栗田勝

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栗田勝
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県岡崎市
生年月日 1932年3月11日
死没 1980年1月16日
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 武田文吾(1951年 - 1971年)
初免許年 1951年
免許区分 平地競走
騎手引退日 1971年
重賞勝利 51勝
G1級勝利 12勝
通算勝利 4210戦766勝
経歴
所属 京都競馬場(1951年 - 1969年)
栗東T.C.(1969年 - 1971年)
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栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980年1月16日)は日本騎手国営競馬日本中央競馬会〈JRA〉)、調教師(日本中央競馬会)。息子の栗田伸一はJRAの騎手、調教助手であったが、父同様に若くしてこの世を去っている。愛知県岡崎市出身。

来歴[編集]

デビュー前[編集]

1932年3月11日に、子沢山な地方公務員の11人兄弟の下から二番目として誕生。公務員である父の担当が地元にあった地方競馬の開催地である岡崎競馬場[1]の管理だった事や、幼くして母と死別してから母代わりとなった姉が調教師の妻だった事から、幼少期から競馬と接した栗田は騎手を目指す事となった。1946年武田文吾に弟子入りし、いったん松田由太郎厩舎に移籍したが再び武田厩舎に戻り1951年にデビューした。

騎手時代[編集]

初勝利はデビュー3ヶ月後と手間取り、その後も武田厩舎には佐藤勇を筆頭に名騎手揃いだった事から騎乗馬に恵まれず、デビュー3年目(1953年)までは苦戦基調であった。ところが、当時の武田厩舎主戦騎手である佐藤騎乗のレダ毎日王冠で骨折転倒、佐藤は負傷して戦列を離脱してしまう。栗田はその佐藤の穴を埋めた事で頭角を現し、佐藤引退後(1956年)は関西の名門・武田厩舎の主戦騎手として活躍する事となった。なお、ほぼ同時期に2歳年下の武田師の娘・英子と結婚している。

武田厩舎の主戦騎手になってからは、五冠馬シンザン・快速二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワード、アラブのシュンエイの主戦騎手として活躍。コダマの二冠がかかった東京優駿競走[2]は、落馬負傷で大腿骨に金属板が入っている状態で騎乗し勝利した。また、1965年のクラシック戦線では弟弟子の山本正司騎手との兄弟弟子対決も話題になり、最後の一冠である菊花賞では山本鞍上のキーストンのペースを電光掲示板の時計から読み、追走ポジションのダイコーターが最後の直線で差し切るという名騎乗をやってのけている。更に、これも弟弟子の安田伊佐夫騎手がタニノムーティエで東京優駿に臨んだ時は、早めに仕掛けようとしていた安田に対して、追い抜かれてゆく馬から「まだ早い」と声を掛け、それによって安田が仕掛けを遅らせた事で快勝に繋がったという話もある。

こうして関西屈指の名騎手としてその名を轟かせた栗田であったが、シンザンが活躍しだした頃から減量苦に悩まされる事となった。そんな中、自分が招き入れた福永洋一1970年の全国リーディングを獲得し、福永が本格的に武田厩舎の新エースと認められる様子を見届けた栗田は、翌1971年に騎手稼業から引退した。

なお、1968年にオーストラリアで行われた国際騎手招待競走に招待され、ランフランコ・デットーリ騎手の父親と同じ競走で騎乗した事がある。

引退後[編集]

引退後は調教師に転進し、クリオンワードきさらぎ賞阪神大賞典宝塚記念2着、天皇賞(春)3着)、ウラカワチェリー北九州記念阪神牝馬特別)、ゴールデンタテヤマ阪神3歳ステークステンポイントの2着、きさらぎ賞3着)などを管理。1979年には、自厩舎所属騎手になった息子の伸一が新人賞を獲得する活躍をしたが、1980年1月16日に自宅で仮眠中そのまま目覚めることなく急逝した。死因は肝硬変により肥大化した肝臓が心臓に負担をかけた結果の心停止で、減量苦を和らげるために始めた飲酒のし過ぎが死期を早めたと言われている。

