テンポイント

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テンポイント
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欧字表記 Ten Point
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
白斑 流星鼻梁鼻白
左前肢半白
生誕 1973年4月19日
死没 1978年3月5日
(5歳没・旧6歳)
コントライト
ワカクモ
母の父 カバーラップ二世
生国 日本の旗 日本北海道早来町
生産 吉田牧場
馬主 高田久成
調教師 小川佐助栗東
厩務員 山田幸守
競走成績
生涯成績 18戦11勝
獲得賞金 3億2841万5400円
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テンポイントは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。トウショウボーイグリーングラスを加えた3頭はTTG総称される。

1975年8月に競走馬としてデビュー。関西のクラシック候補として注目を集め、額の流星[† 1]と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)有馬記念第22回有馬記念)を優勝した。後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTG三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。1978年1月に国外遠征に向けての壮行レース(第25回日本経済新春杯)中に骨折し、43日間におよぶ治療の末に死亡した。

1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬顕彰馬に選出。主戦騎手鹿戸明

馬齢は旧表記に統一する。

生涯[編集]

誕生・デビュー前[編集]

テンポイントは1973年4月に北海道早来町吉田牧場で生まれた。父のコントライトは吉田牧場が日本へ輸入しシンジケートを組んだ種牡馬で、母のワカクモ桜花賞優勝馬であった。吉田牧場の吉田重雄は、この交配には「当時海のものとも山のものともわからないコントライトという種馬を、僕が中心になりシンジケートをつくって入れたんで、これを成功させなくちゃならない。そのためには、いい肌馬を当てて、いい子馬を生んでもらわなくては」という思惑があったと述べている[1]。吉田牧場の吉田晴雄によると、生まれたばかりのテンポイントはどっしりとして「文句なしの特級」といえる体つきをしていた[2]。テンポイントはまもなく馬主の高田久成によって1500万円で購入され[3]栗東トレーニングセンターにある小川佐助厩舎で管理されることが決まった。購入前に吉田牧場で見たテンポイントについて小川は、身体全体がバネ仕掛けで動くような動きをしていたと述べている[4]

吉田牧場の関係者によると、幼少期のテンポイントは精神・知能の面では人に逆らわない利口さをもち、常にワカクモに付いて回る甘え性でもあった[5][6]。身体面では追い運動(馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動)をさせた時の走りが非常に速かった反面ひ弱さを抱え、2歳時に前脚の膝の骨を痛めるなどあまり丈夫ではなかった[7][8]。幼少期のテンポイントには栄養補給のためミルクが与えられた。テンポイントはこれを好んで飲み、後に1978年の闘病中には吉田牧場の勧めで毎日牛乳が与えられた[9][10][11]

競走生活[編集]

3歳時(1975年)[編集]

テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。8月17日函館競馬場の新馬戦でデビュー。3日前に行われた調教で優れた動き[† 2]を見せたことが評価され、50%近い単勝支持率[† 3]を集め1番人気に支持された。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった[12]

新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別が予定されたが発熱したため11月の条件戦もみじ賞に変更となった[12]。もみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した。

続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し(この傾向はその後のレースでもみられた。詳しくは#レース中に見せた特徴を参照)、勝利が危ぶまれる場面もあった[† 4]が、第4コーナーで前方への進出を開始。直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離してゴール。2着馬に7馬身差を付け、同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速い走破タイムを記録して優勝した[13]。テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された[14]

4歳時(1976年)[編集]

阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった[† 5]。調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた[15]。テンポイントの管理や調教は主戦騎手鹿戸明厩務員の山田に任されることになった[16]

1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。続く皐月賞トライアルスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった[† 6]。この結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」という声も上がるようになった[† 7]。鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から叱責を受けた[17]

関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック一冠目の皐月賞に臨むことになった。しかし厩務員労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。この年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会とが激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日である4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。テンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。その後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、ふたたび予想が裏目に出る結果となった。これらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになった[18]。その結果レースでは1番人気に支持されたものの、同じく無敗で臨んでいたトウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた[† 8]

次走は年初から目標としていた東京優駿となった。テンポイントは2番人気に支持されたものの、厩務員の山田によると競走生活においてもっとも体調が悪かった。山田は勝つことを「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と当時を振り返っている[19]。レースでは第3コーナーから思うように加速することができず、7着に敗れた。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った[20]。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折して騎乗が不可能となったため東京優駿では武邦彦が騎乗した。鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである[21]

骨折は程度は軽く7月頃には治り[22]、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けた。菊花賞のトライアルレースであった神戸新聞杯京都新聞杯には間に合わず、復帰初戦には京都大賞典が選ばれた。テンポイントの調整は調教師の小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく[23]、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された。このレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った[24]。トウショウボーイにはそのまま先着したが内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。なお、当時グリーングラスの勝利はフロック視されたが、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった[25]

菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。レースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた[26]

5歳時(1977年)[編集]

菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった[27]。陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。

テンポイントは京都記念(春)鳴尾記念をともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった[28]

天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。同レースには持病の深管骨瘤[† 9]で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員が「気合いが全然足りない」とコメントしていた[29]ことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと[30]、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」[30]、「ぼくのミスです」[31]とそれぞれこのレースを振り返っている。この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」 という声が上がるようになった[32]。(レースに関する詳細については第18回宝塚記念を参照)

宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく[† 10]、招待を辞退して年末の有馬記念[† 11]を目標とした。小川と 鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった[33][34][35]。厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントは腰に筋肉がつき、筋骨隆々の馬体になった[35]。これによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている[36]

夏期休養後の京都大賞典で63kg斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり、続くオープンも逃げ切って優勝。有馬記念では1番人気に支持された。レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが[37]、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまりこんだ。途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた[38]。阿部珠樹は向こう正面に入っても競り合いを続ける2頭を見て、「共倒れになるかもしれない」と感じたという[39]。それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っている。鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースではの締め方が完全ではなかった[40][† 12]。抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされる[† 13]。渡辺敬一郎はこのレースを、「昭和52年。……極端なことを言えば、2頭の競走生命のすべてが暮れの有馬記念に収斂されていったと言っても過言ではない」と評している[41]。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)

この年、テンポイントは1956年メイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された[† 14][42]

6歳時(1978年)[編集]

年が明け、テンポイント陣営は海外遠征を行うと発表[† 15]。2月に遠征における本拠地であるイギリスへ向けて出発することになった[43]

発表後、関西圏のファンから遠征の前にテンポイントの姿を見たいという要望が馬主の高田や調教師の小川に多数寄せられるようになった[44][45][46]。これを受けて小川は壮行レースとして1月22日の日本経済新春杯に出走させることを主張した。高田は重い斤量を課されることへの懸念から内心出走させたくなかったものの判断を小川に委ねた[47]。小川は67kg以上のハンデキャップを課された場合出走を取り消す予定であったが、発表された斤量は66.5kgであったため出走を決定した。一方、馬主の高田、主戦騎手の鹿戸、吉田牧場の吉田重雄は66.5kgの斤量に懸念を抱いた[48]。レースでは向こう正面半ばまで先頭を進み、そこからエリモジョージやビクトリアシチーに競りかけられた[† 16]ものの斤量を苦にしている様子はなく、鹿戸は「楽勝だ」と感じていた。しかし第4コーナーに差し掛かったところで左後肢を骨折し競走を中止した[49]。骨折の瞬間、鹿戸明は「後ろから引っぱられて沈みこむよう」な感覚に襲われたという[50]。(レースの詳細については第25回日本経済新春杯を参照)

骨折の程度は折れた骨(第3中足骨)が皮膚から突き出す(開放骨折)という重度のもので、日本中央競馬会の獣医師は安楽死を勧めたが、高田が了承するのを1日保留している間に同会にはテンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられ、電話回線がパンクする寸前になった[51]。これを受けて同会は成功の確率を数%と認識しつつテンポイントの手術を行うことを決定した[52][51]

テンポイントの骨折は大きく報道され、一般紙でも1月23日付の朝日新聞朝刊が三面トップ6段抜きで扱った[† 17]。テンポイントの闘病中もスポーツ新聞では症状が詳細に報じられ、連日厩舎にはファンから千羽鶴人参などが届けられた[53]

手術・闘病生活[編集]

日本中央競馬会はテンポイントの手術と治療のために33名の獣医師からなる医師団を結成し、1月23日に手術を行った。手術の内容はテンポイントに麻酔をかけて左後脚を切開し、特殊合金製のボルトを使って折れた骨を繋ぎ合わせた後でジュラルミン製のギプスで固定するという内容のものだった[54][55]。手術は一応成功したと思われ、2月12日に医師団は「もう命は大丈夫。生きる見通しが強くなった」と発言した[56]。しかし実際にはテンポイントが体重をかけた際にボルトが曲がり、折れた骨がずれたままギプスで固定されてしまっていた[57]

2月13日に患部が腐敗して骨が露出しているのが確認され、同月下旬には右後脚に蹄葉炎を発症して鼻血を出すようになるなど症状は悪化の一途をたどった。3月3日には事実上治療が断念され、医師団はそれまで行われていた馬体を吊り上げて脚に体重がかからないようにする措置を中止し、テンポイントを横たわらせた[58]

3月5日午前8時40分、テンポイントは蹄葉炎により死亡した。安楽死は最後まで行われず、自然死であった。骨折前に500kg近くあった馬体重は死亡時には400kg[59]とも350kg[60]とも300kgを切る[61]とも推測されるまでに減少し、馬主の高田が大きな犬と思うほどに痩せ衰えた[62]

