蛭子能収

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蛭子能収
本名 蛭子 能収
生誕 1947年10月21日(68歳)[1]
日本の旗 熊本県牛深市(現天草市
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
イラストレーター
タレント
俳優
映画監督
活動期間 1973年 -
ジャンル ガロ系
エログロ
ヘタウマ
不条理漫画
代表作 地獄に堕ちた教師ども
私はバカになりたい
公式サイト 蛭子能収 OFFICIAL WEB SITE
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蛭子能収
生年月日 1947年10月21日(68歳)
出身地 日本の旗 熊本県牛深市(現天草市
血液型 O型
身長 170cm
方言 長崎弁
最終学歴 長崎市立長崎商業高等学校
出身 劇団東京乾電池
相方 太川陽介
事務所 劇団東京乾電池

プロダクション人力舎

ファザーズコーポレーション
活動時期 1987年 -
現在の代表番組 ローカル路線バス乗り継ぎの旅
過去の代表番組 笑っていいとも!
スーパーJOCKEY
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!
作品 『正直エビス』
『ヘタウマな愛』
『こんなオレでも働けた』
『ひとりぼっちを笑うな』
他の活動 漫画家
配偶者  既婚
親族 蛭子一郎(息子)
公式サイト 蛭子能収オフィシャルブログ「エビスのシネマミシュラン」

蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本漫画家イラストレータータレントエッセイストギャンブラー俳優映画監督ファザーズコーポレーション所属。熊本県天草市生まれ、長崎県長崎市育ち。長崎市立長崎商業高等学校卒業[2]

看板屋・ちり紙交換・ダスキンのセールスマンなどの職を経て『月刊漫画ガロ』(青林堂1973年8月号に掲載された「パチンコ」で漫画家デビュー。以後、自販機本官能劇画誌などアンダーグラウンドを中心に数多くの不条理漫画を執筆し、特異な作風で注目を集めヘタウマ漫画家としての地位を確立すると同時にサブカルチャーの分野においても重要な役割を果たした。

1980年代以降はタレントとしての活動に比重を移し、数多くのテレビ番組に出演している。主な著書に『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』『私の彼は意味がない』『私は何も考えない』『なんとなくピンピン』『家族天国』『正直エビス』『ヘタウマな愛』『こんなオレでも働けた』『ひとりぼっちを笑うな』など多数。

青林工藝舎漫画雑誌アックス』にて「隔月蛭子劇画プロダクション社内報」を連載中[注釈 1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1947年昭和22年熊本県牛深市(現天草市)生まれ[3]長崎県長崎市戸町育ち[4]。 兄と姉がいる末っ子。

少年時代貸本劇画誌『影』や『街』を愛読しており、山森ススム辰巳ヨシヒロの劇画を好んで読んでいた。映画にも関心を持ち、勅使河原宏監督の『砂の女』など前衛映画も進んで鑑賞した[5]

中学2年生の時に、不良グループに強制的に入らされ、いじめを受けていた。使い走りや持参した弁当ご飯梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、学校で事件が起こると濡れ衣を着せられていた。家に帰るとノートに嫌な相手を殺す漫画を描いて学校の不満などを発散させていたという。この頃の将来の夢は「どこかの会社の事務員になること」であったという[6]

商業高校時代は兄の勧めで美術クラブに所属する。そこで初めてグラフィックデザインに出会い、横尾忠則宇野亜喜良粟津潔亀倉雄策に大きな影響を受ける。グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に地元の看板店に就職。当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたと言い、看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加する。看板店には1965年から4年半勤務し、看板設置などをしていたが[7]、漫画サークルで『月刊漫画ガロ1968年6月増刊号「つげ義春特集」を読み「ねじ式」に感銘を受け「大阪万博を見に行く」と嘘をつき1970年に無断で上京する。

上京後は出版社や映画会社に勤めようとするが高卒のため断られ、再び看板屋の職に就く[8]。看板屋では事ある毎に自分を執拗に怒鳴りつける先輩のしごきに耐える寮生活を送り、憤慨した蛭子は「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画を描くなど、創作活動に当時の不満をぶつけていた[注釈 2]。また、この頃からATG関連の前衛映画を数多く鑑賞し、映画監督に憧れてシナリオ学校に1年程度通っていた時期もある[8]が、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な日々を過ごしていたという。

漫画家時代[編集]

ほどなく映画監督への道を諦め、最初から最後まで一人で作品を完成させることが出来る漫画家に転向、青林堂に漫画の持ち込みを始める。

投稿1作目の「狂気が彷徨う」[注釈 3]は落選したが、2作目で青林堂創業者であり名物編集長として知られる長井勝一に才能を見出され『月刊漫画ガロ1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」でプロの漫画家としてデビューする[3]

この漫画家デビューを「ガロに入選するのは夢だったから、この時の喜びが今までの人生の中で一番嬉しかった。入選の通知を開けて狭い六畳のアパートで女房と一緒に飛び上がって喜んだのです」[9]と述べる一方で、青林堂の経営難により原稿料が支払われる事は一度もなかった。

蛭子は後に回想で

ガロ』を見た時は、「これは面白い」と漫画のとりこになってしまうことを感じたのです。紙面の半分以上を迫力のある白土三平が埋め、あと残りを水木しげる辰巳ヨシヒロ池上遼一つげ義春が描いてましたが、新人もどんどん登場して、その新人の描く漫画が形式にとらわれてない自由な発想で、しかも今までにない変わった絵でも載ってるということが、これはすごいと思わせたのでしょう。

特に林静一と、佐々木マキの漫画が入選としてガロに載った時は、これは『ガロ』以外の漫画雑誌では絶対に誕生しないものだと思い『ガロ』が漫画雑誌というより、これはもしかすると芸術雑誌の一つではなかろうかと思ったものでした。

漫画を青林堂に持ち込み、そして今度は「この漫画預かっとこうかな」と社長が言ったのです。そして私が帰ろうと出口まで来た時、社長が大きな声で「すみませんがね、もし『ガロ』に入選して載ったとしても、原稿料は払えないんだけど、それでもいいですか?」と言ったのです。

この言葉で私は『ガロ』に入選するかも知れないと半分以上期待したのでした。そして社長の方を振り返り「ええ、お金なんて、いいです」みたいなことを言って青林堂から出て来たのでした。その時は原稿料とか全然問題じゃなく、とにかくガロに載ることだけが全てでしたから。

昭和四八年の八月号の『ガロ』で入選となった「パチンコ」という漫画で私はデビューしました。
それから漫画で生活するに至るのに一〇年かかりましたが、『ガロ』がなければ私は漫画家にはなれなかったと思っています。
絵の上手下手、学歴も関係なく、誰にでもチャンスをくれる『ガロ』をいつまでも大切にしたいし、永久に失くならないことを私は願っています。

と『ガロ』の入選を述懐している[9]。このデビュー作はタイトルが「パチンコ」であるがパチンコは一切出てこず、「パチンコに行こうとしても行けずに百貨店を彷徨う男」を描いた奇妙なストーリーに仕上がっており、実際に見た夢に創作を交えて漫画にしている。

長井勝一は亡くなる前年に『ガロ』のインタビューで、「蛭子さんは、ガロが経済的に悪くなっていった頃にデビューしたから原稿料が一度も払えなかったんだよな。ホント悪いことしたと思ってるよ。それは蛭子さんだけじゃないけどさ。ホントにありがたいと思うよ。もちろんほかの作家にも感謝してる。ガロはそうして続けてこられたんだから、作家のための雑誌という姿勢はくずしたくないよね。」と、ノーギャラでも蛭子が『ガロ』に漫画を描き続けてくれた事に感謝の弁を述べている[10]

この頃、糸井重里湯村輝彦が共作した漫画「ペンギンごはん」シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年発表の「愛の嵐」以降、『ガロ』での執筆が5年間途絶える。

私生活では、長女・史英が生まれた1972年に結婚[1]。しかし、金銭的には困窮しており、ちり紙交換の職に就くが、1974年に長男・一郎が生まれたのを機に有限会社ダスキン練馬セールスマンになる。

サラリーマン時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね。まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ。心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね。」と回想している[11]

1979年、名物編集者の高杉弾(自販機雑誌『JAM』『HEAVEN』初代編集長)と山崎春美(バンド「ガセネタ」「TACO」のボーカリスト)の依頼により、自動販売機用成年雑誌JAM』にて再デビューを果たす。また、この時に漫画家としての収入を初めて得る[12][13]

ほどなく蛭子は青林堂を訪れ、「あと一年頑張ってみて、モノになるんだったらこのまま東京に残って、でもモノにならなかったら漫画家をやめて郷里の長崎に帰ろうと思ってるんですよ」と長井勝一に打ち明ける。蛭子の相談を聞いた長井は「本当に一年間頑張れるんだったら、単行本を出版して極力応援する」と蛭子を激励した[10]。長井は後年「俺も蛭子さんの才能はただものじゃないと思ってたからさ、今思うと、あのとき力になれて本当によかったと思っているよ」と回想している[10]

その後、蛭子はニューウェーブ漫画家の一人として『ガロ』以外に官能劇画誌などの媒体へも進出。つげ義春ATG映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画や暴力的なモチーフを多用するダークな漫画を描くようになる。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。

1981年、初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されるのを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。

漫画家からタレントへ[編集]

1980年代中頃、劇団東京乾電池柄本明から劇団のポスターを依頼され、劇団に出入りするようになる。その後、柄本からの依頼で劇団東京乾電池の公演「台所の灯」(1987年5月15日こまばアゴラ劇場上演)に出演する[14]

これがフジテレビ横澤彪プロデューサーの目に留まり、1987年に『笑っていいとも!』に文化人枠でレギュラー出演する。

俳優として舞台活動もこなし、テレビドラマ「教師びんびん物語II」への出演を皮切りにテレビ番組に本格的に進出し、特異なキャラクターを活かした芸能活動に比重を移して数多くのバラエティ番組に出演している。

特にタレントとしての代表作であるテレビ東京系のバラエティ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズでは、リーダー役の太川陽介やゲストの女性タレントと共に日本各地の路線バスを乗り継いでいき、行き当たりばったりの珍道中を展開している[15]。数多くのテレビ番組に出演する一方で、タレントの仕事はあくまでアルバイトとしている。

2003年短編映画「諫山節考」で映画監督としてデビュー[14]。この作品は元々シンガーソングライター諫山実生プロモーションビデオとして作られたものである。監督第2作目は2007年の『歌謡曲だよ、人生は』の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」(脚本も兼任)。

2008年には『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャーでもある特殊漫画家・根本敬からの依頼で、漫画共作ユニット「蛭子劇画プロダクション」を結成。メンバーは、蛭子能収(社長)、根本敬(チーフアシスタント)、安部慎一、マスク・ベビー。

2011年には、故郷・長崎の長崎歴史文化博物館において初の個展「えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会-」が開催された。

2014年には、エッセイ『ひとりぼっちを笑うな』を上梓。本書では「小さな頃から“分相応”的なものに自分らしさを感じ“他人に害を与えない”ことを一番大事に考えてきた」と述べ、つながりや絆を必要以上に大事にする現代社会の風潮に懐疑的な立場で独自の持論を述べた。この「内向的な人間のための幸福論」として刊行された著書は15万部を売り上げるヒットとなり、活字本ながら蛭子最大のベストセラーとなった[注釈 4]

2016年には、長編映画初主演となる任侠映画任侠野郎』が公開された。

漫画家として[編集]

読む人を選ぶ非常にシュールな作風であり、「ガロ系」と呼ばれる日本のオルタナティブ・コミック作家のなかでも、特殊漫画家根本敬山野一平口広美と並び、極北に位置する最も過激な作風の不条理漫画家であった。

