中山裕章

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中山 裕章
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 (1967-11-04) 1967年11月4日(52歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1986年5月8日
CPBL / 2002年3月9日
最終出場 NPB / 2001年8月22日
CPBL / 2003年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手投手[1]

1986年ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団し[2][1]、以降はリリーフ・先発で主力投手として活躍したが1991年オフに幼女への連続強制わいせつ事件を起こして神奈川県警察逮捕され[3][4]、後に横浜地方検察庁から不起訴処分となったものの球団を解雇された[5][6]

この事件を受けてセントラル・リーグ日本野球機構(NPB)全12球団に対し「無期限契約回避措置を要望する声明」を通達したが[7]、声明が2年後の1993年オフに解除されると中日ドラゴンズ打撃投手として球界復帰を果たした[8][9]。翌1994年シーズン途中に現役復帰(支配下選手登録)してからは中日でリリーフとして活躍し、1999年のリーグ優勝に貢献した。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

高校入学まで[編集]

高知市愛宕町で生まれ[2]高知市立一ツ橋小学校高知市立城北中学校を経て高知市立高知商業高等学校へ進学した[10]。大洋時代の監督須藤豊は高知商高の大先輩にあたるほか、阪神タイガース藤川球児は城北中・高知商高の後輩である[11]

幼稚園を卒園したころ、当時周囲の子供たちの間で流行っていた大人用の自転車に乗る遊びをしていたところ急カーブを曲がり切れず、走ってきたダンプカーと激突する交通事故を起こした[12]。この事故により中山は後ろ向きへ大きく突き飛ばされながらもバック転するような形で着地し、幸いにも左足を骨折(2か月間入院する重傷)したのみで九死に一生を得た[12]。しかし小学校の入学式にはギブスを装着した状態で出席したほか、骨折した左足は高校進学後も変形したままだった[12]

城北中学校野球部に入部した直後、後に中学・高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人と出会ったが、岡村は当時の中山に対して「いけ好かない奴」と悪印象を抱いており、岡村の勘違いから大喧嘩に発展したこともあった[13]。過ちに気付いた岡村が謝罪したところ中山は快く許し、それ以降は仲良くなったが、中山は「何事にも執着を示さない」性格から練習に身が入らず、1年生の夏休み前には野球部の練習を休みがちになってしまった[13]。岡村が「もう退部するのか?」と心配していたところ、中山は母親とともに野球部のグラウンドに姿を見せ、母親が顧問に「引き続き指導してください」と頼みに来たため、中山は辛うじて野球を続けることとなった[13]1982年秋、中学の高知県大会決勝が雨天順延の影響を受けて偶然、後に中山が進学した高知商業高校のグラウンドで開かれたが、そこに当時の高知商高野球部監督・谷脇一夫が偶然顔を出していた[14]。谷脇は「普段は中学生を自校の部に勧誘することはしない」性格だったが、圧倒的な速球を投げる中山の姿を見て「中学生同士の対決なのに対戦打者のバットにかすりもさせない」ほどの素質に惚れ込み、後に中山が在籍していたチームが再び高知商高のグラウンドへ練習に来たことがあったため、谷脇はこの時に中山に「うちに来てほしい」と声を掛けた[14]

高知商業高校時代[編集]

高校進学の際、高知商高以外にも明徳義塾高校など高知県内の高校野球強豪校から進学の誘いを受けたが、「自宅から通える」という理由で高知商高に進学した[13]。女房役の岡村も甲子園の舞台で活躍することに憧れ、1978年夏の甲子園で準優勝を遂げた高知商高に進学した[13]。高知商高1年生の1983年春、谷脇は新入部員の中にいた中山を見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち3回は行ける。そのうち1回は優勝できる。夏の全国初制覇も夢ではない」と確信し、その期待に違わず入学直後からベンチ入りした中山は1年生(1983年)の夏に甲子園のマウンドを経験した[14]

1983年夏には早くもエース津野浩(3年生)の控え投手としてメンバー入りし、夏の甲子園高知県代表として出場した[2]。同大会で高知商高は準々決勝に進出し、中山は桑田真澄清原和博KKコンビ)を擁したPL学園大阪代表)との対戦で津野をリリーフして甲子園に初登板した[2]。この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退したが中山は3回2/3イニングを投げて清原・桑田との対戦を含めて被安打1・無失点に抑える好投を見せ[15]、それ以降はプロ野球関係者から「土佐の怪腕」と注目を集めた[16]。しかし1歳年下の野村貴仁(→高知県立高岡高校宇佐分校進学→三菱重工三原を経てオリックス巨人などでプレー)は自著『告白』(KADOKAWA・2016年)にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは『(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者』しか受け入れなくなった。それが許せなかったから自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている[16]

このころには既に持病の腰痛に苦しみ、走り込みが十分にできなくなっていったことで体重が増加するようになった[12]。津野が引退した同年秋にはエースとなるがそれ以降は故障が続き、2年生の1984年夏には県大会初戦で高知高校に敗戦した[2]。それに先立つ同年春の紅白戦で、それまで「層の厚い名門の中で埋もれており、中山のボールを受ける機会すらつかめていなかった」女房役・岡村は「ずっと補欠のままかもしれない」と危機感を抱いたため「ここで結果を出そう」と意気込んだが、二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、岡村の胸が二塁手の膝に激突した[17]。いったんはグラウンドで激痛とともにうずくまり「肋骨が折れたかもしれない」と悟った岡村だったが、「メンバー入りが懸かった紅白戦だから絶対に最後までやらないといけない」と痛みをこらえつつ練習を強行してしまい、練習後に血尿が出たことから中山とその父親に連れられて病院で診察を受けた結果、医師から腎臓破裂と診断された上に「一生スポーツはしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられ、帰宅後にも父親から「もう野球はできないだろう。別の高校に転向して教師になるために勉強した方がいい」と諭されてしまった[17]。しかし岡村は野球部でレギュラーになる夢を諦めきれず、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰すると3年生に進級する直前には正捕手の座、即ち再び中山のボールを受ける機会を手にした[17]。名門の高知商高とはいえ、中山の投げる球は「暴れ馬のような剛速球」だったため、それを捕球できるノウハウを持つ捕手は中学時代から中山とバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかったことが理由だった[18]。しかし中山・岡村らが最上級生となった2年生秋の県大会当時、高知県内の高校には伊野商業渡辺智男をはじめ全国屈指の逸材が揃っていたことから甲子園の土を踏むことは容易なことではなく[19]、同大会では準々決勝で[2]その渡辺を擁する伊野商に敗れて翌年のセンバツ出場を逃してしまった[19]。「残されたチャンスはあと1つ(1985年の夏の甲子園)しかない」と焦った谷脇は伊野商に敗戦した直後、中山を呼んで「お前は甲子園に行かなければいけない」と叱咤し、その後には岡村を呼んで「甲子園に行きたかったら、明日から毎朝中山を連れてランニングをしろ。高知城に毎朝『おはようございます』と挨拶してこい」と命令した[19]。これを受けて2人は「朝6時に高知城二の丸前で落ち合い、約200段の階段を5往復してから学校まで走って登校する」日課を定めたが、2週間後に中山がその練習をしなくなったことを岡村から報告された谷脇は「引っ張ってでもやらせろ」と命令し、岡村は毎朝のように中山を母親に起こさせてともにランニングをした[19]。当時の中山は岡村・谷脇ともにそれぞれ「投げるボールの才能はプロ級」「素質は桑田より上」と認めていたものの「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格から厳しい練習には身が入らず、谷脇は「最後の勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは『普段から他人がやらないことをやる者』だけだ」と考えていたため、その中山に「期待の裏返し」として厳しい練習を科した[19]

また中山も腰痛に苦しむ中で高知市内の整体師に通い鍼・電気治療などを2年間かけて行ったほか、同じく腰痛に苦しんでいた南国市内在住の母方の祖母から10万円もする磁石入りの健康布団を買い与えられ、その効果で腰痛も改善していった[12]。3年生となった1985年春、高知商高は同年のセンバツ優勝校となった伊野商を破って春季四国地区高等学校野球大会に進出し、四国大会も圧勝で優勝した[2]。同年夏、エース中山は岡村とバッテリーを組んで全国高等学校野球選手権高知大会を勝ち進み、決勝戦でセンバツ優勝校の伊野商相手に雪辱を果たして5対1で勝利したことにより夏の甲子園への出場を果たした[19]。甲子園では初戦の藤嶺藤沢神奈川代表)戦で最速150km/h[注 1]速球を投げるなどして9対2で勝利した[21]。続く第2回戦では同じく四国勢である香川県代表志度商業を相手に最速145km/hを記録し[12]、初回先頭打者から6連続奪三振を記録するなどして2被安打12奪三振の好投で[2]4対0の完封勝利を記録すると[21]、3回戦では同じく四国勢の愛媛県代表川之江戦で立ち上がりの不調を突かれて2点を先制されるが、8回には同点に追いつき[2]、延長11回裏にサヨナラ勝ちを決めた[21]。中山はこのようにして快進撃を続け「攻守ともに高知商史上最強レベル」とうたわれたチームのベスト8進出の原動力となり[21]、当時の大会を取材していた高野想(スポーツ新聞記者)は「春夏の甲子園大会で初めて150km/hの球を投げた投手は中山と言われている[注 2]。のちに清原が中山からあれだけ長距離の本塁打を放てた理由は中山の速球が強い反発力を生んだからだろう」と述べている[23]

準々決勝では再びPL学園の桑田と投げ合ったが[15]、5回裏の最初の打順で[24]「この試合の目玉」と注目された4番・清原と対戦し[15]、146km/hを記録した[25]真ん中高めに投げた渾身の速球をバットの真っ芯で捉えられ[26]、左翼席上段に達する推定飛距離140メートルの特大ホームランを被弾した[15]。この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみひび割れた[25]。さらにこの回には続く6番・桑田にも右翼ラッキーゾーンへのホームランを被弾したことで「KKコンビ相手に初めて1イニングでアベック本塁打を被弾した投手」となってしまい、試合は3対6で敗退した[15]。この試合で清原が中山から放ったホームランは1985年8月20日付『スポーツニッポン』にて「甲子園史上最大(推定飛距離)140メートル」「100段ある左翼スタンドの下から数えて64段目に突き刺さった」と報道されたほか[27]、「推定飛距離160メートル」「プロ野球の試合を含めても甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった[26]。また清原自身は2009年に刊行した自著『男道』(幻冬舎)にて「少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか[28]、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返った[29]

谷脇は大会前に他校の監督から「PL学園のグラウンドを練習試合で訪れた際、他のメンバーたちが練習を終えてからも桑田がずっと1人でランニングをしていたのを見て驚いた」と聞いたことから、大会後に「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかった。だからPLに勝てなかったし清原という“怪物”を抑えられなかった。だが、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返った[30]

1985年秋の第40回国民体育大会高等学校野球競技では桑田に投げ勝って甲子園の雪辱を果たし[31]、優勝の原動力となった[1][32]。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。

プロ時代[編集]