その死はNHKが昼のニュース番組でトップニュースとして扱い、また当日のフジテレビの競馬中継では阪神競馬場のスタジオ(関西テレビ)と結んで、杉本清志摩直人が画面に登場、テンポイントの死亡について語るコーナーを設けるなど、マスコミでも大きく報じられた[63]

死後[編集]

葬儀・埋葬[編集]

3月7日、栗東トレーニングセンターでテンポイントの葬儀が営まれた[64]。調教師の小川は自らの手でテンポイントを火葬しようと考えたが、滋賀県条例で競走馬の死体を焼却することが禁止されていたため、テンポイントは冷凍されて北海道へ移送され、吉田牧場に土葬された[65]。吉田重雄の頼みで獣医師が装着されたままになっていた左後脚のギプスを外すと異臭が立ち込め、「飛節から下の部分がグニャグニャに腐っていた」という[66]

3月10日に吉田牧場でもテンポイントの葬儀が営まれ、競馬関係者やファンなど約400人が参列した。2つの葬儀は競走馬として日本初、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来2例目のものとされる[67][68]。吉田牧場の敷地内には馬主の高田が建立したテンポイントの墓があり、多くのファンが献花に訪れている。その周りには父のコントライトや近親馬の墓がある[69]

テンポイントの死を扱った作品の発表[編集]

競馬に造詣の深かった作家寺山修司は『さらば、テンポイント』という詩を記してその死を悼んだ。

テンポイントの死によって趣旨が変更されて発表された作品もある。テンポイントが日本経済新春杯に出走する2日前、詩人の志摩直人は自らの詩を添えたテンポイントの写真集を出版する企画を立てていた。テンポイントの死を受けて企画は追悼写真集に変更され、『テンポイント 栄光の記録』というタイトルで発売された。また、関西テレビはテンポイントの海外遠征が決定を受けて、遠征の様子を追いかけるドキュメンタリー番組の制作を決定していた。しかし日本経済新春杯の事故で番組の内容は闘病生活の様子を伝えるものに変更された。制作されたドキュメンタリー(『風花に散った流星 - テンポイント物語』)[† 18]は1978年5月に放送され、後にビデオ化(『もし朝が来たら - テンポイント物語』)された[70][† 19]

死の影響[編集]

テンポイントの骨折、闘病、死は日本の競馬界に多くの問題を提起した。具体的には安楽死の是非、厳冬期に競馬を施行することの是非、重い斤量を課すことの是非などである[71]。テンポイントを安楽死させなかったことは馬主の高田夫妻が「生あるものを安楽死させることは忍びない」と考えたからであった[72]が、「結果はテンポイントを苦しくさせただけではなかったか」という批判も起こった[73]

テンポイントの骨折事故を受けて、日本中央競馬会ではハンデキャップ競走等の負担重量について再検討がなされ、過度に重い斤量を課す風潮が改められた[74][64]

顕彰馬に選出[編集]

テンポイントは1990年顕彰馬に選定された。選出の理由は、数字には出てこない部分で日本の競馬に大きな貢献があったというものである[75]1984年に初めて顕彰馬が選定された際には種牡馬実績がなく、競走実績だけをみれば他にも選ばれる馬がいるという理由で選に漏れたが、発表後テンポイントが含まれていないことについて多くの抗議が寄せられた。顕彰馬選考委員会のメンバーだった石川喬司によると、「なぜあの馬が入っていないんだ」という趣旨の抗議の中で最も多かったのはテンポイントについてのものであった[76][† 20]

競走成績[編集]

