守屋磨瑳夫
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守屋 磨瑳夫(もりや まさお、1889年(明治22年)3月15日[1] - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。民政党系官選県知事。
経歴[編集]
熊本県出身。守屋充次郎の長男として生まれる[1][2]。第五高等学校を卒業[3]。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる[2][3]。
以後、静岡県理事官、兵庫県理事官・工場監督官、大阪府警視、警視庁警視、福島県書記官・警察部長、社会局書記官・社会局保険部大阪出張所長などを歴任[1][2][4]。
1929年7月5日、沖縄県知事に就任。県経済の振興に尽力。県政界は政友会系が多数を占めていたが、民政派の勢力伸長に務めた。しかし、県民を軽視する姿勢が民政党県支部との対立を生み、知事排撃運動をもたらした[1][4]。1930年8月26日、青森県知事に転任。凶作の復興対策に尽力[5]。1931年12月18日、知事を休職[6]。1932年1月29日、依願免本官となり退官した[7]。