1985年のドラフト会議(1985年11月20日)では清原・桑田とともに目玉選手として注目されていた一方[33]、ドラフト会議前には社会人野球三菱重工三原への就職が内定していた[34]。一部では「意中の球団は阪神タイガース阪急ブレーブス。それ以外の球団は入団拒否する意向」と報道されていたが、本人はドラフト会議前日の1985年11月19日に「特に好きなチームも嫌いなチームもない。『どのチームか』より指名順位の方が気になる」と述べていた[34]。そしてドラフト当日には横浜大洋ホエールズから単独1位指名を受け、指名後には「1位指名されて光栄だ。早く一軍昇格して高校の先輩だった阪神タイガース中西(清起)さんと投げ合いたい」と述べた[35]。同年12月7日に高知商高で湊谷武雄スカウト部長・高松延次スカウトと2度目の入団交渉を行って正式に契約した[36]

背番号は中山本人の希望により中西と同じ19に決まり[37]、ルーキーイヤーの推定年俸は430万円・契約金は5,200万円で[1]、入団時には阪神・中西を目標に掲げていた[36]。清原・桑田に遅れを取っていたことに対する葛藤を抱えてはいたが、草薙平塚で開かれた春季キャンプの1986年3月7日 - 20日の約2週間にわたり伊豆・横川温泉郷で特別キャンプが開かれた際、左ふくらはぎの治療に来ていた当時のエース投手・遠藤一彦と同室になった[38]。その際に遠藤から直接「プロ野球選手としての心構え」を教わる機会があったため[注 3]、『週刊ベースボール』1986年4月14日号では「中山自身は『マスメディアからちやほやされるKKコンビ(清原・桑田)も幸せかもしれないが、日本一の投手(遠藤)からマンツーマンで指導を受けられる自分はもっと幸せだ』と思った」と述べられている[38]。当時から「美しいフォームから投げるボール」を近藤監督が「一級品」と称賛してはいたが、まだ下半身をうまく使った投球ができていなかったため、鈴木隆投手コーチからは徹底した走り込みを行わされていた[38]

横浜大洋時代[編集]

入団1年目となる1986年近藤貞雄監督の下で本格派として期待され、一軍で18試合に登板して0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3セーブを挙げた[39]。同年5月6日に同い年の相川英明とともに出場選手登録されるとその2日後(5月8日)に対読売ジャイアンツ(巨人)5回戦(後楽園球場)にて若菜嘉晴とバッテリーを組み一軍初登板・初先発を果たし、初マウンドで巨人先発・江川卓と投げ合った[40]。この試合では試合開始直前の1時間前に先発登板を告げられたが「力を抑えて低めを狙う」冷静な投球で1・2回を無失点に抑えた[40]。その後5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となったが[40][41]、近藤監督は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」[41]「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し[40]、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。さんには打たれる気がしなかった」と語った[41]。またこの試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・田代富雄が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ちプロ初安打・初打点を記録した[40]。同年7月には平塚球場[42]で開かれた二軍イースタン・リーグ(イ・リーグ)の試合に登板した際[31]、ジュースの差し入れを受けたことをきっかけにその差し入れ主である大洋ファンの女性(当時・淑徳短期大学英語学科在学。後に婚約するも1991年末の事件により婚約破棄)と交際を開始した[42]。同年10月13日にはナゴヤ球場で開かれた中日ドラゴンズ戦で初セーブを記録した[43]

プロ入り2年目となる1987年は推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨み[39]古葉竹識監督の下で33試合に登板し5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越したが、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった[44][注 4]。同年5月9日に本拠地・横浜スタジアムで開かれた読売ジャイアンツ(巨人)戦で先発して堀場秀孝とバッテリーを組み6回3分の2を投げ、疲れが出た7回表に連打を浴びて4失点するなどして5失点を喫したが、チームは8対6で勝利して連敗を5で止め、中山自身もプロ初勝利を飾った[46]。また同年5月21日には横浜スタジアムで開かれたヤクルトスワローズ戦にて堀場とバッテリーを組んで6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し[47]、同年6月27日には後楽園球場で開かれた巨人戦で若菜嘉晴とバッテリーを組み先発すると巨人打線を6回2死まで無安打・合計4被安打に抑え完投してプロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した[48]。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは当時20年ぶりのことで[44]、このころには当時のエース・遠藤と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた[47]。一方で古葉監督からは「先発の際には良い球と悪い球の落差がありすぎる」と指摘されていたほか、同年11月に静岡県伊東市内で開かれた秋季キャンプ中には「自分は先発ローテーション入りして一人前になった」と自負していたところ、コーチたちから様々な注意・助言を受けたことに対し反抗的な態度を取ったため寺岡孝ヘッドコーチから「やる気がないなら東京へ帰れ!」と鉄拳制裁を受けたが、それが意識改革を促すきっかけとなった[49]

プロ入り3年目の1988年シーズンは推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨み[44]、それまでの抑え・斉藤明夫が抑え投手としては球速が遅かったことに加え、中山もオープン戦で先発をテストされたが5回まで持たなかったため、古葉監督の提案で抑えに転向した[50]。中山自身は抑え転向を古葉から言い渡された当初「抑えの場合は調整法がわからないし、高知商高出身の先輩には鹿取義隆さん(巨人)・中西さん(阪神)のように抑え投手が多いが、自分は先発を目指したい」と先発投手への強いこだわりを見せていたが、古葉が中山を抑えに転向させた理由は「今年からは延長12回制となったから切り札・斉藤の前にもう1人抑えが欲しかった。性格が強気で速い球を投げられる投手は中山しかいない。短いイニングなら集中力を持続でき、先発時に集中力を欠いてミスをすることも少ないだろう」という見立てだった[49]。実際、抑えに転向した当初こそ調子を乱し撃ち込まれたが、古葉は期待の裏返しとして「中山と心中する」と宣言し、中山も抑えに慣れ、戸惑いがなくなると抑えとして好成績を残せるようになった[49]。同年は新たにスライダーを会得したことで投球に余裕を持つことができるようになり[50]、リーグ最多の70試合に登板して10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、中日ドラゴンズ郭源治ロッテオリオンズ牛島和彦に並んで「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた[51]。同年は救援投手ながら規定投球回に到達する活躍を見せたほか、オールスターゲームでは第2戦・ナゴヤ球場(7月25日)、第3戦・東京ドーム(7月26日)と2戦連続で勝利投手となった[52]。また同年11月5日開幕の日米野球大会(読売新聞社主催)全日本メンバーに選出されたほか[53]、11月19日に平和台野球場で行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦東軍にも選出された[54]。同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した[55]

右投げの速球派投手として活躍していた中山だったが[32]、大洋にとっては「即戦力」とみなされたため古葉監督時代にリリーフで酷使されたことから肩・腰を痛めてしまい[31]、プロ入り4年目となる1989年シーズンは45試合に登板して1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わった[56]。同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した[56]

故障から「これで終わり」と言われた中山だったが、高校の大先輩・須藤豊が監督に就任したプロ入り5年目の1990年シーズンは先発ローテーション投手として復活し[31]、27試合に登板して8勝12敗・防御率3.92の成績を残した[57]。同年4月7日にナゴヤ球場で開かれた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手を務めたが[58]、それから3週間にわたっては未勝利に終わっていた[59]。しかし4月28日に高校時代に活躍した思い出の地・阪神甲子園球場にて開かれた阪神タイガース戦で市川和正とバッテリーを組み、投げては完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、打っては5回表に一死三塁の場面で自らセンター犠牲フライを打って1点を取り、その点を決勝点として守り切ったことで同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った[59]。完封勝利はプロ入り2度目で[60]、それまで開幕投手を務めながらも苦戦していた中山に対し、須藤監督は「甲子園は彼にとって思い出の場所だろう。本来は試合に勝ってからだが、中山へのおまじないでマウンドに立つ前に(母校の校歌を)歌ってやろう」と母校の校歌を口ずさんでおり、試合後にも中山とともにベンチ裏で再び校歌を歌った[59]。同年はオールスターゲームにも通算2度目の出場を果たし[32]、オフの契約更改では12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を保留し[61]、12月25日になって推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改した[62]。また逮捕されるちょうど1年前となったこの日には入団後まもなく知り合った当時21歳の女性と婚約し[31]、翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが、同年は成績不振だったため巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた[63]

プロ入り6年目となった1991年シーズンも2年連続で開幕投手を務めたが、春先こそ好調だったものの6月8日の試合[64]札幌市円山球場・中日戦)[65]では6点リードを守れず降板した[64]。それ以降は成績が下降線たどり、夏場は先発で6連敗するなどエースとしての期待に応えきれず、8月には二軍落ちした[64]。二軍落ちした際に中山を指導した二軍投手コーチ・野村収は『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹の取材に対し「当時も悩んでいた様子はなかった」と証言した[65]。同年は先発20試合を含め27試合に登板して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だった[66]

しかしプロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ[32]、大洋球団のエース級投手として活躍しており[4]、シーズン終了後の同年12月6日には翌1992年度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していたほか[注 5][67][68]、同年10月には横浜市緑区若草台(現:横浜市青葉区若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て[69]、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉も含めて5人で新生活を送っていた[63]

連続強制わいせつ事件[編集]

※以下、肩書などはいずれも当時のものとする。また時刻はいずれも日本標準時(JST・UTC+9)で統一する。

しかし1991年11月上旬には肩・腰などを痛めたことで沖縄の秋季キャンプから離脱し、それ以降は横浜大洋ホエールズ総合練習場神奈川県横須賀市長浦町)で練習していたが[3]、本人によれば沖縄秋季キャンプ離脱以降は「何をやっても嫌な状態で野球に対するやる気がなくなり、精神的に不安定な状態」に陥っていた[70]

1991年11月12日15時5分ごろ、中山は横須賀市内の横浜大洋ホエールズ総合練習場で練習をしてから横浜市緑区若草台の自宅へ車で帰宅していた途中[3]、横浜市金沢区六浦町の住宅街で近隣住民の小学4年生女子児童(事件当時10歳)に対しスカートの裾から手を入れるわいせつ行為をした[71]。その直後となる同日15時10分ごろには住宅街で小学5年生少女(当時11歳)に対し自分の下半身を露出したままスカートの上から尻を触るわいせつ行為を行い[71]、さらにその直後となる15時15分ごろには同じ場所付近にあった建物の階段で帰宅途中だった幼稚園児の女児(当時6歳)をいきなり後ろから抱き上げ[3]、下着を脱がせるなどわいせつな行為をした[31]神奈川県警察が事件現場周辺を調べたところ、現場には犯人の体液が遺留されていたほか「犯人が犯行後に被害者へ手を振り『バイバイ』と声をかけていた」とする証言も得られた[71]

