アンシャン・レジーム
アンシャン・レジーム(仏:ancien régime)はフランス語で「旧体制」を意味し、フランス史において16世紀から18世紀までのおよそ3世紀をさして用いられる[1][2]。18世紀後半にフランスで革命が勃発したあと、それ以前の社会と制度が革命家らによって解体・廃棄すべきものとみなされ「アンシャン ancien=かつての、古い」「レジーム régime=体制」という言葉が当てられた。そのためこの言葉はフランス革命とつねに不可分のものとして理解されている[3]。
19世紀なかばにトクヴィルの著作『アンシャン・レジームと革命』などにおいてはじめて学問的な考察の対象となり、歴史用語として定着した[4]。ここから転じて、フランス史以外の文脈でも解体・攻撃すべき古い習慣や制度などを指してこの用語があてられることがある[5](日本語の訳語として他に「旧秩序」[6]「旧制度」[7]など)。
概要
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この時期のフランスは70年超にわたって統治したルイ14世を筆頭に王権の強化がすすめられ、絶対王政(absolute monarchy)と呼ばれる強力な国家体制が出現した[8][4]。これを背景にフランスは対外戦争を繰り返す政治的大国としてヨーロッパに大きな存在感を誇ったほか[4]、フォンテーヌブロー宮やヴェルサイユ宮が華やかな文化・芸術の発信拠点となった。16世紀には宗教改革の波及による対立が大規模な内戦に発展したが、部分的な寛容政策でこれを抑え込み[9]、以後はフランス革命勃発まで比較的安定した国家を築いた[10]。
アンシャン・レジーム期のフランスの人口は2000万人(1790年頃)〜2800万人(革命期)と推移した。これは当時のイギリス、スペインの人口の2〜4倍に達している[4]。
フランスは革命が勃発するまで「聖職者」「貴族」「第三身分(都市と農村の平民ら)」という三つの身分が区別された身分制社会で、聖職者と貴族が特権身分を構成していた[1]。第三身分をつくる平民の職業は多様で、弁護士や作家、金融業者、手工業者や商人などが含まれ上層は特権身分と癒着する者もあったが、上位二身分と第三身分との間には、法的・社会的に明確な一線が引かれていた[1]。
さらにこれら社会層のそれぞれの中に、数多くの「社団」が偏在していた[1]。これは手工業者の団体、弁護士や医師の組合、大学などの職能集団から、村落共同体、領主所領など地域的なグループまで、人々の結びつき・共通の利益を背景に生まれた社会集団をさす。アンシャン・レジーム下のフランスでは国王がこのそれぞれに特権と法的地位を保証し、そのことによって支配の網を国内に張り巡らせていた[11]。こうした社団の機能は17〜18世紀を通じた絶対王政の確立とともに低下してゆくが、最終的な解体はフランス革命を待たねばならない[10]。
統治機構
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絶対王政期のフランス官僚機構は、保有官僚officierと親任官僚 commisaire の2つによって支えられていた[12]。
保有官僚は国王から直接に授与され主に司法と財務の分野で活動した官職で、終身職であり、さまざまな社会的特権・収入をともなった。そのため売買や相続の対象となり、保有官僚はしだいに特権団体化した[13]。
一方の親任官僚は、国王の任命によって一定期間のみある職位を委任される。上記の保有官僚が世襲化・特権団体化によって行政の執行機関として十分機能しなくなったために、17世紀前半から導入された制度である[12]。最上位では国王直属の地方行政官たる「地方監察官(地方長官)intendent de province」で、各地方に派遣されて司法・警察・財政におよぶ広い範囲で強力な権限を行使した[10][14]。
国王と官僚の意思の執行機関である軍隊は、現在とは大きく異なり、国王直属の常備軍(勅令軍団 troupe de la grand ordonnance)とスイス人・ドイツ人などの傭兵部隊とで構成されていた[12]。三十年戦争以後の度重なる対外戦争のため、その数は増加の一途をたどり、17世紀末の段階で総数43万4000人(ほか海軍7万人)となっていた。常備軍と傭兵の割合はおおむね三対一だった[1]。兵員の増加により、1688年に陸軍卿ルーヴォワが近代的な徴兵制度のさきがけとも言われる民兵制を導入しているが、特権身分に加えて高額納税者も義務をまぬがれ、下層民衆のみに負担を強いる制度だった[12]。
⇒参照:イタリア戦争|フランソワ1世|アンリ4世|ルイ13世|ルイ14世|摂政時代|リシュリュー|マザラン|コルベール
国家財政