根本敬[16]山田花子[17]大槻ケンヂ[18]山野一[19]花くまゆうさく[20]福満しげゆき[21]巻上公一[22]水野しず[23]武内享[24]遠藤ミチロウ[25]柄本明[26]など数多くのアーティストに多大な影響を与え、1980年代サブカルチャー界を席巻した事でも知られている。

独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる。作品は狂気と妄想に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている。登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く[27]、いずれも尋常でなく汗をかいている。背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOドクロが置かれ、ストーリーの内容も「大量に人が死ぬ」「頻繁に裸体が出て来る」「些細な不満が一気に爆発する」「意味のない掛け合いが続く」「救いようのないオチを迎える」など狂気に満ちており、もはや言語解説不可能な域に達している。

特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と評しており、後輩漫画家の山田花子は「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価している。

また、漫画評論家呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評しており[28]、抑圧される人々を主人公にした救い様のない不条理漫画が多い。この事に関して蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ。だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね。描いたりするのがね。弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている[29]

漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している。蛭子漫画の恐ろしさはここにある。人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする。蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す。彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」とまで述べている[30]

この様な作風のためメジャー誌での連載経験は皆無に等しく、主な執筆活動の場は、青林堂の『月刊漫画ガロ』や青林工藝舎の『アックス』など、極めて自由な創作が行えるマイナー志向の超カルト的サブカルチャー雑誌を中心に活動しており、アウトサイダー・アートに対応した特殊漫画家と呼ぶべき存在でもある。単行本は絶版や品切のため入手困難な状態が長年続いていたが、2016年青林工藝舎から『地獄に堕ちた教師ども』(1981年青林堂刊)が23年ぶりに復刊され、現在も入手可能な唯一の単行本となっている。

自由な創作が行えるアンダーグラウンドには思い入れがあり、「暗いジメジメしたところのほうがやはりおもしろいですよ。そんなジメジメしたところでしか出ない美しさというものがアンダーグラウンドにはあるんです。それは本音の美しさですね。日の当たるあっちのほうは飾られた美しさです。オレはやっぱり地下活動、アンダーグラウンドが好きですね。」といった発言[31]があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である[注釈 5]。美術評論家の野々村文宏も、「この人の漫画に一般受けもへったくれもないと言うべきだろうか」と評しており、それゆえ漫画のファン層は非常に限られているが、その強烈な個性を露出した表現は他の追随を決して許さないものである。

漫画を描く際は、自分が見た夢をもとに漫画にするという特殊な手法で描いている(同じガロ系作家の逆柱いみりつげ義春とま雅和ねこぢる山野一も同様に「夢の世界」を再現したシュールな漫画を描いていた)。しかし、後に夢をあまり見なくなってからは、何となくネタを絞り出すようになったという[32]

「夢をもとに漫画を描く」という創作方法は、20歳のときに読んだつげ義春の漫画作品「ねじ式」に大きな影響を受けている。自著でも「とってもシュールな漫画なんですよ。この世の中にこんな漫画があるのかって驚きましたね。不思議でヘンテコな世界だけど、芸術作品のような漫画にとにかく衝撃を受けてオレも漫画を描き始めました。それまではピストル殺人事件など素直な漫画を描いてたけど、この漫画を見てからはわけのわからない漫画を描くようになりました。それでようやく漫画で食えるようになったのは30歳半ばの頃。ずっと漫画家になりたいとコツコツやってきたから“生きがい”は見つかったと思いますよ。テレビの仕事は儲かるけど“やりがい”はありません。“ねじ式”のような作品を描いてみたいから今でも原稿料が出ない雑誌でも連載を持っているんです。」と、漫画家人生を左右する程の衝撃を「ねじ式」から受けた事を幾度となく述べている[33]

また、漫画では本心を描くので怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」[注釈 6]と話しており、実際の人物に配慮して特定できないように描いている[34]。かつて息子の友達が冷蔵庫プリンを勝手に食べ、帰り際に息子の顕微鏡を拝借した事に憤慨した蛭子は、漫画『家族天国』で同様のシチュエーションを描き、バットで殴り殺すオチを描いている[35]

漫画家活動初期は、そのキャラクターが知られていないこともあり、「難解な前衛漫画を描く得体の知れない謎の天才漫画家」と理解されており、同業者である根本敬やマニアックな読者に、「この人は天才なのかキチガイなのか、あるいはその両方か、もしかしたら美大くずれの物凄いインテリなのかもしれない」と恐れられていた逸話がある[36]。根本敬は『ガロ』のパーティー会場で蛭子と初めて会った際の印象について、「もうひと目見て凄いショックを受けましたね。描いてる漫画と実際のギャップが本当に凄かった。俺も凄く蛭子さんの漫画が好きでね。もう憧れてましたよ。まあ、我々の中ではすでにスターでしたね。当時はまだ蛭子さん本人が露出することなんてなかった時代ですからね。本人が現れる以前に漫画的に見て、どういう人なんだろうなあ、こんな漫画を描く人はって。神経質そうなさ、おっかない人を想像してたわけですよね。それで蛭子さんと実際に会った時は、えーっ、これが!嘘だろって。やたら腰の低いペコペコばかりしている人畜無害そうなおっさんが実は蛭子さんだったというね。」と、自著『因果鉄道の旅』で回想している。

官能劇画誌『漫画大快楽』元編集長の菅野邦明も、常識や倫理性を無視した過激極まりない不条理な漫画の内容から「蛭子能収という人はキチガイなのだろうか?」と怖がっていたという。インタビューの中で菅野は「蛭子さんに仕事を依頼したい一方で、最初は本人に会いたくなかったですね。やっぱりこの人キチガイじゃないかと思ってて。ちょうどその頃、あるパーティーに蛭子さんが渡辺和博さんと一緒に来てたんです。そこで紹介された蛭子さんは、作品からは想像もつかない、礼儀正しく大人しい人でびっくりしました。」と、その落差に衝撃を受けたことを述べている。

しかし、蛭子の言う「素人の時代」の波に乗り、気付いたらテレビに出始め「正体不明の不条理漫画家」から「さえない面白おじさん」として世間一般にキャラクターが知れ渡ると、描いている漫画と本人とのギャップのせいか、本業であるはずの漫画が売れなくなってしまったという[37]。後に、そのキャラクターのおかげで「漫画家としての知的な印象がテレビ出演後は消えた」と、インタビューで自虐したことがある。根本敬も、「もっぱらアーティストとしての評価はおざなりで、特異なテレビタレントとして名高いが、それを惜しむ声も高い。しかし、肝心のアーティストとしての高い評価には本人はあまりにも無自覚であり無防備である。」と述べている。

蛭子本人も「本当は自分の顔とか姿を人前に晒したくなかった」と述べており、「最初に舞台に出たのは柄本明さんから出てくれって頼まれたから。オレはホントは出たくなかったんですよ。それでテレビの依頼も来るようになって…。だけど、人から頼まれたことを断るのもイヤなんですよ。仕事にしたって、せっかく頼まれたら普通は断らないでしょ。ホントは一般の人に埋もれて普通に過ごしたかったんですよ。正直なところ、どうしてオレがテレビに出ているのか未だに不思議で仕方ありません。」とテレビに出て顔が売れてしまった事には否定的なコメントを寄せている[38]

また、テレビに出て顔が広まると、見ず知らずの他人から日常的にいたずら電話されたり、不良に絡まれたり、競艇場で頭を叩かれたり、玄関うんこを投げ入れられるなど嫌がらせを受けるようになったという。これに関して、「オレは芸能人の中でも特に絡まれやすいみたいで…だから本当はテレビに出たくないんですよ。それでもテレビに出るのはお金がいっぱい貰えるからです。オレは漫画家だし、社交的なのが本当に苦手なんで、テンションが高い芸能界の人との付き合いも苦痛で…ホントは変装なんかせず堂々と顔を晒して歩きたいんですよ。」と複雑な感情を打ち明けている[39]

その一方で、「テレビ出演のギャラと比べても漫画の原稿料は格段に安い。『スーパーJOCKEY』での熱湯風呂のギャラは20万円だった。1日2本撮りなので2回熱湯に入るだけで40万円になる。こんな労働があるのかってすごくびっくりしましたよ。ある時、同級生に『お前あんな情けない仕事するなよ』と言われたが、僕は彼らの月給分をたった1日で稼いでいるのだからやめられるわけがない。」とテレビの仕事に対する独自の持論を語っている。

1973年のデビューからアバンギャルド不条理漫画を一貫して描いてきたが、インタビューで「オレの描く漫画は不条理漫画って呼ばれてますけど、きっと宝島で『不条理でポン』っていう4コマ漫画を描いてたからでしょうね。でも、オレの中ではまったく不条理ではなかったんですよ、ただやみくもにわけのわかんない漫画を描いていただけで、不条理っていう言葉にはまた別の意味があると思ってましたから。周りもオレの漫画を勝手に深読みしてくれたけど、ほとんど何の考えもなしにあっけらかんと漫画を描いているんです。私の漫画は意味がない。」と述べている[40][41]

戦後50年近く漫画出版に携わり白土三平水木しげるといった有名作家から、つげ義春花輪和一といった異才までを輩出していった名物編集長の長井勝一は『ガロ』のインタビューで蛭子の特異な作風とキャラクターについて次の様に述べている。

──蛭子さんの漫画の魅力についてはどのように感じていたんですか?
長井 蛭子さんの漫画の面白いところはね、まずコマが独立してるとこだね。
ひとコマひとコマが物語になっていてまるでカットの連続のような面白さがあるのね。だから蛭子さんの漫画はどこを切っても即カットにつかえるような要素が充分にあるでしょ。その絵が全てを語ってしまっているようにね。そんな不思議な魅力をまず感じるんだよ。
さらにその絵は話の奇妙さに、ゾッとするくらいにマッチしてるんだよ。だからもともと過激なストーリーが絵によってさらに倍増されているワケだよね。

──最初漫画だけ見てると、かなり怖そうな人のイメージがついてしまいますよね。
長井 そう、だから蛭子さんを初めて見た人は大抵さ、その過激な漫画とは正反対のおっとりしててヘンな人柄のそのギャップに驚くでしょ(笑)。
ずっと人に使われる身が長かったから、きっと日ごろの鬱憤が溜まっていて、それを結局漫画にぶつけていたから過激になってしまったんだろうね。
だって蛭子さんの漫画ではバンバン人は死んでしまうし、それどころか自分の子供に火をつけて燃やしてしまうんだからすごいよな(笑)。

──そういうシーンを平気で描いてましたからね(笑)。
長井 そういう夢とも思える過激さが受けたのは、やっぱり誰にでも同じような願望があるからなんだろうね。そういうストレスがある人には大いに刺激になったことだと思うね。
でもそういうことをストレートに表現するのはたいがい憚るもんなんだけれど、そこに行くとある意味で蛭子さんていうのは純粋だからさ、だからねっ(笑)。

──あとは言わずと知れたっていうやつですね(笑)。
長井 蛭子さんは売れっ子になるまではいろいろと苦労が多かった人だと思うんだけれど、でも売れなかった時代にダスキンの営業やちり紙交換をやっていたことは、彼の人間形成においても非常にプラスになっていると思うね。ああいった仕事てえのはさ、人知れぬ苦労もたくさんあるだろうから、そういった苦労の積み重ねがあって、それが今何をやっても大丈夫だ、てな自信につながっているんだろうし、またどんなことでもやってのけてしまうパワーにもなってるんだよ、きっと。

──それはあるでしょうね。それに漫画という目標があったからこそ、そこまで頑張れたんでしょうね。
長井 でもさ、俺もさすがにここまで売れっ子になるとは思ってもみなかったよ(笑)。予想以上だよね。ここまで来たのはその才能と人柄もあったんだろうけれど、あのキャラクターの面白さも人目をひいたと思うよ(笑)。なにしろのっけから変わった人だったからなぁ。自分の親父の葬式の時も笑ってたっていうしさ。