被害者3人はいずれも同じ団地の住人だったほか、事件現場となった団地中庭は住宅街の中でも人通りが比較的少なく以前から痴漢が出没していた場所だったため、地元の警察署(金沢警察署)が街角・公園などに「変質者に注意」という内容の看板を掲げていた[71]。横浜市内では同年秋ごろから女児への連続強制わいせつ事件が発生していたことから県警は捜査本部を設置した上で[72]、12日の事件を同一犯の仕業と推測し[32]、被害が多発した時間帯に現場付近を捜査員が警戒するなど張り込み捜査を進めていた[72]。その結果、2日後の11月14日15時ごろには[4]、白・グレーのツートンカラーのベンツに乗った若い男が現場付近で車を降りて周辺を約15分間うろついたり[3]、女児に声を掛けたりするなど[32]、不審な行動を取る姿が捜査員により確認された[3]。そのため車のナンバーを照会したところ中山が割り出されたほか、ベンツを尾行して捜査を続けたところ[3]、その後も同月中計4回にわたり現場でうろつく中山の姿が目撃された[4]。そして神奈川県警が被害者の子どもたちに中山の顔写真を見せたところ、証言から「中山に間違いない」との結論が出た[72]

また被害者少女が犯人の顔を覚えていたため[71]、近隣では事件発生とほぼ同じ11月中旬ごろから子供たちの間で「ベンツに乗ったパンダ顔の男に気を付けよう」という話が広まっており、地元の小学校は在校児童たちに注意を呼び掛けたほか、町内会でも痴漢に注意するよう回覧板を回したり、子供会の集会などでも16時30分を過ぎると親が子供を迎えに行くなど自衛策を講じていた[73]。同年11月中旬過ぎ時点では一部マスメディアに対し「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れてはいたが、地元紙記者は『週刊文春』(文藝春秋社)の取材に対し「同年10月1日に旭区内で行方不明になった小学3年生の少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐにシロと判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるように慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した[31]

一方で中山は逮捕前の同年12月16日 - 23日にかけ[64]山形県・大野目温泉で[74]若手投手らの自主トレーニングに交じって参加しており、シーズン中に出た腰痛を治すためプールで水泳を行い、逮捕される前日(24日)朝に横浜へ帰っていた[64]。24日昼には買い物のため出歩いていたところ、横浜市中区内の球団事務所があるビルの入口で大洋球団社長・岡崎寛と偶然出会い、普段通り挨拶をしていた[75]

逮捕・送検[編集]

捜査結果を受けて捜査本部が1991年12月25日朝から中山を被疑者として任意同行した上で追及したところ、中山が1991年11月12日の2事件(それぞれ11歳・6歳の女児2人に対する強制わいせつ・公然わいせつ事件。時系列順では2・3件目)についていずれも容疑を認める供述をしたため、神奈川県警捜査一課・金沢警察署は同日夕方に強制わいせつ公然わいせつの容疑で中山を逮捕した[3]。取り調べに対し中山は「11月上旬に腰などを痛めたため沖縄の秋季キャンプから帰ってきたが、婚約者の女性と会えず欲求不満が溜まっていた。(女性の)年齢が高いと自分が『大洋の中山投手だ』と分かってしまうので小さな子を狙った。大変恥ずかしいことをしてしまった。深く反省している」などと供述した[4][72][32]

神奈川県警捜査一課・金沢署は1991年12月26日午後、強制わいせつなどの容疑で中山を横浜地方検察庁送検した[76]。中山は捜査一課・金沢署による取り調べに対し、逮捕容疑の強制わいせつ事件2件に加え「2件の事件と同じ1991年11月12日に小学4年生の女子児童(当時10歳)の体を触るなどわいせつ行為をした」と3件目(時系列順では最初)の犯行を自供した[77][78]。同事件は神奈川県警もこの時点まで把握していなかったため、県警は余罪を追及すべく[31]、3件目の犯行についても裏付けが取れ次第被疑者・中山を追送検する方針を決めた[78]。その上で捜査一課は26日までに身体検査令状などに基づき[77]、事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、その血液を事件の際に残された犯人の資料とともに科学警察研究所へ提出してDNA型鑑定を実施することを決めた[79][80]

横浜地検は1991年12月27日午後、「逮捕容疑2件の立証のほか、ほかの類似事件との関連についても取り調べるため」として横浜地裁へ中山を10日間拘置することを請求して許可を得た[81]。中山は10歳女児に対する事件に関しても強制わいせつ容疑で横浜地検へ追送検されたが[82]、翌1992年1月4日までに逮捕容疑の強制わいせつ罪2件について[83]、中山と被害者との間で示談が成立したため[注 6]、いずれも被害者側が告訴を取り下げた[85][86][83]。これを受けて横浜地検は同日に親告罪である同罪について被疑者・中山を1992年1月6日付で不処分とした上で、残る公然わいせつ罪については「既に社会的制裁を受けており本人も深く反省している」として、同じく1992年1月6日付で起訴猶予処分とすることを決めた[85][86][83]。その上で横浜地検は同日、勾留期限の切れる翌5日付で中山を釈放することを決めた[82][85][86][83]

1992年1月5日未明、横浜地検の取り調べを受けていた中山は処分保留のまま拘置先・金沢署から釈放された[87][88][89]。横浜地検は翌1992年1月6日付で強制わいせつ容疑について「被害者との示談が成立し告訴が取り下げられた」ことを理由に不起訴処分としたほか、公然わいせつ容疑についても「既に社会的制裁を受けており、本人も反省している」ことを理由に起訴猶予処分とした[90]

球団・球界の動向[編集]

中山が逮捕された1991年12月25日は球団職員の忘年会が行われ、球団事務所に「中山が強制わいせつ容疑で取り調べを受けている」と第一報が入った18時30分ごろにはほとんどの社員が出払っていたが、事態を知った若生照元・取締役球団本部長以下社員らは慌ただしく電話対応に追われた[91]。19時過ぎには「逮捕」の情報が入るとともに金沢署が中山を逮捕した旨を記者会見で発表したが、その直前に「中山がそのようなことをするとは想像できないし噂にも聞いていなかった」と述べていた若生の表情は「疲労・焦燥の色が濃い」ものだった[91]。逮捕を受けて同日夜には大洋球団代表・桜井薫が横浜市中区内の球団事務所で会見し、球団社長・岡崎寛のコメントを代読する形で「青少年に夢を与えるプロ野球選手がこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳なく、深くお詫びする。球団としても管理不行き届きを陳謝したい。処分はあす(26日)決めるが、厳しい処分を考えざるを得ない」と述べた[4][72]

大洋球団では1987年のシーズン開幕日に若手数選手が傷害事件を起こして警察の取り調べを受けたことはあったが、今回の強制わいせつのような悪質な犯罪容疑で一流選手が逮捕されたケースは同球団に限らず球界としても前代未聞の大事件だった[64]。プロ野球の現役スター選手が性犯罪で逮捕されたこの事件は大洋球団のみならず、神奈川県民・横浜市民やプロ野球選手に憧れる少年を含めた野球ファン・球界関係者らにも大きな衝撃を与えた[92]

  • 地元・横浜市の高秀秀信市長は「ファンとして『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、事実とすれば非常に残念だ。市長としては子供に対するそういう事件(性犯罪事件)は『市内で起きてはならないこと』と思う」とコメントしたほか[92]日本野球機構(NPB)・吉國一郎コミッショナーも「驚いた。事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。球団などからはまだ事情を聴いていないが『甚だ遺憾』の一言だ」と声明を出した[4]
  • また逮捕のニュースを受け、当時同市磯子区少年野球チームに投手として所属していた大洋ファンであった12歳の男子児童は『朝日新聞』の取材に対し「中山投手には2年前(1990年)、抑えを務めていた時に握手してもらいサインももらった。初めて会ったプロ野球選手なので嬉しかったのにショックだ。大洋は投手の層もそれほど厚くないし、若手中心のチームだから大切な投手の1人なのに…」とコメントした[92]
  • 熱烈な大洋ファンとして知られていた作家の中野孝次は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、八百長みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と憤った[92]

大洋球団は翌26日9時から球団事務所で[68]、岡崎球団社長や若生照元・球団本部長ら球団幹部6人と弁護士2人の計8人により[93]、中山に対する処分を決める緊急幹部会議を開いた[68]。その結果、球団は中山との翌年度の契約を白紙に戻し[68]日本プロフェッショナル野球協約第66条に基づき「次年度選手契約締結の権利を保留する選手」(保留選手)、すなわちこの時点では「契約未更改の大洋選手」扱いとした上で[94]、処分は「捜査当局の結論を待ってから解雇も含め厳しく対応する」ことを決めた[95][68][94]。約1時間半の会議終了後、記者会見に応じた岡崎球団社長は「夢を与えるプロ野球関係者がこのような事件を起こしたことに対し深く反省するとともに、被害者やその家族の皆様に深くお詫びする」とコメント・謝罪した[68]。同日には高校の後輩・中山が起こした不祥事を受けて故郷・高知県に帰省中だった須藤監督も急遽横浜市へ戻って球団事務所入りし、15時10分過ぎから開かれた記者会見で被害者・球界関係者及び社会に対し深く謝罪した[96]。その上で須藤は身柄を球団に一任した上で監督解任を含め自身へのペナルティを申し出たが[93]、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが須藤の監督解任は考えていない」と語った[96]

同日は夕方から岡崎・須藤両名に加え、桜井球団代表・岡田典一総務部長らが加わり善後策の協議を重ねたほか、東京都中央区銀座日本野球機構(NPB)会議室でも吉國一郎NPBコミッショナー・川島廣守セントラル・リーグ会長・原野和夫パシフィック・リーグ会長ら球界首脳が出席して実行委員会を開いた[93]。セ・リーグは実行委員会後に緊急理事会を招集し、川島が「さらに管理の徹底に注意してほしい」と強く訴えたほか、桜井球団代表が全理事に対し「迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪した[93]。その後、川島は桜井とともに記者会見した際に「今回の事件でプロ野球の信用が失われ、取り返しがつかない。同情の余地は全くない。球団は厳重に処分すべきだ」と述べた[93]

岡崎球団社長・桜井球団代表は同年12月27日、東京都千代田区大手町大洋漁業本社にて中部慶次郎球団オーナーに事件の報告をし[97]、さらに東京・内幸町のコミッショナー事務局やセントラル・リーグ事務局もそれぞれ訪れ、吉國NPBコミッショナーや川島セ・リーグ会長にそれぞれ「ご迷惑をおかけします」と陳謝した[97]。大洋球団は同日が仕事納めとなったが、例年実施されていた会食が取りやめになるなど事件が影を落としており[98]、岡崎は苦渋に満ちた声で「今年は(開幕投手を務めた)中山で始まり、中山の大暴投で終わった」[99]「来年は事件が早く解決し、チームが飛躍できる年にしたい」と話した[98]。また大洋球団は同日、所属全選手に対し「中山の契約白紙処分」について球団の方針を説明した上で、岡崎社長名義で自己管理を呼び掛けた文書を発送した[97]。吉國NPBコミッショナーは同日にコミッショナー事務局にて記者会見し、日本プロ野球の最高責任者として初めて本事件についての考えを明らかにした形となったが、「中山投手が再びマウンドに立つのは難しいか?」との質問に対しては「事件が事件だけに難しいだろう。DNA型鑑定もするというし、報道されている警察の発表が事実なら残念だ」と厳しい見解を示した[97]

1992年1月4日には中日ドラゴンズ落合博満選手が横浜市内でトークショーを開き、事件について言及した落合は「情状酌量の余地があるならば」と前置きした上で以下のように発言した[100]

