朴烈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
朴 烈
Park Yeol.JPG
生誕 (1902-02-03) 1902年2月3日
Flag of Korea (1882-1910).svg 大韓帝国 慶尚北道聞慶郡
現況 終戦で釈放
死没 (1974-01-17) 1974年1月17日(71歳没)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 詳細不明
別名 朴準植
職業 ジャーナリスト
罪名 大逆罪
刑罰 死刑、後に恩赦で無期懲役に減刑
有罪判決 1926年3月25日
朴烈
各種表記
ハングル 박열
漢字 朴烈
発音: パク・ヨル
日本語読み: ぼく れつ
ローマ字 Park Yeol
各種表記(本名)
ハングル 박준식
漢字 朴準植
発音: パク・ジュンシク
日本語読み: ぱく じゅんしょく
テンプレートを表示

朴烈日本語読み;ぼく れつ、朝鮮語読み;パク・ヨル、1902年2月3日 - 1974年1月17日)は、大正時代の朝鮮社会運動家ニヒリストで、無政府主義者朴烈事件の被告でもあった。

本名は朴準植(パク・ジュンシク、박준식)と言い、朴烈は書名。在日本大韓民国民団の初代団長で、韓国に帰国後、朝鮮戦争で捕虜となって北朝鮮に連行され、容共に思想矯正された。詳細については不明だが、そこで後に処刑されたと言われている。

人物[編集]

大韓帝国末期の慶尚北道聞慶郡麻城面の農家に生まれた。三・一運動後、京城高等普通学校を中退して1919年日本へ渡った。

以後、朝鮮を併合した日本への敵意から無政府主義活動に参加、黒濤会、不逞社(ふていしゃ)などを結成、信濃川朝鮮人虐殺事件の追及や雑誌『太い鮮人(ふていせんじん)』[1]を発刊した。この間に朝鮮で暮らしたこともある無政府主義者の日本人の思想家である金子文子愛人関係となり、同棲した。

1923年関東大震災の2日後、治安警察法予防検束を口実にして文子とともに逮捕された。(朴烈事件

朝鮮独立運動家と思われていた朴烈を取り締まることが目的であったが、特別に反乱を準備していたようなめぼしい証拠はなく、逮捕理由は不十分であった。しかし予審などで朴烈自らが天皇暗殺しようとしていたと述べたことから、爆発物取締罰則違反から一転して、大逆罪で告発された。これは一説には、朴烈自身が義兵的な生き方への憧れから、民族の英雄として死ぬために積極的に罪を認めて有罪になろうとしたとも言われる。事実、1926年3月には死刑判決が下された後、4月になって天皇の慈悲による恩赦によって無期懲役減刑されると、朴烈は激怒した。朴烈は減刑拒否を宣言したが、無視された。なお、獄中で結婚する意向だったがこの三ヶ月後に文子は死亡している。

朴烈は、千葉刑務所に長期服役し最後は秋田刑務所に移ったが、第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1945年10月27日まで獄中で過ごすことになった。しばらくは獄中から無政府主義者と連絡して獄中手記を発表していたりしていたが、1937年に「日本のために生き、日本のために死ぬ」と思想転向を表明して恭順上申書を刑務所長に提出した[2]。朴烈と上海戦線で戦う海軍陸戦隊兵士との手紙のやり取りは新聞でも報じられ、内鮮融和のプロパガンダに利用された。

なお、千葉刑務所時代には、二・二六事件の決起将校の一人で同じく千葉刑務所に捕らえられていた池田俊彦と出会っている。池田は回顧録の中で朴烈が抗日独立運動をした朝鮮の農民を搾取した日本人の高利貸しの悪行に抗議したかったという動機に共感して『あのような事件を起こした者とは思えぬ温厚な人であった』と評している[3]

戦後に出獄すると、無政府主義から反共主義へと転向した。大逆罪(=皇室に危害を加えようとした罪を意味する)を受けたという知名度を用いて、在日朝鮮人の組織の結成を目指して1946年新朝鮮建設同盟を結成して委員長となり、同年10月3日在日本朝鮮居留民団を結成して初代団長に就任した。しかし1949年の団長選挙で再選されず、失意の内に大韓民国に帰国した。

帰国後は李承晩の勧めで国務委員(大臣に相当)に任命されて[4]政界進出に意欲を見せていたが、翌1950年6月に朝鮮戦争中にソウルを占領した北朝鮮軍に捕えられ、北朝鮮へ連行された。

1966年6月に統一評論で「共産主義者と私」を発表し、反共から容共に思想転向を表明した。北朝鮮の南北平和統一委員会の副委員長を務めるなどしたが、田中清玄によると、朴烈はその後スパイ容疑をかけられて最期は処刑され、1974年に刑死した[5]

朴烈を題材とした作品[編集]

映画[編集]

脚注・出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「不逞」と「太い」をかけたもの。大正・昭和初期の書籍にはしばしば不逞鮮人とそのまま表記されている文献も散見される。
  2. ^ 海軍省海軍軍事普及部 1937, p.67
  3. ^ 池田俊彦『生きている二.二六』(文藝春秋 1977年/ちくま文庫 2009年)ISBN 4480425721
  4. ^ 千野境子 『世界は日本・アジアをどう伝えているか : 報道検証』 連合出版、2003年ISBN 489772189X 
  5. ^ 著者,田中清玄.(1993)."田中清玄自伝",東京:文藝春秋.

参考文献[編集]

関連項目[編集]