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平良辰雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平良 辰雄
たいら たつお
沖縄群島知事へ就任宣誓する平良(中央)
生年月日 (1892-04-06) 1892年4月6日
出生地 日本の旗 日本 沖縄県国頭郡大宜味村
没年月日 (1969-04-11) 1969年4月11日(77歳没)
出身校 第八高等学校中退
(現・名古屋大学情報学部)
前職 沖縄県職員
現職 実業家
大衆金融公庫総裁
(現・沖縄振興開発金融公庫)
所属政党 (大政翼賛会→)
沖縄社会大衆党
称号 勲三等旭日中綬章
アメリカ施政下の沖縄の旗 立法院議員
選挙区 第5選挙区
当選回数 1回
在任期間 1952年 - 1953年2月23日
在任期間 1950年11月4日 - 1952年3月1日
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平良 辰雄(たいら たつお、1892年4月6日[1] - 1969年4月11日[注釈 1])は、戦前の沖縄県の官僚で、沖縄群島政府及び琉球政府の政治家。沖縄社会大衆党を設立。本土復帰運動を推進。

沖縄群島政府知事や立法院議員や大衆金融公庫(現・沖縄振興開発金融公庫)総裁を務めた。

経歴

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沖縄県国頭郡大宜味村生まれ[1]。第八高等学校(名古屋大学の前身の一つ)を中退後、戦前の沖縄県庁に勤務する[1]。県庁では八重山支庁長や振興計画課長を歴任する[1]。戦時中は大政翼賛会沖縄県支部壮年団長に就任した。

沖縄戦後の1945年9月25日、田井等市長(地方行政緊急措置要綱に基づく暫定的な市)に当選した[4]。また、1950年に沖縄群島知事に当選する。同年11月4日に就任した[5]。そして沖縄社会大衆党の初代委員長に選出された。1952年3月1日に退任した[5]。

沖縄群島政府解消後は、第1回立法院議員総選挙に第5選挙区から社大党公認で出馬し当選する[6]。立法院では早期復帰の論陣を張った。1953年2月23日付で辞職した[7]。立法院議員辞職後は復帰運動に全身全霊を尽くした。そのほか1958年7月から1963年11月29日まで大衆金融公庫総裁を務めたほか、琉球硫黄社長も務めた[1][8][9]。

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ↑ 『読売年鑑 昭和45年版 359コマ』では胃潰瘍で、「農業協同組合 15(5)(171) 79コマ」では脳内出血で死去したとなっている[2][3]。

出典

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関連項目

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