年月日 競馬場 競走名


人気 着順 距離 タイム 騎手 着差 勝ち馬 / (2着馬)
1975 8. 17 函館 3歳新馬 9 8 8 1人 1着 芝1000m(良) R 58.8 鹿戸明 -1.6 (グランドヤマトシ)
11. 9 京都 もみじ賞 14 6 10 1人 1着 芝1400m(稍) 1.25.4 鹿戸明 -1.5 (タカミオーラ)
12. 7 阪神 阪神3歳ステークス 11 6 6 1人 1着 芝1600m(不) 1.37.1 鹿戸明 -1.1 (ゴールデンタテヤマ)
1976 2. 15 東京 東京4歳ステークス 6 2 2 1人 1着 芝1800m(良) 1.49.6 鹿戸明 -0.1 クライムカイザー
3. 28 中山 スプリングステークス 6 1 1 1人 1着 芝1800m(稍) 1.52.4 鹿戸明 -0.1 (メジロサガミ)
4. 25 東京 皐月賞 15 7 12 1人 2着 芝2000m(良) 2.02.4 鹿戸明 0.8 トウショウボーイ
5. 30 東京 東京優駿 27 2 5 2人 7着 芝2400m(良) 2.29.6 武邦彦 2.0 クライムカイザー
10. 17 京都 京都大賞典 14 5 7 6人 3着 芝2400m(良) 2.27.4 鹿戸明 0.1 パッシングベンチャ
11. 14 京都 菊花賞 21 6 13 3人 2着 芝3000m(重) 3.10.3 鹿戸明 0.4 グリーングラス
12. 19 中山 有馬記念 14 7 12 3人 2着 芝2500m(良) 2.34.2 鹿戸明 0.2 トウショウボーイ
1977 2. 13 京都 京都記念(春) 13 2 2 1人 1着 芝2400m(重) 2.27.2 鹿戸明 -0.1 (ホシバージ)
3. 27 阪神 鳴尾記念 9 3 3 1人 1着 芝2400m(重) 2.32.6 鹿戸明 -0.1 (ケイシュウフオード)
4. 29 京都 天皇賞(春) 14 6 10 1人 1着 芝3200m(稍) 3.21.7 鹿戸明 -0.1 クラウンピラード
6. 5 阪神 宝塚記念 6 3 3 1人 2着 芝2200m(良) 2.13.1 鹿戸明 0.1 トウショウボーイ
10. 16 京都 京都大賞典 9 1 1 1人 1着 芝2400m(良) 2.27.9 鹿戸明 -1.3 (サイコームサシ)
11. 12 東京 オープン 5 1 1 1人 1着 芝1800m(良) 1.47.5 鹿戸明 -0.3 ロングホーク
12. 18 中山 有馬記念 8 3 3 1人 1着 芝2500m(良) 2.35.4 鹿戸明 -0.1 (トウショウボーイ)
1978 1. 22 京都 日本経済新春杯 9 1 1 1人 競走中止 芝2400m(良) - 鹿戸明 - ジンクエイト
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 着差は「秒」表記。
  • 太字の競走は八大競走
  • 上記「競走成績」の内容は、netkeiba.com「テンポイントの競走成績」に基づく[77]

エピソード[編集]

トウショウボーイとの対戦[編集]

テンポイントはトウショウボーイと6回にわたって対戦し、両馬は競馬ファンおよび競馬関係者によって互いの好敵手であると見なされた(TTGの中でもとりわけトウショウボーイとテンポイントのライバル関係をTTと呼ぶ[78])。テンポイントの関係者はトウショウボーイのデビュー戦を見てすでにその能力の高さを認識していた[† 21][† 22]。テンポイントはトウショウボーイとの対戦成績が悪く(通算6回の対戦で2勝4敗)、最後の対戦となった第22回有馬記念までトウショウボーイが出走したレースで1着になったことがなかった[† 23]。小川と主戦騎手の鹿戸はトウショウボーイを負かすことを強く意識し[† 24][† 25]、前述のように第18回宝塚記念で敗れた後は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行い[33][34][35]、テンポイントを筋骨隆々の馬体に仕上げた[35]。一方、トウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳も、引退が決まったトウショウボーイにテンポイントを負かして花道を飾らせたいと第22回有馬記念出走を決定した[79]。保田は、菊花賞でテンポイントに風格が備わったのを感じて以来テンポイントに対し「敵はこれだな」という「本当のライバル意識」を持つようになり、2回目の有馬記念では相手にテンポイントしか浮かばなくなっていたと振り返っている[80]

騎手の起用について2頭の陣営は対照的であった。トウショウボーイ陣営が4歳時に東京優駿・札幌記念と連敗した後、それまで同馬に騎乗していた池上昌弘を降板させ福永洋一武邦彦といったトップジョッキーを起用したのに対し、テンポイント陣営はテンポイントが敗戦を繰り返した時期にも鹿戸明を降板させることはなく、鹿戸は骨折で騎乗できなかった東京優駿以外のすべてのレースで騎乗した[81]。鹿戸はテンポイントの主戦騎手を勤めたおかげで名前が売れてジョッキーとして一人前になったとし、「僕をずっと乗せてくれた小川先生と高田オーナーには頭が上がりませんね」と述べている[82]

トウショウボーイは第22回有馬記念を最後に競走馬を引退して種牡馬となり、1992年に死亡した。死因はテンポイントと同じ蹄葉炎であった[83]

小川による坂路コース建設の訴え[編集]

小川は1976年にテンポイントを関東に遠征させた際、日本中央競馬会に獣医から「関東のコースにはゴール前に坂がある。関西にはない坂(当時、阪神競馬場の直線コースには坂がなかった)を走って馬が腰を悪くすることがあるから気をつけるように」と忠告を受けた。実際にテンポイントは東京4歳ステークスで腰を痛めた。小川は東京優駿で7着に敗れた後、新聞記者を集めて「関西馬が関東馬に負ける[† 26]のは競馬場にも栗東トレーニングセンターにも坂がないからだ[† 27] 」とコメントし、栗東トレーニングセンターに上り勾配をつけるよう働きかけてくれと涙ながらに訴えた[84][85]。この発言を受けて同年秋に栗東トレーニングセンター内の調教コースの一つ(Eコース)に勾配がつけられた[84]ほか、坂路コースを建設する気運が高まり、1985年に完成した。1990年代になると中央競馬では1970年代とは逆に「西高東低」の構図が定着し、その原因のひとつに美浦トレーニングセンターに坂路コースがないことが挙げられるようになった[85]。このことについて競馬評論家大川慶次郎は、「関西の時代を作る源となったのは、小川調教師とテンポイントだった」と評した[85]