  • 「もし自分が被害者の親だったら示談にしても許せないが、中山を自由契約にすることで誰の責任でもなくなる。今の状態だと中山はどこに行っても人の目を気にしなければ生きていけない。罵声・野次を正面から浴びせられるマウンドで償うチャンスを与えてはどうだろうか。大洋球団やセ・リーグ連盟が見守った上で、中山に恥をかかせながら更生の道を探るべきだ」[101]
  • 「(中山を)切り捨てることは簡単だが、将来のことを考えると球界復帰への道をつけてやってもいいのではないか?この事件で(球界を引退して)社会に復帰したとしても中山を受け入れてくれるところはもうないだろう。それなら『更生の道は野球から着けてやるべきではないか?』と思う」[100]

中山の事件はプロ野球のスター選手が引き起こした事件とあって社会的影響は計り知れなく大きく、球界の風当たりも「解雇」「永久追放」が囁かれるなど厳しい情勢にあったが、ドラゴンズの親会社である中日新聞社が発行する『中日新聞』はこの落合の発言を「注目すべき発言」と報道した[100]

中山が釈放された1992年1月5日、岡崎球団社長は14時から球団事務所で記者会見し[102]、100人近い報道陣を前に「事件の被害者やご家族に多大なご迷惑をおかけし、社会をお騒がせしましたことを心からお詫び申し上げます」と陳謝した[103]。一方で中山は釈放後に緑区内の自宅へ帰宅し、岡崎による記者会見後となる15時15分から約1時間にわたり若生球団本部長・荒木球団管理部長と面接した[102]。約1時間にわたって中山から事情を聴いた若生は「中山は反省の色が濃い」と述べ、球団側としても中山の事情聴取を終えたことで翌6日にも処分を決めることとなった[103]。この時、『神奈川新聞』1992年1月6日朝刊では「当初、球団は解雇も含め厳しい処分を検討していたが、早期に被害者側と示談が成立したことで球団内では『最悪の事態は回避できた』という雰囲気が強い。処分は解雇にまで至らない可能性が出てきた」と報道されていた[102]。また須藤監督は「中山を何とか更生させたい」と考えていたため、大洋球団は不起訴処分が決まったことを受けて同日にセ・リーグ連盟へ「中山を球団に所属させたまま『無期限謹慎処分』に処した上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和する」ことを打診した[104]。これは大洋球団にとって「中山は故障が治れば2桁勝利(10勝)できる投手」だったことから、試合に出場できない身分の中山に対し月額約53万円の保留手当を支払うことになってでも中山を将来的に復帰させることを目論んでいた事情もあったためだったが[84]、連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として処分差し戻しを求め、須藤監督は戸惑いつつも最終的には連盟の対応に従い中山の契約解除に至った[104]

大洋球団解雇[編集]

大洋球団は本事件が野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることに基づき[93]、1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇して中山の保留権を放棄した上で[6]、統一契約書式第26条に基づき[7]中山を自由契約選手とすることを発表した[5][105][106]。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放されており前途もある中山に対しあえて「野球生命を事実上絶つ」という厳しい処罰を下した背景には「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮した結果があった[106]

中山は野球協約上「自由契約選手」となったため他11球団とは契約できる形式ではあったが「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:会田豊彦)で逮捕された中山の獲得に直ちに動く球団はなく[7][106]、推定年俸2,650万円という収入が絶たれた中で孤独な練習を長期間続けて「プロの投手の実力」を保つことは精神的・物理的にも至難の業となった[106]。また川島廣守セ・リーグ会長は声明文の中で「『中山選手本人が社会的に立派に更生できる』ということが確認される時点までは『全12球団が中山選手との選手契約を無期限に行わないようにお願いしたい』」(無期限契約自粛)と要望したことから、球界復帰は可能性こそ残されたものの極めて困難なものとなった[7]。その一方で中山は「失格選手」の烙印を押されれば「その後は野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」ことから、実質的に形式上とはいえ復帰への道を残したことは「せめてもの温情」とされた[106]。またこれに加えて大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した[5]

球団事務所で記者会見した岡崎は「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」と沈痛な面持ちで話した上で[6]「大洋球団としては将来も中山と契約する意思はない」ことを明らかにした[5]。一方で岡崎は「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」と話し[6]、球団として将来的に中山が更生してプロ球界に復帰するか、それ以外に社会的に復帰する場合に援助する姿勢を示した[5]。この処分を受け川島セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントしたほか、吉國NPBコミッショナーも「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした[6]。吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を自由契約選手として公示した[107][108]

中山が着用していた背番号19は1992年に「事実上の永久欠番扱い」となったが、「横浜ベイスターズ」への球団名変更が決まった直後の同年のドラフト会議で1位指名された日本石油小桧山雅仁が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示し、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と快諾したために欠番状態は1年で解消した[109]。その後、小桧山・戸叶尚杉本友染田賢作と19番を着用した選手は芳しい成績を残せなかったが[109]、「横浜DeNAベイスターズ」に名称を変更してからは2015年に入団してから19番を着用している山崎康晃が抑え投手として活躍している。

解雇処分を受けて球界関係者からは以下のような反応が示された。

  • 中山の高校時代の恩師・谷脇は「中山は野球を取ったら何も残らない男だから球界復帰へのチャンスだけはどうしても残しておきたいが、そのチャンスが巡ってきても中山が生かすことができるかどうかは不安がある」とコメントした[71]
  • 福岡ダイエーホークス田淵幸一監督は『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)の取材に対し「処分については我々はコメントする立場にはないが、事件の内容が内容だけに厳しい処分はやむを得ないだろう」とコメントした[104]
  • 野球評論家堀内恒夫は「この罪は一生背負わねばならないし、中山はこの罪の重さを考えるべきだ。本人がどう思っているかは知らないが、もう彼は野球界でやるべきではないだろう。彼の今後のことは先輩なり後輩なりが手を差し伸べてやればよいと思う」とコメントし、球界復帰に否定的な見解を示した[104]
  • 一方、後に中山へ救いの手を差し伸べた中日・高木守道監督は「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、アメリカのように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントした[104]
  • 野球評論家・千葉茂は「中山は故郷・高知で四万十川の清掃に取り組むといい。『日本最後の清流』と言われる四万十川で身も心も清め、しかも川の汚濁を防ぐ仕事をすることこそが『更生』というものだろう」とコメントした[104]
  • スポーツライター・近藤唯之は「中山が『野球しかできないから球界に復帰したい』というのは甘えだ。復帰したところで野次を浴びせられてまともに投球できないだろう。それよりも立派な体・体力を生かして若者が嫌う3K(ブルーカラー)職場で肉体労働に従事すべきだ」と述べた[84]

また中山を欠いた状態で1992年シーズンを迎えることとなった大洋球団はその穴を埋めるべく、友利結盛田幸妃新人選手斎藤隆有働克也といった若手投手たちを起用することを余儀なくされたほか、事件による士気の低下も懸案事項となった[110]。結局、大洋は開幕から成績不振に悩まされ、同年5月には須藤監督が早々と監督を辞任した[70]。中山自身はこの点に関して「面倒見の良かった須藤監督を含め多くの人に迷惑をかけて申し訳ない」と述べている[70]

婚約者・家族のその後[編集]

事件後、新生活を送るはずだった横浜市緑区内の住宅は借金が1億円以上残っており維持できなくなったため売りに出さざるを得なくなった[111]

事件当時22歳の婚約者女性は事件後「健気に中山を支えた」として一部マスメディアから「美談」として報道され[112][63]、中山が寺へ修行に入る前に中山の恩師・谷脇と会った際に「中山はもう有名人ではなくサラリーマンとして地道に暮らさなければいけないが、それでもいいのなら一緒にいてやってほしい。それが嫌なら今すぐ別れてくれ」と諭された際には「このまま頑張る」と答えていた[111]。しかし1992年2月6日(書類日付)、婚約者は中山に「婚約不履行となった場合は慰謝料5,000万円を支払う」という内容の書面を書かせたほか、中山が後述のように運送会社で働き始めた当初はアパートで同居していたものの次第にすれ違うようになり、アパートに来なくなった[42]

  • 婚約者側の母親は『週刊新潮』(新潮社)の取材に対し「中山とその家族は被害者側に莫大な慰謝料を支払った一方、あれだけの事件を起こしておいてうちには一切謝りに来なかった。こちらから話し合おうと電話を掛けても名乗った瞬間に電話を切られ、話し合いどころではない。あんな人間に娘をやれるわけがない」と中山を非難し[42]、中山側が「念書は別れることを想定して書かせたものだ」と主張している点については「娘のためにウェディングドレスを用意していた。計画的に別れるつもりならそのようなことはしない」と主張していた[113]
  • また婚約者本人は『週刊現代』『週刊文春』の取材に対し「はじめは自分も中山も互いに別れる気はなかったし、中山は釈放後に『結婚する』と約束した」[114]「婚約破棄は中山が一方的に電話で『母親が“別れたら阪神に入れる”と言っているから別れることにした。約束通り5,000万円払うから別れてくれ』と言ってきた」と証言した[113]
  • 一方で婚約者が書かせた「念書」について[112]同誌の取材に応じた中山の知人は「中山が婚約者に無理矢理書かされたようなもの。2人の交際関係が破局した際に婚約者側がすぐにその書面を持ち出した。中山は婚約者とその母親により計画的に嵌められたとしか思えない」と証言した[42]
  • また中山本人は『週刊新潮』の取材に対し「婚約者は金額だけが空欄の文書を持ってきて『ここに金額を書いて』と言った。彼女は最初に『1億円』と言ったが、自分はそんな約束をしたくなかったものの強く勧められたし、当時は別れることも考えていなかったから冗談半分で書いた。しかしその文書を他の紙に書き写すことを要求され、写した紙は彼女に持ち帰られ、預けていた自分の実印を押されていた」と証言した[42]

このことから1992年5月ごろ、中山が電話で婚約者と会話していた際に「こちらに来てくれないなら別れよう」と言ったところ、婚約者の母親が電話に出て「別れるなら慰謝料を払え」と迫り、6月には婚約者側が横浜市内の中山宅を売買できないように仮処分申請を出した[42]。その後も中山側・婚約者側双方の対立は続き、1992年11月には婚約者側が東京地方裁判所[42]「婚約不履行」を主張して中山を提訴した[112]。また元婚約者は「中山は事件後も反省しておらずヘラヘラしており、事件後には自分に『女の子を産んでくれ。自分の子なら何をしても罪にならない』などと言っていたほか、川島セ・リーグ会長から更生を促すため送られた本も平然とゴミとして捨てていた」などと主張した一方、中山側も1993年1月に「その本は元婚約者が中山家から盗んだものだ」と主張して神奈川県警磯子警察署窃盗名誉毀損で元婚約者を告訴していた[114]。これに加えて中山側は民事訴訟でも元婚約者側に対し「勝手に選手会への積立金500万円・自動車(ベンツ)・家財道具などを持ち出された」と反論し、双方が民事訴訟を起こす訴訟合戦状態となった[112][63]。中山側は当初「非を認めるようなことはしない」として元婚約者側が申し付けた和解案を拒否し、判決で解決を図ろうとしていたが[113]、この民事訴訟合戦は1993年末になって中山側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解した[112][注 7]。前述の中山の知人は『週刊新潮』の取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として和解金額2,500万円を提示した」と証言した一方、元婚約者は1994年8月に『週刊新潮』の取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントし、中日で現役復帰した中山を非難した[112]