──青林堂にきたときも最初からヘンな人でしたよね。
長井 ヘンだったよぉ(笑)。だってさ漫画を続けるかどうかって人生相談にきたときも、俺がしゃべってるのに、ジッと窓の外みたままでいるんだよな。それで「どうしたんですか?」ってきいたらさ、向かいのビルの窓のほうを指さして「あそこに座っている女の人のパンツがここから丸見えですね、エへへッ」なんていうんだものな。俺呆気にとられたよ(笑)。

──帰るとき必ず「どうもありがとうございました」ってお辞儀しながら青林堂の床にヨダレ垂らしてましたしね(笑)。
長井 そうそう、そうだったね。俺もこの仕事随分長くやってきたけど、あんな人は初めてだったね(笑)。

──ああいう人がたくさんいたらコワイですよね。仕事も手につかない(笑)。
長井 そうだよなぁコワイよ(笑)。でも蛭子さんは、ガロが経済的に悪くなっていった頃にデビューしたから原稿料が一度も払えなかったんだよな。ホント悪いことしたと思ってるよ。それは蛭子さんだけじゃないけどさ。

──でも蛭子さんはガロに載るのが夢だった、原稿料はハナから頭になかった、っていってましたよ。
長井 うん、それはホントにありがたいと思うよ。もちろんほかの作家にも感謝してる。ガロはそうして続けてこられたんだから、作家のための雑誌という姿勢はくずしたくないよね。

──本当にそうですね。それは身に染みて思います。(構成・文責/ガロ編集部 手塚能理子

— 『月刊漫画ガロ』1995年4月号 ガロ名作劇場:蛭子能収「長井勝一インタビュー」117頁〜118頁

人物・エピソード[編集]

  • ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャー[42]特殊漫画家根本敬は、蛭子の本質を無意識過剰と自著『因果鉄道の旅』で述べており、「蛭子さんに意見をするのは愚かなことである。何故なら蛭子能収は蛭子能収という宇宙に住む蛭子能収という宇宙人だからだ。たかが漫画如きが、つまる、つまらないといった次元の話など蛭子宇宙の内部では全く問題にならない。」とも語っている[43]。自販機雑誌『HEAVEN』元編集長の野々村文宏も、「すべての自称芸術家は社会的にもうひとつの顔としての“世間体”を演出している。ところが一介のダスキンのセールスマンとしての蛭子能収には、まったくといって良いほどこの“世間体”が欠落していたし、もともと蛭子能収という人格のなかには“世間体”を作り出すこころのメカニズムが欠如していたかもしれないのだ。市民生活のなかに芸術家の顔を持ち込めなかったのはこのためである。」と解説している[44]
  • 他人や建前を意識しない自由奔放な発言で物事の本質や核心をストレートに突くことが多く、自分の考えを包み隠さずに本音で話すので毒舌にも聞こえる。これに関して伊集院光は「人間は全員、素っ裸になれば蛭子さんとそれほど大差がない。社会通念に沿って何かそれを言わないようにしようとか、オブラートに包むとかあると思うけど、蛭子さんはそれを包み隠すことがなくむき出しなんですよ。真剣勝負の戦いに武器を持たずに素っ裸で来て、斬った者が負けるような感じが蛭子さんにはある。」と解説している。また、蛭子ウォッチャーの吉田豪は蛭子について「馬鹿正直な合理主義者」と評している[45]
  • 蛭子は「知的装飾の欠如した言動」をすると特殊漫画家の根本敬は評している[46]。実際に大林素子に褒め言葉で「セックスしたことあるの?」と尋ねた際は、「何故かすごく困った顔をされた」と述べている[47]。自著『正直エビス』でも「公明党宗教政党」「いじめ自殺に追い込んだ子供たちは死刑にすべき」など歯に衣着せぬ過激な持論を展開している[48]が、これに関して蛭子自身は「オレが常日頃から思ってることですから全然過激だとは思ってないんですけど」と述べており、逆にインタビュアーに対して「どのへんが過激に見えましたか?」と聞き返している[49]
  • 一般的な価値意識に左右されない言動や振る舞いが目立つためエキセントリックテレビタレントとして広く認知されているが、本人としては「自分が特別な存在であるなんて思ったことがない。子どものころから“目立ちたい”という発想もほぼ皆無でした。クラスにも目立ちたがり屋の子がいましたが、そういった“目立ちたい”という振る舞い自体がよくわからなかった。オレね本当に普通なんです。“オンリーワン”じゃなくて“ワンオブゼム”でいい、みんなの中の一人でいい。」と述べている。
  • タバコは全くやらないが、自他共に認める無類のギャンブル好き(後述)。特に競艇にハマッている。
  • フジテレビで放送されていたドラマ『いつも誰かに恋してるッ』では、宮沢りえの演じる桜井理子の父親役に抜擢され、雑誌アンケートの「父親にしたい芸能人」のNo.1にランクインしたこともある[50]。その翌年に日本テレビの『スーパーJOCKEY』にて、熱湯風呂にパンツ一丁で出演させられる様になると「父親にしたくない芸能人」のNo.1にランクインするようになった。
  • 笑いのツボが多少ズレており、シリアスなシーンで笑ってしまう癖がある(後述)。
  • 好きな食べ物はカレーライスラーメンオムライスカツ丼うな重など。漁師の息子であるが魚類は大の苦手で、全く食べないという[51]
  • 「基本的に自分から他人に話しかけるのは大の苦手」と公言しており、自ら積極的に発言する事は少ない。
  • 漫画での収入はタレント業に比べ非常に少なく、倉田真由美は「蛭子さんなんて漫画は全収入の1割以下じゃないだろうか」と述べている[52]
  • 1973年のデビューから「自由な創作」が行える漫画雑誌『ガロ』に30年以上投稿を続けていたが、青林堂の経営難により原稿料が支払われる事は一度も無かった。しかし、蛭子本人は「タダなんですけど載せてくれるだけでこっちは嬉しかった」と当時を振り返っている。『ガロ』の後継誌にあたる隔月発行の漫画雑誌『アックス』の連載でも青林工藝舎の経済的事情から「原稿料ゼロ」の状態が現在もなお続いている。
  • サラリーマンを辞めて漫画家になろうとした1981年頃、『ガロ』の名物編集長で知られる長井勝一水道橋の路上を歩いていると、長井は「青林堂はなかなか経営が良くならないけど、僕は蛭子さんで儲けさせてもらおうと思ってるんだよ。」と真剣な顔で蛭子に述べたことがある。その時、蛭子は「果たして冗談で言ってるのだろうか、そもそも私の漫画ってそんなに売れるのだろうか?」と思い「社長、それは無理ですよ」と照れながら真剣に言葉を返してしまったという。それから15年後、「私は漫画では売れなかったけどテレビに出て自分のキャラクターで十分すぎる程食えるようになってしまった。実は長井さんは私に言ったのは別に漫画に限って言ってるわけではなかったのではないかと思っているのですよ。」と長井が亡くなった際に回想している[53]
  • テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
  • キノコ雲観賞用の無公害原爆というものを考えて漫画にしたことがある。
  • 少年時代から映画鑑賞が趣味であり、好きな映画に『遊星からの物体X』『砂の女』『ゴジラ』『日本春歌考』『幸福の黄色いハンカチ』『ウイークエンド』を挙げている。また、昔から涙腺が緩く、幸せに終わるラストシーンでは確実に泣いてしまう程である。
  • 小学4年生になっても母親のおっぱいを飲み続けていたので、「今で言うマザコンだったのかもしれない」と述べている。また、漁師の父親は家を不在にすることが多く、兄姉もすでに独立していたので「ほとんど母子家庭の様だった」とも述べている。
  • 12歳の時に修学旅行で彼の寝小便を心配して姉がついて来たことがある[4]
  • クイズ番組ではフリップでの回答提出の際に文章ではなくイラストを用いて回答していた。
  • 数十年来の付き合いがある青林工藝舎の担当編集者高市真紀(漫画家山田花子の実妹)は、蛭子と初めて顔を合わせた際、初対面の蛭子が発した第一声が「アンタ猿に似てるねぇ」だったと回想している[54][55]
  • パリ人肉事件佐川一政と対談した際に「好きな人を食べてはいけない」と佐川に諭したことがある[56]
  • 映画監督山崎貴に「泣ける映画が面白い映画という訳じゃないですからね」と面と向かって発言したことがある[注釈 7]
  • 息子の結婚式でスピーチに立った際に、謙遜して「中の下くらいの結婚式ですみません」と述べてしまい顰蹙を買った事がある[57]
  • 3人の子をもつ父親であるが子供に余り興味がなく「子供は好きではない」「子供と二人きりになると気まずい」「子供の成長に興味がない」と公言しており、4人の孫を持つ祖父でもあるが「孫の名前が難しくて覚えられない」など、孫にもあまり興味がなかった[58]が、近所に住んでいる義娘の子供とよく会うようになると、「血のつながっていない孫なのに可愛くて仕方がない」と思える様になったと述べている[59]。今は競艇、麻雀、パチンコ、映画の次くらいに孫といるのは好きになったという。
  • 月に何日か妻から「よっちゃんデー」をもらい、その日は自由に好きなことができる。平和島競艇場にもよく行く。いい子でない時は「こよっちゃんデー」になり、半日ほどになる[60]
  • 笑福亭鶴瓶いわく「蛭子さんをどういじるかで芸人の腕が試される」と述べている。
  • 2014年11月10日放送『私の何がイケないの?』(TBSテレビ)の脳検査で、軽度認知障害があることが発覚した。その直後に「俺は絶対にボケないぞ!」と題した漫画を青林工藝舎の『アックス』に発表している。
  • 2016年2月13日放送の「ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」でスタジオの出演者はおろか出演した赤城乳業の社員ですら不味いと述べ、売れ行きが芳しくなく、会社が3億円もの赤字を出す結果になったガリガリ君「リッチナポリタン味」を「美味い」と言って食べていたエピソードを出演した赤城乳業の社員が証言している。
  • イベントなどで歌うように要請されると、いつも「ヨイトマケの歌」を歌う(蛭子曰く「これを聴くと働く気力が湧いて来る」とのこと)。高田渡のドキュメンタリー映画『タカダワタル的』の中にも、「ヨイトマケの歌」を熱唱する蛭子の姿が収録されている。
  • 平田オリザから「どの役を務めても絶対に蛭子さんにしか見えない、不思議なコンテキストを持つ俳優」と評されている。
  • 初期の頃は、名前を「ひるこのうしゅう」と誤読されていたこともあった。
  • 人間関係の軋轢に苦しみ、24歳の若さで自殺した後輩漫画家の山田花子について、雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、「芸術を志している人が死を選ぶ時、それは命を賭けた最大の芸術を慣行したということになるのではないかと思うのです。彼女は最大の芸術を完成させ、死霊になって私達が驚く様子を見て笑っているのではないでしょうか。」と評価した[61]

発言・思想[編集]

