関東大震災朝鮮人虐殺事件

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関東大震災朝鮮人虐殺事件 (かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん) とは、1923年関東大地震の混乱の中で、民間の自警団などによって少なくとも233人の朝鮮人が殺害された事件である。また、朝鮮人に間違えられた日本人58人、中国人3人が殺害されている。

犠牲者数については論争がある(後述)。

概要[編集]

背景[編集]

1923年関東地方地震によって壊滅的な被害を受けて民心と社会秩序が酷く混乱に陥った状況だった。一般人の間にもお互いを信じない不信が芽生えている中で内務省戒厳令を宣告し、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示した。しかし、そのときに内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。この内容は事実確認なしで行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人日本人聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。

日本人の朝鮮人虐殺[編集]

竹槍で朝鮮人を殺している自警団

竹槍日本刀などで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人と中国人を殺害し始めた。このせいで朝鮮人だけではなく、中国人、琉球人、一字姓の奄美群島出身の人、東京に来た他の地方の日本人とアメリカイギリス出身として東京に来た外国の記者も殺された。警察は殺人を傍観、または消極的な対応をしていた。朝鮮人虐殺以外にも社会主義自由主義の指導者を殺害した動きがあり、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された事件があった。

日本の治安当局の虐殺の黙認[編集]

治安当局は「朝鮮人暴動」がないということを知っていたが、混乱の収拾と秩序回復の理由として自警団の殺人行為を袖手傍観し、一部は加担したり助長したりした。しかし、自警団の行為が公権力を脅威するほどになって治安当局は介入し始めたが、もう多くの朝鮮人や日本人、外国人が殺された後だった。自警団は老若男女を分け隔てなく殺害し、密葬した。日本政府は最終的に噂を公式的に確認したが、被害者の数を縮小したり、一部の自警団員に証拠不十分で無罪を宣告した。この噂による虐殺事件で司法的な責任、または道義的な責任などを負った人や機構は全くなかった。

関連事実[編集]

当時の日本当局は地震が起きた以前の朝鮮での三・一運動台湾での大規模デモを流血鎮圧しながら、民衆の抵抗について恐怖心を持っていた。地震当時に治安を担当した最高責任者は主に台湾総督府で働いた官僚、そして軍人出身だった。そして日本では大正デモクラシーによって労働運動民権運動女性運動など、支配権力に対する民衆の抵抗と権利運動が活発だった。このような雰囲気を社会的な混乱、または日本帝国の危機と判断した彼らは予測できなかった自信を機会として朝鮮人を犠牲にして秩序を維持するという目的で「朝鮮人暴動説」を捏造した。その事件以後、この事実が知られたら朝鮮でまた大規模な反発がある恐れを気にした日本政府は朝鮮人の入国を禁止した。そして初期の発表当時に死傷者の数は「2~3人くらい」だと主張するなど、日本政府はこの事件を隠すに汲々としていた。

朝鮮人虐殺事件に関連した日本人[編集]

著名なアナキスト大杉栄と彼の妻伊藤野枝、そして彼らの6歳の甥橘宗一甘粕正彦が指揮した憲兵に連れ去られ、その日のうちに憲兵隊構内で扼殺されて死亡(甘粕事件)、野枝の遺体は、畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられた事件が起こった。

この事件で関東大地震の後の社会的なパニック状態を全国に知られるようになり、朝鮮人虐殺事件もこの事件を通じて知られた。

映画監督、黒澤明は、大地震の後の混乱期を少年期に直接的に経験して、当時に犠牲された朝鮮人と自警団の狂気、噂などについて詳しく証言する有名人の中で一人である。

作家の芥川龍之介は「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)の記述から、この自警団に参加し活動をしていた事が分かっているが、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川氏の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の虐殺事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている。