関東大震災朝鮮人虐殺事件

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関東大震災朝鮮人虐殺事件 (かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん) とは、1923年関東大地震によりもたらされた関東大震災の混乱の中で、民間の自警団などによって少なくとも233人(司法庁調査)[注釈 1][2](朝鮮総督府官憲調査では813人[1])の朝鮮人が殺害された事件である。その他に朝鮮人に間違えられて内地人58人[3]、中国人3人が少なくとも殺害されている。また、軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、中国人200人、内地人27人である[4][5]

概要[編集]

背景[編集]

1923年関東地方地震によって壊滅的な被害を受けて民心と社会秩序が酷く混乱に陥った状況下において内務省戒厳令を宣告し[6]、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示した。しかし、そのときに内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった[7]。この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人内地人であるところの日本人聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。

東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」  下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[8]


日本人(内地人)による朝鮮人殺害・及び誤認による殺害[編集]

自警団が竹槍で朝鮮人を殺している様子として戦後に掲載された写真

竹槍日本刀などで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人(と彼らに間違われた中国人)を殺害し始めた。朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件 [9] 、香川出身一家9名が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人も殺された。また朝鮮人犠牲者以外にも社会主義無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きた。

日本の治安当局の対応[編集]

治安当局は「朝鮮人暴動」の可能性を危惧していたため、混乱の収拾と秩序回復の理由として自警団の殺人行為を袖手傍観し、一部は加担したり助長したりした。 自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226名を9月23日不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きもあった [10] 。 その後、自警団の行為が公権力を脅威するほどになって治安当局は介入し始めたが、もう多くの朝鮮人や内地人、外国人が殺された後だった。自警団は朝鮮人を殺害し、密葬した。日本政府は最終的に噂を公式的に確認したが、加害者の数を縮小したり、一部の自警団員に証拠不十分で無罪を宣告した。この噂による殺害事件で司法的な責任、または道義的な責任などを負った人や機構は全くなかった。

犠牲者数と弔慰金[編集]

朝鮮人被殺害者数のついて内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は813名を挙げ、死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円の弔慰金が832名へ支払われた(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円) [11]

官庁記録による殺傷事件被害死者数-平成20年災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1923関東大震災【第2編】第2節 殺傷事件の発生表4-8
種別 司法省報告書掲載  戒厳業務詳報掲載 合計
起訴事件 警察による 軍通牒の不明 軍隊による 警察・民間人共同
被害者 朝鮮人 内地人 中国人 内地人 朝鮮人 朝鮮人 内地人 朝鮮人
東京 39 25 1 2   27 19 約215 約328
神奈川 2 4 2           8
千葉 74 20     1 12 8   115
埼玉 94 1             95
群馬 18 4             22
栃木 6 2             8
茨城   1             1
福島   1             1
合計 233 58 3 2 1 39 27 約215 約578
  注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり

史学者の山田昭次は上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞(金承学社長)」1923年11月5日付で報道された朝鮮人調査団報告書の6661人説が不正確な数字である原因は官憲の被害隠蔽と指摘した [12] [13] [14]

「朝鮮人の犠牲者数は、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班が官憲の協力を得られないまま調査を進めた……吉野に情報提供したと推定される上記慰問団の崔承万が戦後になって発表したものとがある。すべて場所と人数の記載で、合計は吉野原稿が2,613余名……崔氏のものが2,607余名又は3,459余名……崔氏によれば、慰問団はこの調査を踏まえて犠牲者数を5千名と推定したという。ここの調査の最終報告とされるものが、11月28日付で上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』社長に送付され、12月5日に同紙に掲載された。これは合計6,661名(現在内訳を再計算すると6,644名であると山田昭次氏が指摘している)に達するが、うち神奈川県で遺体を発見できなかった1,795名と第一次調査を終了した11月25日に各県から報告が来たとする追加分2,256名は、府県名のみでそれ以下の地名は記されていない。山田昭次氏は、埼玉県に関する数値を検証して、この追加分を算入しない方が現在までに得ら れる他の情報と近いことを指摘し、「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としている。」

[15]

2013年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかった [16] 。日本震災時被殺者名簿286人を調査した結果28人の犠牲者を確認と2015年12月報じられ、第一次調査とあわせて韓国政府認定の関東大震災時虐殺犠牲者は合計40名となった [17]

