吉村裕基

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吉村 裕基
福岡ソフトバンクホークス #6
HAWKS6-YOSHIMURA.jpg
2013年5月4日、福岡 ヤフオク!ドームにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県古賀市
生年月日 (1984-06-14) 1984年6月14日(32歳)
身長
体重
183 cm
97 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 右翼手左翼手一塁手三塁手
プロ入り 2002年 ドラフト5巡目
初出場 2003年10月3日
年俸 5,000万円(2017年)
※2016年から2年契約[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

吉村 裕基(よしむら ゆうき、1984年6月14日 - )は、福岡県古賀市出身のプロ野球選手外野手内野手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1984年福岡県糟屋郡古賀町(現在の古賀市)で生まれる。中学時代は地元の野球チーム「福岡ライナーズ」に所属。東福岡高校時代は甲子園にも出場した。高校通算43本塁打を記録。2002年ドラフト会議において、横浜ベイスターズに5巡目で指名され入団。このドラフトでは、高校の先輩にあたる日本大学村田修一も入団している。

横浜・DeNA時代[編集]

2003年は、イースタン・リーグでは66試合232打数で12本塁打など5番打者として活躍。7月13日にはフレッシュオールスターゲームに選出され7番三塁手で先発出場したが4打席で無安打1四球だった。シーズン終盤の10月3日に一軍に昇格し、同日本拠地横浜スタジアムで行われた対中日ドラゴンズ戦に7番三塁手で先発出場し、迎えた2回の初打席で平松一宏のストレートを打ちプロ入り初安打となる二塁打を放つと直後の相川亮二のタイムリーにより先制点となるプロ初得点も記録、その後は岡本真也の押し出し四球(プロ初打点)、岩瀬仁紀の死球で4打席3出塁のデビューだった。10月4日の対中日戦でも6番三塁手で先発出場し、7回に先頭鈴木尚典のライナーを相手遊撃手の森野将彦がエラーした無死一塁で迎えた第3打席、それまで2三振と抑えられていた野口茂樹のスライダーを左翼席へ運び、プロ入り初本塁打となる勝ち越しツーランホームランで試合を決めた。昇格後の全6試合は全て先発出場だった。

2004年は、開幕は二軍で迎え、71試合277打数17本(リーグ4位)、打率.292(8位)と安定していたため、7月9日に自身2度目のフレッシュオールスターゲーム(大阪ドーム開催)に3番三塁手で先発出場し、初回の1打席目は馬原孝浩から右手に死球を受けたが、2回の2打席目二死二塁の場面で筒井和也からライトにツーランホームランを放った[2]。7月3日に一軍へ昇格し、同日の対中日戦で6回に木塚敦志に代わりプロ初の代打出場となったがファーストへのファールフライだった。7月7日の対読売ジャイアンツ戦では、8回同点二死三塁の場面で土肥義弘の代打として出場するとブライアン・コーリーから勝ち越し決勝打となるライト前タイムリーヒットを放ち、これが代打でのプロ入り初安打、また本塁打以外でのプロ入り初タイムリーとなった。7月16日に離脱していた石井琢朗らの復帰により一軍選手登録を抹消。同日札幌ドームで行われたイースタン・リーグ対巨人戦で先発4番起用されたが、初回の打席で高橋尚成から肩甲骨に死球を受け試合途中で交代した[3]。以降二軍で欠場が続き、8月14日のイースタン・リーグ対北海道日本ハムファイターズ戦で3番三塁手で先発出場して復帰した。9月24日に一軍昇格すると、9月30日の対阪神タイガース戦で代打として一軍復帰出場し、以降の代打起用は無安打、10月11日対中日戦で5番一塁手でスタメン復帰したが4打数無安打、10月15日の対ヤクルトスワローズ戦で代打で1安打1得点したものの復帰後は1安打のみ、年間でも2安打という成績で終わった。

