アイネスフウジン

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アイネスフウジン[1]
現役期間 1989年 - 1990年
欧字表記 Ines Fujin[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1987年4月10日[1]
死没 2004年4月5日(17歳没)[2]
シーホーク[1]
テスコパール[1]
母の父 テスコボーイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 中村幸蔵[1]
馬主 小林正明[1]
調教師 加藤修甫[1]美浦
厩務員 佐川邦夫[3]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬[1](1989年)
JRA賞最優秀4歳牡馬[1](1990年)
生涯成績 8戦4勝[1]
獲得賞金 2億4440万9200円[1]
勝ち鞍
GI 朝日杯3歳S 1989年
GI 東京優駿 1990年
GIII 共同通信杯4歳S 1990年
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アイネスフウジン(欧字名:Ines Fujin1987年4月10日 - 2004年4月5日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1990年の東京優駿(日本ダービー、第57回東京優駿GI)の優勝馬。1990年のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年のJRA賞最優秀3歳牡馬である[1]

そのほかの勝ち鞍に、1989年の朝日杯3歳ステークスGI)、1990年の共同通信杯4歳ステークスGIII)。

生涯[編集]

誕生までの経緯[編集]

北海道浦河町にて家族経営で競走馬生産をしていた中村吉兵衛は、借金を抱えないという経営方針を掲げており、年老いて種付け料の安い種牡馬ばかり用いて、調教師から怒られるほどであった[4]。1968年の菊花賞優勝、年度代表馬となったアサカオーを最後に重賞から遠ざかるなど[5]、生産馬の成績は落ち込み、一時倒産間際の状態に陥ったこともあった[6]

祖母ムツミパール[編集]

吉兵衛が1965年に生産したムツミパール[注釈 1]は、26戦4勝で競走馬を引退[7]。その後は、吉兵衛の下で繁殖牝馬となり、1971年からは産駒を残し続けていた[8]。この時、知人に「ノースマン(Norseman)の4×3」により「奇跡の血量」が成立するシーホークの配合を勧められたが、それまでシーホークの活躍馬がいなかったことから採用を見送っている[9]。1975年の配合相手に吉兵衛は、産駒にランドプリンステスコガビーなどの活躍馬が出ていたテスコボーイ[注釈 2]を希望した[6]

テスコボーイは、日高軽種馬農業協同組合(農協)が日本に導入した種牡馬であり、活躍馬が出ていて馬産地の評判が良かった[6]。農協所有で種付け料が安いことから、コストが低く高値が付くことから、牧場経営には好都合だった[6]。ただしその分人気もあるため、農協はテスコボーイの種付け権利を抽選で販売していた。人気のテスコボーイの倍率は高かったが、吉兵衛は当選。こうしてムツミパールに良血のテスコボーイが交配された[6]

母テスコパール[編集]

1976年4月22日、ムツミパールの6番仔である牝馬[注釈 3]が誕生する、テスコパールと命名された。直後に関係の深い2つの厩舎から管理の申し出を受けるなど[10]、吉兵衛の期待とともに周りの評価も高かった[6]。結局、美浦トレーニングセンター所属の加藤修甫調教師による管理が約束され、競走馬としてデビューする予定となった[6]。ところが、2歳の春、激しい下痢に襲われて診療所に入所する[10]。程度がひどく、治療されてもしばらく回復の兆しは見られなかった[10]。次第に体は痩せ、顔周辺にたかるハエの大群を追い払うことも、肛門を閉じることもできなくなるほど衰弱する[10]

そんな状況から、獣医師は、助かる見込みがないと診断していた[6]。しかしそれを聞いた吉兵衛は、獣医師の反対を他所にテスコパールを牧場に連れ戻すことを決意[6]。吉兵衛の息子である中村幸蔵は、診療所に赴くことすら拒否していたが[注釈 4][10]、代わりに近所の人を巻き込んで、テスコパールを奪還する。テスコパールは、入所前の同じ馬房に戻ってきた[10]。それから吉兵衛は「どうせダメなもんなら、うまいものを食わせて死なせてやりたい[10]」と考えるようになり、診療所で制限された水やえさを好きなだけテスコパールに与え始めた[6]。するとテスコパールの体調が回復。3歳秋には下痢も解消し[10]、他の馬と変わりない生活を送ることができた[6]