杉本清による実況[編集]

関西テレビアナウンサー(当時)で競馬実況を主に担当していた杉本清は、阪神3歳ステークスにおいて「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」という実況を行った。菊花賞ではテンポイントが直線で先頭に立つと「それいけテンポイント、ムチなどいらぬ!押せ〜!」とテンポイントへの個人的な肩入れを実況するスタイル(自らの主観を実況に反映させていたことは杉本自身も認めている)は競馬ファンに強い印象を残した[86][87][† 28]。杉本はテンポイントについて「テンポイントがいたから今の杉本清がある」と述べている[88]ポリドール・レコードは杉本に注目し、杉本を歌手としてテンポイントの音楽レコード制作を企画した。しかし杉本の歌唱力が低かったために歌い手は新人歌手の菖蒲正則に変更された(杉本はB面『テンポイント物語』のナレーションをすることになった)。このレコードは 1976年に『君よ走れ-テンポイント賛歌-』というタイトルで発売された[89][† 29]

なお、テンポイント生涯最後のレースとなった1978年の日経新春杯で関西テレビの実況を担当していたのも杉本で、異変の直後は「ああっと、テンポイントちょっとおかしいぞ、あっとテンポイントおかしい、おかしいおかしい!」「これはどうしたことか、これはどうしたことか、故障か、故障か!テンポイントは競走を中止した感じ、これはえらいこと、これはえらいことになりました」とその衝撃の大きさを伝え、鹿戸が下馬して故障が確定した後は「なんとしても無事でと、なんとしても無事でと願っていた、願っていたお客さんの気持ち、もう‥通じません」「なんともこれはまた、テンポイント故障だ。なんとも言葉がありません…」と無念に満ちた言葉を残した。

特徴・評価[編集]

身体面に関する特徴・評価[編集]

テンポイントは額から真っ直ぐに伸びた流星[† 1]と美しい栗毛の馬体を持つことで知られる。テンポイントの栗毛は日光を浴びるととくに美しさを増し、「日の光に煌めいて黄金色に見える」といわれた[90][91]。競馬関係者の中にもテンポイントの馬体の美しさを評価する声は多い[† 30][† 31][† 32][† 33][† 34]。厩務員の山田はテンポイントの流星が常に見えるように決してメンコを装着させなかった[92]

体力面では若い頃は華奢で脆弱な面があり[† 35]、デビュー前はしばしば腹痛や発熱を発症し、デビュー後もレースに出走すると1週間ほど食欲が落ちてなかなか疲労が取れなかった[93][94]。しかしデビュー後徐々にたくましさを増し、デビュー戦で456kgだった馬体重は第22回有馬記念出走時には498kgに増加した[† 36][† 37]

テンポイントの一番の長所について、吉田牧場の吉田晴雄は心肺機能の高さであるとしている(一般的な競走馬の一分間の心拍数は27だが、テンポイントは18だった)[95]。主戦騎手の鹿戸は背中が柔らかかったことと皮膚が非常に薄かったことを挙げている[96]

知能・精神面に関する特徴・評価[編集]

吉田牧場の関係者と調教師の小川、厩務員の山田は、同馬の利口さを指摘している[† 38][† 39][97]。気性面ではレースで強い闘争心を発揮した半面、普段はおとなしい気性の持ち主だった[98]。テンポイントはレース終盤に苦しくなるとよれてまっすぐに走れなくなる癖があった。鹿戸によると、これはテンポイントが脚に慢性的な骨膜炎を抱えていたことが原因だった[99]

レースぶりに関する特徴・評価[編集]

テンポイントはスタートが得意で、出遅れたことが一度もなかった。主戦騎手の鹿戸によるとテンポイントは反射神経が抜群によく、たとえ発馬機内で横を向いていてもゲートが開くとすぐに反応してスタートすることができた[100]。一方で前述のようにレース中第3コーナーから第4コーナーにかけて後退する癖があったが、厩務員の山田によるとこれはテンポイントの走る時の完歩が大きかった(一般的な競走馬が200m走るのに30完歩以上かかるのに対し25完歩で走ることができた)ため、レース終盤にペースが速くなると追走しにくくなるからだとしている[101][102]

テンポイントの主戦騎手であった鹿戸とトウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳はともに、テンポイントの競走馬としての最大の特徴はレースで見せる勝負強さ、闘争心にあったと指摘している[† 40][† 41]

