中山裕章

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中山 裕章
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 (1967-11-04) 1967年11月4日(50歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1986年5月8日
CPBL / 2002年3月9日
最終出場 NPB / 2001年
CPBL / 2003年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

高知商高では1年生の時、1983年夏の甲子園津野浩の控え投手として出場。準々決勝に進出し、桑田真澄清原和博KKコンビ)のいたPL学園との対戦で、津野をリリーフして甲子園に初登板するが、9-10の接戦で敗れた。

3年生となった1985年、エースとして夏の甲子園に再度出場したが、準々決勝でまたもPL学園の桑田と投げ合い、3-6で敗退、ベスト8で終わった[1]。同年秋、第40回国民体育大会高等学校野球競技優勝の原動力となった[1]。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。

また、大洋時代の監督須藤豊は高校の大先輩にあたり、阪神タイガース藤川球児は中学校・高校の後輩である。

1985年ドラフト会議で、横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、同球団に入団した。

大洋時代[編集]

入団1年目の1986年近藤貞雄監督の下、ルーキーイヤーから一軍で活躍した。

プロ入り3年目の1988年古葉竹識監督の下、最速150km/hを記録する速球・フォークボールを武器に、リリーフエースを務め、リーグ最多の70試合に登板した。同年は10勝24セーブを挙げ、救援投手ながら規定投球回に到達する活躍を見せたほか、オールスターゲームでは2戦連続で勝利投手となった。

右投げの速球派投手として活躍した中山は[1]、高校の大先輩・須藤豊が監督に就任した1990年・翌1991年開幕投手を務め、1990年にはオールスターゲームに2度目の出場を果たした[1]

プロ入りから、1991年シーズン終了までの6年間で、32勝53敗44セーブを挙げ[1]、エース級投手として活躍していた[2]

シーズン終了後の1991年12月6日、翌1992年度の契約について、現状維持の年俸2650万円(推定)で契約更改していた[3]

また、1990年から、当時21歳の女性と婚約し、1991年オフに挙式する予定だった[4]。しかし、同年は成績不振だったため、中山は巻き返しを期して、1992年オフに延期していた[4]

これに加え、横浜市緑区内に、1991年10月、約1億1800万円、2階建ての新築住宅を建て[5]、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉も含め、5人で新生活を送っていた[4]

1991年11月12日、少女へのわいせつ事件[編集]

※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。

しかし、その直後の1991年11月12日午後3時10分頃、神奈川県横須賀市内の横浜大洋ホエールズ総合練習場から、横浜市緑区内の自宅に車で帰宅していた途中、横浜市金沢区の住宅街路上で、小学5年生(当時11歳)の少女に対し、スカートの上から体を触るなど、わいせつな行為をした[2][1]

その5分後、同じ場所で、帰宅途中の幼稚園女児(当時6歳)に対し[2]、下着を脱がせるなど[1]、わいせつな行為をした[2][1]

横浜市内では、同年秋ごろから、女児への連続強制わいせつ事件が発生していたことから[6]神奈川県警察が捜査本部を設置し[6]、12日の事件を同一犯の仕業とみて[1]、被害が多発した時間帯に、現場付近を捜査員が警戒するなど、張り込み捜査を進めていた[6]

その結果、事件2日後の11月14日午後3時頃、白とグレーのベンツに乗った男が、現場付近を約15分間うろついたり[2]、女児に声を掛けたりするなど[1]、不審な行動をしているのを[6]、捜査員が目撃し[2][6]、追跡捜査した[1]

その車のナンバープレートから、中山が捜査線上に浮上した[6]

その後も、同月中に4回、中山が現場に現れたのが目撃されたため[2]、神奈川県警が、被害者の子どもたちに中山の顔写真を見せたところ、証言から「中山に間違いない」との結論が出た[6]

1991年12月25日、神奈川県警に逮捕される[編集]

これを受けて捜査本部は、1991年12月25日朝から、中山を任意同行した上で追及したところ[6]、中山は、1991年11月12日の2事件について、容疑を認める供述をした[2][6]

このため、神奈川県警捜査一課・金沢警察署は、1991年12月25日夕、強制わいせつなどの疑いで、中山を逮捕した[2][6][1]

取り調べに対し、中山は「11月上旬、腰などを痛めたため、沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず、欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと、自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので、小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した[2][6][1]

逮捕を受けて同日夜、大洋球団代表・桜井薫が、横浜市中区内の球団事務所で会見し、「青少年に夢を与えるプロ野球選手が、このような事件を起こしてしまい、誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても、管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」という、球団社長・岡崎寛のコメントを読み上げた[2][6]

逮捕を受けた各界の反応[編集]

事件当時、中山は「金太郎」の愛称で親しまれ、「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから、球界でも屈指の好青年として通っていた[2]

また、大洋球団も、川崎球場(同県川崎市川崎区)からの本拠地移転時、当時の横浜市長飛鳥田一雄らが市民球団として誘致し、1978年横浜スタジアム完成後、本拠地球場として使用を開始した経緯があった[7]

それ以降、球団ファンクラブの「友の会」会長は、歴代の横浜市長が務めており、毎年秋の球団ファン感謝デーには市長が出席し、ペナントレースの開幕戦でも、市長が始球式をするなど、市を挙げて応援してきた球団だった[7]

それだけに、現役スター選手が性犯罪で逮捕されたこの事件は、大洋球団のみならず、地元・横浜市の高秀秀信市長が「ファンとして、将来の大洋ホエールズをしょって立つ若手投手として期待していただけに、事実とすれば非常に残念だ。市長としては、子供に対するそういう事件は、市内で起きてはならないことと思う」[7]日本野球機構吉國一郎コミッショナーが「驚いた。事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。球団などからはまだ事情を聴いていないが、甚だ遺憾の一言だ」と、それぞれ声明を出した[2]