また、高知市内に在住していた両親・姉も事件当時は中山やその婚約者と同居していたが事件後に帰郷した[63]。両親は息子が起こした事件の影響で親しかった人と疎遠になったり周囲の人々に泣きながら謝罪したりすることを余儀なくされたが、決して息子・裕章を見捨てることはなく、裕章が現役復帰を果たすまで献身的に支え続けた[70]

浪人時代[編集]

中山は解雇後の1992年1月18日に緑区内の自宅にて事件後初めて報道関係者との会見に応じた[116][117]。会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で、中山自身の希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で行われたが、当時の中山は「釈放後は自宅にこもりきりだった」ことから体重が5kg近く減り顔色も悪くなっていた[116]。中山は会見で「球団関係者やファンに申し訳ない」と改めて謝罪した上で[116][117]、今後の身の振り方について「まだ決まっていない。また野球がしたいというのが本心」と心情を語った[116][117]。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした[116]。なお中山が不祥事を起こした後、高知商高時代にバッテリーを組んでいた岡村英人は中山宛に「俺はお前がプロ野球選手だろうと何だろうと関係ない。俺の中でお前はいつも“中山裕章”だ。高知に帰って来い」と手紙を書いて送った[25]

中山は1992年2月8日から古巣・大洋の亀井進スカウトとともに佛現寺静岡県伊東市物見が丘)へ修業に入り[118]、約3週間にわたり僧侶と同じく「朝5時30分に起床し、1日4度お経を読み、掃除・お守りの販売など雑用をこなす。時には水行などの修業をする」生活を送ったほか、就寝時間には周囲の人々の支えに思いを馳せ「なぜ自分にここまでしてくれるのだろう?どうすれば恩返しできるだろう?」と自問自答していた[70]。その修行の末に「これから自分はプロ野球選手ではないのだから一般の社会人として暮らしていこう」と悟り、「この時点ではまだ中山に社会に出る勇気はなかった」ものの生活費を稼ぐため働きに出ることを決意した[63]。亀井は中山が修行に入った当時、『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので佛現寺を紹介した。住職に性格を見ていただき修行内容・期間を決めてもらう」と述べた[118]

一方で1992年2月13日にはアメリカ合衆国メジャーリーグベースボール(MLB)のコミッショナー事務局がNPBコミッショナー事務局に対しファクシミリ(FAX)通信で「MLBの1球団[注 8]が大洋の中山投手に関心を持っているので身分照会をしたい」という内容の文書を送信したため、それに対しNPBコミッショナー事務局は同日「中山投手は同年1月7日に大洋を解雇された」との事実のみを通知した上で、身分について翌週早々に回答する方針を決めた[121]。NPBコミッショナー事務局は同月18日に「川島セ・リーグ会長が12球団に対し『更生するまで中山と契約しない』ように要望している」ことを踏まえ、MLBコミッショナー事務局からの身分照会に対し「NPB球団と同様に中山との契約を見合わせるように要望する」回答書を送った[122]

  • 吉國NPBコミッショナーはこの件を受け「事件の経緯を説明した上でNPB球団と同様に対応するよう善処を求めた」と述べたほか[122]、中山自身も『週刊現代』(講談社)の取材に対し「アメリカ・韓国台湾など海外に行けばすぐに野球ができるかもしれないが?」[注 9]と記者から質問されると「海外に行くのは苦しい環境から逃げるようだから嫌です。いくら批判を浴びても日本で修業をして厳しい声に耐えていきたいと思います」と回答した[69]
  • この米球界からの誘いに関しては「アメリカでは少年少女への性犯罪はタブーで、それを犯した中山は受け入れられないだろう」と否定的な見方があった一方[120]永谷脩は「アメリカではキリスト教の精神から罪を犯したものでもそれを償えば赦す傾向がある。そのような場所でマイナーリーグ(ルーキーリーグ)から大リーグを目指し、ハングリーな生活をしながらやり直していく覚悟が中山本人にあれば可能だろう」と述べており[101]玉木正之(スポーツライター)も「中山にとっては1人で渡米してシビアな世界で生きていくことこそ社会復帰だろう」と述べていた[120]

中山は寺で修行を終えてから就職先を探したが、当初は事件の影響により数社から断られ、大洋球団職員の紹介[注 10]を受けて元巨人投手・入谷正典[注 11]が経営していた横浜市内の運送会社に就職した[63]。中山は入谷から採用を受けた際に事件のことには触れられず「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスを受け[63]、1992年4月に入社してからは横浜港大黒埠頭鶴見区)にて[111]輸出用の自動車を貨物船に積み込んだり、港湾に運搬するなどの仕事をしていた[63]。当時の中山は磯子区内のアパートに住み、6時半に起床しては職場まで電車通勤する毎日を送っていた[125]。中山の事情は社内でも知られてはいたが、当時の上司は「プロ野球選手だったことからみな歓迎してくれた」と証言しており[111]、中山は自身と同年代の若者が約30人いた社内にすぐ溶け込んだ[125]。当時の月収は手取りにして14 - 15万円程度[70](残業代を含めて20万円弱)で[111]、「食費は1日1000円に抑える」生活を送っていたことから大洋時代のような贅沢な食事はできなかったほか、周囲からは冷たい視線・声に晒され嫌がらせの手紙も多数送られてきたが、中山自身は精神的苦痛と闘いつつ「批判・非難の声は言われて当然だから自分で耐えなければならない」と辛抱しつつ社会生活を送っていた[70]

球界復帰への道[編集]

その一方で事件後は野球中継・野球関連のニュースをほとんど見なかったばかりか[70]、野球道具も「見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」ために押し入れの奥に押し込んでいたが、就職から丸1年が経過したころ社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われたことがきっかけでグラブを押し入れから取り出した[63]。中山はこの時「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」という思いを抱えていた一方で「どうしても野球をやりたい気持ち」も強く[126]、1992年末ごろには職場があった大黒埠頭・アパート近辺で3km - 5kmの距離を毎日ランニングしていたほか[42]1993年3月以降は現役復帰に向けた練習を開始していた[127]。なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚した神奈川県川崎市在住の20歳代家事手伝い女性と知り合った[128]

また入谷が中心となり[63]、横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが[129]「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し[127]、1993年1月7日から「同年2月末までに10万人分を集める」ことを目標に中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始し[129]、同月28日までには横浜市・高知県などを中心に100,387人分の署名が集まった[130]。このころ、署名活動を主導していた入谷は中山に対し「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスしていたため[63]、中山は昼休みには同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった[125]

1993年3月には当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が解雇直後に声明でNPB全12球団に中山との無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長に手渡された[127]。この動きを受け川島セ・リーグ会長は1993年5月28日に「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認めた上で、声明に示した無期限契約回避措置を「早ければ同年6月中旬にも解除する」ことを明らかにした[131][127][132][133]。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難とみられていた球界復帰の道を開くことは賛否両論が渦巻くのは必至の情勢だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした[127][132]。大洋の後身である横浜ベイスターズ・岡崎球団社長はベイスターズによる中山獲得を否定したものの「球団としては解雇したので公式にはコメントできないが、個人的には会長の恩情で自分たち以外の球団が中山を採用し、中山が再び投げられることはいいことだと思う」とコメントした[134]。また後に中山を獲得した中日ドラゴンズはこの時点で中山に関心を示しており[131][132]、伊藤濶夫・球団代表が「汗を流して頑張っている青年に救いの手を差し伸べたい」[114]、中山了・球団社長も「獲得を考えてみようという気持ちはある」とそれぞれコメントした[133]

川島は「中山の投手生命を考えればそろそろ復帰への道を開く時期だ」として私的顧問機関「セ・リーグ懇話会」を開いたが[135]、川島からの諮問を受けて同年6月29日に東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で開かれた懇話会は声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した[136][137][138][139]。その理由は元婚約者との民事訴訟が継続中であったことなどで[139]、懇話会は「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」との理由から声明解除を見送った[138]。懇話会座長を務めた中村稔セ・リーグ顧問弁護士は「少なくとも『元婚約者との間で継続している裁判が片付かない限り、会長声明を解除することは世論が許さないだろう』と懸念している」と理由を説明した上で[136]「今後、和解などで訴訟の問題が解決した場合は再度懇話会を開きたい」と述べた[135]。また解除を検討していた川島も「いろいろな角度から検討していただいた。重く受け止めたい」とその結論を尊重する意向を示した[136]

その後「セ・リーグ懇話会」は1993年12月10日に改めて川島の声明を撤回することを答申し、それを受けて川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした[140][141][142]。同日に記者会見した中村座長は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した[140][141]。これを受けて中山は後見人を通じて「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した[143][141]

1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・児童心理学専攻の大学教授とともに横浜市内のホテルで中山と面接して現在の心境・生活状態などを聴いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した[144][145][146]。中山はこの際、川島に対し「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」[146]「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と話した[144][145]。これを受けて川島は同日午後の球界三首脳会談で吉國一郎NPBコミッショナー・原野和夫パ・リーグ会長に報告して了承を得た上で[146]、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定し、17日の実行委員会で報告後に各球団へ要望の解除を通知することを決めた[144][145]

川島は1994年12月24日に「1993年12月25日付で中山との選手契約自粛を要請した声明を解除する」とする内容の文書を[147]各12球団宛てに郵送したほか[148]、同じく契約自粛を求めていたアメリカ合衆国メジャーリーグベースボール(MLB)に対しても同種の要請解除文書を郵送した[149]。これを受けて以前から獲得を検討していた中日・加藤巳一郎オーナーは同日に「川島会長から『何とかしてほしい』という話は聞いている」とコメントしたほか、伊藤修・中日球団代表も「いきなり選手契約するのではなく、打撃投手など球団職員として採用しようと思う」として積極的な姿勢を見せた[149]

その一方で事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は中山の球界復帰の話が持ち上がった際、『毎日新聞』(毎日新聞社)の取材に対し同年に発覚した江夏豊覚醒剤事件を引き合いに出し「覚醒剤は(直接の)被害者がいないからなぁ…」と不快感を示した[150]