病を克服したテスコパールは、競走馬としてのデビューを諦めて、繁殖牝馬となる。1981年3月18日に初仔となる父ゼダーンの牝馬を出産した[11]。それから、毎年のように生産を続けていた[6]。1986年には、かつて勧められたシーホークと交配、それから1年後の1987年4月10日、高齢を理由に退いた吉兵衛の跡を継ぐ幸蔵の下[注釈 5]、7番仔である黒鹿毛の牡馬(後のアイネスフウジン)を産む[1]。 

幼駒時代[編集]

テスコパールの7番仔は、両親の名前を組み合わせた「テスコホーク」という幼名が付けられた[13]。幸蔵夫婦が多忙の時は、90歳となった吉兵衛と夫人で87歳のハナが見守っていたという[13]。当歳から馬体の充実ぶりが評判を呼び、小林正明から馬主業のすべてを任せられた加藤[注釈 6]に見出され、小林による購入および所有と、加藤厩舎の管理が決定する[6][14]。競走馬名は小林の高校生の娘2人が考案、冠名の「アイネス」に、風神に由来する「フウジン」を組み合わせた「アイネスフウジン」と命名された[14]

競走馬時代[編集]

3歳(1989年)[編集]

1989年9月10日中山競馬場新馬戦(芝1600メートル)に中野栄治が騎乗してデビュー、2番人気に支持されて2着。同じ条件で2戦目の新馬戦では、単勝オッズ1.3倍の1番人気に推されたが2着に敗れた。続く3戦目については中野は、格上挑戦で特別競走への出走を要請するほど自信があったが、10月22日、東京競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)へ進んだ[15]。単勝オッズ1.5倍の1番人気でスタートから逃げ、1馬身4分の3馬身の差をつけて初勝利を挙げた[16]。その後は、腰の疲労のせいで、連戦することができなかった[17]

続いて12月3日の条件戦、葉牡丹賞[注釈 7]を予定していたが、中野は12月17日の朝日杯3歳ステークスGI)へ出走を提案[17]。加藤は距離延長を希望して12月24日のホープフルステークス(OP)も考えていたが、最終的に中野の提案が受け入れられた[17]。加藤は、この選択を「力試し」のつもりだったという[17]。朝日杯3歳ステークスでは15頭が集まり、中でも4戦2勝ですべて3着以内のカムイフジ、京成杯3歳ステークスGII)など3連勝中の牝馬サクラサエズリが上位人気に推され、対するアイネスフウジンは、11.5倍の5番人気であった[18]

映像外部リンク
1989年 朝日杯3歳ステークス
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

スタートから、サクラサエズリが好スタートから先手を主張し、ハナを奪ったが[19]、アイネスフウジンは五分のスタートから、中野が促さずともサクラサエズリに並びかけて位置を上げ、先頭は2頭となった[19]。2頭の逃げは、第3コーナー付近にて後続に5馬身のリード、前半の1000メートルを56.9秒で通過する「超ハイペース[注釈 8]」(橋本邦治)だった[17]。2頭は並んだまま最終コーナーに差し掛かったが、まずサクラサエズリが仕掛けて、リードを作った[19]。一方のアイネスフウジンは、しばらく追われなかった。一旦振り返って、後続の様子を確認する。この間は強く追われていなかったが、サクラサエズリには突き離されていなかった[19]。直線では、後続の追い上げはなく、先頭争いは2頭に絞られた。2頭では次第にアイネスフウジンが優勢となった。残り150メートル地点にてサクラサエズリを下して単独先頭となり、突き放して2馬身半差で決勝戦を通過した[17][20]。走破タイム1分34秒4は、1976年の朝日杯3歳ステークスでマルゼンスキーが記録し、「不滅」とも称された3歳レコードに並ぶものであった[21]GI初勝利となった中野は「楽勝」と振り返っている[17]。中野にとって勝利は、10月以来であり、この年の9勝目だった[22][23]。また、中村牧場はアサカオー以来の重賞勝利を記録した[17]

