本庄事件 (1923年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

本庄事件(ほんじょうじけん)とは、1923年大正12年)9月4日に発生した埼玉県本庄町(現・本庄市)における朝鮮人殺害事件のこと。

事件の背景[編集]

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災直後、関東各地において、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こす」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言が流れ、これらの噂に恐怖した住民による自警団が関東各地で組織された。また埼玉県内務部長名で『不逞鮮人暴動に関する件』と題する通牒が2日付で郡役所経由で各町村長宛に発せられ、各町村が住民に注意喚起を行ったりしたため、さらに噂の流布が助長され混乱が深まった。埼玉県内では約300の自警団が組織され、震災の混乱による情報不足と流言により住民の不安が増大する中、3日には県内全域で自警団等による「朝鮮人狩り」が発生した。自警団は列車や徒歩で東京方面から避難してくる人々の中から朝鮮人を探し出し、警察に連行するなどした。このため朝鮮人労働者や朝鮮人に間違われた日本人が暴行を受けるなど混乱した状況が発生した。 これらの暴行や殺害に関わった「自警団」は、元々、消防団青年団在郷軍人会を中心として被災者の救助や家屋の片付けなどに従事していた一般市民が、朝鮮人暴動の噂により自警団化したもので、組織や命令系統がしっかりとしたものではなかった。県内各所での朝鮮人殺傷事件の発生を受け、行政側も4日の段階で郡長、警察署長名で各町村長、在郷軍人分会長、青年団長宛に流言を打ち消す通牒を出すなどして混乱の沈静化を図ったが、パニック状態に陥っていた人々に対しては効果が薄く、混乱は治まらなかった。

事件の経過[編集]

9月4日、埼玉県の本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた[1]

本庄町内でも棍棒などで武装した自警団が中山道などの主要道で即席の検問所を設け、通行する人や車に対し検問を行った。 本庄駅では3日午後、東京方面からの避難者等を満載した列車に乗っていた朝鮮人が青年団らにより降ろされて警察に連行され、本庄警察署内に収容される等の動きがあった。 県警では混乱を防ぐため、自警団により警察に連行された朝鮮人を群馬県などの県外に移送しようと試み、警察官や自警団によって県北部に向けて徒歩やトラックで移送した。県の北部に位置する本庄町や熊谷町(現・熊谷市)、寄居町妻沼町などには、県南部から移送されて来た朝鮮人が滞留する状況があった。本庄署内にも移送されてきた朝鮮人が収容、保護されており、その人数は証言や記録により異なるが、20〜40人程度であったと見られる。

本庄署では、興奮した自警団等により危害を加えられる事を恐れ朝鮮人労働者らを保護していたが、収容しきれなくなったため、一部をトラックに分乗させ更に群馬県方面に移送しようとした。 4日午後1時過ぎ、2台のトラックに15人の朝鮮人を分乗させ本庄署を出発し、群馬県との県境である神流川の河原に到着した。対岸の群馬県側では新町の自警団が検問を行っており、朝鮮人の引継ぎや通過を拒否した。同行の警官は群馬県警藤岡警察署に電話連絡し引継ぎを依頼したがこれも拒否されたため、とりあえず移送してきた朝鮮人を河原に残してトラックは本庄署へと戻った。この時、降車された朝鮮人らは賀美村の自警団に暴行を受けるなどしたが、後に賀美村役場に収容された。

その後も本庄署では数回に分けて数台のトラックに朝鮮人を分乗させ群馬県方面への移送を試みた。夜に入って朝鮮人の移送を開始したトラック3台が、再び賀美村に差し掛かったが、自警団が投石するなどして通行を妨害したため、先に賀美村役場に収容されていた朝鮮人一行も同乗させ本庄署へ向けて引き返した。しかし、トラックが神保原村を通過した際、群衆がトラックを取り囲み朝鮮人を棍棒で殴打するなどの暴行を加え殺傷する事件が発生した(神保原事件)。本庄署ではこれ以上の移送は困難と判断し、移送を中止したトラックが本庄署に戻ったところ、署の周辺に蝟集していた群衆がこれを見つけて暴徒化し、朝鮮人及び警察官に襲いかかった。暴徒化した群衆は更に署内にも乱入し、署内で匿われていた朝鮮人らに対して、日本刀竹槍、木刀や棍棒、丸太等で暴行を加え、殺傷するに至った。裁判記録によると、4日午後8時頃、数十人の朝鮮人を分乗させた3台のトラックが到着、警察署を取り囲んだ群衆約4000人がこれに襲いかかり、その内1台は逃走したが、逃げ遅れた2台に乗っていた朝鮮人が虐殺されたという。 この時、本庄警察署で殺された人数については、殺害に加わった当事者らの証言によると85名とされるが、東京日日新聞では79名と報じられており、浦和地方裁判所検事正は30余名と発表している。当時の本庄町会議員の証言では署内で87名、町内で1名の計88名としており、元本庄署巡査の証言では署内で86名、町内で15~16名としている。また戦後建立された慰霊碑には86名と記載されており、関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会の調査では88名プラス不確定が14名程度となっている。