2005年は、4月9日イースタン・リーグでの対日本ハム戦でスタメン出場し、5回に先発中村渉(捕手は渡部龍一)から死球、さらに7回3番手の武田久(捕手は鶴岡慎也)から左手に死球を受け横浜市内の病院で検査の結果、左手第4指中手骨骨折と診断された[4]。6月1日イースタン・リーグ対インボイス戦で代打から復帰し三塁守備に付いた。リーグ10位の10本塁打を放ったが、打率.252と不振で昇格は叶わなかった。2004年の春季キャンプで外野ノックは受けていたが、この年の秋季キャンプから外野の守備練習を本格的に開始した。

2006年は、開幕一軍入りを果たすと、4月19日の対広島東洋カープ戦から2日連続の本塁打、7試合連続安打など好調を維持し8番右翼手としてスタメンに定着。5月3日ナゴヤドームでの対中日戦で佐藤充からソロ本塁打、5月4日も同カードのルイス・マルティネスからソロ本塁打、5月5日横浜スタジアムでの対阪神戦ではエースの井川慶からスリーランホームランと3日連続の本塁打を放った。さらに同日5打席目に久保田智之からヒットを打ち初の猛打賞も記録した。5月7日から5月24日まで13試合連続安打と好調を維持。5月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦では久保康友里崎智也バッテリーからプロ初盗塁を記録。6月2日横浜スタジアムでの対日本ハム戦では橋本義隆からツーランホームラン、清水章夫からスリーランホームランで5打点と初の1試合2本塁打を記録。しかし6月3日対日本ハム戦の7回第4打席に武田久-鶴岡慎也バッテリーから右手に死球を受ける。6月4日横浜市内の病院での検査の結果、右手第2指末節骨骨折と診断され、同日出場選手登録も抹消された。ここまで41試合出場135打数で打率.341、9本塁打、27打点の好成績で新人王争いもしていた中の離脱となり、昨春の二軍戦での左手骨折時のバッテリーとも同じだったこともあり、6月5日の同カードの試合前に日本ハムの高田繁ゼネラルマネージャートレイ・ヒルマン監督が謝罪した[5]。6月30日の東京ヤクルト戦で代打として一軍復帰すると、7月2日の同カードで8回牛田成樹の代打でディッキー・ゴンザレスのスライダーをすくい上げバックスクリーン直撃の10号ソロを放ち、これがプロ入り初の代打本塁打となった。7月4日の対阪神戦で6番一塁手としてスタメン復帰すると8月上旬まで一塁での起用が続いた。7月26日にひたちなか市民球場で行われた対東京ヤクルト戦では6回に先発の藤井秀悟からプロ入り初の満塁本塁打を放った。8月4日からは4番村田修一に続く5番打者を任され、守備では8月12日からは左翼手、8月29日以降は中堅手として起用された。規定打席未満ながら打率.311、26本塁打と活躍したが新人王は惜しくも梵英心に譲り、得票数は2位だった[6]

2007年は、新監督大矢明彦の意向によって、外野手から一塁手にコンバートされ、一塁手で137試合に先発出場、他ポジションにはつかなかった。前年ほどの打率は残せず主に6番で起用された。4月10日に石川雅規、8月7日にセス・グライシンガー(2打席連続)から1試合2本塁打を記録。7月4日、7月7日、7月8日には3試合連続本塁打を放った。6月9日の対千葉ロッテ戦ではこの日まで6勝0敗だった(後に16勝1敗で終える)先発成瀬善久から0対0の同点で迎えた4回裏二死二塁に右中間スタンドへ勝ち越しとなる決勝ツーランホームランを放ち唯一の黒星を付けた。9月1日の対巨人戦、先発の秦裕二が2回表に6失点と0対6で始まった試合、自身以外の味方打者が奮起して同点にもつれこんだ9回、打席に向かう前のベンチ裏で監督の大矢から打ち気にはやる余り、体が突っ込み気味だったことを指摘されると、一死無走者で迎えた第4打席で豊田清フォークボールを低い弾道で左翼席に突き刺し、プロ入り初のサヨナラ打を生涯初のサヨナラ本塁打で決め、6点差からの逆転でチームを勝率5割に復帰させた[7]。開幕から一度も抹消されることなく自身初の規定打席に到達し、ともにチーム2位の24本塁打、85打点を記録した。