この勝利に大川慶次郎は「相当の大器」「関東牡馬の注目度ナンバーワン」と評価[24]。年末のJRA賞選考では、満票172のうち112票[注釈 9]を集めてJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞した[25][注釈 10]。月刊誌『優駿』が発表する「フリーハンデ」では、「55」が与えられて3歳馬関東部門で単独首位[26]。一方関西部門では、デイリー杯3歳ステークスGII)を制して3戦3勝、骨折により阪神3歳ステークスに参戦できなかったヤマニングローバルが単独首位[26]。東西首位は同じ「55」という評価であった[26]

4歳(1990年)[編集]

4歳となり、2月11日の共同通信杯4歳ステークスGIII)で始動。雨が降る中8頭立てとなり、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された[9]。スタートから先頭に立ち、独走するとそのまま後方に3馬身離して勝利[9]。中野は、当初控えるレースを経験させようとスタートでわざと出遅れさせたが[9]、他の馬とスピードが違っていたために、結局逃げに出て勝利を収めていた[9]

続く3月4日の弥生賞GII)では単枠指定の対象となり、1.9倍の1番人気に支持される[27]。不良馬場であり、中でも馬場の内側が悪化している状態であった。アイネスフウジンの走法には合わない馬場状態であったため、ここで万一アイネスフウジンが走る気を失い、今後その能力を発揮できなくなることを恐れた中野は、無理をせず、状態の良い馬場の外側で進むことを決意[28]。逃げてその通りに騎乗したが、最後の直線で差をつけることができずに失速する。残り200メートルで内からメジロライアンにかわされ、さらにツルマルミマタオーホワイトストーンにもかわされた4着に敗れた[29]

4月15日の皐月賞は、単勝オッズ4.1倍の1番人気に推された。弥生賞で敗れたメジロライアンが5.0倍の2番人気、きさらぎ賞など5連勝中のハクタイセイが5.6倍と続き「混戦」とはやされ[30]、3頭は「三強」といわれた[31]

映像外部リンク
1990年 皐月賞
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

1枠2番と逃げに有利な内枠を得て、中野は「スピードが他馬とは違う。おもいきって逃げる[30]」と宣言していた[30]。ところが発走すると、隣の3番ホワイトストーンが内に斜行、もう片方の1番ワイルドファイアーとホワイトストーンに挟まれてぶつかる不利を受けて、十分なスタートダッシュができなかった[28]。その間にフタバアサカゼが「捨て身の逃げ[30]」を実行しており、届かず2番手に甘んじた[28]。フタバアサカゼは、前半の1000メートル通過を60.2秒で通過するペースを刻み、その後さらに遅いペースを演出[28]。アイネスフウジンには不向きの遅いペースとなってしまい、自らを抑えることができなかった[28]。残り600メートル地点でフタバアサカゼをかわしてしまい、たまらず先頭[28]。以降、直線で伸びず、中団からアイネスフウジンを目標にしていたハクタイセイに差し切られ、クビ差の2着となる[28][30]

レース後、敗戦から中野を降板させる声も上がったが、加藤は中野に「ダービーは勝とうな」と声をかけ、コンビ続投が決定[32]。加藤は、アイネスフウジンにレントゲン検査をしたところ、消耗の程度が大きいことが判明、2週間の休養を与えた[33]

東京優駿[編集]

5月27日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に出走。当日の東京競馬場には競馬場のある東京都府中市の総人口に匹敵する19万6517人が来場し、世界レコードの観客数であった[32]。皐月賞の上位3頭が再び揃ったが、アイネスフウジンは連敗により評価が下落[28]。メジロライアンとハクタイセイが単勝オッズ3倍台の1、2番人気を占めたのに対し、アイネスフウジンは5.3倍の3番人気であった[28]