また、神奈川県民・横浜市民や、プロ野球選手に憧れる少年を含めた野球ファン・球界関係者らにも、衝撃を与えた[7]

逮捕のニュースを受け、当時、同市磯子区少年野球チームに、投手として所属していた、大洋ファンであった12歳の男子児童は、『朝日新聞』の取材に対し、「中山投手には2年前(1990年)、抑えを務めていた時に握手してもらい、サインももらった。初めて会ったプロ野球選手なので、嬉しかったのにショックだ。大洋は、投手の層もそれほど厚くないし、若手中心のチームだから、大切な投手の1人なのに…」とコメントした[7]

また、熱烈な大洋ファンとして知られていた、中野孝次(作家)は「これからのチームを担う中心選手として、中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、八百長みたいな事件なら、まだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と憤った[7]

1991年12月26日、球団の対応[編集]

翌26日午前9時から[3]、大洋球団は球団事務所で[3]、岡崎球団社長、若生照元・球団本部長ら、球団幹部6人と、弁護士2人の計8人で[8]、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開いた[3]

その結果、球団は中山との翌年度の契約を白紙に戻し[3]日本プロフェッショナル野球協約第66条に基づき、「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)、すなわちこの時点では「契約未公開の大洋選手」扱いとした[9]

そして、処分は捜査当局の結論を待った上で、解雇も含めた厳しく対応することを決めた[3][8][9]

約1時間半の会議終了後、記者会見に応じた岡崎球団社長は「夢を与えるプロ野球関係者が、このような事件を起こしたことに対し、深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」とコメントし、深々と頭を下げた[3]

同日、故郷・高知県に帰省中だった須藤監督も、事件を受けて急遽横浜市へ戻り、球団事務所入りした[8]。須藤は、高校の後輩である中山の不祥事に責任を痛感し、身柄を球団に一任した上で、監督解任を含め、自身へのペナルティを申し出た[8]

これに対し、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが、須藤の監督解任は考えていない」と語った[8]

同日、夕方から岡崎、須藤に加え、桜井球団代表、岡田典一総務部長らが加わり、善後策の協議を重ねた[8]

また、東京銀座の日本野球機構会議室でも、吉國一郎コミッショナー、川島広守セントラル・リーグ会長、原野和夫パ・リーグ会長ら、球界首脳が出席し、実行委員会が開かれた[8]

セ・リーグは実行委員会後、緊急理事会を招集し、川島が「さらに管理の徹底に注意してほしい」と強く訴え、桜井球団代表が「迷惑をかけて申し訳ない」と、全理事に対し謝罪した[8]

その後、川島・桜井両名が記者会見し、川島は「プロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と語った[8]

神奈川県警捜査一課・金沢署は同日午後、強制わいせつなどの容疑で、中山を横浜地方検察庁送検した[10]

同日、中山は、金沢署の取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ事件2件に加え、それらと同じ11月12日、金沢区内で、小学4年生の女子児童(当時10歳)に対し、体を触るなどのいたずらをしたことを自供した[11]

このため、捜査一課などは、金沢区内で発生した、別の少女らへのわいせつ事件との関連などを調べるとともに[10]、3件目の犯行についても、裏付けが取れ次第追送検する方針を決めた[11]

1991年12月27日、大洋球団の報告[編集]

同年12月27日、岡崎球団社長・桜井球団代表は、東京・大手町大洋漁業本社にて、中部慶次郎球団オーナーに対し、事件の報告をした[12]

さらに両者は、東京・内幸町のコミッショナー事務局、セントラル・リーグも訪れ、吉国コミッショナー、川島セ・リーグ会長に対し、「ご迷惑をおかけします」と陳謝した[12]

この際、岡崎は「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」と、苦渋に満ちた声で話した[13]

また、球団は同日、全選手に対し、中山の契約白紙処分について、球団の方針を説明した上で、自己管理を呼び掛けた文書を、岡崎社長名義で発送した[12]

吉国コミッショナーは同日、コミッショナー事務局にて記者会見し、日本プロ野球の最高責任者として、初めて本事件についての考えを明らかにした[12]

吉国は「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいでしょうか?」との質問に対し、「事件が事件だけに、難しいでしょう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と、厳しい見解を示した[12]

1992年1月4日、横浜地検が不処分・起訴猶予処分を決定[編集]

1992年1月4日までに、強制わいせつ罪2件について[14]、中山と被害者との間で、示談が成立したため、いずれも被害者側が告訴を取り下げた[15][16][14]

これを受け、横浜地方検察庁は同日、親告罪である同罪について、1月6日付で不処分とした上で、残る公然わいせつ罪については、「既に社会的制裁を受け、本人も深く反省している」として、1月6日付で起訴猶予処分とすることを決めた[15][16][14]

その上で横浜地検は、勾留期限の切れる翌5日付で、中山を釈放することを決めた[15][16][14]

中日・落合博満が本事件に言及[編集]

同日、中日落合博満選手が横浜市内でトークショーを開いた[17]

中山の事件は、プロ野球のスター選手が引き起こした事件とあって、社会的影響は計り知れなく大きく、球界の風当たりも「解雇」「永久追放」が囁かれるなど、厳しい情勢にあったが、事件について触れた落合は、「情状酌量の余地があるならば」と前置きした上で、「(中山を)切り捨てるのは簡単だが、将来のことを考えると、球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか」と、『中日新聞』曰く「注目すべき発言」をし、「この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても、受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら、更生の道は野球から着けてやるべきでは、と思うんだ」と訴えた[17]