2008年は、強肩を生かすため昨秋から再び外野守備に取り組み、同年は佐伯貴弘とポジションを入れ替える形で右翼手のみで出場した。6番右翼手で開幕から先発出場、最初の5試合まで打率.176と不調だったが4月5日から3試合連続本塁打と徐々に調子を上げ、4月16日の対東京ヤクルト戦では1試合5安打を記録(6打数)。4月26日の対広島戦では初回に一死一塁からアレックス・オチョアのライトフライで飛び出した東出輝裕を刺して補殺、 7回村田修一の失策、栗原のヒットで一二塁とすると、続く前田智徳のストライク判定を巡って広島監督のマーティ・ブラウンが退場、前田のヒットで無死満塁として迎えたスコット・シーボルは吉村のいる右翼へ長打性の打球を放つと、二塁走者の栗原健太がアウトになると判断して二塁に戻ったが慌てて進塁、一塁走者の前田は二塁から進めなくなり、打者走者のシーボルは吉村の返球で一二塁間で挟殺(補殺2つ目)、栗原が本塁を狙おうと三塁を大きく回った所でそれを制止しようとした三塁ベースコーチの高信二と接触、これが肉体的援助となり栗原はアウトが宣告され二死二塁から試合再開となった。続く8回二死二塁の場面でアレックス・オチョアが一二塁間を抜けるライト前ヒットを放ったが、吉村のホームへのストライク返球により二塁走者の緒方孝市が本塁アウトとなり、日本タイ記録の1試合3補殺を記録した。村田が北京五輪出場のため離脱した際は、8月3日の対阪神戦からプロ初の4番打者に座り、打率.238だったものの、12試合で出塁率.385、2本塁打11打点と穴を埋めた。9月11日から9月14日まで自己最長の4試合連続本塁打を記録した。最終的には自己最高の34本塁打(リーグ5位)、91打点(同6位)を記録し、低迷するチームの中でも首位打者内川聖一本塁打王・村田、そして吉村と右打者3人が並ぶ強力なクリーンナップは、他チームの脅威となった。外野手部門でリーグ最多タイとなる11補殺を記録した[8]

打撃練習を行う吉村(2009年、阪神甲子園球場)

2009年は、村田の右足肉離れの影響で4月5日から13試合の間4番を打ち、46打数13安打で打率.286だったものの1本塁打4打点4併殺とあまり活躍はできず、4番を外れてからも5月17日の交流戦直前までわずか2本塁打に止まった。5月30日の対オリックス・バファローズ戦の9回一死満塁の場面で代わったばかりの香月良太のストレートをライトスタンドへ運び、満塁本塁打を放ち第3号とし、6月6日の対埼玉西武ライオンズ戦で1試合2本塁打、6月13日から1番打者になると、6月17日からの3試合で4本塁打など交流戦でやや立て直したが、リーグ戦に再び戻ると打率、本塁打共に数字は伸び悩んだ。全144試合出場を果たし、自己最多の13盗塁を記録したが、レギュラー獲得後最低成績となる打率.248、16本塁打、54打点に終わり、2年連続リーグ2位となる134三振も記録した。

6月17日には横浜スタジアムで行われた対オリックス戦で1番右翼手で出場し、2点ビハインドの6回無死三塁の場面で先発金子千尋が初球に投じた変化球をセンターへ運び同点ツーランホームランとすると、これにより2009年4月7日の井口資仁に続く日本プロ野球史上8人目となる「全打順での本塁打」を達成した。[9]

2010年は、開幕から29試合で打率.228、1本8打点と不振が続き、下園辰哉の台頭もあり、5月11日に二軍降格した[10]。6月25日に昇格したが、20試合53打数で打率.170、2本3打点と長い不振から抜け出せず8月8日に出場選手登録を抹消、二軍でシーズンを終えた。打率も大幅に下げ、4年続いた二桁本塁打も途絶えた。

