大宮龍男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
大宮 龍男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県岡崎市[1]
生年月日 (1954-06-19) 1954年6月19日(63歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1976年 ドラフト4位
初出場 1977年4月3日
最終出場 1992年10月23日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 西武ライオンズ (1993 - 1994)
  • 日本ハムファイターズ (1996 - 1999)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本代表

大宮 龍男(おおみや たつお、1954年6月19日 - )は、愛知県岡崎市出身[1]の元プロ野球選手捕手、右投右打)・コーチ解説者評論家愛称は「東海の龍」「大宮親分」。

経歴[編集]

享栄高校では2年時の1971年から正捕手となり、同年の夏の甲子園県予選では決勝に進出。後に大学でバッテリーを組むエース・水谷啓昭を擁する東邦高に惜敗し、甲子園出場を逸する。1972年夏の県予選でも準々決勝に進出するが、犬山高に敗れる。卒業後は駒澤大学へ進学。1年上に大学日本代表メンバーの小川良一(住友金属)がおり、競争は厳しかった。山本泰之(神戸製鋼)・水谷・森繁和らとバッテリーを組み、東都大学リーグでは在学中に5度の優勝を経験。1975年は外野手としても出場し、中畑清らと共に春秋連続制覇を果たす。同年の大学選手権でも決勝で斉藤明雄を擁する大商大を破って優勝。小川の卒業で再び捕手に専念し、1976年春季リーグでも優勝。2連覇をかけて挑んだ日本選手権では準決勝で大商大に敗退するが、同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。リーグ通算88試合出場、283打数70安打、打率.247、7本塁打、37打点。最高殊勲選手1回(1975年秋季)、ベストナイン4回(捕手3回、外野手1回)受賞。森以外の大学同期に山川猛、武智勇治(東芝)がいる。

1976年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団[1]。入団時は加藤俊夫が正捕手であり、なかなかその壁を破れなかった。1980年7月29日南海戦(大阪)ではサイクル安打を達成したが、奇しくもこの試合での本塁打と三塁打はいずれも自身のシーズン唯一のものであった。1981年は加藤が故障で衰えを見せ始めると、大沢啓二監督が正捕手に抜擢すると共に、広島から移籍してきた江夏豊を教育係に指名。徹底的に配球面を鍛えられたことによってリード面にも成長を見せ、大宮に引っ張られた投手陣は岡部憲章が最優秀防御率を獲得し、間柴茂有が15勝0敗で勝率10割を記録、恩師・江夏もセーブ王を獲得した。大宮自身も初めて100試合以上に出場し、同年のリーグ優勝に貢献。初めて規定打席(33位、打率.249)に達する。同年の日本シリーズでは巨人に敗退したものの、20打数7安打の好記録を残す。1982年は加藤が大洋に移籍したため、田村藤夫とレギュラーを争いつつ出場。5月末に死球による左頬骨骨折で一時は戦線を離脱するが、6月末には復帰。前期は西武に優勝を許すが、後期は開幕戦である7月2日近鉄戦(後楽園)にて村田辰美から2本塁打を放つ活躍で江夏の通算200勝をアシスト。自身の好調な打撃とリードも相まってチームを引っ張り、2年連続後期優勝に貢献。打率は.258ながら得点圏では.301、満塁時には.667を記録。プレーオフでは西武に敗れたが、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。1984年8月22日西武戦(後楽園)ではスティーブ・オンティベロスと殴り合いを演じ、スティーブと共に退場処分を受けた[2]オールスターゲームにも2度選出(1981年 - 1982年, 1985年)されるなど正捕手として活躍していたが、1986年からは田村の台頭で出番が減少。1988年大島康徳曽田康二との交換トレードで田中富生と共に中日ドラゴンズへ移籍すると、中村武志の2番手捕手として起用される。同年9月20日の巨人戦(ナゴヤ)で斎藤雅樹からサヨナラホームランを放つなど活躍し、出場試合は少ないものの強気なリードで投手陣を引っ張った。1990年には広橋公寿小川宗直との交換トレードで宮下昌己と共に西武ライオンズに移籍。3月15日に中日とのオープン戦でベニー・ディステファーノと派手な殴り合いを演じたが、監督の森祇晶がその強気な性格と闘争心を買い、若手投手専用捕手に抜擢。長年「ライバル不在」で安泰の地位を確保し、無意識のうちに安穏とした心境になっていた伊東勤に大きな緊張感と危機感を与えた。森は投手陣が大量失点すると、容赦なく伊東をベンチに下げ、大宮に交代した。1992年限りで現役を引退。所属した3球団全てでリーグ優勝、日本シリーズ進出を5度も経験(1990年のみ出場無し)。3球団から出場は若生智男大毎阪神→広島)・永尾泰憲ヤクルト→近鉄→阪神)・中尾孝義(中日→巨人→西武)・阿波野秀幸(近鉄→巨人→横浜)・工藤公康(西武→ダイエー→巨人)・中嶋聡阪急→西武→日本ハム)・岡島秀樹(巨人→日本ハム→ソフトバンク)と並んで最多タイであり、中尾とは1988年に同チームで出場。工藤とは1991年 - 1992年に同チームで出場し、1988年には対戦した。日本一には2度(1991年 - 1992年)も貢献。