  • 「人生の目標は死なないこと、そして自由に生きること」を信条にしており、きっかけは小学生の時、父親の建てたやぐらから流れ星を眺めていた時に、「死んだらあの星みたいに消え去ってしまうのか」と急に“死”が頭をよぎり恐怖を覚えたためという。それ以来、誰かに殺されないために「出来るだけ人と群れないようにし、人から恨まれないように生きてきた」と述べている。また、「自由」に関しては、「あの流れ星のような一瞬の人生なんだから、他人の顔色を窺うこと無く死ぬまで楽しく自由に生きればいい。答えはそれだけ。もちろん自身が自由であるためには、他人の自由も尊重しないといけないという信念であり、それが鉄則なんです。自由気ままで自分勝手に生きていると思われているオレですが“自由に生きること”は絶対に守りたかったから、それでもいいんです。」と述べている[62]。また、息子や娘にも「人はそれぞれ自由に生きればいい」として放任主義を取っていた。
  • 「人から嫌われていると思ったことがない」とエッセイで述べており、「みんな嫌われるんじゃないかとか友達だから嫌われたくないとか考えすぎです。他人にどう思われたっていいじゃないですか。僕は人から嫌われていると思ったことがない。だって人に迷惑をかけることをしていないもの。そう胸を張っていればいい。」と持論を述べている。
  • ブラックで過激な漫画の内容とは対照的に「殺戮なんて結局は虚しいだけ」として平和主義者である事を公言している。戦争に関しても「戦争ほど個人の自由を奪うものなんて他にない。誰かの自由を強制的に奪うようなものは、いかなる理由があっても断固として反対です。」と強く否定的な意見を持っている。また、稲田朋美防衛相が安保法に基づく新任務の訓練を開始すると表明したことについて「戦うのはアメリカに任せとけばいい」と事実上皮肉を込めて批判している[63]
  • 偉そうにしたり恰好をつけたりするのが大の苦手と公言しており、「恰好をつけるとお金がかかって貧乏になり、最終的に恰好悪くなる。」と述べている。
  • 友達観に対して、「自由であることを第一に考えていると、友だちはいい存在である一方で、時には自由を妨げる存在にもなる。だから“誘われても断れる友達”以外は必要ない。友達の誘いだから断れないのはおかしい。誘いを断れないような間柄を友達というのなら、僕は友達なんていりません。実際に友達になると大体は私のほうが立場は弱く、相手の言いなりになってパシリになる役回りなので、積極的に友達をつくろうと思ったことは昔からほとんどありません。確かに友達は少ないですが、ぜんぜん寂しくなんかありませんよ。あんまり自分が孤独だと思い続けていると、いつしか得体の知れない狂気に変わってしまうこともあります。オレは女房さえいれば友達なんかいてもいなくてもいいかな。」と独自の持論を述べている[64]
  • 集団行動などの“群れ”にも懐疑的な立場を取っており、「昔の学生運動にしろ オウム真理教にしろ、最初は友達から始まったものが、行き着いた先は犯罪であり、殺し合いですよ。何人かが集まると、だいたいリーダーというか親分が出てきます。そういう人についていけば、考えなくていいから楽かもしれませんが、その先には死が待ち構えているかもしれない。これは恐ろしいことですよ。集団では個人の自由がなくなり、リーダーの命令を聞かないと叩かれる。自分で正しい判断ができなくなるんです。最近SNSなどでさまざまな人につながることが流行っていますが、一方で色々な事件も起こっていますよね。LINEのグループチャットで悪口を言われたひとりが、悪口を言っていた友達を殺してしまった事件とかね。最初は友達だったのに仲間割れしていく。だって人の考えなんてそれぞれだからね。それを無理やりまとめていこうとすると、最悪の場合殺人に行き着くことさえある。あんまり友達とべったり仲良くし過ぎると、将来敵同士になる可能性があるんです。」と独自の持論を述べ、現代の「人付き合い」や「つながり礼賛」の風潮に疑問を投げかけている[65]。その一方で、趣味を共有するグループなど、限られた目的を持ったグループには肯定的な立場を取っている[66][67]
  • 裁判員制度について「行くのがめんどくさいから反対」という本音を語っている[68]
  • 女遊びや浮気をする男性に対し「家に帰れば嫁さんとタダでヤレるのに(浮気する)理由がわからない」と批判的な意見を持っている[69]
  • 「幸せな家庭は他人に見せつけないほうがいい。誰に見られてるか分からないし、もしかしたら不幸そうな人が傍からジーっと見ているかもしれない。」と独自の持論を述べており、幸福そうな人達が通り魔に惨殺されるだけの漫画を描いたこともある[70]
  • 不特定多数の人が見るブログやSNSで“幸せアピール”をする事に疑問を抱いており、「他人の幸せそうな姿なんて見て誰が喜ぶの?みんな不幸になるように呪いをかけてるかもよ。とにかく人にやっかまれることはしないほうがいい。絶対にしっぺ返しが来る。そもそも他人に好かれよう嫌われまいという気持ちが強すぎ。大体今日これ食べたとかどこに行ったとか、うちのネコちゃんが可愛いとか、要するに“私楽しい人生を送ってます”というアピールでしょ?。そんなもん誰も知りたくないし、どうでもいい。人間が知りたいのは他人の不幸。だから楽しいことは一切投稿するなと言いたい。」と批判的な意見を述べている[71]
  • 日本尊厳死協会に入っており、「寝たきりになって意識もないのに、人の世話になってまで生き続けたいと思わない。介護や看病されて過ごすのもまっぴらです。だって、自分が何より大切にしてきたのは自由だし、その自由を他人から奪ってまで長生きしたいと思わない。だから今の医学でも回復の見込みがない状態になったら延命措置をせず、その時を迎えます。」と述べている[72]
  • かつてテレビ番組で「エレベーターの底が抜ける気がして怖い」と発言し、周りから「そんな事ありえない」と笑われた事があるが、直後にエレベーターでの死傷事故が多発しており社会問題に発展している。
  • アンガールズ田中卓志が「スベっているのに仕事が急激に増えた」と悩んでいた頃に雑誌の対談で蛭子に相談したところ、蛭子は漫画の原稿を間違えて他誌の編集部へ送った経験を述べた。蛭子によると、「数日が過ぎてから、競艇雑誌にエッチな漫画を、エッチな雑誌に競艇の漫画をあべこべに送ってしまったことに気づいたけど、結局どちらの編集部からも“漫画の原稿うちのじゃないですよ”と言われず、そのまま雑誌に掲載されて、その後もこの件について、どこからも何も言ってこなかった。誰も俺の漫画なんか見ていない。」と田中に述べ、「だからさ(田中君が悩むほど)世の中の人は田中君のことは見てないから気にせずやったら良いよ。」と励ました[注釈 8][73][74]
  • 「自己主張しない」という持論を持っており、「自己主張は自分の心のなかにこそ持っているべきで、それを口に出して言わない方がいいと思うんですよ。自分にただ言い聞かせるだけで。そうしたら人と喧嘩しなくて済む。自己主張を口に出して言うと他の人の自己主張と対立してしまうかもしれないし、言い合ったところでたいした問題でもないかもしれない。そういう場合は、意見があったとしても向こうがそう言っているならその場は降りる。相手を立たせてあげるということも大事ですよ。」と述べている。その一方で、「自分のやりたいことができるかできないかは、そのやりたいことに他人が関わる程度によると思います。自分がどうしてもやりたいことで他人が関わってくる話ならば、やっぱり相手をしっかり説得する必要があります。ただ、説得は自己主張とは違います。」とも述べている[75]
  • 「お金は貸したら返ってこない、だから絶対に貸さない」という持論を持っており、「テレビに出るようになってから、昔の友達じゃないかという人からわんさか電話がかかってきましたが、結局みんなの目的は『金を貸してくれ』でした。人に金を借りにくる人はだいたい無計画で無責任。もちろん貸した金が返ってくるはずもなく踏み倒されて大損しました。でも、しつこく返してくれとも言えないし、言えない自分がまた嫌で、そんな気持ちになるくらいなら友達なんていらないですよ。」と自身の経験を語っている。息子にも「とにかくお金を借りず貸さず盗まずに生きなさい」とだけ教育していた。
  • 職業差別問題について「この世にはありとあらゆる職業があって、誰かしらがそれをこなしているわけだから、仕事に上下の差をつけるという考えが間違っているのだ。人に必要とされるものに差別があってはならないとオレは思う。」と自論を述べ、批判的な意見を持っている[76]
  • 児童虐待問題について「子供を虐待する親は人として発達していない、人間になる途中の人。抵抗できない子供を虐待する親は“病気”として捉えるべき。」と述べている。
  • 温厚でのんびりしたような性格に見えるがとてもせっかちである。本人曰く、「ちょっとでも暇な時間があったら好きなことをぱっとやる。無駄には使わない。せっかくの日曜日だというのに家で朝まで寝ていたり、CD聴いてたり、パソコンいじってたり、テレビ見てたり、休日を家でボンヤリ過ごす、これはもうギャンブラー失格です。ギャンブラー失格というよりも人間失格ですね。自分で何がしたいか解らないと、ただボーッとしているだけになっちゃう。だから自分のしたいことを考えないと。それを持っていない人はやはりちょっとおかしいですよね。一人でいられないから人に流されて人に使われるようになっちゃう。群れることに一生懸命になる人って本当にしたい事なんて無いんじゃないですか。一生、他人に使われて終わるんじゃないかと思いますよ。」とコメントしている[77]
  • 芸能人ではビートたけしを最も尊敬しており、「いつも自分の思った事を説得力を持った上で自由にコメントしている。芸にしても時に滅茶苦茶なことをわざとやったりして、とっても自由。さらに、自分の好きな映画も撮って、国際映画祭で賞もたくさんもらっている。類い稀な才能に溢れた凄い人だと思います。でもなにより尊敬するのは、芸能界の大御所であるにも関わらず、いつだって謙虚なところかもしれない。憧れの存在です。」と述べている[78]
  • 死生観について「オレが死んだ時は誰も葬式に来てくれないていいからね」と述べており、「オレは死んでしまったら魂も意識もなくなってしまうと思っているんです。あの世にいったら亡くなった家族の元に帰れるんだ、という考えもありません。そんなオレのために生きている人がわざわざ墓参りに来て欲しくないですね。人の自由な時間を奪いたくありませんからね。オレが死んだら食べても良いですし、葬式で笑われても構わないですね。遺灰なんてそのあたりの土手でもいいし、道路でも川でも適当にまいてくれればいいですよ。死んだらもう自分としては意識がないんだから何もしてくれんでもいいですよ。親族も悲しがってくれなくていいです。悲しんでもらってもオレにはわからないんだから全然必要ないですね」と独自の持論を語っている[79]。また、「過去に死んだ人より今を生きる人と過ごす時間を大事にしたい、冷たいって思われるかもしれないけど」とも述べている。
  • 生きていく上で一番幸せなことは「自分の考えている事を行動に移して実現する事」と述べている。

仕事に対する姿勢[編集]

