレビ東京系『浅草橋ヤング洋品店』の人気コーナー「お料理水戸黄門」で取り上げられ、加藤博一と共に出演した。1997年より大洋の後身である横浜ベイスターズ二軍(2000年に「湘南シーレックス」と改称[4])打撃コーチに就任し、それと相前後してラーメン店は廃業した。

2001年までは湘南シーレックス打撃コーチ、2002年は一軍打撃コーチを務め、2003年は再び湘南シーレックス打撃コーチ、2004年から2006年は一軍打撃コーチを務めた後、2007年からは湘南シーレックス監督に就任した。

2009年5月18日、横浜ベイスターズの監督である大矢明彦の無期限休養に伴い、一軍監督代行に就任(通常はヘッドコーチが代行するが、オーナーの方針で、前年までヘッドコーチであった弘田澄男の後任を置かず空席としていた)[1]。この際に田代は、高木由一のヘッドコーチ就任を球団へ要望したが却下された[1]。同年5月20日ロッテ戦で監督代行として初白星を挙げた。しかし、チームを立て直すことはできず、5位と16ゲーム差も離れた最下位でシーズン終了となり、一軍監督代行を退任した。

湘南シーレックス監督時代
(2010年8月15日、横須賀スタジアム)

2010年からは再び湘南の監督に復帰し、背番号は「76」から「78」に変更した。横浜球団は田代に対して来季からのフロント入り(編成担当)を打診したが、田代は「現場にこだわりがあり、背広は似合わない」と固辞した為、その季限りで横浜球団を退団する運びとなった。尚、シーズン最終戦まで指揮は執り9月27日退団した[5]

コーチとして、多村仁志金城龍彦内川聖一村田修一吉村裕基下園辰哉筒香嘉智といった野手を育てた[1]。指導を受けた古木克明は「田代さんは本当に信頼できる人でした。指導もシンプルでわかりやすいし、全部押し付けないで自分で考えるきっかけを与えてくれる。何よりも人間性ですね。やっぱり、言葉一つとっても愛があるんです」と述べている[6]

2011年韓国KBOSKワイバーンズのコーチに就任[7]。だがシーズン中の8月18日、監督の金星根解任とともにSKのコーチを辞任した。

2012年東北楽天ゴールデンイーグルス入りし、二軍打撃コーチを担当。2013年からは一軍打撃コーチを務める。銀次枡田慎太郎島内宏明岡島豪郎を育て[8]ケーシー・マギーにはスポンジボールを打たせる指導法で復活させ[9]、同年のリーグ優勝・日本一に貢献した。2014年限りでの退任を表明していたが球団と監督の星野仙一からの強い説得で辞意を撤回し残留することになった[10]2015年7月30日、辞任。シーズン中の辞任は異例で、理由については、打撃不振の責任を取ったためとされているが、サンケイスポーツと東京スポーツはオーナーの三木谷浩史による現場への介入に不満がたまったことが最大の理由と報じている[11][12]。田代を取材したことがあるスポーツライター・赤坂英一によると、2014年の件についても三木谷への不満が理由とされている[12]

2015年10月29日に、読売ジャイアンツ(巨人)ファーム巡回打撃コーチに就任することが発表された。巨人では、二軍に加えて、2016年から新設される三軍の打撃指導も担当する[13]。GMの堤辰佳は「人間的にしっかりした方。技術だけじゃなく、野球選手じゃなくなったときに、社会人としてどうするかを指導できる方。人間教育ができる。ファームを任せて、十分な能力を発揮してくれる」と田代のその人柄にほれ込んだ[14]。3月29日、二軍打撃コーチの二岡智宏が入院休養の間二岡の不在期間二軍打撃コーチ務める[15]2017年からは、二軍打撃コーチに配置転換される。

人物[編集]

ニックネームの「オバQ」は、プロ入り当初、間の抜けた受け答えをした田代に対して、沖山光利二軍打撃コーチが「おまえはオバQみたいな性格してるな」と表現したことに由来する[1]。また、別のニックネームとして、自身の打撃フォームから「アジの開き」とも呼ばれた。

大洋では松原誠と双璧をなす長距離打者で、滞空時間の長い放物線を描くホームランを量産した。全盛期の横浜大洋初期時代に、球団の制度でヘルメットの横に打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を付けていたが、その星印が上の方(頭頂部)に近いぐらいになる程であった。