映像外部リンク
1990年 日本ダービー
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

12番からスタートし、内枠の馬らを制してハナを奪い、最初の第1コーナーを通過する。そのまま逃げて1000メートルを59.8秒で通過するペースを刻んだ。向こう正面では状態の悪い馬場の内側を避けて逃げ、後方に4馬身以上のリードを守っていた。最終コーナーでは、馬場の内側からハクタイセイが追い上げてきたため、途中でペースを緩めることなく勢いそのまま先頭で通過。直線では徐々に加速し、内から並びかけようとするハクタイセイが迫ったが先頭を守った。それから外から追い上げるメジロライアンも退けた。メジロライアンに1馬身4分の1差をつけて決勝戦を通過[33]。走破タイム2分25秒3は、1988年のサクラチヨノオーが記録した東京優駿のレコードタイムを1秒更新する勝利であり、1975年優勝のカブラヤオー以来となる逃げ切り勝利であった[33]

ダク
キャンター
【左】駈歩(キャンター)【右】速歩(ダク)

アイネスフウジンは入線直後に躓くなど余力が尽き、キャンター(駈歩)することができずダク(速歩)でゆっくり戻ることとなった[34]。他の馬が向こう正面から馬場を去ったが同じようにできず、スタンド前からの退場を目指した[35][34][注釈 11]。観客はレースが終わり数分経過したが、ゆっくり退場を目指すアイネスフウジンに注目し、多くはその場から立ち去ることはなかった[36]。アイネスフウジンがスタンドに近づくにつれ、観客の若者から手拍子に合わせて、自然発生的に「ナ・カ・ノ・ナ・カ・ノ」と歓声が上がる[37][38]。するとコールは、競馬場内の老若男女に波及[37]。やがて、競馬場にいる19万人全体の合唱へ変化し、音量は、スタンドを越えて正門付近で聞こえるほどだった[32]。この行為は、後に「ナカノ・コール」と呼ばれた[35]

ナカノ・コール以降、勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれ、主催する日本中央競馬会(JRA)も大レースでの入場制限や警備、救護などを強化するきっかけとなった[39]。同時にレース前日から競馬場門に並ぶ「徹夜組」や発走前のファンファーレに合わせた手拍子をする文化も誕生している[39]。(レースおよび「ナカノ・コール」に関する詳細は、第57回東京優駿を参照。)

一方のアイネスフウジンは、退場の後の表彰式を終えて馬房に戻ると、左前脚が腫れていることが判明[36]。左前脚の屈腱炎が判明し夏以降はいわき市で2か月半温泉療養などを行って復帰を目指したが、美浦に帰厩して8月30日の初時計後に再び足元に不安が出たことから現役を引退[40]。引退式をJRAから薦められたが、「脚部不安で引退するのに、フウジンを馬場には出せない」との意向で行われなかった。

種牡馬時代[編集]

種牡馬入り後は産駒に恵まれず、一度は種牡馬引退が検討されたが、2000年ファストフレンド帝王賞東京大賞典を勝ち、種牡馬生活を続行。2004年4月5日宮城県鳴子町の斉藤牧場にて腸捻転のため、17歳で死亡[2]。この年の日本ダービーで、1999年アドマイヤベガがタイレコードを記録しつつ並んでいたレースレコードが、キングカメハメハによって更新されている[41][42]

競走成績[編集]