[編集]アンシャン・レジーム下のフランスでは、上述のような官僚機構・軍隊の肥大化に加えて、宮廷による浪費、そして繰り返される対外戦争によって、国家支出が一貫して増加しつづけた。16世紀初頭には500万リーブル前後だった国家歳出は、フランス革命直前の1788年には6億3000万リーブルに達している[1][12]。
国家の歳入は、国王が徴収する直接税(タイユ税 taille)のほか、飲料消費税・塩税・関税・聖職者からの上納金・上述の官職売買収入などがおもな財源となった[2]。これらのうち直接税は官僚らでつくる徴税機構を通じて徴収されたが、間接税はフィナンシエと呼ばれる請負業者が国家と契約を結んで徴収実務を行った。革命前夜の1775年頃には、租税収入全体の約45%を直接税が占めている[14]。
しかしこれらの国庫収入のみによっては宮廷の奢侈と対外戦争の出費を支えることは不可能で、王権は金融業者から繰りかえし短期借款を行ったほか、租税収入を担保として公債(ラント)の発行を繰り返している。革命前夜には、アメリカ独立戦争への参加によって公債発行額が急増したため、借入金の利子支払と元本返済が歳出全体に占める割合は49%まで急増していたとされる[2]。現在多くの歴史家によって、こうした財政状況をみて王権がさらなる増税をこころみたことが、民衆と貴族層を離反させフランス革命を引きおこす直接の原因のひとつとなったと考えられている[2]。
⇒参照:ネッケル
経済・産業
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16世紀のフランスは長期的な好況期にあたり、フランス経済はゆるやかに拡大をつづけた。経済を支えたのは主に農業で、革命前のフランスでは1780年代の段階で総人口の約60%が農業に従事していたとされる[1]。また農業の生産額は工業を含む国内での総生産額の約60%を占めていた[2]。
しかし伝統的な三圃制・二圃制がきわめて広い範囲で残存しており、農業技術の進歩も緩慢だったため、土地・労働の生産性は低いままにとどまっていた[12]。農業生産の主力は基本的食料たる小麦など穀類に集中した。工業では毛織物が生産額首位で、ノルマンディー地方・ピカルディー地方・ラングドック地方などが主要な生産地だった。またスペインやイタリアからの輸入に頼っていた鉄生産も、武器需要の増大に後押しされて16世紀には製鉄工場が自国内につくられるようになった。印刷業も発展し、16世紀の間にパリで2万5000点、リヨンで1万5000点の書籍が出版されている[12][2]。
このような小規模の農家による農業を基盤とする産業革命以前のフランス経済は、「経済的旧体制」と呼ばれる。国内産業の主力を生産性の低い小規模農業が占めているため、ほぼ10〜20年の周期で天候不順による凶作と穀物価格の高騰を引きおこし、それが工業生産活動の収縮をまねくという形が繰り返された[2]。そして凶作はしばしば疫病の流行をともない、社会的危機をもたらした。そして17世紀のフランスは、他のヨーロッパ諸国と同様に長期の低迷期(「十七世紀の全般的危機」)を経験することになる[4]。
また国家の強力な支援によって海外植民地を中心に生産と販売網を構築することに成功したスペインやポルトガルとは異なって、フランスでは16世紀を通じて海外に安定した植民地を建設することができなかった[2]。フランスの歴史家ピエール・ショーニュは、フランスは国内で広大な国土と多数に人口を管理することに加えてハプスブルク帝国など周辺諸国からの圧力にも対抗する必要があったため、海外植民地の開拓に力を回すことができなかったと指摘している[4]。
しかし17世紀に入ると新たにおこったブルボン王朝の支援が活発になり、カナダなど北米地域、そしてマルティニクなどカリブ海、さらにはセネガルなどアフリカ西海岸にも進出して永続的な植民地を建設することに成功した。
18世紀以降はふたたび長期的な好況期に転じ、農業生産・毛織物生産も増大、またカリブ海のサン・ドマング植民地での砂糖・コーヒー生産も活発化した[2]。
この過程では、スコットランド出身の銀行家ジョン・ローが18世紀初頭から導入した「ローのシステム」と呼ばれる一連の経済政策が、伝統的な金融・財政政策に大きな転換をもたらしている。これは先行するオランダやイングランドにならって中央銀行を設立し、銀行券の発行によって貨幣不足を解消するとともに財政赤字も軽減し、また植民地貿易の拡大によって歳入状態を安定させようとするものだった[2]。しかしルイジアナの開発独占権をあたえたミシシッピ会社設立(1717年)やインド会社の改組(1719年)は投機的な投資ブームを招き、株価暴落ののちローは失脚・逃亡している[4]。
⇒参照:フランス植民地帝国|フランスによるアメリカ大陸の植民地化
ルネサンスと宗教改革