1992年1月5日、処分保留により釈放[編集]

1992年1月5日未明[18]、横浜地検の取り調べを受けていた中山は、処分保留のまま、拘置先の金沢署から釈放された[19][20]

中山は釈放後、緑区内の自宅に帰宅し、午後になって若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した[18]

約1時間にわたり、中山から事情を聴いた若生は「中山は反省の色が濃い」と語った[18]

これに先立ち、岡崎球団社長は、球団事務所で記者会見し、100人近い報道陣を前に「事件の被害者やご家族に、多大なご迷惑をおかけし、社会をお騒がせしましたことを、心からお詫び申し上げます」と陳謝した[18]

球団側は、中山の事情聴取を終えたことで、6日にも処分を決めることとなった[18]

翌1月6日、横浜地検は公然わいせつ容疑について、「既に社会的制裁を受けている」として、起訴猶予処分とした[21]

1992年1月7日、大洋球団を解雇[編集]

この事件は、野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから[8]、大洋球団は野球協約に基づき[8]、1992年1月7日、保留選手扱いだった中山を解雇し、保留権を放棄した上で[22]、統一契約書式第26条に基づき[23]自由契約選手とすることを発表した[22][24][25]

また、これに加えて、須藤監督に戒告、岡崎社長・桜井球団代表に対しては、同日からの1年間、8%の減俸処分を科した[22]

横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放されており、前途もある中山に対し、あえて野球生命を事実上絶つという、厳しい処罰を下した背景には、子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯したという、社会的影響の大きさを深く考慮した結果だった[25]

球団事務所で記者会見した岡崎は、「中山投手は、被害者やそのご家族に対し、多大なご迷惑をかけ、社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」と、沈痛な面持ちで語った上で、「彼はまだ若く、野球史かわかっていない。本人とご両親に相談のうえ、彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」と話した[22]

川島セ・リーグ会長、「無期限の契約自粛」を求める声明[編集]

この処分を受け、吉国コミッショナーは「更生への道に障害にならないようにと、失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。どう会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」、川島セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で、世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は、球団の温情ある措置だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」と、それぞれコメントした[22]

野球協約上、「自由契約選手」の中山は、他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ、球界のイメージを著しく汚した、破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:会田豊彦)で逮捕された、中山の獲得に動く球団はなく[23][25]、推定年俸2650万円という収入が絶たれた中、孤独な練習を長期間続けて、「プロの投手の実力」を保つのは、精神的・物理的にも至難の業だった[25]

また、川島セ・リーグ会長が、声明文の中で「中山選手本人が、社会的に立派に更生できるということが確認される時点まで、全12球団が、中山選手との選手契約を、無期限に行わないようにお願いしたい」と要望したことから、球界復帰は可能性こそ残されたものの、極めて困難なものとなった[23]

その一方で、失格選手の烙印を押されれば、今後中山は、野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になることから、実質的に形式上とはいえ、復帰への道を残したのは、「せめてもの温情」とされた[25]

1992年1月8日付で、吉国コミッショナーは、中山を自由契約選手公示した[26]

婚約者・家族のその後[編集]

事件後、当時22歳の婚約者女性は、「健気に中山を支えた」として、一部から美談として報道された[4]

しかし、婚約者側が「婚約不履行」を、中山側も「勝手に家財道具、自動車、金などを持ち出された」として、双方が民事訴訟を起こした[4]

結局、この民事訴訟合戦は、中山側が、2500万円の慰謝料を払い、和解したという[4]

また、高知市内に在住していた両親・姉も、事件当時、中山やその婚約者と同居していたが、事件後に帰郷した[4]

球界復帰まで[編集]

解雇後の会見[編集]

解雇後の1992年1月18日、中山は希望により、事件に関しての質問には一切触れないという条件で、緑区内の自宅にて、事件後初めて、報道関係者との会見に応じた[27][28]

会見は、担当記者1人の代表質問に対し、本人が答えるという非公開形式で行われたが、釈放後、自宅にこもりきりだったという中山は、体重が5kg近く減り、顔色も悪くなっていたという[27]

会見で、中山は「球団関係者やファンに申し訳ない」と、改めて謝罪した上で[27][28]、今後の身の振り方について「まだ決まっていない。また野球がしたいというのが本心」と心情を語った[27][28]

須藤監督は同日、「自らを戒め、世に尽くす精神と行動力を身に着けてほしい」とコメントした[27]

寺に入り修行[編集]

1992年2月8日から、中山は静岡県伊東市物見が丘の仏現寺へ、大洋の亀井進スカウトに連れられ、修業に入った[29]。『中日新聞』の取材に対し、亀井は「本人からお寺で修行したいと言っていたので、仏現寺を紹介した。住職に性格を見ていただき、修行内容・期間を決めてもらう」と語った[29]

その後、約3週間の修行により、中山は「これから自分は、プロ野球選手ではないのだから、一般の社会人として暮らしていこう」と悟ったという[4]。この時点ではまだ、社会に出る勇気はなかったが、生活費を稼ぐため、働きに出ることを決意した[4]

MLB球団が関心寄せるが、NPBコミッショナー事務局は契約回避を求める[編集]

1992年2月13日、アメリカ合衆国メジャーリーグベースボール(MLB)のコミッショナー事務局が、日本プロ野球(NPB)コミッショナー事務局に対し、ファクシミリ(FAX)通信で「MLBの1球団が、大洋の中山投手に関心を持っているので、身分照会したい」という内容の文書を送信した[30]

これに対し、NPBコミッショナー事務局は同日、「中山投手は1月7日、大洋を解雇された」との事実のみを通知した上で、身分について、翌週早々に回答する方針を決めた[30]