以下の内容は、netkeiba.com[43]およびJBISサーチ[44]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
馬体重
[kg]
1989. 09.10 中山 3歳新馬 芝1600m(良) 11 7 8 04.5 (2人) 2着 1:36.1(37.5) -0.8 0中野栄治 53 フジミワイメア 504
09.23 中山 3歳新馬 芝1600m(重) 8 4 4 01.3 (1人) 2着 1:35.5(36.9) -0.0 0中野栄治 53 カネショウナイト 504
10.22 東京 3歳未勝利 芝1600m(良) 8 1 1 01.5 (1人) 1着 1:36.0(48.6) -0.3 0中野栄治 55 (タイフウオーザ) 510
12.17 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 15 5 8 11.5 (5人) 1着 1:34.4(37.4) -0.4 0中野栄治 54 サクラサエズリ 518
1990. 02.11 東京 共同通信杯4歳S GIII 芝1800m(良) 8 1 1 01.7 (1人) 1着 1:49.5(48.4) -0.5 0中野栄治 56 (ワイルドファイアー) 518
003.4 中山 弥生賞 GII 芝2000m(不) 14 5 8 01.9 (1人) 4着 2:05.8(39.7) -0.4 0中野栄治 55 メジロライアン 516
04.15 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 1 2 04.1 (1人) 2着 2:02.2(37.6) -0.0 0中野栄治 57 ハクタイセイ 512
05.27 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 22 5 12 05.3 (3人) 1着 R2:25.3(36.6) -0.2 0中野栄治 57 (メジロライアン) 514
  • 枠番および馬番の太字強調は、単枠指定を示す。

種牡馬成績[編集]

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[45]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 AEI CPI
1991 63 53 52 42 25 1.15
1992 59 50 48 41 26 1.05
1993 59 47 47 39 27 2.10
1994 61 51 51 39 18 0.74
1995 60 51 51 43 27 0.45
1996 63 48 47 42 25 0.46
1997 42 28 26 24 16 0.35
1998 20 10 9 9 4 0.19
1999 18 7 7 4 1 0.03
2000 26 12 10 7 3 0.22
2001 39 28 25 17 13 0.38
2002 1 0 0 0
2003 4 1 1 1 1 0.03
合計 374 308 186 0.84 0.90

主な産駒[編集]

エピソード[編集]

19年目のクラシック制覇[編集]

騎手の中野栄治と、調教師の加藤修甫は、共に騎手デビュー、厩舎開業19年目であった。中野は、減量が難しくレースに騎乗する機会が減り、引退も視野に入れていた[32][52]。加藤は、1988年のミュゲロワイヤル、1989年のアイネスボンバーと2年連続で故障により東京優駿(日本ダービー)出走を断念している状況であった[9]

中野がアイネスフウジンの騎乗依頼を貰うきっかけの一つに、デビュー前の小倉競馬場滞在中に交通事故を起こしたことがあった。事故の際、前日に飲んだ酒が中野の体内に残っており、酒気帯び運転だった[53]。この時、あるマスコミが事故報道に「助手席に女性を座らせていた」という嘘を紛れ込ませてしまう[53]。そして中野の妻がその報道を真に受けてしまった。妻は激怒、その「女性」の存在を問いただそうと、小倉滞在中の中野を美浦に強制送還。そんな状況で美浦にいた中野に、加藤から声を掛けられて、アイネスフウジン騎乗に至った[53]

小林正明[編集]

自動車用品を扱う会社で財を成した馬主の小林正明は中央競馬の馬主登録をした1988年12月、同年初めて所有した馬[注釈 12]かつ馬主登録2年でダービーオーナーとなった[14][注釈 13]。ダービー優勝後、小林はこのように語っている。

いままで生きてきて、事業をやってきてもあまり怖いなあ~っ、と感じたことはなかった。それがこんなに早くダービーをとって、いま、とっても怖いなあと感じているところです。こんな幸運があっていいのだろうか、という気持ちで、有頂天にならずにしっかりと気を引き締めていかないといけない、と心から思っています。でも、この幸運を大事にしたい、というのも本当の気持ちで、ことしの3歳馬たち[注釈 14]にももちろん走って欲しいですよ。来年もダービーを、とは言いませんけれどもね(笑) — 小林正明[54]

しかし、馬主登録から10年、ダービー優勝から8年経過した1998年、本業の経営の悪化を苦しくなり、同じような境遇にあった他の会社の社長2人とともに集団自殺を行った[55]

中村牧場[編集]