[編集]イタリア・ルネサンスの受容
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シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世らがイタリアに遠征したことがきっかけとなり、イタリア・ルネサンスの影響は早くからフランスにも及んだ。その受容から成熟にいたる過程は、歴史家によって建築を中心に大きく三つの段階に区分されている。
1)15世紀末から16世紀初頭。フランスはもともとゴシック様式の伝統が強かったが、ルイ12世らがイタリア人技術者を招聘し、後期ゴシックのフランボワイアン様式の一部にイタリア式装飾が現れ始める。その例がアンボワーズ、ソレム、ガイヨンなどの城に見られ、またブロワ城、シャンボール城の建築にもイタリア風が取り入れられている[4]。
2)16世紀初頭から1540年頃。上記のような混合様式はまださかんだったが、フランソワ一世が造成したフォーンテーヌブロー宮では、ロッソやプリマチオなど若い世代のイタリア人建築家を招聘し、イタリア様式の一大拠点となった。ここに集まったイタリア人、フランス人の芸術家は「フォンテーヌブロー派」と呼ばれてヨーロッパに広く影響力をもつことになる[2]。
3)1540年から1550年頃。この時期にイタリア様式の単なる輸入・模倣の段階を脱し、国民文化としてのフランス古典主義が成立する。建築のピエール・レスコ、フィリベール・ドゥクロム、彫刻のジャン・グジョン、ジェルマン・ピロンらがその中心となった。
ユマニスム
[編集]ユマニスム(人文主義)とは古典古代文化の研究をベースにした一種と思想運動で、知識と知性の涵養によって人間性を向上させてゆくことができるとする。どのような国・地域であっても人間性の底流は共通すると信じる「普遍主義」、教育を手段として自分を乗り越えることができるとする「楽観主義」などがその特徴とされ、16世紀のヨーロッパで広く普及した[12]。
フランスでは初期にソルボンヌ大学へ最初の印刷機を導入した修辞学者ギヨーム・フィシェ、その弟子の歴史家ルフェーブル・デタープルなどがいる。かれらの第二世代として文献学者ギヨーム・ビュデがあらわれ、彼は「フランスのエラスムス」と呼ばれるほど全ヨーロッパ的な名声を博した[12]。
フランスのユマニスムの特徴は王権が強力な支援者となったことで、フランソワ一世は姉のマルグリットとともに芸術家・作家らを物心両面で支え続けた。彼の治下の1530年に王立教授団が創出されたほか、1539年には裁判でのフランス語使用を義務づけるヴィレル・コトレ王令を公布、これは近代フランス語確立の重要な転機とみなされている[12]。この風潮のなかで多くのギリシャ・ローマ古典の大部分がフランス語に翻訳され、またフランソワ一世の宮廷詩人だったクレマン・マロ、大作『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著したフランソワ・ラブレー、ロンサールらプレイヤード派の詩人が活躍している[4]。
⇒参照:フランス・ルネサンスの文学|アンブロワーズ・パレ|ジョアシャン・デュ・ベレー|アグリッパ・ドービニェ|新プラトン主義
宗教改革
[編集]ルターの宗教改革思想がフランスへ導入される以前から、フランスでは上述のユマニスムをもとにした教会改革運動がはじまっていた[15]。その代表はルフェーブル・デタープルで、彼は『パウロ書簡注解』(1512年)を著して教会の現状を批判、ルターのように信仰へ帰ることを説いていた。彼はまた聖書のフランス語訳を普及させた[2]。
しかしルターの思想が伝来すると教会側の反発は素早く、過激派の処刑やルター関連書籍の取り締まりなどで応じた[15]。はじめ人文主義の一部として寛容な姿勢をみせていたフランソワ一世も後に態度を硬化させ、プロテスタント宗教改革に共鳴したヴァルド派の虐殺(1540〜45年)を行っている[15]。その王位を継いだアンリ2世はさらにその立場を強め、火刑裁判所を創設して異端をきびしく弾圧した[2]。
16世紀後半から貴族層からもプロテスタント側に共鳴する人々が増えてくると、フランスはイングランドやスペインの国際情勢とも密接にからみあいながら、本格的に宗教対立の時代に突入した[15]。カルヴァン派などプロテスタント側の勢力はさまざまな実力行使に訴え、カトリック側は「悪さをする者」という意味の「ユグノー」という蔑称をプロテスタントをさす言葉として定着させ、さらに実力行使でかれらに応じた[15]。1560年頃からこうした対立はフランス全土における宗教戦争に発展し、その頂点である「聖バルテルミの虐殺」(1572年)では、フランス全土で1万人以上のプロテスタントが惨殺されたとされる[15]。これらの問題解決をめざしたアンリ4世によって、ナントの王令(1598年)で寛容方針を打ち出され、両者の対立はある程度まで緩和に向かった[15]。