同月18日、NPBコミッショナー事務局は、川島セ・リーグ会長が「12球団に対し、更生するまで中山と契約しないように要望している」ことを踏まえ、MLBコミッショナー事務局からの身分照会に対し、NPB球団同様、中山との契約を見合わせるように要望する回答書を送った[31]

吉国コミッショナーはこの件を受け、「事件の経緯を説明した上で、NPB球団と同様に対応するよう、善処を求めた」と語った[31]

中山自身は、『週刊現代』(講談社)の取材に対し、「アメリカ、韓国台湾など、海外に行けば、すぐに野球ができるかもしれないが」と質問されると、「海外に行くのは、苦しい環境から逃げるようだから嫌です。いくら批判を浴びても、日本で修業をして、厳しい声に耐えていきたいと思います」と回答した[5]

運送会社に勤務し、現役復帰を目指す[編集]

寺での修行を終えた後、中山は、就職先を探したが、事件の影響により、数社から断られた[4]。その中で、大洋球団職員の紹介を受け、元読売ジャイアンツ(巨人)投手・入谷正典が経営していた、横浜市内の運送会社に就職した[4]

入谷は、中山を採用した際、事件のことには触れず、「婚約者との告訴問題などを、すべてきちんとして、丸裸になって出直せ」とアドバイスした[4]。中山は、磯子区内のアパートに住み、午前6時半に起床しては、鶴見区内の職場まで、電車通勤する毎日を送り[32]横浜港にて、輸出用の自動車を貨物船に積み込んだり、港湾に運搬するなどの仕事をしていた[4]

社内には、中山と同年代の若者も約30人いたため、溶け込むのは早かったという[32]

その一方で、事件後、野球道具は見る気にもなれず、捨てることもできなかったため、押し入れの奥に押し込んでいた[4]。しかし、就職から丸1年が経過した頃、社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われ、グラブを押し入れから出した[4]。そして、1993年3月以降、現役復帰に向けた練習を開始していた[33]

この時、中山は「過ちは一生消えないし、人前に出れば、被害者をまた苦しめることになる。野球を諦め、世間に忘れられた方がいい」と思う一方で、どうしても野球をやりたい気持ちも強かったという[34]

球界復帰を求めた署名運動など[編集]

また、入谷が中心となり[4]、横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが[35]、「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し[33]、1993年1月7日から、中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始し、2月末までに10万人を目標に、署名を集め始めた[35]

入谷は、中山に対し、「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスしていた[4]。そのため、昼休みには同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちは、プロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたのか、キャッチボールを躊躇するようになっていった[32]

1993年3月、当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が、解雇直後に声明で、12球団に対し、中山との無期限契約回避を申し出ていた、川島セ・リーグ会長に手渡された[33]

これを受け、川島セ・リーグ会長は、1993年5月28日、「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認めた上で、声明に示した無期限契約回避措置について、早ければ6月中旬にも解除することを明らかにした[33][36][37]

社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難と見られた、球界復帰の道を開くことは、賛否両論が渦巻くのは必至だったが、川島は「彼は1年半、汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした[33][36]

後に中山を獲得した中日ドラゴンズは、この時点で中山に関心を示しており[36]、中山了・球団社長は、「獲得を考えてみようという気持ちはある」とコメントした[37]

しかし、同年6月29日、川島から諮問を受け、東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で開かれた「セ・リーグ懇話会」は[38][39]、元婚約者との民事訴訟が継続中であることなどから[39]、声明の解除に対し、「現時点では時期尚早」との結論を出した[38][39]

1993年12月、「無期限契約自粛」声明を撤回・球界復帰へ[編集]

その後、「セ・リーグ懇話会」(座長・中村稔セ・リーグ顧問弁護士)は、1993年12月10日、川島の声明を撤回することを答申した[40]

これを受け、川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として、球界復帰を事実上認める発言をした[40]

記者会見した中村座長は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も2年以上経って、社会的に更生できる実績を示したと理解している」と、答申理由を説明した上で、「復帰後、試練にさらされる中山投手に、(獲得する)球団は、精神面でも生活面でも、十分な配慮・サポートをお願いしたい」と、声明を発表した[40]

これを受け、中山は「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても、世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず、新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう、精進してまいります」と、後見人を通じてコメントを発表した[40]

1993年12月16日午前、渋沢良一セ・リーグ事務局長、児童心理学専攻の大学教授とともに、横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境、生活状態などを聴いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した[41]

中山はこの際、川島に対し「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので、野球人として更生させていただきたい」と話した[41]

これを受けて川島は、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定し、17日の実行委員会で報告後、各球団に要望の解除を通知することを決めた[41]

川島は、1994年12月24日、選手契約自粛を要請した声明を解除する[42]、1993年12月25日付の文書を[43]、各12球団に郵送した[42][43]。川島はこれに加え、同じく契約自粛を求めていた、アメリカ合衆国メジャーリーグベースボール(MLB)に対しても、同種の要請解除文書を郵送した[43]

これを受け、以前から獲得を検討していた、中日・加藤巳一郎オーナーは同日、「川島会長から、何とかしてほしいという話は聞いている」とコメントした[43]。これに加え、伊藤修球団代表も、「いきなり選手契約するのではなく、打撃投手など、球団職員として採用しようと思う」と、積極的な姿勢を見せた[43]

その一方、事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は、中山の球界復帰の話が持ち上がった際、『毎日新聞』の取材に対し、同年に発覚した江夏豊覚醒剤事件を引き合いに出し、「覚醒剤は(直接の)被害者がいないからなぁ…」と、不快感を示した[44]