1989年12月17日の朝日杯3歳ステークスを勝つはずないと考えていた中村幸蔵は、当日の競馬場に向わなかった[17]。また、92歳の父吉兵衛が病気で入院したことから、親子で病院のテレビで観戦していた[6]。テレビで優勝の様子を見届けたところ、親子は「口がポカンと開いたまま」だったという[20]。アサカオー以来となるクラシック挑戦が実現し、吉兵衛は来年のアイネスフウジンの挑戦を心待ちにしていたが、GI優勝から約10日後の12月30日、吉兵衛が死去し、クラシック挑戦・制覇を見ることができなかった[17]。それでもGI優勝を見届けた後の往生であり、幸蔵は「(吉兵衛にとって)いい冥土のみやげ〔ママ〕」と述懐している[17]

シーホーク[編集]

1980年代後半、20代後半だったシーホークは、老年のためにシンジケートを解散されていた。その後は、老後を見届ける意味合いで16人が集まって結成された「シーホーク愛好会」の中で小規模に種牡馬として活動していた[56]。会員以外からの配合希望がなく、需要がなかったことから、種牡馬引退も考えられていた[56]。しかし、アイネスフウジンの他、1989年の東京優駿を制したウィナーズサークルや1990年の目黒記念GII)を制したマルタカタイソンなど、同時期に突然活躍馬が続出する。そのため、シーホークとの配合を希望する生産者が突然増加した[56]。それに対し愛好会は、多くの繁殖牝馬を相手にして健康を害するリスクを恐れ、全ての配合希望を却下していた[56]。そのため、中村牧場の幸蔵もアイネスフウジンの全妹・全弟を望んだが、叶わなかった[56]

このように全てを却下していたが、依然としてシーホークを求める生産者が多かったことから愛好会は、1990年3月12日、1年限りの種付け権利「余勢株」をスタリオン・ノミネーションセールに出品に踏み切った。結果、505万円で落札された[56]。シーホークのそれまでの種付け料は、100万円をピークにおおよそ40 - 50万円に設定されていたが、28歳にしてそれらを上回り、吉沢譲治は「信じられないこと」と表している[56]

東京優駿[編集]

5枠12番[編集]

ダービーでアイネスフウジンに与えられた枠番は、5枠12番だった。これは中野の結婚記念日「5月12日」と同じ数字で、代理で枠順抽選に臨んだ高市圭二が最初に気づいていた[57]。加えて、アイネスフウジン以前の中村親子の重賞優勝馬アサカオーの誕生日も「5月12日[13]。さらに、生産した中村幸蔵が応援に行くために搭乗した羽田空港着の飛行機の座席番号「12[13]、幸蔵の東京競馬場の指定席番号も同様に「12」であった[13]

5枠12番からスタートしたアイネスフウジンは、直後に右(外側)によれてしまう[58]。ただし隣の13番と接触することなくスムーズに先行し、優勝につながった。これは12頭以上が出走する競走では、発馬機2台を連結して使用していたためだった[58]。22頭立てだったダービーは、12番枠と13番枠が別の発馬機であり、他よりも間隔が広くとられていた[58]

予行演習[編集]

出走前日の5月26日、中野は同じ東京競馬場芝2400メートルのメイン競走であるメイステークス(OP)でローゼンリッターに騎乗していた[59]

アイネスフウジンは性格から、発走前に体力消耗させないように待避所からスタートまで歩いて移動していた[60][注釈 15]。その前座、メイステークスでは試しに待避所を発走8分前に立ち去ってみたところ、まだ早く集合時間にはゲートを過ぎてしまうことに気付いた[60]。そのため、当日には発走7分前に待避所を立ち去った。キャンターで向かいほかの馬と同時にゲートに到着することに成功した[60]

メイステークスでの下見では、馬場状態を確認しながら騎乗し、特に第3コーナーの内側の状態が悪いことを確認。そのため中野は、迎えた本番では、その場所を避けて走ろうと決意した[60]。第3コーナーで内側を避けて、優勝したアイネスフウジンと中野だったが、その内側を進んだ武豊のハクタイセイなどは、直線で伸びを欠き敗退していった[60]