エピソード[編集]

栗田とシンザン[編集]

栗田を語る際に、シンザンの存在は欠かせない。武田師を含む厩舎関係者の大半が見落としていた素質の高さを栗田は入厩時から見抜き、厩舎自慢のオンワードセカンドの担当からシンザンに変更された中尾謙太郎のフォローにまわり、武田の命令を無視しシンザンの騎乗に拘った程であった。この様に、シンザンの才能を即座に見抜いた栗田であったが、先に見抜いたが故のプライドが師である武田との諍いを招いた事もあり、後述のシンザンラストランとなった有馬記念に騎乗できない原因にもなった。

弟弟子・福永洋一との比較[編集]

栗田の義父であった武田からの評価はすこぶる高く、天才と呼ばれた福永洋一との比較を求められた際に「洋一は大胆なことをやってのける反面、破れるところがある。栗田はその点緻密だった。馬を手の内に入れるまでが何割も違う。洋一は時代もあって数多く勝ったが、栗田のほうがだいぶ上」と評した。ただし、この評は福永が現役中に武田がしたもので、後に落馬事故で再起不能となり、引退を余儀なくされた福永を「無敵の三冠馬みたいな騎手」と評したことを勘案すると、先の評は武田が福永が慢心しないように配慮したものとも考えられる。なお、福永を武田厩舎に引き入れた栗田も福永を高く評価しており、高すぎる才能が起因するアグレッシブな騎乗をする福永のフォローに回ることが多々あった。

飲酒に関して[編集]

武田の娘と結婚した時点で既に飲酒生活を送っていたなど、飲酒関係のエピソードが少なくない栗田であるが、武豊武幸四郎の父として有名な武邦彦とは違い、『酒豪』と言う訳では無い。深酒する事が多かったが、武邦彦の様に『浴びる様に飲んでも酔わない』と言うタイプでは無く、泥酔する事も少なく無かった。事実、有馬記念前週に五冠馬・シンザンのオープン競走(1965年12月18日中山競馬)出走を巡って武田と対立。押し切られた腹いせにレース前日にも関わらず小料理屋でヤケ酒をし泥酔した結果、翌日のレースをすっぽかしてしまい翌週からの騎乗停止処分を受け、肝心の有馬記念には弟弟子の松本善登が急遽騎乗する原因となっている。

杉本実況への影響[編集]

杉本清関西テレビの中継をしていたこともあり、後々まで語り継がれている彼の実況には栗田の影響も少なくない。特に、八大競走初実況となった1969年桜花賞で「追い込み馬が届く展開です」と言ったのは、栗田に「1600mのレースで、最初の800mを47秒で通過すれば前の馬は全部つぶれる」と教えられたのが原因とされる。なお、パドック担当時代の杉本に「最後の直線でレコードタイムで逃げ込みを図るニホンピローエースを差し切る」と予言し、その通りに実行してみせた事もある。

騎手成績[編集]

4210戦766勝、重賞51勝(G-1級12勝[3]含む)

おもな勝ち鞍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 中京競馬場の前身。但し、地方競馬としての中京競馬場は開催権利は持ち続けているものの2002年以降休眠中。
  2. ^ なお、騎乗出来なかった皐月賞は、武田と縁故のある渡辺正人が騎乗し、史上初の皐月賞(同一クラシック競走)三連覇を達成ている。
  3. ^ 内訳は、八大競走8勝・宝塚記念2勝・阪神3歳ステークス2勝
  4. ^ この年のみ、京都3歳ステークスの名称で京都競馬場で開催。

参考資料[編集]

  • 小山美千代『シンザンの騎手―天才ジョッキー栗田勝の生涯』(光人社、2012年)ISBN 4769815204
  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター、1981年)

外部リンク[編集]