⇒参照:高等法院|アンボワーズの陰謀|カトリーヌ・ド・メディシス|ギーズ公フランソワ|ジャンヌ・ダルブレ|ヴァシーの虐殺|マルグリット・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)|カトリック同盟|フォンテーヌブローの王令|
文化・社会
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都市の文化
[編集]太陽王ルイ14世が死去(1715年)したあとフランス革命までの時代には、パリ・リヨンなど大都市の文化が発達した[16]。
18世紀には農業・工業生産が拡大したほか植民地を通じた外国貿易も活発になり、フランス経済は長期的な活況を呈した。この経済発展が都市への人口流入をうながし、同時に貧富の格差を拡大して伝統的な身分制は強化されてゆく[16]。
パリでは教養を深めた有力な富裕層がサロンをつくり、著名な学者・作家・芸術家らが集まるなかでフランスの学術・芸術動向に大きな影響力をふるうようになった。また地方でも、アカデミー・フランセーズを模した地方アカデミーが相次いで創設され、これも地方におけるサロンの役割を果たすことになった。また1725年頃フランスに導入されたフリーメーソンも知的活動と社交の場として機能し、革命直前の段階で全国に5万人のメンバーを擁するほど成長した[12]。
⇒参照:フランスの文学サロン|ランブイエ公爵夫人|セヴィニエ公爵夫人
教育
[編集]フランスではプロテスタントが早くから聖書を日常語で読むための読むための教育に取り組んでいた。そのためフランスの識字率は当時のヨーロッパでは比較的高く、18世紀後半にはフランスの識字率は男性47%、女性27%ほどに達していたと推定されている。ただし王権が農民への教育には消極的だったため、教会が地方農村での教育の主な担い手となった[4]。
また「コレージュ」と呼ばれる中等教育機関が大学の人文学部や修道会に付設され、古典の読解を主とする教育を行った。生徒との数は全国で約5万人程度と推定されている。授業は無償だったが寄宿費が高額なため、生徒の親は医師・弁護士や官職保有者が大半で、職人・農民の子供は概して在籍期間も短く、経済情勢の悪化でただちに退学するなど安定しなかった[16]。
高等教育では、1751年ごろまで24の大学が開校していた。全国で約1万人程度の大学生が学んでいたと推定されている。しかしその教育内容は前世紀からの古典教育が主で、かつて神学とユマニスムを中心とする学問研究の重要な拠点だった大学はすでに国際的名声を失い、官僚や聖職者・医師などの養成機関と化すようになった[16]。ただし18世紀半ば以降には、王権が介入して高度な専門教育をおこなう「土木学校」などが新設され、これがのちに「グランド・ゼコール」として上層官僚の輩出機関となってゆく[4]。
⇒参照:中世大学|ソルボンヌ|フランス科学アカデミー|コレージュ・ド・フランス
世論の形成・啓蒙思想
[編集]国内全体の識字率がゆるやかに向上し、また出版文化もさかんになったことで、都市では上述のサロンや、また新たに登場した「カフェ」で、市民が活発な議論を行うようになった。これらは王権の統制が届かない自律的な公共空間となり、ルソーやヴォルテールら啓蒙思想家の言論が大きな影響力をもって「啓蒙の世紀」とも呼ばれる時代が現出した[4]。
これら啓蒙思想は伝統的な権威がもっていた知識・思想を徹底的に批判し、そのなかでカトリック教会・キリスト教も強い批判にさらされてゆく[4]。
⇒参照:百科全書|啓蒙時代|ディドロ|ダランベール|モンテスキュー
革命へ
[編集]上述した国家財政の慢性的な赤字は、18世紀半ばにいたって全くの破綻状態におちいる。その対処のため王権がもくろんだ大幅な増税のこころみが貴族・聖職者層の強い反発をまねき、またこれに啓蒙思想の波及・世論文化の形成などによって活発な公論を行っていた第三身分による国制改革の要求がむすびついて、王権は大きく動揺し、フランス革命へ突入してゆく[17]。
アンシャン・レジームに胚胎していたどのような要素が最終的に王権倒壊とカトリック教会支配の終焉につながる巨大な革命を導いたのか、これまで膨大な研究が行われてきたが、貴族・聖職者・都市民衆・農村民衆という4つの社会層の人々がそれぞれの思惑で独自に行った改革要求が複雑にからみあって革命が出現したとする「4つの革命論」が20世紀初頭に提出され[18]、これが現在でも基本的な理論となっている[19][17]。
⇒参照:ナポレオン法典|フランスにおける封建制の廃止|フランス革命期における非キリスト教化運動|環大西洋革命