2011年は、2月10日、チーム内に吉村以外に「吉村」姓を名乗る選手・スタッフは在籍していなかったが、この年よりユニフォームの背ネームが、イニシャルを付した"Y.YOSHIMURA"に変更された[11]。4月12日の中日ドラゴンズとの開幕戦で二塁打2本を含む4打数4安打を皮切りに、4月は16試合55打数17安打で打率.309と好調が続くと、5月8日にHARD OFF ECOスタジアム新潟で行われた対阪神戦では2対2の同点で迎えた9回一死無走者の場面で久保田智之の速球を右中間スタンドに運ぶサヨナラ本塁打を放ち、生還の際にでんぐり返しをした[12]。しかし、5月14日からスタメンで6試合連続無安打と再び調子を崩し、6月29日に二軍降格。7月17日に一軍昇格したものの7月18日以降11試合連続無安打を記録するなど、状態が上向くことなくシーズンを終えた。5月以降は165打数27安打で打率.164、3本塁打6打点だった。得点圏打率に至っては.108と極端に低い数字に終わった。

2012年は、開幕は二軍で迎えたが4月30日に昇格し、5月5日の対中日戦では岩田慎司から2打席連続本塁打を記録した[13]。その後も6番右翼手で先発出場していたが、5月10日対巨人戦での4打席連続空振り三振を期に調子を下げ、5月19日にスタメンを外れ、6月30日の代打出場を最後に7月5日に二軍降格、そのままシーズンを終えた。

11月5日、多村仁志神内靖吉川輝昭とのトレードにより、山本省吾江尻慎太郎と共に福岡ソフトバンクホークスへの移籍が発表された。[14]背番号は6[15]

ソフトバンク時代[編集]

2013年は、開幕を二軍で迎えるも、4月27日一軍昇格。QVCマリンフィールドで行われた同日の対ロッテ戦に7番一塁手で出場した第1打席で、横浜DeNA時代に17打数7安打、打率.412と得意にしていた成瀬善久から移籍後初となるソロ本塁打を放った[16]。5月3日の対西武戦では同点で迎えた8回に代わったばかりの大石達也からレフトスタンドへ勝ち越しのソロ本塁打を放ち、これが移籍後本拠地福岡 ヤフオク!ドーム初の本塁打となった。なお、9回に抑えとして登場した岩嵜翔が同点に追いつかれたため決勝打とはならなかった。5月5日から6試合連続安打するなど打率.283、4本塁打と好調が続いていたが、交流戦に入ると37打数5安打、打率.135と結果を残せず、リーグ戦に戻っても無安打が続き7月12日に二軍降格となりそのままシーズンを終えた。10月6日の東京ヤクルトとのファーム日本選手権で5番右翼手として先発出場し、初回二死一二塁の場面で中澤雅人からレフトへ先制タイムリーヒットを放つと、一三塁からのダブルスチールにより明石健志が生還し、2点目に貢献した。残りの3打席は凡退したが、同大会の優秀選手賞の1人に選ばれた[17]。秋季キャンプでは出場機会を増やすため、プロ1年目以来の三塁手の本格的な守備練習を行った[18]