  • また『毎日新聞』記者・中島章隆は1993年12月11日朝刊記事にて球界復帰を認めた懇話会に対し「事件の恐怖に震え続けた被害地域住民の親たちの怒りがわずか2年で消え去ったのだろうか?『若者の過ちを一生許さない』という偏屈な考えを持つつもりはないが、一般大衆やマスコミへの露出度が高いプロ野球選手への復帰が本当に『更生の道』なのだろうか?」と疑問を投げかけた上で「平凡な一市民として普通の生活を送らせてやることが、被害者のためであり若者(中山)のためにもなるのではないか」と主張した[150]
    • 中島は1993年12月28日朝刊記事でも「私企業である中日が誰とどんな契約をしようと勝手だが、現時点で『更生のための契約ではない』として早くも『戦力』として裕章を計算している中山社長の発想は、契約自粛を撤回した川島セ・リーグ会長の『更生プログラム』に明らかに違反しているし、社会的な反発は免れまい。事件は不起訴になり社会的制裁は受けたが、この事件に限らず親告罪である強制わいせつ罪は被害者が裁判沙汰を嫌い示談にするケースが多く、不起訴でも被害者がいることを忘れてはならない。事件を『忘れたい』と示談に応じた同種事件の被害者・家族が新聞・テレビなどで加害者の姿・名前を見た時、どんな感情に囚われるだろう?無節操な戦力のそろばん勘定のレベルで今回の問題を捉えた中日の契約は(青少年の野球人口の先細りによる)プロ野球離れを一段と加速させる結果にしかなるまい」と、中日球団に対し批判的な論調の記事を執筆した[151]
  • 『読売新聞』記者・長谷川一雄も1993年12月12日東京朝刊記事にて「球界復帰が叶ったとして2年間のブランクを経てプロで通用する球が投げられるだろうか。まだ残る世間の厳しい目に耐えられるだろうか?」と疑問を投げかけた上で「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べた[152]

中日時代[編集]

声明解除が正式に通達されたことを受け、以前から中山に関心を示していた中日ドラゴンズ(監督:高木守道)は中山との契約に向けて動き出し[8]、1993年12月27日には中山を打撃投手球団職員身分・1年契約)として採用したことを発表した[8][153][9][154]。同日午後、中山は両親とともに岡田英津也中日球団編成部長と横浜市内で面会し「新人のつもりでやり直したい」として中日の提示条件を全面的に受け入れ、契約に合意した[154]

中日・中山了球団社長は「裕章の獲得が球団のイメージに悪影響を及ぼさないとは言い切れない」としつつも[153]、「彼(裕章)はやってはならない過ちを犯したが、真摯な反省と自戒の2年間を過ごし社会的制裁も受けた。許すことがあってもいい」と獲得に至った経緯を説明した上で「即戦力とまではいかないが、早ければ来年の後半か再来年にも(一軍のマウンドに)出てきてくれるだろう」と話した[154]。中日球団は中山について「2年間のブランクを解消するため、基本的には三軍でコーチをつけて練習させ『実戦で通用する』と判断した時点で支配下選手登録する」方針を固めた[153]。裕章は同日、球団を通して「これまでのことは深く反省している。どうしても野球を忘れることはできなかった。1から出直す覚悟で一生懸命やる」とコメントした[9]

中日が火中の栗を拾う様な形で中山獲得に乗り出した理由は先発ローテーションを担える右投手が不在していた事情があったためで[115]、現役復帰後の1995年3月に発売された『ホームラン』1995年3月号『'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑』(日本スポーツ出版社)では「右の先発ローテーションに入るか?」と記載されたが[155]、中日時代は先発で登板する機会はなかった。

1994年[編集]

球界復帰1年目となる1994年春は二軍の打撃投手として串間市営球場で行われた春季二軍キャンプに参加しつつ実戦復帰を目指した[156]。同年6月10日、中日球団は「練習態度が真面目で、そろそろチャンスを与えてもいいだろう」と判断したことから球団職員・打撃投手だった中山と[156]契約金なし[157]・年俸800万円(推定)・背番号125で選手契約を結び、中山を同日付で支配下選手登録した[156][158][157][159]。同日、ファンの運動により再び現役選手としてプレーする事が可能になった中山は「再び野球ができることに感謝の気持ちでいっぱいです。でも被害者がいる以上、罪は反省し自分の中でも消えるものではない」とコメントした[156][159]。また中山了・中日球団社長は「事件は絶対に犯してはならない過ちだったが、本人は2年以上も深く反省していたし『もうチャンスを与えてもいいだろう』と考えた。二軍で打撃投手を務めさせつつ、投手としての実力のみならず性格も観察した上で復帰を承認した」と述べたほか[156]、川島セ・リーグ会長も「中山君は『過去』というものを償いあまりある努力をしたに違いない。新生・中山が生まれることをファンも期待しているだろう」と談話を発表した[158]

  • 正式に選手登録が発表された際、ドラフト同期の巨人・桑田真澄は中山に電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けた[126]
  • 一方で野球解説者豊田泰光週刊誌AERA』(朝日新聞社)記者・山田ゆかりの取材に対し「はっきり言って不愉快だ。彼が投げるときは口をつぐむ」「中山は人前に出るべきではない。ましてや一軍投手として栄光の座を与えるなんてあり得ない」と厳しい反応を示した[126]
  • また中山が正式採用された1994年6月以降、中日球団や親会社・中日新聞社には抗議・無言電話が殺到し、復帰第一戦の翌日(1994年7月25日)は球団事務所で厳戒態勢が取られた[124]
    • 結果的に中山を受け入れることとなった中日球団の投手コーチ・水谷啓昭は山田の取材に対し「中山が懸命に努力している姿を見てからは応援する気になったが、初めは『冗談じゃないよ』というのが本音だった。『例えば黒い霧事件で永久追放になった選手もいるのに、なんで性犯罪を犯したような選手を雇うのか』と球団への不満もあったし、(結果的に杞憂には終わったが)選手の士気が萎えるなどチームメートへの悪影響も懸念した」と述べた[126]
  • スポーツニッポン』(スポーツニッポン新聞社)編集委員・小川勝は『サンデー毎日』(毎日新聞社)1999年11月14日号に寄稿した記事にて「中山が登板すると試合のテレビ中継でも必要最小限のコメントしかせず、極力言及を避けている。中山を単独で取り上げることは必然的に少女へのわいせつ事件に言及せざるを得なくなることであり、現在のプロ野球報道で一種のタブーとなっているようだ。『球界復帰に当たっては被害者・家族の合意を得た』という話だが、中山が起こした事件は抵抗手段を持たない少女への一方的な性的虐待であり、被害者の少女たちが心の深い層で深刻なトラウマを抱え込んだ可能性がある。そのトラウマの深刻さは少なくとも本人たちが成人するまでわからないもので、その点を考慮すれば中山をわずかな期間で球界復帰させた決定には疑問を抱かざるを得ない」と言及した[160]
  • 村山望は『新潮45』2004年10月号(新潮社)にて「過去の事件のために解説者は中山が登板する際に気を遣ったほか、相手チームの選手にとっても同様に中山は野次りにくい選手だった」と述べた[161]

中山は中日入団以降、当時空白となっていた抑え投手の座を得るために必要な瞬発力を得るべく、ランニングではダッシュを重視するなど重点的なトレーニングを積み重ねており[162]、二軍でのトレーニング中に同僚・野中徹博[注 12]から「体が(感覚を)覚えているものだから大丈夫だ。指はボールを忘れてはいない」とアドバイスを受けた[63]

同年6月21日にはウエスタン・リーグ(ウ・リーグ)の福岡ダイエーホークス戦(ナゴヤ球場)で先発し、1991年10月10日の阪神戦以来となる現役復帰後初登板を果たした[163]。この試合では3回を投げ、打者14人と対戦して5被安打・4奪三振の結果で、山之内健一に高め速球を打たれて本塁打を記録されるなど3失点を喫したが、ブランクを差し引けばまずまずの投球内容だった[163]。同年7月21日には高木守道監督ら首脳陣立ち会いの下でナゴヤ球場にて昇格テストを受け、高木監督から「長いイニングは無理だが、試合の展開次第で投げさせ様子を見たい」と判断を受けたため後半戦からの一軍合流が決定した[164]

翌7月22日、中山は現役復帰後初[165]・大洋時代の1991年10月以来となる33カ月ぶりの一軍選手登録を受け、同日付で背番号も67に変更された[166]。7月23日にナゴヤ球場で開かれた読売ジャイアンツ(巨人)戦からベンチ入りし[166]、翌24日の試合で6回表に5回13被安打5失点の投球内容で降板した先発・山本昌に代わり、中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えた[167]。中山は35,000人の観衆が来場したナゴヤ球場で「前日から『ヤジを飛ばされることも覚悟して思い切って投げろ』と自分に言い聞かせていた」が[126]、マウンドを踏んだ際には多少のヤジこそあったものの[112]、『AERA』記者・山田ゆかりは「中山の耳に届いたのは思いがけず割れるような拍手と『頑張れ』という声援だったため、中山は涙がこぼれかけた」と述べている[126]。また当時は『週刊新潮』の取材に対し「現時点ではまだ80%ほどの出来で速球・カーブとも今一つであり、やはりフォークが一番だ。ゆくゆくは先発で投げてみたいし、お世話になった方のためにも早く1勝を挙げたい」と語った[112]。その後も中日時代は8年間にわたり登板する度に常に野次を浴びせられてはいたが、中山自身は「気にはなっても何も言わない。言ったところで仕方がない」と割り切っていたほか、チームメイトが中山へ野次を飛ばす観客に対し「うるせえんだよ!」と怒鳴りつける場合もあった[70]。中山自身はそのようなチームメイトと同じ球団でプレーしていた中日時代について「中日に入って良かった」と感じてはいたが、事件のことが負い目になっていたためかあまり親密に付き合おうとはしなかった[70]

同年は一軍6試合に登板して0勝0敗0セーブ・防御率5.79の成績で[155]、古巣・大洋時代の本拠地球場・横浜スタジアム(大洋は1993年より「横浜ベイスターズ」に球団名を変更)で登板することはなかった。また同年10月8日にナゴヤ球場で開かれた巨人との優勝決定戦「10.8決戦」でも登板機会はなかった。同年オフの11月15日は推定年俸1,200万円(前年比800万円増)で契約更改し、更改後には「これだけ(年俸を)上げてくれたのは来季の期待料込み。頑張る」と笑顔を見せた[168]

1995年[編集]

球界復帰2年目の1995年は背番号を大洋時代と同じ19番に変更し[155]、アメリカ・アリゾナ州春季キャンプにて600球を投げ込むなど、抑え投手の座を得るべくトレーニングを積み重ねていた[162]。同年はチームが低迷(終盤近くまで最下位・最終順位は5位)する中で[注 13]中継ぎ・抑えとしてチーム最多の44試合に登板し、初勝利を含めて3勝6敗4セーブ・防御率3.27の成績を挙げ[169]7セーブポイントを記録した[170]

同年4月12日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)にて大洋時代・1989年8月11日の阪神戦(横浜スタジアム)以来2,070日ぶり、球界復帰後初となるセーブを挙げた[171]。また同年5月1日には運送会社に勤務しつつ球界復帰を目指していた1993年に知人の紹介で知り合った20歳代家事手伝い女性(当時・神奈川県川崎市在住)と入籍したことを明らかにした[128]。同年5月24日には古巣・大洋の後身である横浜ベイスターズ戦にて現役復帰後初めて横浜スタジアムで登板を果たした。この試合では延長12回裏から登板したが、二死満塁の場面で波留敏夫から右翼線へ抜けるサヨナラタイムリー安打を被弾し敗戦投手となった[172]