一方で「人間扇風機」とあだ名が示すように、打率は低く、3度のシーズン最多三振を喫するなど三振の多い打者(通算1081三振)でもあった。

長く大洋の主力選手として活躍しながら、一軍ではベストナインゴールデングラブ賞も含めてタイトルを獲得していない(この時期の同じサードで阪神の掛布雅之や広島の衣笠祥雄というセ・リーグの看板選手がいたため)。また優勝も現役時代は経験していない。オールスターゲームは1977年の一度のみ出場(1980年は選出されたが怪我により出場辞退)。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1976 大洋 89 247 235 18 60 8 1 8 94 21 0 0 2 0 9 0 1 56 5 .255 .286 .400 .686
1977 130 549 484 79 146 25 3 35 282 88 2 4 0 6 52 2 7 118 13 .302 .373 .583 .956
1978 129 527 472 66 136 28 2 27 249 104 1 5 0 6 48 2 1 94 3 .288 .351 .528 .879
1979 124 391 357 41 84 12 2 19 157 54 0 4 1 1 30 2 2 86 14 .235 .297 .440 .737
1980 128 529 472 74 140 22 4 36 278 94 6 8 1 4 50 6 2 104 12 .297 .364 .589 .953
1981 130 540 489 62 131 19 1 30 242 81 8 5 0 7 42 5 2 90 15 .268 .324 .495 .819
1982 124 525 469 66 119 21 2 27 225 83 1 1 1 4 49 4 2 102 10 .254 .324 .480 .804
1983 119 486 442 60 111 23 2 28 222 91 2 0 1 5 35 6 3 88 10 .251 .307 .502 .809
1984 130 543 479 56 125 14 2 21 206 71 4 2 1 6 54 1 3 95 21 .261 .336 .430 .766
1985 110 403 366 44 95 14 1 24 183 68 0 1 0 2 34 1 1 94 9 .260 .323 .500 .823
1986 67 222 200 22 48 9 0 13 96 40 0 2 0 4 17 1 1 52 5 .240 .297 .480 .777
1987 82 243 229 19 56 13 1 5 86 28 4 2 1 0 13 1 0 46 6 .245 .285 .376 .661
1988 46 97 91 5 27 4 0 1 34 16 0 0 0 1 5 0 0 17 5 .297 .330 .374 .704
1989 55 115 106 7 25 4 0 0 29 5 1 0 2 1 6 2 0 21 4 .236 .274 .274 .548
1990 51 74 58 5 17 4 0 3 30 19 0 0 0 3 13 2 0 16 2 .293 .405 .517 .923
1991 12 14 12 1 1 0 0 1 4 4 0 0 0 0 2 0 0 2 2 .083 .214 .333 .548
通算:16年 1526 5505 4961 625 1321 220 21 278 2417 867 29 34 10 50 459 36 25 1081 136 .266 .328 .487 .816
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績[編集]

  • 107試合 38勝69敗 勝率.355

表彰[編集]

  • 月間MVP:2回(1977年4月、1980年5月)

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1980年5月28日、対読売ジャイアンツ10回戦(後楽園球場)、4回表に西本聖から先制2ラン ※史上110人目
  • 150本塁打:1981年9月5日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤ球場)、4回表に郭源治からソロ ※史上62人目
  • 200本塁打:1983年8月5日、対阪神タイガース15回戦(横浜スタジアム)、3回裏に伊藤宏光からソロ ※史上41人目
  • 1000試合出場:1984年5月9日、対広島東洋カープ4回戦(横浜スタジアム)、5番・三塁手として先発出場 ※史上245人目
  • 1000本安打:1984年7月6日、対ヤクルトスワローズ12回戦(横浜スタジアム)、6回裏に高野光から左中間適時三塁打 ※史上131人目
  • 250本塁打:1985年8月16日、対読売ジャイアンツ18回戦(横浜スタジアム)、3回裏に加藤初から2ラン ※史上24人目
  • 1000三振:1987年5月11日、対読売ジャイアンツ6回戦(横浜スタジアム)、8回裏に鹿取義隆から ※史上12人目
  • 1500試合出場:1990年8月4日、対中日ドラゴンズ17回戦(横浜スタジアム)、15回裏に新浦壽夫の代打として出場、山内和宏から単打 ※史上97人目
その他の記録
  • 5試合連続本塁打(1977年4月5日 - 4月10日)
  • オールスターゲーム選出:1回 (1977年)
  • 最多連続試合併殺打 5 (1979年10月21日 - 10月25日) ※日本記録・セ・リーグ記録

背番号[編集]

  • 26 (1973年 - 1991年)
  • 75 (1997年 - 1998年)
  • 76 (1999年 - 2009年)
  • 78 (2010年)
  • 89 (2011年)
  • 82 (2012年 - 2015年)
  • 107 (2016年)
  • 72 (2017年 - )

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 赤坂英一『最後のクジラ:大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』講談社、2013年、ISBN 4062185415
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c 【10月10日】1991年(平3) “オバQ”田代富雄、フィナーレは豪快な満塁本塁打”. スポーツニッポン (2007年10月10日). 2012年12月27日閲覧。
  4. ^ 「湘南シーレックス」は2010年度限りで廃止となり、2011年度より二軍も「横浜ベイスターズ」に統一され、親会社がTBSからDeNAに変更された2012年度より「横浜DeNAベイスターズ」となった。
  5. ^ 横浜・田代2軍監督退任へ 最終戦まで指揮は執る予定”. 夕刊フジ. 2010年9月17日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ 村瀬秀信著4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫)、双葉社、2016年、P306
  7. ^ 横浜退団の田代氏が韓国SKコーチに”. 日刊スポーツ (2010年11月15日). 2011年11月1日閲覧。
  8. ^ コーチを叱る楽天星野の組織マネジメント”. THE PAGE (2013年8月19日). 2013年8月19日閲覧。
  9. ^ 楽天田代富雄打撃コーチ退団 2軍配置転換固辞
  10. ^ 楽天・田代コーチ辞意撤回で残留”. デイリースポーツ (2014年10月4日). 2014年10月4日閲覧。
  11. ^ 楽天・田代打撃C辞任…オーナーの現場介入に「やっていられない」”. サンケイスポーツ (2015年7月31日). 2015年7月31日閲覧。
  12. ^ a b 田代前コーチが激白した「楽天・三木谷オーナーの介入実態」「いびつな構造」”. 東京スポーツ (2015年8月2日). 2015年8月2日閲覧。
  13. ^ 来季の三軍コーチングスタッフについて読売巨人軍公式サイト2015年10月29日配信
  14. ^ 【野球】巨人新コーチ田代富雄氏の人柄 デイリースポーツ2015.10.31
  15. ^ 巨人・二岡二軍打撃コーチが「縦隔腫瘍」摘出手術 1週間程度入院 - 東スポ(2016年3月29日)

関連項目[編集]