  • 仕事観について「サラリーマンの仕事なんてみっともないことばかり、心の貧しい生活を強いられているのがサラリーマン」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる。プライドはあんまり持たない事」「夢を追いかけ続けるのはいいけど、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメ、衣食足りてこその夢の追求なのだから漫画だけで食えない作家は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら立派なことをしようと力まない方がいい」「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い。仕事で輝くという人生は変、人は競艇場で輝くために働くんです」という持論を持っており、テレビの仕事でも心がけていることについて、「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと。仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです。」と述べている[80]
  • テレビ出演当初から「温厚そうで気が弱く人畜無害なおじさん」として、出演者や司会者になじられても常にニコニコ笑っている印象で知られる。そのため、いじられキャラやヨゴレキャラとしてバラエティ番組に出演させられることが多くなり、番組内でギョウ虫検査を受けさせられた事もある。なかでも日本テレビの大晦日特番『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』内で「蛭子能収の汗を基に作られた塩大福を出演者が知らずに食べる」という過激なネタが放映され、全国の視聴者に強烈なトラウマを植え付けた。しかし、本人は依頼された仕事は生命に関わる仕事以外は絶対に断らない主義である。これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという[15][81][82]。また、いつも笑っているのは「子供の頃から自然に身についたもの」としており「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか。言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね。」と理由を述べている[83]
  • 漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いは、その"くまのプーさん"の着ぐるみがずぶ濡れになった様な風体と独特のキャラクターがコメディー番組などで大いに受けるところとなった。」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした。だって、それではウソになってしまうから。それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためには自分を偽らない事しか手段がなかったんです。」と述べている。
  • 楽屋挨拶はしない立場を取っており、楽屋では漫画を描いたり競艇の予想をするなど気ままに過ごしていた。そのため“礼儀知らず”と他人から責められ、「自分よりランクが下の人間には挨拶しない」という事実無根の噂を流された経験があるというが、本人曰く「あいさつという行為そのものが、逆に相手の迷惑になってしまうんじゃないかって考えてしまうんです。別に礼を欠こうと思ってそうしているわけじゃないし、むしろ相手の貴重な時間を奪ってしまうことが怖い。」と独自の自論を述べている[84]
  • 「お金にきゅうきゅうとすることは人としても大切」という持論を持っており、「お金にあくせくして、何がいけないんですかね。オレはずっと貧乏暮らしで漫画だけでは食っていけないから、ちり紙交換などいろんなバイトもしました。その頃は家族が一ヶ月暮らしていける生活費を計算して、その分を稼ぐため、とにかく必死に仕事をしていました。」と述べている。
  • 今までにタレント業だけで億単位の収入を稼いでおり、ピーク時には1億円もの年収があった。漫画でも月50万円もの収入があるが「あくまで貧乏人の振りをしている」と述べていおり、ラジオパーソナリティ伊集院光にも「貧乏人を装って必要以上にヘコヘコして笑われるように持っていってるところがありますね。そうすれば視聴者は自分より下の奴がテレビに出てるって安心するんですよ。金持ちだと思われると妬まれたり、恨まれたりするでしょ。だからオレは貧乏人をずっと装い続けているの。」と話したことがある。女性誌のインタビューでも「自分が一番情けないことをどんどん見せて、他人が自分をバカにする態度を見て楽しんでいればいい。向こうはバカにしたつもりでいても、こっちはわざとバカにされるように仕向けているんだから、『あいつは自分をこういう風に見ているんだな』って逆に楽しめばいいし、バカにされることを受け入れた方がいいと思うよ。その方が、気がラクになると思うんだけどなぁ。そんで、自分は誰もバカにしないように気をつけてたらいいじゃん。それにバカにする人がいたとしても、そいつが自分をどう思ってるかなんてそんなに重要かなぁ。」と独自の持論を述べている。
  • 女性自身の連載コラム『蛭子能収のゆるゆる人生相談』でも「そうは見えないだろうけど、オレは意外と計算高い」と述べており、「オレはこう見えて世の中の動きを見ているんです。マンガも“ヘタウマ”の時代に、期を逃したらダメだと思って、描きまくりました。テレビも“素人の時代”と言われた時期があって、その波にうまく乗ったんです。時代の波に乗るコツは、競艇場で人の観察をすることですね。レースに熱中しているふりをしながら、そこに集まる人を見ているんです。オレは意外と計算高いんですよ。」と述べている[85][注釈 9]

恐怖伝説[編集]

事実無根の“恐怖伝説”がインターネット上を中心に数多く流布されており、

* 死産した最初の子供が奇形児ホルマリン漬けの標本になっている。
  • 賭博行為で捕まった際に反省したのか警察官に 「二度とギャンブルはしません 賭けてもいいです」と言った。
  • 父親は漁師で、縄に絡まった仲間の手を鉈で切り落としたエピソードに蛭子は(父を)尊敬したと語っている[注釈 10][86]
  • かつて朝鮮半島軍事境界線を訪ねるツアーに参加し、絶対不謹慎な笑いをしない事と、まっすぐ歩きなさいという指示があったにもかかわらず、わざとジグザグに歩き、いつものクセでシリアスな場面で笑ってしまったため、警備米兵にぶん殴られた事がある。
  • 交通事故を起こした大竹まことから激しくいじられた際に「人殺しのくせに…」とつぶやいた。
  • みうらじゅんが蛭子と対談する時に楽屋で蛭子の手帳を勝手に読んだ際、当日のスケジュールに「つまらない人と対談」と書いてあった。
  • 避妊せずセックスして中絶する[注釈 11]
  • 蛭子さんを悪く言うと呪われる[注釈 12]
  • 実の息子を漫画で丸焼き[注釈 13]
  • テレビで臆することなくバカチョンカメラと発言したことがある。
  • 手塚治虫に「あんなのを野放しにしたら、僕の築き上げた日本マンガ全体が駄目になる」と恐れられる。

など枚挙にいとまがない。

これら噂の大部分は蛭子の知人らが面白半分で流したものであった事が判明している。事実無根の“恐怖伝説”に関して蛭子本人は、「オレの噂話のなかには、かなり誇張されたり間違ったりして伝わってるものがありますが、まったく気にしませんね。だってオレの事をタダで宣伝してくれるんですから。それをテレビ局の人が見て次の仕事やお金につながるかもしれない。伊集院光さんや水道橋博士さんも、オレのことを『芸能界一のクズ』とか『芸能界一恐ろしい男』として、ラジオやテレビで宣伝してくれるんですよ。」と述べ、「噂はどう転ぶかわかりません。逆に楽しんでいればいいんです。」と一蹴した[87]。実際に蛭子の噂を聞きつけた勝俣州和TBSテレビバラエティ番組水曜日のダウンタウン』に「蛭子能収を超えるクズそうそういない説」として検証企画を持ち込みオンエアされるなどしている。

ギャンブル[編集]

  • 無類のギャンブル好きで競艇から麻雀パチンコカジノまでオールラウンドにこなす。妻とラスベガス旅行中もカジノにはまった。丁半チンチロリンなど大衆博戯も得意領域である。競馬は得意領域ではないためスポーツ新聞の予想を頼りにしている。競馬にのめり込まない理由として「動物に興味がない」「動物に癒されたことはない」「人と動物は気持ちが通じ合わない」「気持ちが通じ合うとすれば、それは人間の思い込み」と独自の倫理観を展開している[88]
  • 高校在学中「高校生はパチンコ禁止」という学校のルールを守り続け、高校の卒業式終了と同時にパチンコ屋に直行した。全国民の中で、高校卒業後に最速でパチンコ屋へ行ったのは自分ではないかと回想している[89]
  • これまでにギャンブルで1億円以上負けている[90]。ただし、借金は一銭もなく「“借金してギャンブル”は確実に地獄行き」「ギャンブルで失敗しても自業自得なんだし身から出た錆」「そんな人間なんて救う必要はない どんどん堕ちて行けばいい」と持論を述べている。
  • 2006年8月には大村競艇場で「蛭子能収杯」という一般戦の冠レースが開催され、初日の10 - 12レースは蛭子自らが番組編成に当たった。競艇選手以外の個人名の冠レースは、この蛭子能収杯が競艇史上初。また、2008年からは、大村競艇場で開催されたオール女子戦(2008年と2009年は女子リーグ)のサブタイトルとして「真夏の女王蛭子能収杯」が付けられ、「蛭子ドリーム」と名づけられた初日の12Rのドリーム戦は、蛭子自らメンバー選定、番組編成に当たっている。
  • また、2008年から、多摩川競艇場にて「多摩川蛭子カップ」という一般戦の冠レースが開催されている。ここでも初日の後半2レースで蛭子自ら番組編成に当たっている。
  • 競艇以外の公営競技では1996年ばんえい競馬のイメージキャラクターを務めていた。
  • 1998年11月に、東京都新宿区歌舞伎町の麻雀店で麻雀賭博の現行犯逮捕、約4か月の間タレントとしての活動を自粛した。その際に、「自分があんな(あの程度の安い)レートで警察の御用になるんだったら、東尾さんなんか懲役ものじゃないのか」と語っていたという[91]。後に「図に乗っていたので、ここで一度落とされて良かった」と回想している[92]
  • 本人をモチーフとしたパチンコ台「CR蛭子能収」「CR蛭人」(高尾より発売)も登場した。

家族[編集]

兄と姉の三人兄弟の末っ子。最初の妻との間に儲けた1男1女と、現在の妻の連れ子である義娘の計3人の父[93]

愛妻家として広く知られており、前妻と死別した際「人間って誰かを幸せにしたり喜ばせるために生まれてくると思ってるんですよ。で、一番身近な誰かって、結局は家族でしょう。女房は俺を幸せにするために生まれてきた。そして俺は女房を喜ばせるのが運命だった。そういうことではないですかね。」と著書『ヘタウマな愛』で述べた事がある[94]

奥さんと仲の良い秘訣については「一緒の布団で寝ること」とのことで「激しい夫婦ゲンカをしても、同じ布団で寝れば肌も触れ合う。そうすると自然と仲直りしているんですよ。」と語っていた[95]。そんな不遇の時代を支えてくれた最初の妻は2001年肺高血圧症で逝去。前妻の死によって「寄り添う相手の居ない本当の孤独」に襲われたことを述べている。

寂しさのあまりマネージャーや周囲の女性に必死でアプローチをかけたが、すべて失敗したという。その2年後の2003年4月に雑誌・女性自身の企画のお見合いパーティーで19歳年下の女性と知り合い、3年半に及ぶ交際の末、2007年1月に再婚。再婚を機に、それまで住んでいた埼玉県所沢市を離れ新居を構えた。この再婚相手の女性の娘は「蛭子さんの娘」としてテレビに出演している。また、杉作J太郎率いる男の墓場プロダクション製作の映画にて、「希和」の芸名で女優デビューを果たしている。

両親は徳島県海部郡日和佐町(現・美波町) 出身[96]。父親の鹿之助は漁師[97]。漁業の町である日和佐町は、えびす信仰が根強く恵比須や戎といった地区名が数多く残っている。しかし、日和佐町で蛭子姓を名乗ったのは蛭子一家だけだったという[98]

長男の蛭子一郎(1974年 - )はKID所属の元ゲームプログラマーで、現在はノイジークローク所属のサウンドデザイナー[99]。かつて『スーパーJOCKEY』の熱湯風呂に親子で入らされたこともある[100]

故郷に対する想い[編集]

海と山と島の自然が見える故郷・長崎には思い入れがあり、実家があった場所に女神大橋の橋脚が完成したことについて、「自然の中に鉄骨がある風景はあんまり好きじゃない。島がいっぱいあって、夕日がきれいな景色とかは、ずっと大切にしてほしい。」とコメントしている[101]

笑い上戸[編集]

子供の頃から笑ってはいけない場面で笑ってしまう失笑恐怖症を患っており、小学校国語の時間で教科書を朗読する際にも必ず笑ってしまい、ほかの生徒達が面白がって笑ってくれても、段々と白けていき、静かな教室で自分の苦しい笑い声と先生の怖そうな顔が目立って冷や汗をかいたという。歯科医院でも笑ってしまい、顔を真っ赤にして涙を流しながら金具を口に入れて治療を受けた際に、看護婦に「痛かったですか?」と勘違いされた。眼科でも「笑ってはいけない」と治療に望むも、目医者が目薬を注す時に「おっとっと」と口にして頬に一滴落としてしまい、思わず二、三分間、笑い続けてしまったという。親戚のお年寄りが亡くなった際も親戚の女の子と葬式の一番後ろに着いて、ずっと二人で笑っていたと少年時代を回想している[102]。この時から「親の葬式の時は果たして笑わないでいられるだろうか」「どれほど深刻ぶる事が出来るのだろうか」と常に悩んでいたという[103]

出演するテレビ番組でも、悲しい場面で笑ってしまい、生放送だったため、CMに切り替えられたことがある[95]きたろうは以前に蛭子と共演した際、蛭子が「きたろうさんが刑事役をやるのがおかしい」と笑ってばかりでNGを連発してしまい、ひどい目に遭っている[104]競走馬テンポイントの感動シーンでも、ひとり爆笑して雰囲気を壊したことがある[105]。また、雑誌の企画で杉作J太郎包茎手術の様子を漫画に描くため手術現場に同行した際にも「あそこがキノコ雲になってる」と終始爆笑していた事が明かされている。