特徴[編集]

中野はアイネスフウジンの能力を確信したレースに4着に敗れた弥生賞を挙げた[28]。内からメジロライアンにかわされた際に、並の馬なら諦めるところ、負けじと抜き返そうとする動きを感じ、この動きから皐月賞勝利を確信したという[28]

新馬戦では、504キログラムで出走する大きな馬体を持っていた[28]。後駆(トモ)が充実していたが、その反面、前駆が貧しく、中野は「前のタイヤがパンクした自転車に乗ってる感じ」と表現している[28]。前後のバランスが取れていないため、調教に騎乗していた高市圭二が馬を止める際に、何度も転倒するほどであった[15]。さらに、前駆が貧しいために、ハミに頼る「ハミにぶら下がる」という走法となり、手綱を引くとたちまち均衡を失い、騎手との連携が取れなくなる危険があった[28]。そのうえ、手綱を控えて進んでも、中野によれば「追って味のない馬」だったため、逃げの戦法が採用された[15][28]

血統表[編集]

アイネスフウジン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 エルバジェ系ダークロナルド系
[§ 2]

*シーホーク
Sea Hawk
1963 芦毛 アイルランド
父の父
Herbager
1956 鹿毛
Vandale Plassy
Vanille
Flagette Escamillo
Fidgette
父の母
Sea Nymph
1957 芦毛
Free Man Norseman
Fantine
Sea Spray Ocean Swell
Pontoon

テスコパール
1976 栗毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
母の母
ムツミパール
1965 鹿毛
*モンタヴァル
Montaval
Norseman
Ballynash
マサリュウ トサミドリ
ユキツキ F-No.4-d
母系(F-No.) プロポンチス系(FN:4-d) [§ 3]
5代内の近親交配 Norseman4×4、Nasrullah4×5、Firdaussi5×5、Blue Peter5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ [61]
  2. ^ [62]
  3. ^ [61]
  4. ^ [61]
  • 半弟の中に双子がいる[63]。テスコパールは、アイネスフウジンが日本ダービーを制した1990年にゲイメセンを種付けされ、翌1991年に双子を出産[63]。リアルポルクス、リアルカストールと名付けられて競走馬としてデビューしたが、両馬とも2戦0勝に終わった[64][65]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後のアイネスフウジンの祖母、母の母。
  2. ^ 後に、トウショウボーイなど多数輩出。(詳細はテスコボーイ#おもな産駒を参照)
  3. ^ 後のアイネスフウジンの母。
  4. ^ 治療に尽力した獣医師を申し訳なく思い、対面を嫌ったため。
  5. ^ 幸蔵の兄が盲腸により26歳で亡くなったため、都会での生活を強く希望した幸蔵は牧場を継がざるを得なかったという[12]
  6. ^ 母テスコパールの管理調教師となる予定だった加藤修甫
  7. ^ 1989年の葉牡丹賞(500万円以下)は、中山競馬場芝2000メートルで行われた。メジロライアンなど11頭が出走し、プリミエールが勝利した。
  8. ^ ハイペースは一般的に、逃げ、先行する馬が不利とされる。
  9. ^ ヤマニングローバルに43票、コガネタイフウに9票、ツルマルミマタオーに1票、プリミエールに1票、該当馬なし6票。[25]
  10. ^ 朝日杯3歳ステークスで先頭を争ったサクラサエズリはJRA賞最優秀3歳牝馬を受賞した[25]
  11. ^ 当時はまだウイニングランをする文化が定着しておらず、スタンド前からの退出は一般的ではなかった。
  12. ^ 後に所有し、アイネスフウジンよりも先にデビューした馬が複数頭存在する。1歳上のアイネスボンバーはアイネスフウジンの前年の皐月賞に出走した[14]
  13. ^ 南関東公営競馬ではすでに馬主をしており、大井競馬場所属のマルタカリボーは、1988年の春に中央競馬に移籍し、条件戦2連勝を記録している[14]
  14. ^ アイネスフウジンの1年後輩
  15. ^ キャンター(駈歩(かけあし)で移動する場合が多い。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t アイネスフウジン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  2. ^ a b ダービー馬アイネスフウジン死亡”. netkeiba. ネットドリーマーズ. 2019年7月24日閲覧。
  3. ^ “【ダービーの栄光】(2)1990年アイネスフウジン”. サンケイスポーツ. (2018年5月23日). https://race.sanspo.com/keiba/news/20180523/etc18052305040001-n1.html 2019年7月23日閲覧。 
  4. ^ 『優駿』1990年2月号 25頁
  5. ^ (有)中村牧場|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年12月12日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』2009年6月号 155頁
  7. ^ ムツミパール”. JBISサーチ. 2021年5月24日閲覧。
  8. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|ムツミパール”. JBISサーチ. 2021年5月24日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 『優駿』1990年4月号 136頁
  10. ^ a b c d e f g h 『優駿』1990年2月号 24頁
  11. ^ イサムゼダーン”. 2021年5月24日閲覧。
  12. ^ 『優駿』1990年8月号 21頁
  13. ^ a b c d e 『優駿』1990年8月号 19頁
  14. ^ a b c d e 『優駿』1990年7月号 56-57頁
  15. ^ a b c “ナカノコール”のアイネスフウジンを今振り返る”. サラブレモバイル. KADOKAWA. 2019年7月24日閲覧。
  16. ^ 3歳未勝利|1989年10月22日”. netkeiba.com. 2021年5月25日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』1990年2月号 142-143頁
  18. ^ 朝日杯3歳ステークス|1989年12月17日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2021年5月25日閲覧。
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  23. ^ 『優駿』1990年7月号 62頁
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  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『優駿』2009年6月号 158頁
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  63. ^ a b 双子のサラブレッドが両馬ともにJRAデビューしたケースは - トリビア牧場”. 競走馬のふるさと案内所. 日本軽種馬協会. 2019年7月24日閲覧。
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  65. ^ リアルカストール”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年7月24日閲覧。