『毎日新聞』記者・中島章隆は、1993年12月11日朝刊記事にて、「事件の恐怖に震え続けた被害地域住民の親たちの怒りが、わずか2年で消え去ったのだろうか?」、「若者の過ちを一生許さない、という偏屈な考えを持つつもりはないが、一般大衆やマスコミへの露出度が高いプロ野球選手への復帰が、本当に『更生の道』なのだろうか?」と、球界復帰を認めた懇話会に疑問を投げかけた上で、「平凡な一市民として、普通の生活を送らせてやることが、被害者のためであり、若者(中山)のためにもなるのではないか」と主張した[44]

1993年12月27日、中日ドラゴンズが打撃投手として採用を発表[編集]

処分解除を受け、中日ドラゴンズ高木守道監督)は、1993年12月27日、中山を打撃投手球団職員身分、1年契約)として採用したことを発表した[45][46]

同日午後、岡田英津也編成部長が、横浜市内で中山と、両親同席で面会した[46]。中山は「新人のつもりでやり直したい」として、中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した[46]

中日・中山了球団社長は、「彼(裕章)は、やってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし、社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい」と、獲得に至った経緯を説明した上で、「即戦力とまではいかないが、早かれば来年の後半か、再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した[46]

裕章は同日、「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」と、球団を通してコメントした[45]

一方、『毎日新聞』記者・中島章隆は、1993年12月28日朝刊記事で、「私企業である中日が、誰とどんな契約をしようと勝手だが、現時点で『更生のための契約ではない』として、早くも『戦力』として裕章を計算している、中山社長の発想は、契約自粛を撤回した川島セ・リーグ会長の『更生プログラム』に明らかに違反しているし、社会的な反発は免れまい」、「事件は不起訴になり、社会的制裁は受けたが、この事件でもそうであるように、親告罪である強制わいせつ罪は、被害者が裁判沙汰を嫌い、示談にするケースが多い。不起訴でも『被害者』がいることを忘れてはならない。事件を『忘れたい』と、示談に応じた同種事件の被害者・家族が、新聞・テレビなどで、加害者の姿・名前を見た時、どんな感情に囚われるだろう?」、「無節操な戦力のそろばん勘定のレベルで、今回の問題を捉えた中日の契約は、(青少年の野球人口の先細りによる)プロ野球離れを、一段と加速させる結果にしかなるまい」と、中日球団に対し、批判的な論調の記事を執筆した[47]

中日時代[編集]

1994年

同年春、二軍の打撃投手として、串間市営球場で行われた春季二軍キャンプに参加しつつ、実戦復帰を目指してきた[48]

中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したことから、同年6月10日、球団職員・打撃投手だった中山と[48]、契約金なし[49]、年俸800万円(推定)、背番号125で、選手契約を結び、支配下選手登録した[48][49][50]

ファンの運動により、再び現役選手としてプレーする事が可能になった中山は、「再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです。でも被害者がいる以上、罪は反省し自分の中でも消えるものではない」とコメントした[48][50]

正式に選手登録が発表された際、ドラフト同期の巨人・桑田真澄は、中山に対し、電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けたという[34]

一方、野球解説者豊田泰光は「はっきり言って不愉快だ。彼が投げるときは口をつぐむ」、「人前に出るべきではない。ましてや、一軍投手として栄光の座を与えるなんて」と、中山に対して厳しい反応を示した[34]

また、受け入れ先となった中日でも、投手コーチ・水谷啓昭は「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃないよ』、というのが本音だった。『例えば、黒い霧事件で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と、球団への不満もあったし、選手の士気が萎えるなど、チームメートへの悪影響も懸念した」という[34]

中山は、中日入団以降、抑え投手の座を得るため、抑え投手に必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど、重点的なトレーニングを積み重ねてきた[51]。二軍でのトレーニング中、かつて阪急ブレーブスを解雇され、3年間の球界ブランクを経て、台湾プロ野球・中華職業棒球聯盟(CPBL)テスト生から復活した経歴を持つ、同僚・野中徹博は、中山に対し、「体が(感覚を)覚えているものだから大丈夫だ。指はボールを忘れてはいない」とアドバイスした[4]

同年6月21日、ウエスタン・リーグ福岡ダイエーホークス戦(ナゴヤ球場)で先発し、1991年10月10日の阪神戦以来、現役復帰後初登板を果たした[52]

同年7月21日、高木守道監督ら、首脳陣立ち会いの下、ナゴヤ球場で昇格テストを受けた[53]。その結果、「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ、様子を見たい」(高木監督)として、後半戦からの一軍合流が決まった[53]

翌7月22日、現役復帰後初[54]、大洋時代の1991年10月以来、33カ月ぶりの一軍選手登録を受けた[55]。同日付で、背番号も67に変更された[55]

同日、ナゴヤ球場で開かれた読売ジャイアンツ(巨人)戦からベンチ入りし[55]、翌24日の試合にて、6回表、5回13被安打5失点で降板した先発・山本昌に代わり、1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた[56]。3万5000人の観衆が来場したナゴヤ球場で、中山は「前日から、ヤジを飛ばされるのも覚悟して、思い切って投げろ、と自分に言い聞かせていた」が、マウンドの土を踏んだ耳に届いたのは、思いがけず、割れるような拍手と「頑張れ」という声援だったため、涙がこぼれかけたという[34]

同年は、一軍6試合に登板し、0勝0敗0セーブ、防御率5.79の成績で[57]、古巣・大洋時代の本拠地球場・横浜スタジアムで登板することはなかった。

1995年

背番号が大洋時代と同じ19番に戻ったこの年[57]アリゾナ州春季キャンプにて、600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべく、トレーニングを積み重ねていった[51]