蛭子自身「結婚式も葬式もパーティも“式”そのものがすごく苦手」「特に葬式は極力行かないようにしている」と述べており[106]、知人の葬式でも「参列者全員が神妙な顔をしている」「笑ってはいけないシリアスなシーンにいる自分が滑稽」ということがおかしくて笑ってしまい、そのため「笑う悪魔」というニックネームを付けられた事もある。自身のファンクラブ会長の葬儀に参列した際には、棺の中に自著『なんとなくピンピン』が収められているのを見て笑いが止まらなくなり、会葬者をあ然とさせ、連れだされた逸話がある[106]。この悪い癖のため、逸見政孝の追悼番組で出演を拒否されたこともあった(出演拒否の英断を下したディレクターは何の因果か交通事故で翌年死亡)[107]。また、ビートたけしの母が1999年に亡くなった際に葬儀に参列した際も、笑顔で葬式を過ごし、北野家の遺族達を激怒させたと言う[106]。また、自身の母親の葬式でも終始笑顔で、親類にたしなめられたという。26年ぶりに再会した実兄も母親の葬式を笑顔で過ごし、葬儀終了後に2人でパチンコに出掛けようとしたという[108]

ただし、最愛の元妻が死去した時は唯一涙を流して悲しんだ[106]。その後、「オレは両親が死んだときでさえ泣かなかった。人でなしと思われるかもしれないが、人前で変に感情をあらわにするなんて、恥ずかしいことだと思っていた。でもこの時は生まれて初めて本当の孤独というものを知ったのかもしれない。」と述べている[109]

作品[編集]

漫画単行本[編集]

※現在多くの作品が紙媒体で入手困難

作品リスト[編集]

作品名 形態 作品を収録している単行本 初出
地獄に堕ちた教師ども 短編 マン (1970年)[110] マン 1970年
帰り道はきつかった 短編 マン (1970年) マン 1970年
恐るべき美声年 短編 マン (1970年) マン 1970年
狂気が彷徨う 短編 原稿散逸 未発表
パチンコ 短編 なんとなくピンピン (1983年) ガロ 1973年8月号
競艇時代 短編 私はバカになりたい (1982年) ガロ 1974年1月号
仕事風景 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1974年3月号
仁義なき戦い 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1974年5月号
超能力 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1974年8月号
勝手にしやがれ 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1975年4月号
疲れる社員たち 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1975年12月号
愛の嵐 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1976年7月号
地獄に堕ちた教師ども 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) JAM 特別ゲリラ号 1980年
真夜中のパーティー 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) 漫画ピラニア 1981年
地獄のサラリーマン 短編 地獄に堕ちた教師ども (1981年) ガロ 1981年6月号
知識人のレポート 短編 私はバカになりたい (1982年) JAM vol.7 1981年
僕の村は平和だった 短編 私はバカになりたい (1982年)
勉強する乙女たち 短編 私はバカになりたい (1982年)
ペニスに死す 短編 私はバカになりたい (1982年) 漫画ピラニア 1981年8月号
不確実性の家族 短編 私はバカになりたい (1982年) JAM
私はバカになりたい 短編 私はバカになりたい (1982年)
食生活と人間 短編 私はバカになりたい (1982年)
普通の人々 短編 私はバカになりたい (1982年)
マッチ売りの主婦 短編 私はバカになりたい (1982年)
芸術家は怒った 短編 私はバカになりたい (1982年) ガロ 1981年8月号
なんとなく左翼 短編 ガロ 1981年9月号
自立する女 短編 ガロ 1981年12月号
鼻は詰まった 短編 蛭子能収コレクション (病気編) ガロ 1982年1月号
美しき死体 オムニバス
(全3話)
蛭子能収コレクション (SF&ミステリー編) ガロ 1982年7月号
ガロ 1982年11月号
ガロ 1982年12月号
怪しい女 短編 ガロ 1982年8月号
ハエと人間 短編 ガロ 1982年10月号
少女の秘密 短編 私はバカになりたい (1982年)
サラリーマンは2度イライラする 短編 私はバカになりたい (1982年) JAM vol.9 1981年
私の彼は意味が無い 短編 私の彼は意味が無い (1982年) 漫画ピラニア 1982年6月号
旅芸人の記録 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
ピラニアボーイ 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
恐るべき関係 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
そして誰も考えなくなった 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
少女地獄 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
豚男ジャパニーズ 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
地下鉄のサンバ 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
私は少女に軽蔑されたのだった 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
安定と人間 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
少女死すべし 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
日本春歌考 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
警察官の仕事 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
狂気こうもり人間 短編 私の彼は意味が無い (1982年)
密室殺人事件 短編 私は何も考えない (1983年)
私は昔痴漢だった 短編 私は何も考えない (1983年) ガロ 1983年2・3月号
悪徳の栄え 短編 私は何も考えない (1983年) ガロ 1983年4月号
私は何も考えない 短編 私は何も考えない (1983年) ガロ 1983年5月号
明るい町 短編 私は何も考えない (1983年) ガロ 1983年8月号
私は真剣な話が嫌いだ!! 短編 私は何も考えない (1983年) ガロ 1983年10月号
わからなくっても大丈夫 短編 私は何も考えない (1983年)
サラリーマン教室 短編 私は何も考えない (1983年)
腐れる主婦 短編 私は何も考えない (1983年)
チンポ屋ケンちゃん 短編 私は何も考えない (1983年)
最後の異常者 短編 私は何も考えない (1983年)
去年マリエンバードで 短編 私は何も考えない (1983年)
続去年マリエンバードで 短編 私は何も考えない (1983年)
沈黙 短編 私は何も考えない (1983年)
謙虚に行こうぜ!! 短編 なんとなくピンピン (1983年)
犯され上手 短編 なんとなくピンピン (1983年)
史上最低のセックス 短編 なんとなくピンピン (1983年)
なんとなくピンピン 短編 なんとなくピンピン (1983年)
地獄のサラリーマンPart2 短編 なんとなくピンピン (1983年) ガロ 1981年11月号
スチャラカ社員 短編 なんとなくピンピン (1983年)
禁じられた遊び 短編 なんとなくピンピン (1983年) ガロ 1982年5月号
怪しい女 短編 なんとなくピンピン (1983年) ガロ 1982年8月号
太陽は傷だらけ 短編 なんとなくピンピン (1983年)
女のいない街 短編 なんとなくピンピン (1983年)
忘れられた人々 短編 なんとなくピンピン (1983年)
骨正月 短編 なんとなくピンピン (1983年)
怪奇正常学園 短編 なんとなくピンピン (1983年)
ベトナム伝説 短編 ベトナム伝説 (1984年) ベトナム伝説 (1984年)
村田の首 短編 ガロ 1984年2・3月号
ポルノだけは描きたくなかった 短編 ガロ 1984年4月号
芸術は死なず 短編 ガロ 1984年5月号
人生の分かれ道 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1984年7月号
孤独の地下 短編 ガロ 1984年8月号
地獄を見た男 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1984年9月号
時には子供を教育する親 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1984年10月号
失われた世界 長編 ガロ 1984年11月号 - 1985年2・3月号
ガロ 1985年5月号
ガロ 1985年7月号
血の河 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
神経科のコピーライター 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1985年4月号
芸術と革命 短編 サラリーマン危機一発 (1985年) ガロ 1985年6月号
終電車 短編 ガロ 1985年10月号
汝よインテリに泣け!! 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1985年11月号
出世払い 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1985年12月号
のぞいていいとも 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
計られたポルノ 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
エロの実践 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
バカ者たち 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
日本変態大図鑑 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
パチンコ屋はインテリを嫌う 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
犯される主婦達 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
金持ちのタンゴ 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
悲しみのラーメン 短編 馬鹿バンザイ (1986年)
やくざ魂 オムニバス
(全3話)
馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1983年9月号
ガロ 1983年11月号
ガロ 1983年12月号
兄弟仁義 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1986年2・3月号
怪奇あまのじゃく 短編 馬鹿バンザイ (1986年) ガロ 1986年4月号
出会い、そして別れ… 短編 ガロ 1986年7月号
貧乏家族に幸せはやってこない!! 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年3月号
家族開放への道 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年5月号
路地の散歩者 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年6月号
俺の息子に手を出すな 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年7月号
無意味な心中 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年8月号
道徳という名の暴力 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年9月号
最後の宿題 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年10月号
家族の清算 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年11月号
マイホーム自然流 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1985年12月号
大人の遊び 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年1月号
岩場のスキャット 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年2月号
裏切り夫婦 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年3月号
やくざと子供 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年4月号
第3の親 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年5月号
恋の権利 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年6月号
感性のミステリー 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年7月号
エンゲルとグレーテル 短編 家族天国 (1986年) 月刊スーパーアクション 1986年8月号
サラリーマン征服 短編 家族天国 (1986年) 増刊漫画アクション 1984年5月8日号
狂ったセールスマン 短編 家族天国 (1986年) 増刊漫画アクション 1984年7月27日号
僕たちの失敗 短編 家族天国 (1986年) 増刊漫画アクション 1984年1月25日号
職員室は狂った 短編 家族天国 (1986年) 漫金超 1983年 第5号
さん式 短編 蛭子能収コレクション (ギャンブル編) 平凡パンチ 掲載年月不明
夜汽車 短編 明るい映画館 (1987年) 明るい映画館 (1987年)
炎のランナー 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1985年4月号
魚影の群れ 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1985年5月号
伊豆の踊り子 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1985年7月号
コミック雑誌なんかいらない 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1985年8月号
映画女優 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年2月号
それから 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年3月号
コマンドー 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年4月号
ホテル・ニューハンプシャー 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年5月号
戦争のはらわた 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年6月号
異邦人 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年8月号
ストレンジャー・ザン・パラダイス 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年10月号
ヒッピーの王者 短編 ガロ 1986年10月号
犯罪天国 短編 ガロ 1986年11月号
そろばんずく 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1986年12月号
ハスラー2 短編 明るい映画館 (1987年) 漫画ピラニア 1987年1月号
イレイザーヘッド 短編 明るい映画館 (1987年) 宣伝会議 どすこいイラスト (1983年)
いなごの大群VS仮装行列の群衆・アメ横の闘い 短編 ガロ 1987年1月号
うなぎの日 短編 ガロ 1987年4月号
春雨旅情 短編 ガロ 1987年5月号
好青年の異常な行動 中編 ガロ 1987年6月号
ガロ 1987年8月号
日本の友人 短編 日本の友人(1988年) ガロ 1987年9月号
秋がそこまでやって来た 短編 ガロ 1987年10月号
田舎に向かって走れ 短編 ガロ 1987年12月号
私立探偵松尾 長編 私立探偵エビスヨシカズ (1997年) ガロ 1988年10月号 - 1989年10月号
地獄の金持 短編 ガロ 1993年4月号
不条理でポン 4コマ 宝島 VOW
あんたは太ってる 短編 青林工藝舎 アックス Vol.48
枯木 短編 青林工藝舎 アックス Vol.65
嫉妬で濡れた美女 短編 青林工藝舎 アックス Vol.66
隔月蛭子劇画プロダクション社内報 短編 青林工藝舎 アックス Vol.68 -
なんて日だ!! 短編 実話ナックルズ 2015年3月10日号
夜の女 短編 小説新潮 2015年11月号

著書[編集]

この他、1994年8月に出版された朝伊達宙也の『マンガ麻雀入門』(永岡書店:刊 ISBN 978-4-5222-1235-6)の監修及び本文解説文章執筆や本書内の写真出演もしている。

作詞[編集]

  • ムーンライダーズ「だるい人」(アルバム「Don't trust over thirty」収録)
  • 鈴木慶一「人間の条件(ちょうけん)」(アルバム「THE LOST SUZUKI TAPES」収録)
  • 蛭子能収「切り裂きジャップ」(アルバム「HAVE A NICE DIE!」収録)