2014年は、開幕は二軍で迎え、ほぼ三塁手としてウエスタン・リーグに出場。5月28日に昇格すると同日古巣の横浜DeNAベイスターズ戦に7番一塁手で先発出場し、3回一死満塁で先発尚成からセンターへ犠牲フライを放ち、これが移籍後初の古巣からの打点となった。8回には国吉佑樹から詰まりながらもレフトにヒットを放ち、これが移籍後初の古巣からの安打となった。5月29日の同カード第2戦(横浜スタジアム)では8回2点ビハインド2死一塁の場面で8番鶴岡慎也の代打として出場し、フルカウントからホルヘ・ソーサが真ん中に投げたスライダーをレフトスタンドへ運び、これがシーズン1号同点ツーランホームラン、移籍後初の代打本塁打、移籍後初の古巣からの本塁打となった。これにより2013年6月5日の相川亮二に次いで史上28人目の全球団から本塁打を達成。[19]。この記録と「全打順での本塁打」を達成した選手は吉村が日本プロ野球史上初となった。 シーズン序盤は主に代打で出場し、交流戦の6月19日から一塁手で出場し始め、7月3日に松田宣浩が右手指の骨折で離脱すると同日の対ロッテ戦から15試合連続三塁手で先発出場し、松田が戻るまで49打数18安打、打率.367と穴を埋めた。7月5日にヤフオクドームで行われた対楽天戦では4打数4安打を記録した。7月9日の対オリックス戦で2回に二塁打で出塁し、二死二塁から東明大貴の暴投で三塁へ進む途中に右ふくらはぎを負傷し、同日福岡市内の病院で検査の結果肉離れと診断され、7月10日に出場選手登録を抹消された[20]。8月14日に一軍に復帰すると、8月末に内川聖一が首を痛め、9月3日に長谷川勇也が足の靱帯を部分断裂した間は4試合右翼手で出場した。内川が復帰した9月9日以降はシーズン終了までほぼスタメン一塁手として出場した。9月3日に首位で迎えたオリックスとの首位攻防戦では6回同点二死満塁から細川亨の代打として出場し、相手のエース金子千尋の高めの直球をセンターへ弾き返す勝ち越し2点タイムリーツーベースを放った。さらに4点リードで迎えた8回無死一塁に海田智行から駄目押しとなるツーランホームランをレフトに放った。9月4日の同カードでは6番右翼手で起用されると0対0同点の4回二死一二塁から西勇輝のカットボールをライトへ運び、連日の決勝打となる先制のタイムリーヒットを放ち、2位のオリックスを突き放した。9月16日のオリックスとの首位攻防戦では7番一塁手として先発出場し、2回同点二死二塁から西勇輝の直球をセンター前先制タイムリーとし、決勝打となった。同カードの9月18日も先発出場し、2点ビハインドの3回に先頭打者で松葉貴大の直球をセンターバックスクリーンに運ぶソロ本塁打を放つと、後の2打席は連続四球となった。10月2日、両チームの優勝がかかったオリックスとのシーズン最終戦でも7番一塁手として先発出場し、2回一死一塁にブランドン・ディクソンからライトへ二塁打を放ち、直後の細川の先制犠牲フライを呼んだ。ペナントレースの代打成績はパシフィック・リーグ最多の9安打、同じく最多の10打点、21度の起用18打数で代打率.500、出塁率.524と抜群の成績を残した。

日本ハムと対戦したクライマックスシリーズファイナルステージでは、全6試合でスタメン出場し、10月15日第1戦では3回に先頭で浦野博司からライトにヒットを放ち柳田悠岐の先制二塁打で生還すると、9回1点ビハインド一死二三塁の場面では増井浩俊の落ち切れなかったフォークボールを仕留め、前進していたセンター陽岱鋼の頭上を越える逆転サヨナラ二塁打を放った[21]。自身のポストシーズン初、移籍後初の福岡 ヤフオク!ドームでのサヨナラ打となった。10月18日第4戦では2回同点一死三塁の場面で木佐貫洋のフォークボールをレフト前へ勝ち越しとなるタイムリーを放つと、これが決勝打となった。10月19日第5戦では2回無死満塁の場面で大谷翔平の直球をレフトへ打ち2点先制となる二塁打を放ったが、8回に五十嵐亮太が同点に追いつかれたため決勝打とはならなかった。10月20日の第6戦では4回1点リード二死一三塁で鍵谷陽平からライトにタイムリーを放つなど、チーム最多となる6打点の活躍で日本シリーズ進出に貢献し、クライマックスシリーズMVPを獲得した[22]