同年6月6日には広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて1点ビハインドの8回裏に中継ぎで登板すると、9回表に山崎武司の同点二塁打が飛び出し、延長10回表まで2イニングを投げた[173]。そして延長12回裏には仁村徹の決勝打でチームが勝ち越し、最後は中山の後を継いだ抑え・古池拓一が1点リードを守ったことにより、中山は1991年9月29日の巨人戦以来1,346日ぶりとなる球界復帰後初勝利を飾った[173]。この勝利は中山のプロ復帰への門戸を開いた恩人・高木監督のシーズン途中解任を受けて監督代行を務めていた徳武定祐コーチが指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった[173]

このころには大洋時代の活躍の片鱗が窺えるところまで速球の威力が回復していたが、本人は「まだムラがあり、イメージ通りの速球には程遠い」と満足しておらず、全盛期の「速球で相手打者を追い込み、独特の揺れるフォークで抑える」というパターンを取り戻すべく腐心した[10]

同年オフ(11月30日)にはチーム最高年俸の山本昌が4,000万円減額の1億3,500万円(前年比23%ダウン)提示を受け入れた一方で金村義明が50%減額の提示を保留するなど厳しい契約交渉が続く中、中山は推定年俸2,000万円(前年比800万円増)で契約更改した[174]

1996年以降[編集]

新監督として星野仙一が就任した1996年はチームの投手陣で唯一、前半戦77試合で二軍落ちすることなく一貫して一軍で過ごした[175][176]。同年は抑え投手候補として韓国球界ヘテ・タイガースから加入した宣銅烈の不調を受け、力のある速球・フォークを武器に宣に代わる抑え投手として活躍した[177]。後半戦には前半戦に比べて調子を落としたものの球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み[177]、36試合に登板して4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した[170]。同年オフには推定年俸4,500万円(前年比125%アップ、2,500万円増)で契約更改した[178]

同年7月11日にはセ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦によりサンヨーオールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)に選出されたことが発表され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした[179]。野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で[179][180]「本人は魔が差してしまったこともあったが(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した[179]。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶して「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)清原和博選手(西武ライオンズ所属)と対決して抑えたい」と抱負を語り[179]、『中日新聞』の取材に対しては「前半戦の内容はそんなに良くない。選ばれた以上は打たれないよう一生懸命に投げる」と述べた[181]。そのオールスターゲームでは1996年7月23日に富山市民球場アルペンスタジアムで行われた第3戦にて先発投手・斎藤隆(横浜)の後を継ぎ[182]、3回表に二番手投手として登板した[183]イチローオリックス・ブルーウェーブ)・村松有人秋山幸二(ともに福岡ダイエーホークス)・清原の計4人と対戦し、この回の先頭打者(1番打者)・イチローに右中間三塁打を打たれると続く2番打者・村松の中犠飛で球宴初失点(1点)を喫したが[182]、2死で迎えた清原を145km/hの速球で空振り三振に打ち取り[183]、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した[184]

1997年はチームがナゴヤ球場に代わる新本拠地・ナゴヤドームに対応しきれず最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板して投球回76イニング2/3[注 14]を記録した[186]、同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため自身のセーブはゼロに終わったが[186]、守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し[187]、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり・球界復帰後では初となるシーズン7勝を挙げた[186]。しかしその一方で6敗して防御率も4.34と思わしくなく、本人は「大事な場面で打たれた不本意なシーズンだった」と振り返ったほか[188]江川卓も課題点として「防御率の高さに加え、速球の力強さが失われ奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減った。暴投も6回と多い」点を挙げていた[185]。同年オフ(12月1日)には推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した[188]

1998年は中継ぎエースの座を確立すべくシーズンに臨んだが[187]、同年は故障のため一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板したのみで[189]、二軍戦でもわずか6試合の登板に留まった[190]。当時の投手陣では豊富な実績・経験から落合英二とともに中継ぎエースとして期待されていたが、シーズンの大半を棒に振ってしまったことから、中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わったチームの首脳陣からは幾度となく「あいつがいれば…」とため息が漏れた[191]。同年オフにはフリーエージェント(FA)資格を取得したが[192]、FA権を行使せず残留して推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した[193]

1999年はチームがプロ野球タイ記録となる開幕11連勝を記録した際に11試合中4試合でリリーフとして登板し、いずれの試合でも「打たれれば連勝がストップする」ピンチを無被安打で切り抜ける快投を続けた[194]。特に11連勝を決めた4月16日の巨人戦(東京ドーム)では先発したサムソン・リーの後を継いで8回表から登板して1回を三者凡退に抑え勝利に貢献したほか、優勝に向けて負けられない9月18日・横浜戦(横浜スタジアム)でも延長11・12回を投げ抜いて勝利に貢献した[194]。同年はリリーフのみで31試合に登板して3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した[195]福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した[196]。11月24日には名古屋市内の病院に入院して両膝半月板の手術を受け[197]、12月3日には推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した[198]

2000年は守護神・宣が引退したことからその後継者候補として期待されたが[199]、両膝手術の影響により落合とともに前半戦を棒に振り[200]、リリーフで25試合に登板したが[201]、徐々にチームが投手王国となり落合・正津英志岩瀬仁紀らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。同年11月28日には来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した[202]

2001年は一軍でわずか4試合の登板に終わり、同年10月12日には小池秀郎鈴木平永田能隆とともに球団から戦力外通告を受けた[203][204]。同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで中日を退団した[205]。同日までに開かれた12球団合同トライアウトには計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球韓国KBOリーグへの移籍を視野に現役続行を目指した[206]

台湾球界時代[編集]

合同トライアウト受験後の2001年12月、横浜を退団した小桧山雅仁(中山の退団後、ベイスターズで最初に背番号19を着用)とともに台湾中華職業棒球大聯盟(CPBL)の和信ホエールズ(翌2002年シーズンより「中信ホエールズ」に球団名を変更)に入団した[207]

中信では大洋時代の1991年以来となる先発投手に転向してエース格投手として活躍し[208]2002年は12勝10敗、翌2003年も13勝4敗と2年続けて好成績を残した[209]。『毎日新聞』2003年10月7日東京夕刊・大阪夕刊記事「憂楽帳」(記者:飯田和郎)は当時の中山に関して「台湾プロ野球はNPBに設備・待遇面で劣ることから試合後は夜食にコンビニ弁当を食べて空腹を満たしたこともあったが、『野球をやらせてもらっている』喜びが体に満ちた」と報道している[210][211]

2003年9月時点で12勝を挙げていたが[212]、肘の故障に加え[210][211]、同月には中信球団に「妊娠中の妻が第一子出産[注 15]を控えて日本に帰国しているため、出産前に帰国して面倒を見たい。今季限りで退団・帰国する」と申し入れた[212]。これに対し中信球団側は「主力投手として活躍し、郭李建夫(元阪神)とともに若手にアドバイスを送るなどしてチームに貢献している上、台湾の公用語である国語標準中国語)も覚えてチームの人気者になっている貴重な選手だ。来季(2004年)も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった[212]

郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとはいえ、まだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした[213]。2003年9月21日、台北市立天母棒球場で開かれた兄弟エレファンツ戦で同じく日本人投手の横田久則(元西武・ロッテ・阪神)と投げ合い、3失点を喫するも完投して13勝目を挙げて有終の美を飾った[213]。この試合前、中信・林仲秋監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた[213]。試合後、中山はヒーローインタビューで満員のファンに対し「2年間ご声援いただきまして本当にありがとうございました。残念ながら総冠軍戦(台湾シリーズ)には出場できませんでしたが、来年こそはチームの優勝を祈っています」とコメントし[213]、同年限りで現役を引退した[210][211]。この引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は前述の記事「憂楽帳」にて「『日本で二度死んだ男(大洋・中日をそれぞれ解雇された)』=中山は『人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べた『“台湾で過ごした日々が自分を成長させてくれた”と思えるようになりたい』という言葉を信じたい」と記している[210][211]

現役引退後[編集]

現役引退後には男児(長男)が誕生し、かつて修行に入った佛現寺の住職から命名を受けた[70]。台湾で築いた人脈を通じて実業家への転身を目指し[161]、2004年には『週刊アサヒ芸能』(徳間書店・2004年5月20日号に掲載)の取材に応じて「1991年の事件後の生活・球界復帰までの経緯」や「『自分が子供を作っても良いのか?』という不安があったこと」などを話した[70]。またこのころには新たな事業を始めるため中華人民共和国(中国)の工場を視察しており、記者から「大洋でエースだった時代が黄金時代だったのか?」と尋ねられると「これからだと思う。家族のためにこれから頑張らなければいけない」と答えていた[70]。なお同年にはノンフィクションライター・村山望が中山の実家・友人を介して中山本人と連絡を試みたが、中山はその直前に商談のため台湾へ出張していた[161]

その後はメディアへの露出を控えているが[25]、『週刊アサヒ芸能』2015年8月20日号は「現役引退後は貿易業を行っている」と報道しているほか[214]、高知商業高校時代にバッテリーを組んだ捕手・岡村英人(現:高知商業高校野球部部長)は2016年に『Sports Graphic Number』(文藝春秋社)記者・鈴木忠平の取材に対し「(中山は現在)自分で事業を頑張っている」と証言した[25]

選手としての特徴[編集]

高校時代は最速150km/hを記録する速球を武器に甲子園で活躍し[1][21]、1985年に夏の甲子園で対戦した清原は自著で中山を「当時から桑田と並ぶ大会屈指の好投手として注目されていたが、肝っ玉も超高校級だった」と評した[24]。ドラフト会議当時は「がっしりとした体格から最高150km/hの速球を投げ込む高校球界きっての剛腕投手。打力もAランク」[35]「桑田以上の球速を誇る重い速球の持ち主。将来性は高校の先輩である中西清起(阪神)・津野浩日本ハムファイターズ)以上」と高く評価されていた[33]

プロ入り当初の持ち球は速球・カーブスライダーシュートフォークボール[37]、大洋時代は右投げの速球派投手としてリリーフ・先発で活躍したほか[215]、中日時代は力のある速球に加えて「ストライクを取るフォークと空振りを取るフォーク」と2種類のフォークを武器に中継ぎ投手として活躍し[177]、『月刊ドラゴンズ』(中日新聞社)1999年10月号優勝記念臨時増刊号「'99Vの軌跡」では「ロングリリーフが苦もなくこなせる中継ぎエース。好調時には先発も任せられるほどの好投を見せた」と紹介された[216]

人物[編集]

1985年夏の甲子園では『週刊ベースボール』で「胸囲95cm・太腿62cmで、ズボンのサイズはLLより2段階も大きい。甲子園のマウンドを土俵にしたいような巨漢投手」と形容され、チームメイトたちからは同じく高知県出身の大関朝潮に由来する「朝潮」のニックネームで呼ばれていたが[12]、『週刊ベースボール』1986年2月3日号誌上にて行われた小林繁との対談では「朝潮さんはそこまで好きというわけでもない」と答えている[37]

また甲子園でライバルとして戦った清原・桑田とも1985年夏の日米韓三国対抗高校野球大会にてともに日本代表として選出されてからはそれぞれ仲良くなっていた一方、小林との対談では「清原・桑田には負けたくない。特に桑田は同じセ・リーグだから桑田に勝つことが目標だ」と抱負を述べていた[37]。またその対談では小林から「(同じく高知県出身の)坂本龍馬は好きか?」と質問され、「高知の田舎から政治を変えていった龍馬はすごいと思う。龍馬のように自分の思ったことを積極的にいろいろ考えてやっていきたい」と答えている[37]