4月12日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)にて、大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来、2070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げた[58]

同年5月1日には、運送会社勤めの傍ら、復帰を目指していた1993年に、知人の紹介で知り合った、神奈川県川崎市の20歳代家事手伝い女性と、入籍したことを明らかにした[59]

同月25日、古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、現役復帰後初となる、同球場での登板を果たした。

同年6月6日、広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて、1点ビハインドの9回表、中継ぎで登板すると、同回裏、山崎武司の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた[60]。延長12回裏、仁村徹の決勝打によってチームが勝ち越し、抑え・古池拓一が1点リードを守ったことにより、1991年9月29日の巨人戦以来、1346日ぶり、球界復帰後初勝利を飾った[60]

この勝利は、プロ復帰への門戸を開いた恩人・高木守道監督のシーズン途中解任を受け、代わって指揮を執っていた、徳武定祐監督代行にとっての初勝利でもあった[60]

同年は、チームの低迷を受け、後に徳武も解任、島野育夫監督代々行と、2度にわたって監督が交代したが、この初勝利を含めて3勝を挙げ、中継ぎ・抑えとして、チーム最多の44試合に登板した[61]

1996年

新監督として星野仙一が就任したこの年は、抑え投手として加入した宣銅烈の不調を受け、代わって抑えとして活躍した[62]

36試合に登板し、4勝4敗14セーブ、18セーブポイント、防御率2.88の数字を残した[62]

同年は、セ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦により、オールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)にも選出された。野村はこの時、中山の選出について、「現在、未来が大切で、過去は問わない」という談話を発表した[63]

そのオールスターゲームでは、1996年7月23日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われた第3戦にて、3回表に登板、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した[64]

1997年

中日の本拠地がナゴヤドームに移転した同年は、チームが最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板した[65]

この年は、前年不調だった宣が、一転して守護神として活躍したことから、中山自身のセーブはゼロに終わった[65]。しかし、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり、球界復帰後では初となるシーズン7勝を挙げ、7勝6敗、防御率4.34の成績を残した[65]

1998年

7月に7試合(合計7イニング)登板したのみと、不調に終わった[66]

同年オフ、フリーエージェント(FA)資格を取得した[67]

1999年

リリーフのみで31試合に登板し、自身初、中日球団史上11年ぶり5度目の、セ・リーグ優勝に貢献した[68]

福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは、第3戦の9回表、敗戦処理として登板した[69]

同年11月24日、名古屋市内の病院に入院し、両膝半月板の手術を受けた[70]

2000年

リリーフで25試合に登板したが[71]、徐々にチームが投手王国となり、落合英二正津英志岩瀬仁紀らが台頭するにつれて、登板機会が減少していった。

同年11月28日、来季の契約について、推定年俸4300万円(100万円減)で更改した[72]

2001年

一軍ではわずか4試合の登板に終わった。

同年10月12日、小池秀郎鈴木平永田能隆とともに、球団から戦力外通告を受け、同年限りで退団した[73][74]

同年12月2日、NPBコミッショナー事務局により、自由契約選手として公示された[75]。同日までに、12球団合同トライアウトに2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球韓国KBOリーグへの移籍を視野に、現役続行を目指した[76]

中日退団後[編集]

2002年台湾中華職業棒球大聯盟(CPBL)の中信ホエールズに入団した[77]。同年は12勝10敗、翌2003年も13勝4敗と、先発投手として活躍したが[77]、肘の故障により、2003年限りで現役を引退した[78][79]

引退後は、アジア各国との貿易業を行っているという[80]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1986 大洋 18 5 0 0 0 0 3 3 -- .000 194 44.0 44 3 15 0 3 15 1 0 34 25 5.11 1.34
1987 33 20 2 1 0 5 12 0 -- .294 568 132.1 147 17 44 2 0 81 8 2 78 76 5.17 1.44
1988 70 0 0 0 0 10 6 24 -- .625 597 142.1 124 11 52 10 3 118 9 1 40 36 2.28 1.24
1989 45 1 0 0 0 1 10 17 -- .091 346 79.0 81 17 32 6 3 68 2 0 39 36 4.10 1.43
1990 27 21 5 3 0 8 12 0 -- .400 653 153.2 157 14 44 5 8 89 3 1 71 67 3.92 1.31
1991 27 23 3 2 0 8 10 0 -- .444 672 156.1 152 25 58 1 6 107 4 0 77 73 4.20 1.34
1994 中日 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 20 4.2 8 1 0 0 0 3 0 0 3 3 5.79 1.71
1995 44 0 0 0 0 3 6 4 -- .333 225 52.1 56 7 11 2 2 49 8 0 23 19 3.27 1.28
1996 36 0 0 0 0 4 4 14 -- .500 170 40.2 32 3 16 2 0 42 3 0 15 13 2.88 1.18
1997 53 0 0 0 0 7 6 0 -- .538 330 76.2 67 10 32 3 7 54 6 1 41 37 4.34 1.29
1998 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 7.0 4 0 2 1 0 2 0 0 0 0 0.00 0.86
1999 31 0 0 0 0 3 1 0 -- .750 146 37.0 31 2 12 1 1 16 2 0 13 13 3.16 1.16
2000 25 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 116 28.1 23 3 9 1 2 22 1 0 10 7 2.22 1.13
2001 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 6.2 7 1 2 0 0 3 0 0 4 4 5.40 1.35
2002 中信 34 24 7 3 0 12 10 1 -- .545 728 176.2 172 13 40 3 10 117 10 1 76 55 2.80 1.20
2003 25 25 6 2 1 13 4 0 -- .765 729 180.0 169 5 29 1 8 106 3 1 56 44 2.20 1.10
NPB:14年 423 70 10 6 0 51 71 62 -- .418 4091 961.0 933 114 329 34 35 669 47 5 448 409 3.83 1.31
CPBL:2年 59 49 13 5 1 25 14 1 -- .641 1457 356.2 341 18 69 4 18 223 13 2 132 99 2.50 1.15
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