大正9年(1920年)国勢調査によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [18]

昭和5年(1930年)国勢調査によると419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [19]

吉野作造が朝鮮罹災同胞慰問班から聴いた朝鮮人の被害、大正十二年十月末日までの被害状況 [20]
一、横浜方向      
1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 虐殺(現金五百円強奪) 四十八
2.神奈川警察署内 巡査刺殺
3.程ヶ谷町 虐殺 三十一
4.井戸ヶ谷町 右同(現金二百円強奪) 三十 余名
5.根岸町 右同 三十五
6.土方橋より八幡橋まで至る 右同 百三
7.中村町 右同
8.山手町埋地 右同
9.御殿町付近 右同 四十 余名
10.山手本町警察署立野交番所前  右同
11.若屋別荘附近 右同 余名
12.新子安町 右同
13.子安町より神奈川駅に至る   右同 百五十九
14.神奈川鉄橋 右同 五百 余名
15.東海道線茅ヶ崎駅前 右同
16.久良岐郡金沢村  右同 十二
17.鶴見町 右同
18.川崎 右同
19.久保町 右同 三十 余名
20.戸部 右同 三十
21.浅間町及浅間山 右同 四十
22.戸山、鴨山 右同 三十
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者)  2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺)  3.金沢村(不詳)  4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬  5.鶴見町、総持寺山内埋葬  6.川崎町当地埋葬又は持って帰国
二、埼玉県方面      
1.川口 虐殺 三十三
2.赤羽荒川 右同 三百
3.大宮 右同 二名
4.熊谷 右同 六十一
5.本庄 右同 八十六[注釈 2]
6.早稲田村 右同 十七
7.神保原 右同 二十四
8.寄居 右同 十四
9.長沢 右同 十四
三、群馬県      
1.藤岡 虐殺 一八
四、千葉県      
1.習志野軍営倉内 虐殺 十二
2.船橋 右同 三十八
3.法典村 右同 六十四
4.千葉市 右同
5.流山 右同
6.南行徳 右同
7.馬橋 右同
8.田中村 右同
9.佐原 右同
10.滑川 右同
11.成田 右同
12.我孫子 右同
五、長野県      
1.軽井沢周辺 虐殺
六、茨城県      
1.筑波本町 虐殺 四十三
2.土浦 右同
七、栃木県      
1.宇都宮 虐殺
2.恵那須郡 右同
八、東京付近      
1.月島 虐殺 三十三
2.亀戸署内 右同 八十七
3.小松町 右同 四十六
4.寺島請地 右同 二十二
5.寺島警察署内 右同 十三
6.向島 右同 三十五
7.寺島手井駅 右同
8.洲崎飛行場附近 右同 二十六
9.日本橋 右同
10.深川西町 右同 十一
11.押上 右同 五十
12.本所区一丁目 右同
13.大島七丁目 右同
14. 大島三丁目活動写真館内 右同 二十六
15.大島八丁目 右同 百五十
16.小松川新町 右同
17.浅草公園内 右同
18.亀戸駅前 右同
19.府中 右同
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 右同
21.新宿駅内 右同
22.四谷見附 右同
23.吾妻橋 右同 八十
24.上野公園内 右同 十二
25.千住 右同 十一
26.王子 右同 八十一
右 合計  二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕      

関連事実[編集]

当時の日本政府は地震発生以前の朝鮮での三・一運動や、台湾での大規模デモを流血鎮圧した経験から、民衆の抵抗について警戒感を抱いていた[21]また国内では大正デモクラシーによって労働運動民権運動、女性運動など、支配権力に対する民衆の抵抗と権利運動の活性化と、それに対抗する右翼勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済へ不安から体制が揺らいでいた[21]。また国外的にもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、内憂外患の状態で見舞われた大災害であった[21]

当時の山本内閣は9月7日に治安維持令を公布し、戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」・「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[22]。そしてデマに不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団などが結成されたが、警察の主導や指導で組織された自警団も多く、これら自警団によって朝鮮人や中国人が虐殺されていった[22]。さらに陸軍と警察は、この混乱を好機とし、社会主義者や先進的労働者の抹殺を画策し、10名の労働者が軍隊に虐殺された亀戸事件や無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が決行されたが、これらの白色テロに対する責任追及や批判は低調で、治安維持と被災者救援活動で軍や政府や警察が威信を取り戻したとして、歓迎される状況になっていた[22]

黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学二年生であった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある[23]

作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていた事が分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている[24]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この233人という数字は起訴された事件の被害者数であり、当局に認知されていても起訴されていない事件については考慮されていない[1]
  2. ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の記述では八十(80)となっており、6人の差がそのまま吉野作造と朝鮮罹災同胞慰問班の数の違いになっていること、これ以外の数字は同じであること、などから、吉野作造が「80」を「86」と誤記した可能性が高い。

出典[編集]

  1. ^ a b 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, p. 209.
  2. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, pp. 206-208.
  3. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, pp. 206, 211.
  4. ^ "戒厳司令部詳報"及び"震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書"
  5. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, pp. 206-207.
  6. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第2章第1節, pp. 70-72.
  7. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第2章第1節, p. 73.
  8. ^ 姜徳相・琴秉洞編 『"朝鮮人虐殺事件 法学博士吉野作造"現代史資料(6)第三部強制収容と調査 人民による調査』 みすず書房、1963年、358頁。 
  9. ^ 秋田魁新報社 (2017年9月1日). “北斗星(9月1日付)”. 秋田魁新報. http://www.sakigake.jp/news/article/20170901AK0010/ 2017年9月1日閲覧。 
  10. ^ 横須賀市震災誌刊行会 編 『横須賀市震災誌 : 附・復興誌』 横須賀市震災誌刊行会、1932年、133頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466332/105 
  11. ^ 中央防災会議 (平成20年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】第2節 殺傷事件の発生”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 209頁. http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html. 
  12. ^ 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社、2003年、183頁。ISBN 4915970221 
  13. ^ 山田昭次 (2015年9月1日). “関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』への批判”. 朝鮮人虐殺数を今日も明確にできない根本原因は、官憲が虐殺された朝鮮人の遺体の隠匿を行ったからである. 株式会社シノドス. 2017年9月1日閲覧。
  14. ^ 鈴木敏夫「関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」、『大原社会問題研究所雑誌』No.668、法政大学大原社会問題研究所、2014年6月25日、 26頁、 ISSN 091294212017年9月1日閲覧。
  15. ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 (平成20年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】コラム8 殺傷事件の検証”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 219頁. http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html. 
  16. ^ “東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿” (日本語). 聯合ニュース (ソウル特別市,大韓民国: Yonhap news agency). (2013年11月19日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/11/19/0200000000AJP20131119002200882.HTML 
  17. ^ “関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者 40人確認=韓国政府” (日本語). 聯合ニュース (ソウル特別市,大韓民国: Yonhap news agency). (2015年12月16日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2015/12/16/0200000000AJP20151216001000882.HTML 
  18. ^ 内閣統計局 (1920年). “国籍民籍別人口-府県,大正9年国勢調査”. 総務省統計局. 2017年9月1日閲覧。
  19. ^ 内閣統計局 (1930年). “民籍国籍別人口-府県,総務省統計局昭和5年国勢調査”. 総務省統計局. 2017年9月1日閲覧。
  20. ^ 姜徳相・琴秉洞編 『"朝鮮人虐殺事件 法学博士吉野作造"現代史資料(6)第三部強制収容と調査 人民による調査』 みすず書房、1963年、360頁。"次に朝鮮人の被害の程度を述べる。之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正十二年十月末日までのものであって、其れ以降の分は含まれて居ないことを注意しなければならぬ。"。 
  21. ^ a b c 木坂順一郎「関東大震災:歴史的背景」『日本大百科全書小学館
  22. ^ a b c 木坂順一郎「関東大震災:政治的反動と朝鮮人・中国人の虐殺」『日本大百科全書』小学館。
  23. ^ 黒澤明 『蝦蟇の油―自伝のようなもの』 岩波書店。ISBN 978-4006020378[要ページ番号]
  24. ^ 児玉千尋「関東大震災と文豪 : 成蹊大学図書館の展示から」、『成蹊国文』第47号、成蹊大学文学部日本文学科、2014年3月、 86-56頁、 hdl:10928/526

参考文献[編集]

関連項目[編集]