ニホンピローエース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ニホンピローエース
現役期間 1965年 - 1968年
欧字表記 Nihonpiro Ace
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1963年3月25日
死没 1982年6月10日
モンタヴァル
スズマサ
母の父 ミナミホマレ
生国 日本の旗 日本
北海道浦河郡浦河町
生産 辻芳雄
生産 辻牧場
馬主 小林保
調教師 小川佐助京都
競走成績
生涯成績 24戦10勝
獲得賞金 34,472,750円
テンプレートを表示

ニホンピローエースは、1960年代後半に活躍した日本の競走馬。年齢表記は旧呼称とする。尚、すべてのレースに田所稔が騎乗した。尾花栗毛の逃げ馬と形容されていた[1]

経歴[編集]

現役時代[編集]

1963年3月25日北海道浦河郡浦河町の辻牧場で誕生。日本ピローブロック製造のオーナー・小林保の所有馬となり。1965年京都競馬場小川佐助厩舎へ入厩する。

1965年10月23日の京都競馬場での3歳新馬戦(芝 1,100m)に出走、1分5秒06のレコードタイムで2着のリュウファーロスに1.5秒もの差をつけての圧勝であった。2戦目の条件特別戦でも再びリュウファーロスに勝利し、3戦目には阪神競馬場の重賞競走である阪神3歳ステークス(芝 1,600m)に出走、ここでもリュウファーロス、アポオンワードを下して重賞初制覇を果たす。尚、ニホンピローエースはこの阪神3歳ステークスの勝利が評価されて1965年度啓衆社賞最優秀3歳牡馬に選出された。

1966年、4歳になると正月競馬の平場オープン競走で勝ち星を上げ、クラシックレースに挑むべく東上、2月27日の弥生賞東京競馬場、芝 1,600m)で1番人気に支持されるがタマシユウホウの前に2着、スプリングステークス中山競馬場、芝 1,800m)ではシヨウグンナスノコトブキの後塵を拝して4着に敗れた。だが4月17日の皐月賞(中山 芝 2,000m)ではスタートダッシュが決まりハナに立つと道中澱みなく快走、第4コーナーを回って最後の直線でもスピードは衰えず、1番人気シヨウグンの追撃も抑えて1着となりタイトルを手にした。しかし皐月賞の後、NHK杯東京優駿と人気になりながら5着、20着と敗れ、秋の京都杯菊花賞でもいいところなく17着に敗れ去った。

1967年、5歳となると、平場オープン競走で2勝した後、5月21日の阪急杯(阪神競馬場、芝 1,900m)では1分54秒8のレコードタイムで勝利し、皐月賞以来の重賞勝ちを収めた。その後鳴尾記念2着と調子を取り戻したかに見えたが、8月の函館記念函館競馬場)で直前に出走を取消して以後は休養を余儀なくされた。

1968年1月に京都、4月に阪神の平場オープン競走で2着、1着となり、4月29日の天皇賞(春、京都)では好位先行のレース運びを見せ、第4コーナーで後ろに下がるも直線で粘って4着に入線した。そしてこのレースがニホンピローエースの現役最後のレースとなった。現役時代は1,600m以下のレースで6戦5勝と中距離競走に強い馬でもあった[2]

種牡馬時代[編集]

現役引退後のニホンピローエースは、種牡馬となり、その産駒からはスズホープ(1979年関屋記念1着)が現れている。しかし、内国産冷遇時代の当時は不遇の扱いを受け、静内から様似、門別、弟子屈と供用地が変わる。1982年6月10日に弟子屈の鈴木芳次牧場で死亡する。死因は不明。

血統表[編集]

脚注[編集]

  1. ^ サラブレッド101頭の死に方2 p46
  2. ^ ニホンピローエース 優駿達の蹄跡 - 引退競走馬名鑑

参考文献・参考サイト[編集]

外部リンク[編集]