ジャケットイラスト[編集]

展示[編集]

個展[編集]

  • えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会- (2011年 長崎歴史文化博物館)初の個展であり、故郷長崎で開催された。旧作・新作と共に彼のアート作品も展示された。
  • 新春えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会- (2016年 渋谷パルコ

合同展[編集]

  • 真昼の暗黒展 (1986年7月4日7月9日 HBギャラリー)根本敬との合同展示会。
  • 自由自在(蛭子能収)と臨機応変(根本敬)の勝敗なき勝負展 (2013年2月1日2月24日 @btf)根本との合同展示であったが、ギャラリーとの間で紛議が生じ、根本の作品が会期途中で撤去されたため、事実上蛭子の個展となった[111]
  • 自由自在(蛭子能収)と臨機応変(根本敬)の勝敗なき勝負やり直し展 (2013年4月29日5月12日 Galaxy-銀河系)改めて開催された蛭子と根本の「やり直し展」[112]

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

オリジナルビデオ[編集]

アダルトビデオ[編集]

ゲーム[編集]

アニメ[編集]

CD[編集]

  • 飯島真理の非売品CD Present(ALFA MOON INC)(1989年
  • いとしのマックス〜ロカビリー・ジャングル・ミックス 「デジタルグルーブ歌謡曲」に収録(1995年)(荒木一郎のいとしのマックスのカバー)

PV[編集]

バラエティ[編集]

CM[編集]

ネット配信[編集]

解説・インタビュー[編集]

参考文献[編集]

  • 『ペリカンクラブ』1984年9月号「蛭子能収スペシャル 何となく芸術座談会」
  • 『ガロ曼陀羅』TBSブリタニカ・1991年刊
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1993年4月号「蛭子能収特集」
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1995年4月号「蛭子能収+長井勝一インタビュー」
  • 根本敬『因果鉄道の旅』幻冬舎・2010年刊
  • 根本敬『人生解毒波止場』幻冬舎・2010年刊
  • 蛭子能収『私はバカになりたい』青林堂・1982年刊
  • 蛭子能収『家族天国』双葉社・1986年刊
  • 蛭子能収『正直エビス』新宿書房・1996年刊
  • 蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』KADOKAWA・2014年刊
  • 蛭子能収『蛭子能収のゆるゆる人生相談』光文社・2015年刊
  • 蛭子能収『地獄に堕ちた教師ども』青林工藝舎・2016年刊

脚注[編集]

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  1. ^ a b 蛭子能収さんテキトー過ぎムチャクチャ著書イベント 2015年6月24日7時54分 日刊スポーツ
  2. ^ 『漫画家 人名事典』 まんがseek, 日外アソシエーツ編集部、日外アソシエーツ2003年2月25日、第1刷、69頁。ISBN 978-4-8169-1760-8
  3. ^ a b 『くらたまのえびす顔』(ゴマブックス)著者紹介より。
  4. ^ a b TVでた蔵「2011年2月13日放送 わたしが子どもだったころ」”. ワイヤーアクション (2011年2月13日). 2015年3月28日閲覧。
  5. ^ 『蛭子能収コレクション (映画編)』(マガジン・ファイブ、2004年)-「砂の女」の章より。
  6. ^ 地上にはない美しさを求めて…黒いエビちゃん!笑う悪魔、地下住人の星・蛭子能収がOG降臨! (OCN TODAY)
  7. ^ 蛭子能収さん - インタビュー ? ひと ?”. どらく DORAKU (2007年9月25日). 2010年5月7日閲覧。
  8. ^ a b 蛭子能収 インタビュー”. バイトル. 2015年3月28日閲覧。
  9. ^ a b TBSブリタニカ刊『ガロ曼陀羅』(1991年)p.98-p.100 蛭子能収「チャンスをくれたガロ」より。
  10. ^ a b c 月刊漫画ガロ』(青林堂)1995年4月号「長井勝一インタビュー」より。
  11. ^ 驚愕の趣味嗜好が明らかに…黒いエビちゃんの興奮ポイントに一同唖然! (OCN TODAY)
  12. ^ 不条理旋風、始動!プロ漫画家・蛭子能収、堂々のデビュー!! (OCN TODAY)
  13. ^ 蛭子能収 - スターアルバイト烈伝(バイト情報のバイトル)
  14. ^ a b DISCAS INTERVIEW 蛭子能収さん(漫画家) 2008
  15. ^ a b 【第1回】僕が最近感じることと本を書いた理由”. CAKES (2014年8月26日). 2015年3月28日閲覧。
  16. ^ 根本は蛭子が世間一般に認知される以前から、蛭子の動向を観察しており、エビス・ウォッチャーの第一人者としても知られ、蛭子の本質(無意識過剰と評したこともある)をつかんでおり、「テレビで見た世間の人は、表面だけ見てだまされている」と語っている。また、2008年には、蛭子劇画プロダクションという蛭子との漫画共作ユニットを結成。雑誌の企画でそれぞれの画風・作風を真似て競作するなど、関係は深い(根本いわく蛭子は根本の漫画を「読んでくれてない」そうだが)。
  17. ^ 『自殺直前日記』(太田出版)157頁より「蛭子さんや根本さんは天才。自分が描けないことを描いてくれる作家は勇気がある。真にカッコいい(尊敬&崇拝)。私もこーゆー風になりたいと思っているので、無意識に真似して世に出てきた。根本先生、ジョージ秋山先生、蛭子先生、丸尾先生は他人(読者)を全然気にしていない。生身の自分をさらけ出している。勇気がある。私もそうなりたい。でも自分の恥ずかしい部分を認めたくないので描けない。偽物の作家は自分の願望を描いているだけ。こうでありたい自分の姿を描いている。ヒーローを求めている。情けない。私もこれからは、もっと勇気を出して描いていこう。」と日記に書き遺してあり、彼女が崇拝していた根本敬や蛭子能収の作品のように、「非情に徹して我が道を行く」に徹しきれなかった事を生前述べている。
  18. ^ かつて「俺が音楽でやりたいと思ってたこと全部やられてた」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
  19. ^ 山野は「高校2年か3年の時」に自販機本の『JAM』に掲載されていた「不確実性の家族」(青林堂刊『私はバカになりたい』収録)で初めて蛭子の漫画を読み、大きなショックを受けた事を述べている。また、山野は著作『貧困魔境伝ヒヤパカ』収録の短編「パチンコのある部屋」で蛭子漫画の象徴を描き、作中のワンシーンに蛭子の単行本『私はバカになりたい』を客演させている。
  20. ^ 遠藤ミチロウのカセットブック『ベトナム伝説』に掲載されていた蛭子の漫画を読み、大きなショックを受けて漫画家を志した事を述べている。
  21. ^ 青林工藝舎刊『僕の小規模な失敗』第2話「まんが道失敗!!の巻」より「あんなスゴイマンガを連載する雑誌ってあるのだろうか…?」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
  22. ^ 蛭子の単行本『私はバカになりたい』と同名のシングルを1983年に発表した際に、蛭子にジャケットのイラストを依頼した。その蛭子によるジャケットとヒカシューによる独特な曲調が相まって強烈な印象を植え付けた。
  23. ^ 影響を受けたアーティストのひとりに蛭子の名前を挙げている。
  24. ^ 漫画のファンである事を公言しており、武内は蛭子の漫画を「アブノーマルマンガ」と表現している。
  25. ^ 蛭子にイラストや漫画の仕事を依頼していた。
  26. ^ かつて劇団東京乾電池のポスター仕事を依頼していた。また、蛭子が芸能界デビューする直接的なきっかけを作った事でも知られる。蛭子の原作を周防正行がドラマ化した「サラリーマン教室」(1986年7月27日放送)にも主役として出演したことがある。これは蛭子が芸能界デビューする以前のドラマ作品であり、原作者である蛭子本人はこの作品には出演していない。
  27. ^ 推理作家吉村達也の初期のサラリーマン小説にも挿絵4コマを書いている。
  28. ^ JICC出版局『マンガ宝島』(月刊「宝島」昭和57年3月臨時増刊号)呉智英「70年代『ガロ』の変容」166頁〜167頁。
  29. ^ 泉麻人『けっこう凄い人』新潮文庫 1992年
  30. ^ 青林堂編『「ガロ」という時代』2014年
  31. ^ できれば日の当たる場所へ…華やかな世界に背を向けているわけじゃない(OCN TODAY)
  32. ^ 「もう漫画家はやめてもいいかな」――蛭子能収“ひとりぼっち”哲学に迫る(2)”. 新刊JP (2015年1月19日). 2015年3月28日閲覧。
  33. ^ 蛭子能収(漫画家)さんと読む『ねじ式』”. ブック・アサヒ・コム (2014年9月21日). 2015年3月28日閲覧。
  34. ^ 日刊サイゾー、2009年4月26日『えびすビンゴ』出版記念インタビュー、蛭子能収流・今を生き抜く処世術
  35. ^ 双葉社刊『家族天国』の中「俺の息子に手を出すな」より。
  36. ^ 浅草キッド著『みんな悩んで大きくなった』より。
  37. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』より「笑い話じゃなく、それはもう死活問題です。一時期よりもファンはすっかり減ってしまって、あの時は本当に困りましたよ。」と述べている。
  38. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』発売記念 蛭子能収インタビュー
  39. ^ 蛭子能収、ボートレース場で頭を叩かれるなど危険な目に|女性自身 2015年5月17日
  40. ^ 2015年3月10日発行『実話ナックルズ 漫画BAD2 ミリオンムック』(ミリオン出版)「不道徳漫画列伝 第2回 社会の異常性を描く天才 蛭子能収」183頁より。
  41. ^ 不条理旋風、始動!プロ漫画家・蛭子能収、堂々のデビュー!! (OCN TODAY)
  42. ^ 他にも、みうらじゅん水道橋博士伊集院光吉田豪が蛭子ウォッチャーであることを公言している。
  43. ^ 根本敬『人生解毒波止場』(洋泉社 2001年)あとがき
  44. ^ 蛭子能収『サラリーマン危機一髪』(河出書房新社 1985年)巻末の解説より。
  45. ^ ラジオ番組小島慶子 キラ☆キラ』(TBSラジオ2009年12月24日放送)より。
  46. ^ 根本敬 MAISON D'ART "EBISU" 蛭子 能収/Yoshikazu EBISU 1997-2014 MAISON D'ART
  47. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「結婚しないの?と言われ…」WEB女性自身 2015年3月9日
  48. ^ 蛭子能収『正直エビス』(新宿書房 1996年)より [要ページ番号]
  49. ^ 暴言爆弾の絨毯爆撃!人の悲しみをあざ笑う蛭子能収の真意とは何か!? (OCN TODAY)
  50. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 『群れず』に生きる」の中「いじられキャラになる」より。
  51. ^ 蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』5頁
  52. ^ 倉田真由美との共著『くらたまのえびす顔』(2008年・ゴマブックス)より。
  53. ^ 青林堂月刊漫画ガロ』1996年4月長井勝一追悼号「追悼・長井勝一」の中「長井プロダクションで大儲け?」より。
  54. ^ 青林堂月刊漫画ガロ』1993年4月号「蛭子能収特集」より。
  55. ^ 青林工藝舎マンガの鬼AX アックス』Vol.1「馬鹿マンガ道場ポレポレ」110頁。
  56. ^ 加藤梅造 漫画家・蛭子能収を再評価せよ! 2004年
  57. ^ 蛭子能収というリアルドキュメンタリー フジ『ウチくる!?』(8月3日放送)を徹底検証! 2014年8月8日 20時30分日刊サイゾー
  58. ^ 【エンタがビタミン♪】「実は子供嫌い」「孫の名前を覚えてない」。おじいちゃん失格? の蛭子能収。”. Techinsight (2011年9月4日). 2015年3月28日閲覧。
  59. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第四章 『孤独』と『死』について」の中「血のつながりは信じない」より
  60. ^ TVでた蔵「2013年6月3日放送 徹子の部屋」”. ワイヤーアクション (2013年6月3日). 2015年3月28日閲覧。
  61. ^ 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号「山田花子に捧ぐ」の中「それでは山田花子さんさようなら」より。
  62. ^ 光文社『蛭子能収のゆるゆる人生相談』あとがきより
  63. ^ 蛭子能収 安保関連で暴言放ち爆笑呼ぶ「戦うのはアメリカに任せとけばいい」ライブドア公式サイト
  64. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「友達はそんなに大切?」 女性自身 2014年7月23日
  65. ^ 朝日新聞デジタル 2014年6月26日
  66. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 群れずに生きる」の中「趣味のグループは楽しい」より
  67. ^ 蛭子能収「おひとりさまを笑うな」インタビューその1「自分の好きなことをしっかり持て!」
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  69. ^ 男がみんな浮気するわけではない!絶対浮気をしない男の特徴”. ぐるなびWEDDING (2014年1月22日). 2015年3月28日閲覧。
  70. ^ 青林堂刊『私はバカになりたい』の中「普通の人々」に「幸福そうに見える家族や恋人同士を次々と襲っては自分の不幸を他人にも押し付ける意地汚い連中がウヨウヨしている。一寸でも幸福そうなところを見られたら全員惨殺と言う事になる。」という台詞が登場している。
  71. ^ Facebook依存症? 毎日投稿、「いいね!」の数も気になる。どうしたらいいのか「PRESIDENT Online」2015年8月3日号所収
  72. ^ 光文社『蛭子能収のゆるゆる人生相談』あとがきより。
  73. ^ 「世の中の人は田中君のこと、そんなに見てないよ。」悩みを打ち明けたアンガ・田中に、蛭子能収が出した驚きの答え
  74. ^ 「オレでいいのかな…」蛭子能収の人生相談がスタート【蛭子能収】 女性自身 2637号ニュース 2014年6月12日
  75. ^ 蛭子能収「おひとりさまを笑うな」インタビューその2「自己主張は自分にすればいい」
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  78. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第三章 すべては自由であるために」の中「芸能界で好きな人」より。
  79. ^ OGな人びと|暴言爆弾の絨毯爆撃!
  80. ^ 蛭子能収「芸能界メッタ斬り」毒舌バクロ|日刊大衆 2015年4月28日
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  86. ^ 「ビートたけし&浅草キッド ビートニクラジオ」(1998年7月19日、みうらじゅん談)
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  89. ^ 蛭子能収のうきうきギャンブラー人生 初めてのパチンコ ガイドワークス
  90. ^ 蛭子能収のうきうきギャンブラー人生 一億円も負けてる私… ガイドワークス
  91. ^ やくみつるの著書『やくみつるの故意死球』(ドリームクエスト 1999年)より [要ページ番号]
  92. ^ NHK『立川志らくの演芸図鑑』(2012年10月21日放送)ゲスト出演時 [出典無効]
  93. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「結婚相手に子どもが…」”. 女性自身 (2015年1月2日). 2015年3月28日閲覧。
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  95. ^ a b 週刊文春 2002年9月12日号 144〜148ページ『阿川佐和子のこの人に会いたい(452)』
  96. ^ TVでた蔵「2012年1月21日放送 土曜イベントアワー」”. ワイヤーアクション (2012年1月21日). 2015年3月28日閲覧。
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  101. ^ 長崎新聞』2010年2月9日「故郷への提言 本県出身著名人に聞く」より
  102. ^ 蛭子さんの自由が一番「尊敬できる父」=蛭子能収 毎日新聞 2016年6月12日 東京朝刊
  103. ^ 蛭子能収『私はバカになりたい』(青林堂/昭和57年3月20日初版発行)174〜175頁 あとがき「私のイヤーな性格について暴露する二、三の事柄」より。
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  106. ^ a b c d 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 群れずに生きる」の中「葬式が〝喜劇〟に見えてしまう」より。
  107. ^ 2014年10月19日(日)「お笑いワイドショー マルコポロリ」)”. gooテレビ (2014年10月19日). 2015年3月28日閲覧。
  108. ^ 根本敬『人生解毒波止場』(幻冬舎文庫)256頁〜257頁。
  109. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第四章 『孤独』と『死』について」の中「本当の『孤独』を知った前妻の死」より。
  110. ^ 1970年に発表された同人誌。『地獄に堕ちた教師ども』オリジナル版のほか、商業誌未発表作品『帰り道はきつかった』『恐るべき美声年』掲載。その他に冨永佳宏、勇村良興が寄稿。数冊だけ現存が確認されている。
  111. ^ @btf「自由自在(蛭子能収)と臨機応変(根本敬)の勝敗なき勝負展」その顛末〈根本敬・記〉
  112. ^ 蛭子能収と根本敬の「やり直し展」が明治神宮前のGalaxy-銀河系で開催 CINRA.NET 2013年4月22日 13時18分
  113. ^ 太川陽介&蛭子能収「バス旅」、映画化決定! 三船美佳をヒロインに台湾へ”. シネマカフェ (2015年11月10日). 2015年11月10日閲覧。
  114. ^ 蛭子能収、バラエティー番組でMC初挑戦 自己評価は「80点」”. ORICON STYLE (2016年1月4日). 2016年1月5日閲覧。
  115. ^ “ウーマン村本、ケンコバ、小籔がテレ朝新設オープンスタジオからニュース届ける”. お笑いナタリー. (2016年3月24日). http://natalie.mu/owarai/news/181043 2016年3月24日閲覧。 