日本シリーズは5戦全てに出場。第1戦、第2戦は代打で結果が出なかったが、10月28日の第3戦で7番指名打者として先発出場すると、2回に藤浪晋太郎から四球を選び先頭で出塁し、今宮健太の犠打で進塁、続く細川亨への7球目が暴投となり、ファウルゾーンを転がる間に二塁から一気に生還した。日本シリーズでの暴投による二塁走者からの一気生還は1999年の日本シリーズ川上憲伸から得点した浜名千広以来15年ぶりとなった[23][24]。6回にも藤浪から先頭打者安打で出塁すると、二死満塁となった場面で安藤優也が内川聖一を三塁前への打球で詰まらせたが、西岡剛の判断ミスによるフィルダースチョイスが発生し、三塁から生還した[25]。12打数2安打で打率.167だったが以上の2得点が勝利へつながりチームの勝利に貢献した。10月30日第5戦では同点の3回にランディ・メッセンジャーからショートへの内野安打でヘッドスライディングした際に左手を負傷したことにより[26]日米野球2014で11月10日に開催される野球日本代表との強化試合に北海道日本ハム・福岡ソフトバンク連合側で選出されていたが[27]、辞退した。突き指と発表していたが、オフの12月10日のV旅行中に左指を骨折していた事を明かした[28]

2015年は、73試合に出場した。

2016年は、4月17日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、4-7で迎えた9回裏・2死1、2塁の場面で代打で登場し、松井裕樹から右翼席に起死回生の同点3ランを放つ。次の打席は、12回裏無死1塁で迎え、戸村健次が投げた高めのボールを左翼席に飛ばし、2打席連続となるサヨナラ2ランを放ち、チームの勝利に大きく貢献した[29]

人物・エピソード[編集]

2004年2月23日(当時19歳)、沖縄・宜野湾市立野球場で行われた韓国・三星との練習試合で2打席連続バックスクリーン弾を放った際に、「ヘラクレスって強そうじゃないですか。『ハマのヘラクレス』って呼んでほしいです」と自ら愛称を提案したが[30]、2004年3月にモンチッチの生誕30周年により東京・原宿の有名玩具店でも女子高生の人気No.1の地位を獲得するキャラクターだったことにあやかり、人懐こい顔に茶色のつんつんヘアという風貌から「ハマのモンチッチ」として横浜球団フロントが売り出し[31]、同年9月18日には限定500個の「ハマのモンチッチ人形」が発売[32]、他には「YB吉村選手モンチッチ キーチェーン」などが発売された[33]

2007年9月1日、前田智徳が2000本安打を達成した同日に自身初のサヨナラ本塁打を放った際に前田と誕生日が同じであることから小学校時代に前田グッズの下敷きとシャープペンシルを愛用していた事を明かした[34]

秋山幸二の大ファンであり、横浜在籍中の2007年、大矢監督の意向でシーズンは一塁手となっていたが秋山への憧れから再び外野挑戦を表明した[35]。2012年11月13日のソフトバンクへの入団会見でも「僕が子供の時にホークスで背番号1をつけてやっていた」と変わらずだった[36]。秋山監督は会見翌日から秋季キャンプに合流させ、異例とも言えるマンツーマン指導を行い、自身も「右肘の使い方や内角球へのヘッドの出し方、右足の軸回転などたくさん教えていただきました。」と語り、2014年のクライマックスシリーズでMVPとなり恩返しすると、「福岡出身の僕にとって、秋山監督はスーパースターです。監督はいつも適切なアドバイスをしてくれます。もう現役をやめられて10年以上経つのに、まだ自分がまるで打席に立っているかのような感覚で言葉を掛けていただける。本当にスゴイと思います。」と語った[37]

