ライシテ
ライシテ(仏: laïcité)、あるいは、ライシスム(仏: laïcisme, 英: laicism レイアシズム)とは、フランスにおける世俗主義(俗権主義)・政教分離の原則・政策のこと。
元々はフランス革命以来、主に学校・教育に関するローマカトリック勢力と、共和民主主義・反教権主義勢力との対立・駆け引きを通じて醸成されてきた原則・政策だが、中東からの移民増加とその文化的軋轢が表面化した1990年代以降は、イスラームとの関係で論じられることが多い[1]。
目次
語義[編集]
フランス語のライシテ、ライシスムは、ギリシア語で「民衆・平信徒の」「世俗・非宗教の」を意味する「ライコス」(希: λαϊκός)に由来する語であり[1]、ラテン語で「現世的」「世俗的」を意味する「サエクラリス」(羅: saecularis)から派生した「セキュラリズム」(英: securalism, 仏: sécularisme セキュラリスム)と共に、「世俗主義」「俗権主義」と訳されたり、「政教分離(原則・政策)」と訳されたりする。この語の対義語は、「聖職者の」を意味する「クレーリコス」(希: κληρικός)であり、この語から派生した「クレリカリズム」(英: clericalism, 仏: cléricalisme クレリカリスム)は、「聖職者主義」「教権主義」と訳されたりする。
歴史[編集]
ヴァロア朝後期からブルボン朝まで(16世紀-18世紀)[編集]
- 1520年代 - 宗教改革がフランスへと波及。カトリック勢力によるプロテスタント弾圧が始まる。
- 1534年10月18日 - 檄文事件が発生。当初はプロテスタントに寛容だったフランソワ1世が、プロテスタント弾圧へと転じる。
- 1560年 - アンボワーズの陰謀が発生。カルヴァン派(ユグノー)が大量処刑される。
- 1562年-1598年 - カルヴァン派(ユグノー)勢力とカトリック勢力の間でユグノー戦争が発生。
- 1685年10月18日 - ルイ14世がナントの勅令を破棄するフォンテーヌブローの勅令を発布。フランス国内でプロテスタントが全面禁止される。
- 1787年11月7日 - ルイ16世がフォンテーヌブローの勅令を破棄するヴェルサイユ勅令を発布。
フランス革命期から第二帝政期まで(1789年-1870年)[編集]
1789年からのフランス革命では、共和制への従属を拒否し、ローマ教皇への忠誠を誓ったカトリック聖職者の多くが処刑された。
統領政府期の1801年、ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ(政教条約)が結ばれ、カトリック、プロテスタントのルター派・カルヴァン派、そしてユダヤ教の四教が公認され、信教の自由が認められた。
その後、1814年-1830年の復古王政ブルボン朝において、カトリックが再び国教として復活、
の期間を通じ、1870年-1940年の第三共和政の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権主義勢力の対立は続いた。
特にそれは、1833年のギゾー法による公立学校設立、1850年のファルー法による(カトリック勢力が多数を占める)私立学校への財政援助を背景としながら、学校を舞台として、カトリック聖職者教師と、ヴィクトル・ユーゴー、ジュール・ミシュレ、エドガー・キネら反教権主義者達の対立として顕在化した。1850年代には、「リーブル・パンスール」(仏: libre penseur、自由思想家)と呼ばれる、急進的な反教権主義勢力も生まれた[2]。
第三共和政期(1870年-1940年)[編集]
- 1871年 - レオン・ガンベタが教育とカトリックの分離を訴える。
- 1879年 - ジュール・フェリーが教育相に就任。
- 1881年 - 公教育の無償化。
- 1882年3月18日 - 私的機関を大学から排除し、国家が全ての大学を専有する法律を制定。
- 1886年 - 公立学校教師を非聖職者に限定する法律を制定。
- 1901年 - ピエール・ワルデック=ルソー首相により、修道会を認可制とする結社法を制定。
- 1902年 - エミール・コンブ首相により、カトリック系私立学校2500校が閉鎖。
- 1903年 - 新たに1万校を閉鎖。(5800校は形態を変えて再開。)
- 1904年 - フランスとローマ教皇庁との関係断絶。
- 1905年 - 政教分離法制定。国家が信教の自由を認めると同時に、いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができることが明記される。(ナポレオンのコンコルダ以来の「公認制」の破棄。)
- 1921年 - フランスとローマ教皇庁との関係修復。
第四共和政期(1946年-1958年)[編集]
- 1946年 - 第四共和政憲法発布。信教の自由が明記されると同時に、冒頭の1条では、フランスが「ライックで、民主的で、社会的な共和国である」ことが強調される。
第五共和政期(1958年-)[編集]
- 1958年 - 第五共和政憲法発布。人種・宗教による差別の禁止、法の下の平等がより強調される。
