コンテンツにスキップ

慶元秀章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慶元 秀章
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市西成区
生年月日 (1956-02-28) 1956年2月28日(68歳)
身長
体重
178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1977年 ドラフト4位
初出場 1978年4月1日
最終出場 1986年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

慶元 秀章(けいもと ひであき、1956年2月28日 - )は、大阪府大阪市西成区[1]出身の元プロ野球選手外野手)である。前名は秀彦。

来歴・人物

[編集]

北陽高校(現在の関西大学北陽高校)では有田二三男と同期。高校3年の1973年は、3番打者、右翼手として甲子園に春夏連続出場。春の選抜では、初戦で作新学院高(栃木)と対戦、江川卓の前に19三振を喫し、0対2で完封負けしたが、慶元は4打数1安打を記録している。夏の選手権では、3回戦でエース有田が高鍋高を相手にノーヒットノーランを達成し、準々決勝に進むが、今治西高に2対6で敗れた。慶元は3試合に出場、11打数6安打1打点、1二塁打、打率.545を記録。この時のチームには、2学年下に当時左翼手だった岡田彰布がいた。

高校卒業後は近畿大学に進学。関西六大学野球リーグでは在学中に3度(1974年春季、1975年秋季、1976年秋季)優勝している。1977年秋のドラフト会議でクラウンライターライオンズから4位指名されこれを快諾、プロ入り[1]。近大では同期に山本隆造、丸川正充がおり、3人そろってクラウンに入団(山本はドラフト2位、丸川はドラフト外)している。

1年目の1978年は、7月から23試合に外野手として先発出場、終盤にはレギュラーに定着する。しかしその後はジャック・マルーフジム・タイロンら外国人選手の新入団もあり、出場機会が減っていった。

1981年オフ、金銭トレードで近鉄バファローズに移籍[1]1982年には29試合に先発として起用される。翌年以降も準レギュラーとして活躍するが、1987年以降は二軍暮らしに終始し、1988年限りで引退した[1]。引退後は大阪市阿倍野区で慶元整骨院を経営。また大阪狭山リトルシニアの指導者でもある。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1978 クラウン
西武
105 134 128 13 33 1 0 2 40 10 1 4 1 1 4 0 0 24 4 .258 .278 .313 .591
1979 54 57 51 11 11 1 1 0 14 5 0 1 4 1 0 0 1 3 2 .216 .226 .275 .501
1980 3 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1981 14 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .250 .250 .250 .500
1982 近鉄 70 124 111 12 24 7 1 1 36 12 1 3 2 0 9 0 2 16 5 .216 .287 .324 .611
1983 63 114 96 14 27 3 1 1 35 11 5 0 4 2 9 0 3 5 1 .281 .355 .365 .719
1984 82 67 60 8 15 0 0 2 21 6 0 1 0 0 6 0 1 8 0 .250 .328 .350 .678
1985 80 95 77 8 21 4 0 0 25 9 1 2 4 2 10 0 2 10 1 .273 .363 .325 .687
1986 15 13 11 1 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 .091 .167 .091 .258
通算:9年 486 611 540 67 133 16 3 6 173 53 8 11 16 6 40 0 9 67 14 .246 .306 .320 .626
  • クラウン(クラウンライターライオンズ)は、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 56 (1978年)
  • 39 (1979年 - 1981年)
  • 38 (1982年 - 1988年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、210ページ

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]