横山富雄

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横山富雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道
生年月日 1940年2月25日
死没 2009年9月18日
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 小西喜蔵東京(1961年-1968年)
フリー・東京→美浦(1968年-1983年)
初免許年 1961年3月5日
免許区分 平地障害
騎手引退日 1983年
重賞勝利 30勝
通算勝利 559勝
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横山 富雄(よこやま とみお、1940年2月25日 - 2009年9月18日)は、北海道出身の元騎手調教助手

長男の横山賀一は元騎手・調教助手で現在は競馬学校教官、次男の横山典弘、孫の横山和生・横山武史は現役の騎手(和生と武史との間に一般人の次男がいる)。

娘婿は調教師の菊沢隆徳

人物[編集]

1955年に騎手見習いとなり、1961年3月に騎手免許を取得して東京小西喜蔵厩舎からデビュー。同期生には吉永正人中野渡清一がいる。中野渡がデビューした翌日の同5日に東京第2競走・マスミノルで初騎乗を果たし(9着)、吉永がデビューした日と同じ11日に2戦目となる東京第11競走・ウシワカで初勝利を挙げる。1年目は平地5勝、障害5勝の合計10勝で全国81位。一番勝ち星を挙げたのは中野渡の32勝(17位)で、吉永は横山より2勝少ない8勝(101位)であった。2年目の1962年4月22日に行われた中山大障害(春)で重賞初騎乗を果たすと、1963年にはフジノオーに騎乗して秋を制し、重賞初制覇を達成。以後同馬で1964年に春秋制覇、1965年には春を制して4連覇を達成。長男・賀一が誕生した1966年に通算100勝目を挙げると、1967年にはリコウでステイヤーズSを制して平地重賞初制覇。リーディングでも自己最多の39勝を挙げ、ベストテン入りは逃したものの、12位に入る。次男・典弘が誕生した1968年にはフジノホマレで中山大障害(春)を制し、同レース5勝目を挙げる。この年は障害で自己最多の26勝を挙げたほか、通算でも100勝を達成。小西厩舎からも独立し、渡辺正人小野定夫に次ぐフリー騎手の先駆けとなる。1969年徳吉一己のお手馬であったメジロタイヨウが徳吉の私的な都合(家庭の不幸)により騎乗を辞退し、鞍上未定となっていたところを「富雄は障害出身で長手綱だから、長距離に向いているのでは」と推薦されたことによってタイヨウの主戦騎手となる。同年5月アルゼンチンJCCスピードシンボリをハナ差抑えて平地重賞2勝目を挙げると、11月に不良馬場で行われた天皇賞(秋)では強豪のマーチスリュウズキフイニイを相手に八大競走及びGI級レース初制覇。この年は200勝も達成した。派手さはないものの職人肌の堅実な騎乗で人気があり、以降北野豊吉率いるメジロの主戦騎手として活躍。1970年には平地でも通算100勝を達成し、中央では史上初の平地・障害両方で通算100勝を達成した騎手となったが、この年を最後に障害競走の騎乗を止める。1971年からは平地に専念し、前年夏から主戦を務めていたメジロムサシで天皇賞(春)と宝塚記念を制覇。宝塚記念では3月目黒記念(春)に続くメジロアサマとのワンツーを決めており[1]、表彰式では2頭が揃って記念撮影を行った[2]1973年にはニットウチドリとのコンビで牝馬クラシック戦線を沸かせ、阪神4歳牝馬特別桜花賞キシュウローレルを相手に逃げ切る。続く優駿牝馬ではナスノチグサに2着と惜敗したものの、ナスノと春以来の直接対決となったビクトリアカップで二冠を制覇。暮れの有馬記念ではストロングエイトの2着に逃げ粘り、その年の最優秀4歳牝馬に輝いた。1974年に通算300勝を達成し、1975年には2月1日香港ハッピーバレー競馬場で行われた国際騎手招待競走「インターナショナルインビテーションカップ」[3]に日本人騎手として初めて参戦し、第6競走の騎手招待杯(1800m・13頭立て)でパリヌラスに騎乗してレスター・ピゴットイギリスの旗 イギリス)、ジョニー・ロー&パット・エデリーアイルランドの旗 アイルランド)、イヴ・サンマルタンフランスの旗 フランス)、ビル・スケルトン ニュージーランド)ら各国のチャンピオン騎手を抑えて優勝[4]。見事に4万6875香港ドル日本円で280万円を獲得[5]11月8日にはツキサムホマレと共にワシントンDCインターナショナルアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国)へ参戦し、レースでは道中3番手に付けるなど見せ場を作ったが、結局は勝ち馬のノビリアリー(フランス)から30馬身離された9着に惨敗。終了後は日本短波放送の特別番組で国際電話によるインタビューに応えている[6]1976年に通算400勝目を挙げると、1978年にはファイブホープで優駿牝馬を制覇して牝馬三冠騎手となる。1979年宝塚記念からはメジロファントムとコンビを組み、天皇賞(秋)はスリージャイアンツに、有馬記念ではグリーングラスにそれぞれハナ差及ばずの2着。有馬記念の1週前に行われた朝日杯3歳Sをリンドタイヨーで制しているが、これが最後のGI級レース制覇となった。通算500勝を達成した1980年にはプリテイキャストダイヤモンドSを逃げ切っているが、これを最後に重賞勝利からも遠ざかる。同年の天皇賞(秋)ではメジロファントムに騎乗したが、かつて主戦騎手を務めたプリテイキャストの大逃げに手も足も出ず、2年連続2着と完敗。有馬記念では1番人気に推されたが、ホウヨウボーイの4着に終わった。1982年には調教中に病気で倒れ、1983年引退。

引退後は1984年から調教助手として活動を開始し、2005年に定年で退いた。騎手時代の落馬で手術を受けた際、輸血が原因で患った肝炎と長期にわたり悩まされており、2009年9月18日午前1時10分に病気のため死去。69歳没。22日には美浦トレーニングセンターの厚生会館分館で告別式が営まれ、喪主は長男の賀一が務めた。式には633人が参列し、調教師の尾形充弘松永幹夫、元騎手の岡部幸雄ら多くの厩舎関係者や知人が詰めかけた。

エピソード[編集]

現役時代は同期の吉永、中島啓之大崎昭一菅原泰夫田村正光と共に、飲み仲間のサークル「仲よし会」を結成していたことで知られる。中国文学者で競馬ライターとしても活動していた西野広祥など、競馬サークル外部の人物とも親交があり、西野は会の様子を文章化して発表している。

騎手通算成績[編集]

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 439 444 379 2513 3775 .116 .234
障害 120 88 65 144 417 .288 .499
559 532 444 2657 4192 .133 .260

主な騎乗馬[編集]

太字は旧八大競走を含むGI級レース。

脚注[編集]

  1. ^ 最初のワンツーを決めた目黒記念は当時「メジロ記念」と呼ばれ、3着も共にスピーデーワンダーとこちらも同じであった。
  2. ^ その後、ムサシとアサマは10月に行われたハリウッドターフクラブ賞でもワンツーを決めたが、このレースでは初めてアサマがムサシに勝利した。
  3. ^ 1972年に創設され、インターナショナルジョッキーズチャンピオンシップの基礎となった。
  4. ^ 香港競馬の概要
  5. ^ 昭和50年2月2日朝日新聞朝刊15面「スポーツ短信 横山、香港競馬で優勝
  6. ^ インタビュアーは長岡一也(当時・日本短波放送アナウンサー)。