「アンシャン・レジーム」の比喩的用法
[編集]日本語でフランス革命を論じる場合に、「旧体制」とせず「アンシャン・レジーム」と呼ぶ例はすでに大正時代に始まっている。フランスの家族法を論じる大正6年(1917)の研究論文に「アンシャン、レジーム」とする表記が見えるほか[20]、大正14年(1925)に日本で刊行されたゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』邦訳にも「…我々が今日…断片として見る所のものは凡て、アンシャン・レジームの貴族や金持の室を充たしてゐたのである」という訳文がある[21]。
また政治学者の岡義武は昭和14年(1939)の『近代欧州政治史』においてこの言葉をヨーロッパ全体に広げ、「フランス大革命前における欧州大陸諸国の政治秩序はアンシャン・レジームの名の下によばれるものであった」と記している[22]。戦後は昭和23年(1948)に刊行された『世界歴史大系』など、歴史学でも「アンシャン・レジーム」の用語が一般化した[23](表記には若干ゆれがあり、論者によって「アンシアン・レジーム」[24]「アンシァン・レジーム」[25]などと表記されることがある)。
この言葉が定着した結果、現在ではさらに対象を広げ、抜本的な改革を訴える文脈で比喩的に用いられることがある。経済産業省が世界的な技術革新に対する日本の対応の遅れに警鐘を鳴らす報告書(2002)に『日本的組織の再構築―アンシャンレジーム(旧制度)からの脱却』の題名を冠しているほか[26]、一般メディアに掲載される論説でも、日本における男女格差解消を訴えて「私見では、現代日本社会の病名は「日本版アンシャンレジーム(旧体制)の未清算」である。」といった表現が見られる[27]。
こうした比喩的な用法は英語圏でも同様で、巨大官僚組織となったEUの改革を訴えたり[28][29]、また南アフリカでアパルトヘイト体制期の社会を名指ししたりする中でアンシャン・レジームと呼んだ例がある[30]。歴史家のウィリアム・ドイルらは英語に翻訳して "Old Regime" の表現を用いることがあるが[14]、 "Ancien Regime" のままでも一般的に用いられる(フランス語では Régime とアクサン記号が附されるが、英語では Regime と記号なしで表記されることも多い[31])。
⇒参照:戦後レジーム
出典
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関連文献
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- 谷川稔・渡辺和行編『近代フランスの歴史 : 国民国家形成の彼方に』ミネルヴァ書房、2006
- 仲松優子『アンシアン・レジーム期フランスの権力秩序 : 蜂起をめぐる地域社会と王権』有志舎、2017)
- 二宮宏之『フランスアンシアン・レジーム論 : 社会的結合・権力秩序・叛乱』 岩波書店、2007
- 『二宮宏之著作集』第1〜第4巻、岩波書店、2011
- 正本忍『フランス絶対王政の統治構造再考 : マレショーセに見る治安、裁判、官僚制』 刀水書房、2019
- 安成英樹『フランス絶対王政とエリート官僚』 日本エディタースクール出版部、1998
- Cabourdin, Guy and Georges Viard. Lexique historique de la France d’Ancien Régime, 3e ed., Arman Colin, 2025.
- Cosandey, Fanny and Robert Descimon. L'absolutisme en France : histoire et historiographie, Points, 2002.(ファニー・コザンデ、ロベール・デシモン『フランス絶対主義 : 歴史と史学史』フランス絶対主義研究会訳、岩波書店、2021)
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- Chartier, Roger. Lectures et lecteurs dans la France d'Ancien Régime, Seuil, 1987(ロジェ・シャルチエ『読書と読者 : アンシャン・レジーム期フランスにおける』長谷川輝夫・宮下志朗訳、みすず書房、1994)
- Flandrin, Jean-Louis. Familles : parenté, maison, sexualité dans l'ancienne société, Seuil, 1995.(J.L.フランドラン『フランスの家族 : アンシャン・レジーム下の親族・家・性』 森田伸子・小林亜子訳、勁草書房、1993)