その後は西武に残り1993年から1994年まで一軍バッテリーコーチを務めチームの5連覇に貢献し, 1995年は同球団編成担当、日本ハムに戻り1996年に二軍バッテリー兼打撃コーチ補佐, 1997年は二軍打撃コーチ, 1998年から1999年まで一軍打撃コーチ, 2000年から2005年までフロントを務めた。2006年より東京中日スポーツ評論家2007年より北海道放送解説者も務めている。同年からは解説・評論活動の傍ら、リゾートホテルチェーン「かりゆしインターナショナル」のアドバイザーも務める。

人物[編集]

プロレスラーの天龍源一郎とは現役時代から親交がある。

舟木一夫の『高校三年生』がカラオケの十八番で、99点を出したことがある。[3]

HBCの中継の中では長らく「東海の龍」の愛称で親しまれたが、2013年からは現役時代の監督であった大沢のニックネーム「大沢親分」にひっかけて「大宮親分」と、「親分」の愛称を襲名することとなった。以来、HBCの番組では大沢よろしく着物姿で登場することが多い。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1977 日本ハム 40 64 60 5 10 1 1 2 19 11 0 0 2 0 2 0 0 13 1 .167 .194 .317 .510
1978 51 89 84 5 22 2 1 1 29 12 4 0 1 0 4 0 0 12 5 .262 .295 .345 .641
1979 75 180 168 21 46 6 0 5 67 14 12 3 1 0 9 1 1 21 1 .274 .315 .399 .713
1980 71 160 135 19 34 5 1 1 44 11 5 3 4 0 19 1 2 21 5 .252 .353 .326 .678
1981 113 404 358 51 89 9 3 15 149 53 13 4 11 3 30 0 2 40 11 .249 .308 .416 .724
1982 112 407 361 48 93 26 6 16 179 67 7 7 9 4 28 0 5 41 16 .258 .317 .496 .812
1983 123 417 369 45 85 13 1 8 124 34 11 7 11 1 33 2 3 54 5 .230 .298 .336 .634
1984 106 320 289 37 73 15 2 7 113 31 11 5 7 0 22 0 2 26 6 .253 .310 .391 .701
1985 74 173 156 12 41 7 1 1 53 16 1 1 0 3 14 1 0 12 10 .263 .318 .340 .658
1986 39 58 57 4 11 1 1 2 20 7 1 0 0 0 1 0 0 8 2 .193 .207 .351 .558
1987 57 109 98 14 28 3 0 2 37 10 2 0 1 0 9 0 1 15 2 .286 .352 .378 .729
1988 中日 57 91 81 7 14 1 0 2 21 5 2 0 1 1 8 3 0 19 2 .173 .244 .259 .504
1989 31 42 40 2 9 1 0 1 13 3 0 0 1 0 1 0 0 7 2 .225 .244 .325 .569
1990 西武 33 74 62 5 12 3 0 0 15 6 1 0 2 2 8 0 0 16 3 .194 .278 .242 .520
1991 25 23 21 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 2 0 0 4 0 .095 .174 .095 .269
1992 27 25 21 1 4 0 0 0 4 2 0 0 0 0 4 0 0 8 2 .190 .320 .190 .510
通算:16年 1034 2636 2360 276 573 93 17 63 889 284 70 30 51 14 194 8 16 317 73 .243 .303 .377 .680

年度別守備成績[編集]

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1977 27 13 10 3 .231
1978 42 50 35 15 .300
1979 46 27 14 13 .481
1980 40 26 13 13 .500
1981 112 98 69 29 .296
1982 110 116 77 39 .336
1983 122 130 87 43 .331
1984 92 83 56 27 .325
1985 39 38 24 14 .368
1986 4 1 1 0 .000
1987 9 3 2 1 .333
1988 42 17 9 8 .471
1989 26 7 5 2 .286
1990 32 10 7 3 .300
1991 24 14 9 5 .357
1992 26 13 11 2 .154
通算 793 646 429 217 .336

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 27 (1977年 - 1987年)
  • 38 (1988年 - 1989年)
  • 22 (1990年 - 1992年)
  • 83 (1993年 - 1994年)
  • 85 (1996年 - 1999年)

関連情報[編集]

出演[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、112ページ
  2. ^ 日本プロ野球事件史―1934ー2013 (B・B MOOK 889 スポーツシリーズ NO. 759)、ベースボール・マガジン社、2013年、P111
  3. ^ 2014年8月24日放送Bravo! ファイターズ副音声解説より。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]