CPBL
  • 月間MVP:2回 (2002年9月、2003年4月)

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

NPB
  • 19 (1986年 - 1991年、1995年 - 2001年)
  • 125 (1994年6月10日 - 7月21日)
  • 67 (1994年7月22日 - 同シーズン終了まで)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 読売新聞』1991年12月26日東京朝刊第一社会面23面「プロ野球の中山裕章投手(大洋)を逮捕 幼女いたずら容疑」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 中日新聞』1991年12月26日朝刊第一社会面23面「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」
  3. ^ a b c d e f g 『中日新聞』1991年12月26日夕刊第一社会面11面「大洋球団 中山投手、契約白紙に 捜査結論待ち最終処分」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 宝石』(光文社)1994年10月号 p.250-257「手記 天国と地獄の居心地 中山裕章」
  5. ^ a b 『週刊現代』(講談社)1992年2月22日号 p.32-34 「逮捕から50日、“謹慎明け”の胸中を初めて 堕ちたエース中山裕章の痛恨懺悔 『チーム内いじめに遭い精神的に不安定になって』」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 朝日新聞』1991年12月26日朝刊第一社会面27面「大洋の投手を幼女いたずら容疑で逮捕 『不調で欲求不満』」
  7. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1991年12月26日朝刊神奈川県版「球団やファンに衝撃 わいせつ容疑で大洋の投手逮捕 神奈川」
  8. ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1991年12月27日朝刊第一スポーツ面23面「中山逮捕で大揺れ大洋 須藤監督、進退を一任」
  9. ^ a b 『読売新聞』1991年12月26日東京夕刊第二社会面14面「少女いたずら事件 中山投手の契約破棄 大洋が保留選手扱いに」
  10. ^ a b 『中日新聞』1991年12月27日朝刊第二社会面26面「中山投手を送検」
  11. ^ a b 『読売新聞』1991年12月27日東京朝刊第一社会面23面「少女にいたずらの大洋ホエールズの中山投手 3件目も自供」
  12. ^ a b c d e 『中日新聞』1991年12月28日朝刊第一スポーツ面19面「大洋、全選手に文書 自己管理呼びかけ」「マウンドに立つのは難しい 吉国プロ野球コミッショナー 中山問題で見解」
  13. ^ 週刊誌AERA』(朝日新聞社)1992年1月14日号 p.68「夢をアワと消えさせる心のもろさ 中山投手逮捕(先週今週・事件)」(運動部記者<東京>:速水徹
  14. ^ a b c d 『読売新聞』1992年1月5日東京朝刊第一社会面27面「プロ野球大洋の中山投手釈放へ 『強制わいせつ』不起訴/横浜地検」
  15. ^ a b c 『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一社会面31面「中山投手きょう釈放 横浜地検が起訴猶予方針 『既に社会的制裁』」
  16. ^ a b c 『朝日新聞』1992年1月5日朝刊第一社会面31面「プロ野球・大洋の投手をきょう釈放 起訴猶予の方針 横浜地検」
  17. ^ a b 『中日新聞』1992年1月5日朝刊第一スポーツ面25面「脱衣室」
  18. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年1月6日朝刊第一スポーツ面23面「中山投手釈放 大洋、きょうにも球団処分 若生本部長 『反省の色濃い』」
  19. ^ 『中日新聞』1992年1月6日朝刊第二社会面26面「中山投手を釈放 横浜地検」
  20. ^ 『読売新聞』1992年1月6日東京朝刊第二社会面30面「わいせつの横浜大洋・中山投手を釈放/横浜地検」
  21. ^ 『中日新聞』1992年1月6日夕刊第一社会面11面「起訴猶予処分決まる 中山投手」
  22. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26面「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」
  23. ^ a b c 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23面「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(記者:会田豊彦
  24. ^ 『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊第一社会面31面「わいせつの中山投手を解雇処分/大洋球団」
  25. ^ a b c d e 『読売新聞』1992年1月8日東京朝刊スポーツ面A欄19面「大洋球団の中山投手解雇 やむを得ぬ厳罰 マウンド復帰ほぼ絶望」
  26. ^ 『中日新聞』1992年1月9日朝刊第一スポーツ面23面「中山投手を自由契約公示」
  27. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年1月19日朝刊第二社会面26面「『また野球したい』 中山元投手が会見」
  28. ^ a b c 『読売新聞』1992年1月19日東京朝刊スポーツ面A欄19面「『本心は…また野球がしたい』 わいせつ容疑で解雇された中山元投手、心情語る」
  29. ^ a b 『中日新聞』1992年2月9日朝刊第二スポーツ面24面「脱衣室」
  30. ^ a b 『中日新聞』1992年2月15日朝刊第二スポーツ面26面「米大リーグが中山(元大洋投手)に触手 コミッショナー事務局、身分照会 1球団が関心」
  31. ^ a b 『中日新聞』1992年2月19日朝刊第二スポーツ面26面「中山と契約回避 米球界にも要望 コミッショナー事務局」