2014年9月3日、4日のオリックスとの首位攻防戦で連日の決勝打を放った連日のお立ち台では、2006年8月25日に起きた福岡海の中道大橋飲酒運転事故によって福岡県では飲酒運転撲滅条例が制定されており、自身も故郷福岡の運転が荒いと感じたことから、「皆さん、試合後は何を飲むんですか?僕はまずプロテインを飲みます。皆さんはこれから勝利の美酒を飲むと思います。くれぐれも飲んだら乗るなでお願いします」と飲酒運転撲滅を訴えた[38]。また、この影響で福岡県警日本自動車連盟(JAF)からテレビCMの出演を依頼された[39][40]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2003 横浜
DeNA
6 22 18 2 4 1 0 1 8 3 0 0 0 0 2 0 2 4 1 .222 .444 .808 1.252
2004 10 13 13 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .154 .154 .154 .308
2006 111 416 396 57 123 24 1 26 227 66 5 3 2 2 10 1 6 116 5 .311 .336 .573 .909
2007 141 566 519 69 142 21 4 24 243 85 5 3 3 5 30 1 8 95 16 .274 .320 .468 .788
2008 143 574 530 69 138 30 4 34 278 91 9 5 2 1 30 1 11 135 9 .260 .313 .525 .837
2009 144 588 528 62 131 26 2 16 209 54 13 7 0 4 45 1 11 134 17 .248 .318 .396 .714
2010 49 141 132 12 27 4 0 3 40 11 0 2 1 3 5 0 0 41 5 .205 .229 .303 .532
2011 81 245 220 25 44 8 1 5 69 11 0 1 2 1 15 0 7 59 3 .200 .272 .314 .586
2012 25 72 67 4 14 3 0 2 23 7 0 1 0 0 5 0 0 22 0 .209 .264 .343 .607
2013 ソフトバンク 36 104 93 13 18 0 0 5 33 16 1 0 1 0 7 0 3 23 2 .194 .272 .355 .627
2014 64 192 162 15 48 11 0 5 74 29 1 2 2 3 24 1 1 28 5 .296 .384 .457 .841
2015 73 151 129 12 28 5 2 3 46 15 0 0 0 1 16 2 5 36 1 .217 .357 .325 .681
2016 78 206 177 16 37 4 1 5 58 28 1 1 4 4 14 1 7 46 5 .209 .287 .328 .615
NPB:13年 960 3290 2984 357 756 137 15 129 1310 417 35 25 17 24 203 8 61 744 69 .253 .312 .439 .751
  • 2016年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更

年度別守備成績[編集]


一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2003 - 6 5 7 1 1 .923 -
2004 1 7 0 0 1 1.000 - -
2006 22 174 11 0 9 1.000 - 85 153 3 4 0 .975
2007 138 1270 94 10 103 .993 - -
2008 - - 140 251 11 2 4 .992
2009 - - 144 260 6 4 0 .985
2010 - - 42 71 2 1 0 .986
2011 1 1 0 0 0 1.000 - 60 102 5 3 0 .973
2012 4 19 1 0 1 1.000 - 13 26 1 1 0 .964
2013 9 59 4 1 9 .984 - 16 19 2 1 0 .955
2014 31 202 15 2 16 .991 15 7 22 0 3 1.000 5 9 0 0 0 1.000
2015 22 140 10 1 10 .993 - 10 13 1 0 0 1.000
2016 6 25 3 1 3 .966 - 47 53 2 0 1 1.000
通算 234 1897 138 15 152 .993 21 12 29 1 4 .976 562 957 33 16 5 .984
  • 2016年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 100本塁打:2009年10月3日、対中日ドラゴンズ24回戦(横浜スタジアム)、6回裏に吉見一起から左中間越2ラン ※史上257人目
その他記録
  • 4試合連続本塁打:2008年9月11日 - 14日(11日:対広島東洋カープ戦、12 - 14日:対中日ドラゴンズ戦)
  • 全打順本塁打:2009年6月17日、対オリックス・バファローズ4回戦(横浜スタジアム)、1番・右翼手で出場、6回裏に金子千尋から左越2ラン ※史上8人目(最年少となる24歳で達成、セ・リーグ史上初)

背番号[編集]

  • 31 (2003年 - 2012年)
  • 6 (2013年 - )

登場曲[編集]

  • 「Yeah 3x」Chris Brown
  • 「ボラーレ 〜 Nel Blu, Dipinto Di Blu」「ライフ イズ ビューティフル」「guruguru」ケツメイシ
  • 「NHKテレビ小説あまちゃんのオープニング曲」大友良英
  • 「オリジナル楽曲」大蔵(ケツメイシ)

脚注[編集]