人気[編集]

テンポイントの人気は高く、天皇賞(春)を優勝し初めて八大競走に勝った時には観客席から手拍子と口笛が鳴った。これはそれまでの中央競馬にはなかった現象であった[103][104]。また、前述のように第22回有馬記念優勝後や日本経済新春杯で骨折した際にはそれぞれ関西のレースでテンポイントの姿を見たいという要望と助命嘆願が関係者のもとに数多く寄せられた。闘病中のテンポイントに届けられた千羽鶴は5万羽にのぼった[105]。レースにおける人気をみると、テンポイントは出走した18レースのうち14レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。1977年の天皇賞(春)では単枠指定制度の適用を受けている。

投票における評価[編集]

競馬ファンからは、1980年に日本中央競馬会がカレンダーを製作するにあたり実施した“アイドルホース”の投票で第1位に選ばれた[106]。また、2000年に実施された「20世紀の名馬大投票」では第14位に支持されている(第1位はナリタブライアン)。競馬関係者からは、雑誌「Number」(1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で第7位に(第1位はシンザン)、競馬関係者に著名人を含めたアンケートでは雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行ったアンケート[† 42]の「最強馬部門」で第8位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第1位に選出されている。

競走馬名および愛称・呼称[編集]

馬名の由来は、当時新聞の本文活字が 8ポイントであったことから、10ポイントの活字で報道されるような馬になって欲しいという願いを込めてと名付けられたものである[107]。当初はボクシングのテンカウントが由来だと誤解されていた[108][109]

テンポイントは前述の額の流星と美しい栗毛の馬体から「流星の貴公子」の愛称で呼ばれた[† 43]。また祖母のクモワカ馬伝染性貧血と診断され殺処分されかけたことから「亡霊の孫」と呼ばれることもあった[110]

血統[編集]

父のコントライト、母のワカクモについてはそれぞれの項目を参照。ファミリーライン下総御料牧場の基礎輸入牝馬の一頭である星若 (Ima Baby) を起点とする由緒あるもので、3代母・月丘(エレギヤラトマス)は帝室御賞典など13勝を挙げた。

祖母・クモワカと母ワカクモはともに競走馬として11勝を挙げた。テンポイントの勝利数も11であった事実から、11勝はクモワカの一族にまつわる特異な数字として語られることがある[111]

血統表[編集]

テンポイント血統ネヴァーセイダイ系 (血統表の出典)[§ 1]

*コントライト
Contrite
1968 鹿毛
Never Say Die
1951 栗毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Singing Grass War Admiral
Borealle
Penitence
1961 黒鹿毛
Petition Fair Trial
Art Paper
Bootless The Cobbler
Careless Nora

ワカクモ
1963 鹿毛
*カバーラップ二世
Cover Up II
1952 黒鹿毛
Cover Up Alibhai
Bel Amour
Betty Martin Hollyrood
Rhoda F.
丘高
1948 鹿毛
*セフト
Theft
Tetratema
Voleuse
月丘 Sir Gallahad
*星若
父系
母系(F-No.) 3号族 [§ 2]
5代内の近親交配 なし [§ 3]
出典
  1. ^ JBIS テンポイント5代血統表2015年4月29日閲覧。
  2. ^ JBIS テンポイント5代血統表2015年4月29日閲覧。
  3. ^ JBIS テンポイント5代血統表2015年4月29日閲覧。

近親[編集]

関連作品[編集]

  • 書籍
    • 志摩直人『テンポイント 栄光の記録』 駸々堂、1978年
    • 吉川良、今井寿恵『テンポイント』中央競馬ピーアール・センター、1991年
    • 山田雅人『我が流星の貴公子テンポイント』ゼスト、1997年
    • 山田雅人『証言集テンポイントの思い出』 アスベクト、1998年
    • 平岡泰博『流星の貴公子 テンポイントの生涯』集英社新書、2005年
  • 映像
    • 『不滅の名馬テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1983年)
    • 『もし朝が来たら - テンポイント物語』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1991年)
    • 『トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラス』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1992年)
    • 『悲運の貴公子テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1992年)
  • 音楽
    • 菖蒲正則、杉本清『君よ走れ -テンポイント讃歌-/テンポイント物語』(LPレコード)(作詞:村井愛人、作曲:筒井理、編曲:京健輔、歌:菖蒲芳則(君よ走れ -テンポイント讃歌-)/詩:志摩直人、朗読:杉本清(テンポイント物語)) ポリドール・レコード、1976年
    • 伊勢功一『泣くなテンポイント/走れテンポイント』(LPレコード) キングレコード、1978年
    • デューク・エイセス『あゝテンポイント』(LPレコード)東芝EMI、1978年

注釈[編集]