参考文献[編集]

  • 優駿
    • 1990年2月号
      • 吉川良「【GI勝ち馬の故郷紀行】アイネスフウジンの故郷 中村幸蔵牧場」
      • 「1989年度JRA賞 年度代表馬、各部門最優秀馬決定!!」
      • 「1989年度フリーハンデ決定」
      • 大川慶次郎「げっかん評論(東)」
      • 橋本邦治「【今月の記録室】第41回朝日杯3歳ステークス(GI)」
    • 1990年4月号
      • 浅田啓資(共同通信社)「【今月の記録室】第24回共同通信杯4歳ステークス(トキノミノル記念)(GIII)」
    • 1990年5月号
      • 古宮正弘(報知新聞社)「【今月の記録室】第27回報知杯弥生賞(GII)」
    • 1990年6月号
      • 吉沢譲治「【第57回日本ダービー・スペシャル】ダービー有力馬とその父たちの評価」
      • 石井誠(報知新聞社)「【今月の記録室】第50回皐月賞(GI)」
    • 1990年7月号
      • 高橋源一郎「【第57回日本ダービー観戦記】ぼくの予言」
      • 「【オーナー愛馬を語る 46】アイネスフウジンの小林正明さん」
      • 木村幸治「【ジョッキー・トピックス】ぼくは泣かなかった」
      • 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第57回日本ダービー(GI)」
    • 1990年8月号
      • 吉川良「【GI勝ち馬の故郷紀行】第57回ダービー馬 アイネスフウジンの故郷 中村幸蔵牧場」
    • 2009年6月号
      • 河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝】GOING MY WAY アイネスフウジン」
    • 2010年6月号
      • 広見直樹「【YUSHUN NONFICTION】あの日一番熱かったダービー」
    • 競馬ブック当日版』
      • 1990年9月1日号

外部リンク[編集]