注釈[編集]

  1. ^ 蛭子能収・根本敬・マスクベビーの各氏がバラバラに描いた原稿を青林工藝舎の編集部で合体した合同漫画作品。青林工藝舎は「日本で一番自由奔放且つ臨機応変な作品」を自称している。
  2. ^ この「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画は『月刊漫画ガロ1974年3月号掲載の「仕事風景」(青林工藝舎刊 『地獄に堕ちた教師ども』収録)にて確認できる。
  3. ^ この落選した漫画について、蛭子はインタビューの中で以下の様に答えている。

    ──どんな漫画を投稿されたか覚えてらっしゃいます?
    蛭子 「狂気が彷徨う」というタイトルなんですけど、内容はなんだったけなぁ、男と女が同棲していて、男が相手の女を殺すっていう(笑)
    ──ストーリーはまったく伝わってきませんけど、ヤバさだけはビンビンに感じますね(苦笑)
    蛭子 たしか理由もなく何か相手がうっとおしくなっちゃって「目の前のこの人がいなければ自由だ」と思い始めて殺してしまうという、そんな漫画でした。
    ──たったそれだけですか?
    蛭子 それだけです(笑)ただ、どこに力を入れたかというと、ストーリーよりも描写を堪能するというか、要は惨殺シーンを総ページ数からあり得ないページ数を割いて描いたんですよ。
    ──そこに力を入れましたか(苦笑)ちなみにどんな惨殺シーンを描いたんですか?
    蛭子 電気コタツのコードで首を絞めて、絞めてるコードの布がビリビリに破れて、だんだんと中の銅線だけになっていって、その銅線がグーッと首に食い込んでいくんです。快感ですねぇ(笑)
    ──うわぁ……ちなみに総ページ数とその惨殺シーンに割いたページ数は?
    蛭子 総ページ数は18ページで、惨殺シーンが10ページだったかな…。

    —OCNジャーナル「蛭子能収インタビュー」2009年

    また、惨殺シーンを総ページ数から「あり得ないページ数」を割いているのは、ジョン・ウェインの西部劇『アラモ』の後半1時間が殆ど殺戮シーンであったことに衝撃を受け、惨殺シーンを1ページで済ませるのでなく迫力を出すため10ページぐらい割いてじっくり殺すようにした為という。しかし、その一方で「そういうシーンって描くと途中でメゲるんですよ。自分でもイヤになるんです。殺しのシーンを長々書くの、精神的に耐えられなくなる(笑)」という感想も述べている。

  4. ^ 漫画単行本の最高売上が8千部であったと述べている(2015年11月9日放送「ビートたけしのTVタックル」より本人談)
  5. ^ その一方で、「オレもアンダーグラウンドから脱出して、あっちのほうへ行きたいという気持ちもありますからね。あっちは華やかなですからね、誰でもそこへ行ってみたいと思う願望を捨てきることはできないですよ。ただ、そういうのが描けないし、正直に言うと日の当たる場所は飽きますね。」と述べている。
  6. ^ 暴力的な描写が多い自身の作風について蛭子は次のように答えている。
    お金がなくて貧しいってこともあったと思う。そういうのって怒りやすい、何かに対して怒ってる。だから大抵俺の漫画は最後に怒って誰かを殺すというのがすごく多かったんですよ。この人を殺すために5ページは使ってやると、そのぐらい怒りを込めて描いてましたね。(現実社会では)「こいつはダメだ!」と思っても、全然我慢してるんですよ。だけど漫画の中ではバーン!と爆発するんです。 — 『ニッポン戦後サブカルチャー史II』第5回「ヘタウマって何だ?」2015年10月30日放送
  7. ^ ラジオ番組伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ2014年12月22日放送)より。伊集院光は番組内で「蛭子さんと意見は一緒なんだけど、本人の前だとその意味と似てることを言ったり言葉とか探すじゃん、絶対。なのに蛭子さんはダイレクトに言って…思いっきり言って、とんでもない空気になったみたいです。」と述べている。
  8. ^ 田中は蛭子の回答を受けて、憤慨しつつも救われた気持ちになったという。その後、田中は蛭子を“心の師匠”として尊敬する様になり、田中は蛭子と共演した際に番組内で再三感謝の弁を述べた。しかし、蛭子は田中に相談された事を憶えていなかった。この模様はBS朝日のトーク番組「極上空間」(2015年3月14日放送)にて伝えられた。
  9. ^ 1982年の単行本『私はバカになりたい』のあとがきでも「頭が悪いくせに計算高い」と述べている。
  10. ^ これは蛭子が父と延縄釣りをしていた時にケガをした話が基になっている。
  11. ^ 正確には、妻が妊娠した際に「子供はいらないから中絶しよう」と提案したが断られたので「仕方なく産んだ」という話が基になっている(根本敬談)
  12. ^ バラエティ番組水曜日のダウンタウン』では「蛭子能収を超えるクズそうそういない説」として、これらの伝説を基に蛭子の人格を全否定する特集を行ったが、その直後に同番組は不祥事を起こしている。
  13. ^ 漫画「知識人のレポート」(青林堂刊 『私はバカになりたい』収録)の「売れ残った子供を丸焼きにする」というラストシーンから広まった噂と見られる。
  14. ^ 個性派アーティストによるトリビュートアルバム。参加アーティストは蛭子能収、大槻ケンヂ、ビル+戸川純ATTACK HAUS犬神サーカス団みうらじゅん、THE DIGITAL CITY JUNKIES、スハラケイゾウ+ノイズわかめ、大正九年、スラングブギー、山本精一、毒医患、コバルト、四日市ぜんそく、nhhmbase、ED WOODS、GREEN MILK FROM THE PLANET ORANGE、ロリータ18号、ブラジルUFO、オナニーマシーン
  15. ^ 漫画家の平口広美が編集・撮影を手掛けた蛭子能収主演・根本敬助演の自主制作映画。物語らしい物語はほとんどなく、蛭子がバケツに入った豚の臓物を団地の砂場に出して汚しては水で洗う、という繰り返しの映像が1時間も続くアバンギャルドな内容となっている。ラストは蛭子と根本と平口の食事風景が映し出されて映画は終わる。この映画のフィルムは根本敬が個人的に所有しており、アンダーグラウンドで何度か上映された事がある。

外部リンク[編集]