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  1. ^ a b 馬の顔面にある細長い白斑。
  2. ^ その日の一番時計(最も速い走破タイム)を記録し、しかも調教相手の馬(同じ年のすでに新馬戦を優勝した馬で、厩務員の山田幸守は調教をする前に相手の厩務員から「ついてこれるはずがない」と言われていた)を10馬身引き離した。(平岡2005、11-12頁。)
  3. ^ 全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合。
  4. ^ 馬主の高田によると、一緒に観戦していた吉田重雄が「だめだ」と呻くのを聞き、自身も勝利をあきらめたという(渡辺1999、252-253頁。)
  5. ^ 阪神3歳ステークスのレース後、シンザンの管理調教師であった武田文吾は「健闘を祈ります。関西馬のためにも」と馬主の高田を激励した。(山田1998、62頁。)
  6. ^ フジテレビの競馬中継では「テンポイント、苦しい、苦しい、苦しい!」と実況された。
  7. ^ スプリングステークスの2着馬メジロサガミに騎乗した横山富雄のレース後のコメント。(山田1998、128頁。)
  8. ^ なお、このときトウショウボーイは順延される前は強い調教を行わず、順延後再度の順延がなされるか見通しがつかない時期に強い調教を行った。そのため、トウショウボーイ陣営はストライキが妥結するかどうかの情報を把握していたともいわれる(夢はターフを駆けめぐる6、74頁。杉本1992、15頁。)馬主の高田久成によるとトウショウボーイの実質的なオーナーであった藤田正明は、馬主会の役員としてこのストライキの団体交渉に臨んでいた(渡辺1999、261頁。)。
  9. ^ 深管(管骨(脚の膝から下にある骨)の裏側)に瘤状の隆起ができる疾病。
  10. ^ これには調教師の小川の意向が強く作用した。馬主の高田や吉田牧場の吉田重雄はあえてトウショウボーイと戦う必要はないと感じていた。(山田1998、30頁。平岡2005、142頁。)
  11. ^ テンポイントは当時天皇賞に存在した「勝ち抜け制度」のため天皇賞(秋)には出走できず、年内にトウショウボーイと対戦することが可能な八大競走は有馬記念に限られていた。
  12. ^ レースの数年後、鹿戸は武邦彦から「あんとき、明ちゃんじゃなかったら、俺、締めてただろうね」と言われたという。作家の木村幸治は武邦彦のこの発言の真意について、「勝ちを譲ったという意味ではない。……実力のままの勝負をし、テンポイントと鹿戸明をフェアに負かしたかったのである」と解釈している(木村2000、239頁。)。武邦彦はこのレースを、「トウショウボーイは、完璧なスタートをきって、終始自分のペースで行き、直線でも十分脚はありました」とした上で、「テンポイントはそのトウショウボーイに併せてきて、それで抜き去ったんだから、本当に強かったんだと思いますよ。……僕も、トウショウボーイの力をすべて出しきったと信じているんで、このレースは負けても、なんの悔いもなかった」と振り返っている(渡辺1999、283-284頁。)。
  13. ^ 競馬雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行った「思い出のレース」を問うアンケートでは第1位に選ばれた。
  14. ^ 満票で中央競馬の年度代表馬に選ばれたのは、テンポイントと 1985年シンボリルドルフ2000年テイエムオペラオーの3頭。
  15. ^ 目標としてイギリスキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスフランス凱旋門賞、アメリカのワシントンD.C.インターナショナルなどが挙げられた。
  16. ^ とくにビクトリアシチーの競りかけは執拗で、吉田牧場の吉田晴雄は同馬に騎乗した福永洋一を「海外遠征を前にした壮行レースだっただけに、なぜ、もっと気持ちのいいレースをさせてあげなかったのか」と批判した。(山田1998、47頁。)
  17. ^ 競馬通の記者遠山彰と池北義夫が中心となってトップ記事にした。(遠山1993、210-213頁。)
  18. ^ 構成は作家の寺山修司が担当し、緒形拳がナレーションを務めた。
  19. ^ なお、1977年の有馬記念における杉本の実況は競馬ファンによく知られているが、これはこのドキュメンタリー番組用に収録されたものであり、テレビ中継ではフジテレビのアナウンサー(盛山毅)が実況を担当していた。(杉本1992、30頁。)
  20. ^ テンポイントのライバル・トウショウボーイは、父内国産馬初の三冠馬ミスターシービーを送り出した種牡馬実績が決め手となり、顕彰馬選定初年度に選定となっている。
  21. ^ 厩務員の山田幸守は東京4歳ステークスに出走するために東京競馬場へ移送されたテンポイントに同行していたことからトウショウボーイのデビュー戦を東京競馬場で見ていたが、華奢なテンポイントに比べて幅のある馬体を見て危機感を覚えた。(平岡2005、65-66頁。)