大洋時代には『読売新聞』の取材に対し、同じ速球派投手としてノーラン・ライアンを「尊敬する投手」として挙げており、1989年1月16日付の同紙朝刊記事では「時に帽子を振り飛ばすほどの力強い力投は“弱小大洋”の中で1人気を吐いた『和製ライアン』」と紹介されていた[215]。また1991年の事件当時は「金太郎」の愛称で親しまれるとともに「営業マンとしてもやっていける」と言われる腰の低さから「球界でも屈指の好青年」として知られており[4]、『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹は事件当時「誰もが中山に対し『正直でまじめな男』というイメージを持っていた」[64]「『決して誰にも見せないような別の一面』があったとでもいうのか?婚約者との入籍が延び延びになってはいたが、私生活の面でも『普通の男性・野球選手』という以上のことは聞いたことがなかった」と述べた[65]。また二軍投手コーチ・野村収は文平の取材に対し「性格は几帳面で少々のんびりした面もあり、このような事件を起こすなど信じられない」と証言した[65]

また1991年の事件当時は前述のようにベンツが愛車だったが、中日時代の1998年版選手名鑑(日刊スポーツ出版社)では「愛車はトヨタ・セルシオ[217]、1999年版選手名鑑(ベースボール・マガジン社)では「愛車はレクサス」と紹介されていた[190]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1986 大洋 18 5 0 0 0 0 3 3 -- .000 194 44.0 44 3 15 0 3 15 1 0 34 25 5.11 1.34
1987 33 20 2 1 0 5 12 0 -- .294 568 132.1 147 17 44 2 0 81 8 2 78 76 5.17 1.44
1988 70 0 0 0 0 10 6 24 -- .625 597 142.1 124 11 52 10 3 118 9 1 40 36 2.28 1.24
1989 45 1 0 0 0 1 10 17 -- .091 346 79.0 81 17 32 6 3 68 2 0 39 36 4.10 1.43
1990 27 21 5 3 0 8 12 0 -- .400 653 153.2 157 14 44 5 8 89 3 1 71 67 3.92 1.31
1991 27 23 3 2 0 8 10 0 -- .444 672 156.1 152 25 58 1 6 107 4 0 77 73 4.20 1.34
1994 中日 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 20 4.2 8 1 0 0 0 3 0 0 3 3 5.79 1.71
1995 44 0 0 0 0 3 6 4 -- .333 225 52.1 56 7 11 2 2 49 8 0 23 19 3.27 1.28
1996 36 0 0 0 0 4 4 14 -- .500 170 40.2 32 3 16 2 0 42 3 0 15 13 2.88 1.18
1997 53 0 0 0 0 7 6 0 -- .538 330 76.2 67 10 32 3 7 54 6 1 41 37 4.34 1.29
1998 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 7.0 4 0 2 1 0 2 0 0 0 0 0.00 0.86
1999 31 0 0 0 0 3 1 0 -- .750 146 37.0 31 2 12 1 1 16 2 0 13 13 3.16 1.16
2000 25 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 116 28.1 23 3 9 1 2 22 1 0 10 7 2.22 1.13
2001 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 6.2 7 1 2 0 0 3 0 0 4 4 5.40 1.35
2002 中信 34 24 7 3 0 12 10 1 -- .545 728 176.2 172 13 40 3 10 117 10 1 76 55 2.80 1.20
2003 25 25 6 2 1 13 4 0 -- .765 729 180.0 169 5 29 1 8 106 3 1 56 44 2.20 1.10
NPB:14年 423 70 10 6 0 51 71 62 -- .418 4091 961.0 933 114 329 34 35 669 47 5 448 409 3.83 1.31
CPBL:2年 59 49 13 5 1 25 14 1 -- .641 1457 356.2 341 18 69 4 18 223 13 2 132 99 2.50 1.15
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

CPBL
  • 月間MVP:2回 (2002年9月、2003年4月)

記録[編集]

オールスターゲーム(NPB)

背番号[編集]

NPB
  • 19 (1986年 - 1991年、1995年 - 2003年)
  • 125 (1994年6月10日 - 7月21日)
  • 67 (1994年7月22日 - 同年終了)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)1985年8月26日号では「徳島県立池田高校水野雄仁以来となる最速145km/h(プロ野球各球団のスカウトが持参したスピードガンの記録)」[20]・同誌同年9月7日号では「日本ハムのスカウトが『150km/h出た!』と仰天した」とそれぞれ報道された[12]
  2. ^ 『週刊ベースボール』2013年8月19日号に掲載された「夏の甲子園球速ランキング」では夏の甲子園で球速150km/h以上を記録した投手たちの記録が掲載されているが、表中で最古の記録は中山が1985年夏・第1回戦(藤嶺藤沢戦)で記録した150km/hとなっている[22]
  3. ^ 遠藤からは「練習は苦しいが、苦しい顔はするな。我慢してニコニコしながらやれば自分も周りも楽しくなる」と教えを受けたほか、巨人のオープン戦をともにテレビで観戦した際には遠藤から江川のインタビューを引き合いに「プロ野球選手は江川のような(おちゃらけたような態度で)受け答えをしてはいけない」と釘を刺された[38]
  4. ^ 大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後となり、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の2018年京山将弥が7月28日・広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった[45]
  5. ^ 本来は減額提示だったが「来年の期待料込み」で現状維持となっており、更改後には「今年は途中から気持ちの切り替えができなくなってしまった。来年は制球にも気をつけて勝ち星を取りこぼさないよう気を付けたい」と話していた[64]
  6. ^ この時、『週刊新潮』の大洋担当記者は「中山と被害者3家族との間に示談が成立したが、大洋球団が1家族につき1,000万円=計3,000万円の示談金を肩代わりした」と証言した[84]
  7. ^ ただし和解成立は婚約不履行に関してのみで、車の件など2件については係争中だった[115]
  8. ^ 『週刊新潮』の大洋担当記者は「身分照会をしてきた球団は大洋と友好関係にあるミルウォーキー・ブルワーズだろう。球団幹部のポイトベントが日本人を妻に持つ親日家である上、かつて大洋に所属していたカルロス・ポンセもブルワーズ出身だ」と証言した[119]。また『週刊朝日』(朝日新聞社)は「中山を勧誘している球団はメジャー傘下の3A(AAA級)球団だろう。須藤監督が巨人の二軍監督時代(1986年 - 1989年)にアリゾナ州で開かれた教育リーグに毎年参加していた縁から知人も多く、中山にアメリカでの球界復帰を望んでいるようだ」と報道していた[120]
  9. ^ 韓国(KBOリーグ)移籍は規約の問題から不可能だったほか、台湾・中華職業棒球聯盟(CPBL)の場合も「国民性から難しい」とする見方があったが、永谷は「台湾には大洋球団の親会社・大洋漁業の拠点がある。相手の受け入れさえできていれば台湾球界入りできる可能性もある」と述べていた[101]
  10. ^ 『週刊文春』1992年4月30日・5月7日ゴールデンウィーク特別号では大洋球団前社長・久野修慈の「港湾安全協会のある幹部から紹介を受けた」とする証言が掲載されている[111]
  11. ^ 入谷は大洋球団でトレーナーを務めていたことがあった[111]。また中日の岡田英津也編成部長とは明治大学硬式野球部でチームメイトだったほか[123]、星野仙一前監督も同じく明治大学出身だったため、獲得の背景としてその点を指摘する報道もあった[124]
  12. ^ 野中はかつて阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスを解雇され、その後3年間の球界ブランクを経て台湾プロ野球・中華職業棒球聯盟(CPBL)テスト生から復活した経歴を持っていた[63]
  13. ^ チームの低迷を受けてシーズン途中(6月2日限り)で高木監督が辞任し、その代行を務めた徳武定祐コーチもシーズン閉幕を待たずに解任されたため閉幕まで島野育夫コーチが「監督代行の代行」を務めていた。
  14. ^ 阪神・伊藤敦規に次ぎリーグ2位[185]
  15. ^ 『週刊ベースボール』2003年10月6日号では「妊娠5ヶ月の妻が5か月後に出産を控えている」と記述されているが[212]、『週刊アサヒ芸能』2004年5月20日号では「2003年10月に男児が誕生した」と記載されている[70]

出典[編集]

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  2. ^ a b c d e f g h i 森岡(2004) p.216-217
  3. ^ a b c d e f g h 神奈川新聞』1991年12月26日B版第一社会面23頁「大洋・中山投手が“暴投” 金沢区で2少女にいたずら 県警逮捕 婚約中、練習帰りに 張り込み、ベンツで出没」
  4. ^ a b c d e f g h 中日新聞』1991年12月26日朝刊第一社会面23頁「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」
  5. ^ a b c d e 『神奈川新聞』1992年1月8日B版第一スポーツ面31頁「横浜大洋 中山投手を『解雇』 監督戒告、社長ら減俸」
  6. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26頁「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」
  7. ^ a b c d 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23頁「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(記者:会田豊彦
  8. ^ a b c 『神奈川新聞』1993年12月28日A版第一スポーツ面17頁「中山元投手が再出発 中日で二軍打撃投手に」
  9. ^ a b c 『中日新聞』1993年12月28日朝刊第一スポーツ面21頁「中山元投手が復帰 中日 『打撃投手』として契約」
  10. ^ a b 『中日ドラゴンズ '96ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1996年3月13日、47頁。ISBN 978-4806203131
  11. ^ 【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」」『スポニチアネックス(スポーツニッポン)』スポーツニッポン新聞社、2009年1月1日。2018年12月25日閲覧。, オリジナルの2018年12月25日時点によるアーカイブ。
  12. ^ a b c d e f g h 「真夏の日のヒーロー群像 灼熱のスタンドを熱狂させた'85甲子園スターたち 剛腕、150キロ!祖母の愛情磁気布団で、土佐の怪童が復活した 中山裕章(高知商・投手)」『週刊ベースボール』第40巻第39号、ベースボール・マガジン社、1985年9月7日、 60-62頁。(※1985年9月7日号・通巻第1542号)
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  14. ^ a b c 鈴木(2016) p.122-123
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  35. ^ a b 『中日新聞』1985年11月21日朝刊第12版第一スポーツ面19頁「ドラフト70選手そろう 1位“難色”はや5人 強運・西武、競合すべて手中に」「12球団1位指名選手の横顔」
  36. ^ a b 『中日新聞』1985年12月8日朝刊第12版第一スポーツ面21頁「高知商の豪腕 中山、大洋入り」
  37. ^ a b c d e 中山裕章・小林繁(対談形式)「小林繁の熱球トーク 中山裕章(大洋・投手) 『時速150キロ、高校球界一の剛腕といわれた土佐の怪童が、K・Kコンビへの逆襲に燃えていた。』『僕にとって桑田、清原は永遠のライバル。土佐っぽの意地で競り勝って見せます』」『週刊ベースボール』第41巻第5号、ベースボール・マガジン社、1986年2月3日、 34-37頁。(※1986年2月3日号・通巻第1567号)
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参考文献[編集]

書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]