  32. ^ a b c 週刊現代』(講談社)1993年1月1日・9日号 p.207-208 「ワイド特集 '92お騒がせ人間たちの『最後っぺ』」
  33. ^ a b c d e 『中日新聞』1993年5月29日朝刊第一スポーツ面27面「中山元投手復帰か 一昨年不祥事 セ会長『更生の道歩む』」
  34. ^ a b c d e 週刊誌『AERA』(朝日新聞社)1994年8月8日号 p.61「復帰中山に球界の困惑と温情 逮捕から二年半(リポートスポーツ)」(スポーツライター:山田ゆかり
  35. ^ a b 『朝日新聞』1993年1月8日朝刊第一スポーツ面23面「元大洋投手の復帰求め市民らが署名(プロ野球短信)」
  36. ^ a b c 中国新聞』1993年5月29日朝刊第一社会面27面「中山元投手、球界復帰も 川島セ会長 制裁措置を来月解除」
  37. ^ a b 『中国新聞』1993年5月29日朝刊第二スポーツ面20面「中山元投手制裁解除へ 『復帰困難』覆す温情措置」「獲得考えてもいい 中日・中山球団社長の話」
  38. ^ a b 『中日新聞』1993年6月29日朝刊第一スポーツ面21面「中山元投手の復帰へ声明解除は時期尚早 セ懇話会が結論」
  39. ^ a b c 『毎日新聞』1993年6月29日東京朝刊第一スポーツ面21面「プロ野球 中山裕章山元投手の復帰は時期尚早 セ・リーグ懇話会」
  40. ^ a b c d 『中日新聞』1993年12月11日朝刊第一スポーツ面23面「中山元投手 復帰へ道 川島セ会長認める」
  41. ^ a b c 『中日新聞』1993年12月17日朝刊第一スポーツ面23面「『野球人として更生したい』 中山元投手 川島セ会長に心境」
  42. ^ a b 『中日新聞』1993年12月25日朝刊第一スポーツ面19面「契約自粛の解除文郵送 中山問題でセ会長」
  43. ^ a b c d e 『読売新聞』1993年12月25日東京朝刊第一スポーツ面19面「元大洋の中山投手の契約自粛要請を解除/セ・リーグ」
  44. ^ a b 『毎日新聞』1993年12月11日東京朝刊第一スポーツ面17面「プロ野球 元大洋の中山元投手、復帰への道 セ懇話会が『認める』答申」「◇波◇--“さらし者”の心配も」(記者:中島章隆)
  45. ^ a b 『中日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21面「中山元投手が復帰 中日 『打撃投手』として契約」
  46. ^ a b c d 『朝日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21面「わいせつ事件で解雇の元投手、中日へ 二軍打撃投手として契約」
  47. ^ 『毎日新聞』1993年12月28日東京朝刊第二スポーツ面14面「プロ野球 中山元投手は『戦力』 『火中のクリ』拾った中日」(記者:中島章隆)
  48. ^ a b c d 『中日新聞』1994年6月11日朝刊第一スポーツ面35面「中山投手と選手契約 中日 2年半ぶり現役復帰」
  49. ^ a b 『朝日新聞』1994年6月11日朝刊第一スポーツ面25面「中日と選手契約 打撃投手から“昇格”」
  50. ^ a b 【6月10日】1994年(平6) 不祥事から2年半 中山裕章 中日の支配下登録選手に” (2012年6月10日). 2018年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月1日閲覧。
  51. ^ a b 『中日新聞』1995年2月14日朝刊第一スポーツ面23面「なにくそ10・8 Dアリゾナから/ 中山 抑えこそ自分の仕事 己が勝負の相手 よみがえる力投」(記者:末次秀行)
  52. ^ 『中日新聞』1994年6月22日朝刊第一スポーツ面23面「ウエスタン 中山まずまず 復帰後、初の登板」
  53. ^ a b 『毎日新聞』1994年7月22日東京朝刊第二スポーツ面20面「プロ野球 中日の中山投手、一軍へ」
  54. ^ 『中日新聞』1994年7月23日朝刊第一スポーツ面25面「中日・平田が一軍 セ・パ合計6新人昇格 両リーグ公示」
  55. ^ a b c 『読売新聞』1994年7月23日東京朝刊スポーツ面A欄15面「プロ野球登録選手入れ替え 中日・中山が33か月ぶり1軍ベンチ入り」
  56. ^ 『読売新聞』1994年7月25日東京朝刊スポーツ面A欄15面「ミスター500勝 山本昌攻略、先発全員19安打/巨人8-2中日」
  57. ^ a b 『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』19、日本スポーツ出版社1995年3月15日、39頁。
  58. ^ 『中日新聞』1995年4月13日朝刊第一スポーツ面25面「立浪やっと開花 中山6年ぶりS 強竜打線一気に目覚め」
  59. ^ 『中日新聞』1995年5月2日朝刊第一スポーツ面21面「プロ野球短信 中山投手が入籍」
  60. ^ a b c 『中日新聞』1995年6月7日朝刊第一スポーツ面27面「徳武竜“新風”1勝 仁村が12回決勝打」
  61. ^ 『'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑』20、日本スポーツ出版社、1996年3月31日、80頁。
  62. ^ a b 『'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑』21、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、38頁。
  63. ^ 『毎日新聞』1996年7月20日東京朝刊社説・発言欄面5面「[みんなの広場]中山のオールスター出場を喜ぶ=兵庫県西宮市在住・21歳大学生男性からの投書」
  64. ^ 1996年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)”. NPB.jp 日本野球機構 (1999年7月23日). 2018年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月19日閲覧。
  65. ^ a b c 『'98プロ野球 12球団全選手百科名鑑』22、日本スポーツ出版社、1998年3月31日、95頁。
  66. ^ 『'99プロ野球 12球団全選手百科名鑑』23、日本スポーツ出版社、1999年3月31日、39頁。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]