- 1989年 - 始業期である秋、パリ近郊クレイユ市の中学校で、スカーフ(ヒジャブ)を着用していたイスラム系の女生徒2人が教師によって教室への入室を禁止され、大きな論議を呼び起こす。
- 哲学者エティエンヌ・バリバールは、「公立学校はいかなる生徒も追放すべきではないし、むしろ教育によって宗教的蒙昧主義から自らを解放する機会を与えるべき」だとして、学校側の対応を批判した[3]。
- 文化人類学者フランソワ・プィヨンは、スカーフの着用を認めることはライシテの原則に反するものとして、学校側の対応を擁護した。
- 11月、国務院が、「宗教的なしるしを着用すること自体は、ライシテと相容れないわけではない。それが宗教勧誘、公序紊乱、授業阻害となる場合に処罰される。」と回答する[3]。
- 12月、教育相リオネル・ジョスパンが、宗教的なしるし着用への注意・自制を求める通達を出す。
- 1990年 - モンフェルメイユのジャン・ジョレス中学校で、新たなスカーフ事件があり、退学となったイスラム系女生徒3名の親が提訴する。
- 1992年11月2日 - ケルーア判決(仏: arrêt Kherouaa)で、「宗教的なしるしを全て絶対的に禁止することは不法」と判断される。
- 1994年 - 9月、教育相フランソワ・バイルが、「生徒を学校の共同生活規則から分離させるような目立つしるしが校内で増加することは容認できない」旨の通達を出す。
- 1995年 - 7月、国務院が、「目立つしるし」の定義の曖昧さを理由に、バイル通達の無効を通告、スカーフの全面禁止を否定する。
- 1997年 - 11月、国務院が、スカーフを「目立つ攻撃的なしるし」とは看做せないと明言。退学は「体育・水泳などの義務科目への参加を拒否することで正当化される」と付け加える。
- 2000年 - 5月、国務院が、スカーフ着用を理由に休職処分となった臨時校内監視員の事例に関し、「宗教的信仰を明らかにする権利を持っている公立学校職員に対し、ライシテ原則はその権利の妨げになっている」との判決を下す。
- 2002年 - 12月、リヨンでスカーフを折ってバンダナ風に着用していた生徒に関し、教育委員会が規律委員会開催を拒否したことに抗議して、教員ストが実施された。
- 2003年 - 4月、フランス・イスラム団体連合(UOIF)の会議の席上、内務相ニコラ・サルコジが「身分証明写真は無帽であることを義務付ける」旨の発言をする。
- 5月、イスラム教フランス評議会(CMCF)の公的会合が初開催。
- 6月、国民議会内に、教育機関における「宗教的しるし」着用に関する調査団が設置される。
- 7月、大統領ジャック・シラクが、ベルナール・スタジを委員長とする「共和国におけるライシテ原則適用に関する検討委員会」(スタジ委員会)を創設。
- 10月、シラクが「ライシテの問題は交渉によって解決できるものではなく、法律を最後の手段とすることができる」と発言。
- 11月、国民議会内の調査団が「目につく政治的・宗教的しるしを禁止する」立場を明言。
- 12月11日、スタジ委員会が「差別反対政策」と「公共サービス職員の中立性を明確にし、公立学校におけるあらゆる宗教的・政治的しるしを禁止する「ライシテについての法律」制定」を進言。また同時に、宗教融和策としてイスラームの祝日「イド・アル=フィトル」と、ユダヤ教の祝日「ヨム・キプル」も、国民の祝日に加えるよう進言。
- 12月17日、シラクが学校内の宗教的しるし禁止の法制化には賛同するが、休日を2日増やすことは拒否すると発言。
- 12月21日、スカーフを付けた約3000名が法案反対デモを行う。
- 2004年 - 1月5日、「宗教シンボル禁止法」[4](スカーフ禁止法、ヒジャブ禁止法)法案が国務院に提出される。
- 1月17日、2万名以上が法案反対デモ。
- 1月19日、パリで法案反対集会。5000名参加。
- 2月10日、国民議会(下院)が同法案可決。
- 3月3日、上院で同法案が可決し成立。
- 9月、同法律の施行開始。
- 2010年 - 7月13日、公共空間でブルカ等の着用を禁止する「ブルカ禁止法」が国民議会(下院)で可決。
- 9月14日、同法案が上院でも可決、成立。
- 2011年 - 4月11日、「ブルカ禁止法」施行開始。
- 2013年 - 9月9日、ヴァンサン・ペイヨン教育相が「ライシテ憲章」を発表。
- 2014年 - 7月1日、欧州人権裁判所は同法を支持する判決を下す。
- 2015年 - 1月7日、イスラム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件が発生。
- 1月13日、マニュエル・ヴァルス首相は「テロとの戦争」を宣言すると同時に、「世俗主義と自由のために戦う」旨を述べた[5]。
- 11月13日、イスラム過激派によるパリ同時多発テロ事件が発生。
- 2016年 - 7月14日、ニース市でトラックテロ事件が発生。
参考文献[編集]
- 『現代フランス社会における「ライシテ」概念の変容 (PDF, 1.71 MiB) 』 - 満足圭江/東洋哲学研究所