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  1. ^ ソフトバンク吉村は現状維持「1年1年が勝負」 - 野球.日刊スポーツ.2017年1月8日閲覧。
  2. ^ 2004年度フレッシュオールスター・ゲーム 試合結果
  3. ^ 2004年7月16日湘南シーレックスオフィシャルサイト シーノンズレビュー
  4. ^ 2005年4月11日日刊スポーツ紙面
  5. ^ 2006年6月5日カナロコ デイリーベイスターズ
  6. ^ 2006年度 表彰選手 投票結果(最優秀新人)
  7. ^ 2007年9月2日日刊スポーツ紙面
  8. ^ 2008年度 セントラル・リーグ 補殺(外野手)【リーダーズ(守備部門)】
  9. ^ パシフィックリーグ公式サイト 記録メモ(個人打者編)
  10. ^ 吉村が登録抹消、打撃不振で荒治療 2010年5月12日 日刊スポーツ
  11. ^ 「シルバースターグッズ・吉村選手グッズ」セール販売のお知らせ 2011年2月10日横浜DeNAベイスターズ公式サイト
  12. ^ 尾花監督サヨナラで同一カード初の3連勝 2011年5月9日 日刊スポーツ
  13. ^ “観戦両親に届けた…吉村、涙の連発「本当にうれしい」”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年5月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/06/kiji/K20120506003189330.html 2013年4月28日閲覧。 
  14. ^ ソフトB多村 3対3のトレードで古巣復帰
  15. ^ トレード移籍の江尻投手、山本投手、吉村選手が入団会見!
  16. ^ “吉村 1軍合流即、タカ初打席で1号「結果出てよかった」”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月28日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/28/kiji/K20130428005697380.html 2013年4月28日閲覧。 
  17. ^ 2013年プロ野球ファーム日本選手権 表彰一覧
  18. ^ ソフトB吉村三塁挑戦、松田尻に火がつく 2013年11月3日 日刊スポーツ
  19. ^ 吉村、史上初全打順&全球団弾も実らずニッカンスポーツ2014年5月30日配信
  20. ^ 吉村も離脱全治3週間 松田に続き三塁手故障 右ふくらはぎ肉離れ 2014年7月11日西日本スポーツ
  21. ^ 吉村逆転サヨナラ、ソフトB突破率100% 2014年10月16日 日刊スポーツ
  22. ^ “ソフトB吉村MVP チームトップ6打点”. 日刊スポーツ. (2014年10月21日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20141021-1385034.html 2014年10月22日閲覧。 
  23. ^ ソフトB吉村、振り逃げ二塁から一気生還 2014年10月29日 日刊スポーツ
  24. ^ 1999年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)
  25. ^ 虎PS進撃支えてきた堅守崩壊 2014年10月29日 日刊スポーツ
  26. ^ ソフト吉村 左手負傷で侍J戦辞退か 2014年11月3日デイリースポーツ
  27. ^ 佑ちゃん、吉村ら選出 ソフトB&ハム連合メンバー発表 2014年10月25日スポニチ
  28. ^ ソフトB吉村 左手薬指骨折していた 2014年12月12日 日刊スポーツ
  29. ^ 九州男児の底力!ソフトB吉村 9回2死代打同点3ラン&12回劇弾スポニチアネックスより 2016年4月27日閲覧
  30. ^ 2004年2月24日日刊スポーツ紙面
  31. ^ 2004年3月3日スポニチ
  32. ^ 横浜ベイスターズオフィシャルサイト 2004年9月16日発信
  33. ^ 「モンチッチ」公式ホームページ モンチッチNEWS
  34. ^ 2007年9月2日サンスポ
  35. ^ 2007年10月22日カナロコ-神奈川新聞社
  36. ^ ソフトB吉村「故郷のファンに見せたい」 2012年11月14日 日刊スポーツ
  37. ^ スポーツナビ田尻耕太郎2014年10月21日コラム
  38. ^ ソフトB吉村2戦連続で飲酒運転撲滅訴え 2014年9月4日 日刊スポーツ
  39. ^ お立ち台での言葉が評価された鷹のスラッガー…交通安全の顔に抜擢 2015年10月13日SANSPO.COM
  40. ^ ホークス吉村選手が夜間事故防止訴え 県警がCM制作 [福岡県] 2015年1月31日西日本スポーツ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]