パウロ

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パウロ
Saint Paul Ananias Sight Restored.jpg
ピエトロ・ダ・コルトーナが1631年に描いたパウロの回心
生誕 紀元5年[1]
タルススキリキア属州ローマ帝国[2]
(現トルコ南部)
死没 紀元67年[3]
ローマ[4]
崇敬する教派 キリスト教全宗派
主要聖地 サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
象徴
守護対象 神学者、伝道[5]
ジャン・フーケによる絵、中央にパウロ

パウロ: Παῦλος[6]? - 65年?)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名でサウロとも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人

「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。

聖人であり、その記念日はペトロとともに6月29日ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。

正教会カトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。

パウロの生涯[編集]

ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。執筆中のパウロ
デューラー『4人の使徒』(部分)。マルコ(左)とパウロ(右)

新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロの職業はテント職人で[7]生まれつきのローマ市民権保持者でもあった[8]ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。

ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった[9]。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった[10]。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。

その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ人たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバテモテマルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られた。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで殉教したとされる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もある。

パウロ書簡[編集]

パウロ書簡には新約聖書中『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』がある。

歴史的キリスト教会がパウロの著者性を認めてきた『テサロニケの信徒への手紙二』『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるか自由主義神学者の中では議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロの弟子によるものとされ[11]、パウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の自由主義神学(リベラル派)では一般的である。リベラル派ではこれらを擬似パウロ書簡と称する。

なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。

近代の自由主義神学の批判的聖書学高等批評によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。

他にもパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。

思想[編集]

パウロにおいては罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲するを行うことができずに、かえって心の欲せざるをなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われるないし、パウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しいを迎えることができるという。この新しい生は物質性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期教父、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義の説く異端の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である。[12][13]

パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。[14]。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別した。しかしそれは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものであると主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。[14]

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 — パウロ、「ローマ人への手紙」13.1-4。新共同訳
テオドール・モムゼン
1890年の『ローマ法から見た宗教的逸脱』において、帝政初期のキリスト教迫害の理由を「国家離反」に求め、キリスト教迫害史研究に決定的な一歩を刻みつけた

パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている[15]。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる[16]。ところでローマ帝国のキリスト教に対する迫害についてテオドール・モムゼンは、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、1世紀段階では、キリスト教迫害はネロ迫害を除いてユダヤ教迫害の一環として行われている[17]。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、タキトゥスの記述は2世紀におけるキリスト教観を示しており、1世紀段階のヨセフス新約聖書との相違が著しいため、その史実性には幅がある[18]

またパウロは「自分の手で働くこと」を推奨している[注 1]が、これは古典古代の労働観に反する[20]古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」[21]と述べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかった[22]

評価[編集]

ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、今日では、彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったともされる[23]。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンス宗教改革であると述べている。[24]

注釈[編集]

  1. ^ 「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」[19]

脚注[編集]

  1. ^ Peter and Paul . In the Footsteps of Paul . Tarsus . 1. PBS. Retrieved on 2010-11-19.
  2. ^ Acts 22:3
  3. ^ Harris, Stephen L. Understanding the Bible. Palo Alto: Mayfield. 1985. ISBN 978-1-55934-655-9 p. 411"
  4. ^ Harris, Stephen L. Understanding the Bible. Palo Alto: Mayfield. 1985. ISBN 978-1-55934-655-9 p. 411"
  5. ^ http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=91
  6. ^ ラテン文字表記: Paulos
  7. ^ 『使徒行伝』18:3
  8. ^ 『使徒行伝』22:25-29。
  9. ^ 「目から鱗が落ちた」という言葉の語源
  10. ^ 『使徒行伝』9章。自由主義神学では、パウロ自身が『ガラテア書』で言及していないことから、これを「伝説的」な事件とみなし、パウロの回心の史実性が否定される
  11. ^ エティエンヌ・トロクメ 2004, p. 8.
  12. ^ クラウス・リーゼンフーバー 2003, pp. 28-31.
  13. ^ 鈴木宣明 1994, pp. 72-83.
  14. ^ a b シェルドン・S・ウォーリン 1994, p. 112.
  15. ^ M・パコー 1985, pp. 12-13.
  16. ^ エティエンヌ・トロクメ 2004, p. 152.
  17. ^ 保坂高殿 2003, p. 227.
  18. ^ 保坂高殿 2003, pp. 278-284.
  19. ^ 新共同訳、「テサロニケの信徒への手紙一」4.11。
  20. ^ エティエンヌ・トロクメ 2004, pp. 151-152.
  21. ^ アリストテレス 1971, 下巻p.175.
  22. ^ ハンナ・アレント 1994, pp. 137-138.
  23. ^ エティエンヌ・トロクメ 2004, p. 130.
  24. ^ エティエンヌ・トロクメ 2004, pp. 165-166.

参考文献[編集]

関連項目[編集]