翌5日にかけて、死体は署内から荷馬車等で運び出され、一部は町内の火葬場に運ばれた。しかし、そこでは処理しきれなかったため、付近の野原に穴を掘り石油を掛けて焼却され、遺骨は共同墓地に葬られた。

町内では無秩序状態が続き、9月6日、300人(目撃者証言)とも3000人(新聞報道)とも記録される暴徒が本庄署を取り囲み、「署長を殺せ」などと叫んで警察署を包囲した。これに畏怖した署長は逃亡し、乱入した群衆は署内を破壊、更に炭俵や石油を運び込むなど焼き討ちする勢いであった。署長は着任以来、遊郭への取締りを厳しく行うなど、町内の有力者などから目の敵にされていたという事情があり、最初に連行された朝鮮人をすぐに釈放した事への批難が発端となり、震災の混乱に乗じた暴徒がこのような行動に出たと考えられる。 このような状況を危惧した大沢村村長で在郷軍人会児玉連合会会長の岡本保次らは、本庄駅に停車中の列車に第9師団歩兵第7連隊が乗車しているのを知り、指揮官に事態を告げて出動を要請した結果、一個小隊が本庄署に派遣され、同署での事態は鎮静化した。 本庄署では応援を要請し、周辺の警察署から応援の警察官が到着、更に戒厳令によって県内に展開していた陸軍部隊が続々と本庄町内に入った。9月7日深夜には第2師団歩兵第32連隊一個小隊、同日早朝に第14師団歩兵第15連隊一個小隊が到着し、町内の治安の回復を図った。その後、憲兵隊などからも応援が派遣されるなど、陸軍部隊が入れ替わり町内に派遣され、10月26日まで軍隊の駐屯が続いた。

検挙と裁判[編集]

9月22日、軍隊の応援を得て県北部での騒擾事件の犯人が一斉に検挙された。本庄事件の検挙者は33名で、農業、露天商、鳶職、ペンキ職人、車夫、小間物商など様々な職業の人々であった。周辺の熊谷町では35名、神保原村で19名、寄居町で13名、妻沼町で14名が検挙されている。 10月22日から一連の事件の裁判が浦和地方裁判所で始まり、11月26日、判決が下され、重い者で懲役2年、証拠不十分で無罪となった者もいた。

本庄事件の裁判記録による殺傷行為の部分では

当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:旧本庄警察署、現在の本庄市立歴史民俗資料館) 構内に殺到し来りて約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中

一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して犯意継続の上朝鮮人三名を殺害

一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害

一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害

一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)

浦和地方裁判所判決1923年11月26日

と記録されている。

慰霊等[編集]

翌大正12年(1924年)、町内長峰共同墓地に『鮮人之碑』と題された犠牲者の慰霊碑が建てられた。これは、事件直前、警察官とともに群衆の沈静化に努めた当時群馬新聞本庄支局長であった馬場安吉が事件後、埼玉県から受けた表彰金を基に協力を呼びかけ建立されたものであった。しかし昭和34年(1959年)、在日朝鮮人から「鮮人」は差別的な表現ではないかとの声が上がり、本庄市の協力を得て『関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑』が新たに建立され、毎年9月1日に慰霊法要が行われている。

脚注[編集]

  1. ^ 資料 関東大震災人権救済申立事件調査報告書 日弁連 弁護士梓沢和幸

参考文献[編集]

  • 『本庄市史(通史編Ⅲ)』 本庄市 平成7年
  • 『新編埼玉県史 通史編6』 埼玉県 平成元年
  • 『ビジュアルヒストリー 本庄歴史缶』 本庄市教育委員会 平成9年

関連項目[編集]