  22. ^ 山田と同じく遠征に同行し、トウショウボーイのデビュー戦でタイエンジェルに騎乗していた鹿戸明はトウショウボーイの馬体や走りを見て「この馬はただものではない」と感じ(平岡2005、67頁。)、「これがテンポイントの最大の敵になるんじゃないか」と予感したという(渡辺1999、259頁。)。
  23. ^ 1976年の菊花賞ではトウショウボーイに先着したもののグリーングラスの2着に敗れた)。
  24. ^ 調教師の小川は第18回宝塚記念で敗れた際には「打倒トウショウボーイを果たすまでは夜も眠れない」というコメントを残した。(瀬戸1993、32頁。)
  25. ^ 主戦騎手の鹿戸明は第22回有馬記念のレースを前に「ここで負けたらテンポイントは永遠にトウショウボーイの下馬になってしまう」と敵愾心を露わにした。(平岡2005、149頁。瀬戸1993、35頁。)
  26. ^ 当時のクラシックは関東馬が優勢で「東高西低」といわれた。
  27. ^ 当時トウショウボーイを初めとする関東馬は、直線に坂のある東京競馬場・中山競馬場で調教されていた。
  28. ^ 同様の例として3着のテンポイントに焦点を当て、「今日はこれで十分だ」と実況した1976年の京都大賞典、ゴール前で「それいけテンポイント、ムチなどいらぬ、押せ!」と実況した1976年の菊花賞、「これが夢にまで見た栄光のゴールだ」と実況した1977年の天皇賞(春)などがある。(サラブレッド99頭の死に方、44頁。)
  29. ^ なお、このレコードが完成した頃にテンポイントが4歳初戦の東京4歳ステークスを迎え、負けてしまっては困るとポリドールのスタッフが応援に出向き、パドックの柵に応援の横断幕を拡げた。これが競馬における横断幕の初の事例である。(杉本1995、47頁。サラブレッド99頭の死に方、41頁。)
  30. ^ 調教師の小川は「美しい尾花栗毛と額の流星が印象的なサラブレッドであり、気品という言葉はテンポイントのためにある言葉だと思った。」と回想している。(瀬戸1993、20頁。)
  31. ^ 主戦騎手の鹿戸は「サラブレッドは、人間がつくったもっとも美しい芸術、といわれるけど、テンポイントはそれをそのまま形にしたような、サラブレッドだった」と述べている。(星になった名馬たち、54頁。)
  32. ^ テンポイントが出走した競走で騎乗したことのある郷原洋行は「震えるほどの気品があった」と述べている。( 競馬黄金の蹄跡、19頁。)
  33. ^ 競馬評論家の石川ワタルは「テンポイントほど強くて美しい馬は、これまで見たことがない。テンポイントの美しさには、しかも神が嫉妬するほどの気品があった」と評している。(『優駿』2000年3月号、44頁。)
  34. ^ 詩人の志摩直人はテンポイントの海外遠征が発表されたとき、「これだけ美しい馬が日本にもいる、ということを世界に見せてあげたい」と述べた。(山田1998、233-234頁。)
  35. ^ 調教師の小川は「3歳から4歳の頃はどちらかといえば華奢な身体付きで、女性的なところもあった」と述べている。(瀬戸1993、20頁。)
  36. ^ トウショウボーイの主戦騎手でテンポイントに騎乗した経験もある武邦彦は「4歳春から5歳秋にかけて、これほど成長した馬は見たことがない」と評した。(山田1998、160頁。)
  37. ^ 河内洋は「早熟に見えて、実は古馬になっても、成長し続けていたのは名馬の証明」と評した。( 競馬黄金の蹄跡、19頁。)
  38. ^ デビュー前のテンポイントについて、吉田牧場の関係者は前述のように人に逆らわない利口さをもっていたとしている。さらに追い運動の時には人に追い立てられない限り馬群の後を走り力を温存する賢さも持ち合わせていたとしている。(山田1998、25、44頁。平岡2005、46-47頁。)
  39. ^ 闘病中のテンポイントは体を動かさずにじっとしており、チェーンソーでギプスを切断する際にもまったく動じなかった。厩務員の山田はこの時の様子を「今、自分が何をしてもらっているのかを知っているかのよう」で、獣医師も「この馬は凄い」と感心するほどだったと述べている。(サラブレッド101頭の死に方140頁。山田1998、94-95頁。)
  40. ^ 鹿戸は「絶対に相手には負けないぞという気迫がもの凄かった」と評した。(山田1998、79頁。)
  41. ^ 保田は、勝負強さ、闘争心が非常に優れており、トウショウボーイが負けるくらいのものをもっていたとしている。(山田1998、146頁。)
  42. ^ 対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員OB、競馬ファンの著名人。
  43. ^ はじめにこの愛称を用いたのは志摩直人と杉本清だったといわれる。(山田1998、234-235頁。)

出典[編集]

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参考文献[編集]

外部リンク[編集]