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マイダネク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯51度13分13秒 東経22度36分0秒 / 北緯51.22028度 東経22.60000度 / 51.22028; 22.60000

マイダネクの監視塔と有刺鉄線

マイダネクMajdanek)、正式にはルブリン強制収容所(独:Konzentrationslager Lublin)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に設置した強制収容所の一つである。ポーランドルブリン郊外に位置する。ここにはガス室が設置されたとされている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所と同じく強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備える収容所であった[1]。規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ。

親衛隊(SS)がつけた正式名称は「ルブリン強制収容所」であったが、周辺住民たちはこの収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。戦後はこの名前で有名となった[2][3]

収容所の歴史

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ルブリンから南方2キロの所のヴィスワ川ブク川に挟まれた場所に存在していた。北東にソビボル強制収容所、南東にベウジェツ強制収容所が存在した[2]

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けたルブリン地区の親衛隊及び警察高級指導者オディロ・グロボクニクにより、1941年秋に建設工事開始、作業は1942年5月まで急ピッチで進められ、その後は少しずつ拡張され、最終的には1942年冬に完成した[4]

 1942年5月時点でマイダネクは広さ273ヘクタールであった。有刺鉄線の鉄条網で分けられた6つの区域から成っていた。300人以上収容可能な住居バラックが144棟建てられた。他強制収容所と同様、厳重な警備態勢が敷かれていた。高さ4メートルの支柱を2列に一定間隔で立てその間を有刺鉄線で結びフェンスとし、2列の柱の間に一方の柱の天辺から他方の根元まで対角線に有刺鉄線が渡され、この第三の網を碍子で固定、ここに電流を流していた。一定間隔に機関銃を備えた監視塔も設けていた。親衛隊員が看守であり、警察犬として200頭のシェパードも飼われていた[5]

囚人の宿所バラックのベッド

当初はマイダネクにガス室はなく、独ソ戦のロシア人捕虜や先のポーランド侵攻の際のポーランド人捕虜の収容先として考えられていたという。最初期のころから近隣の村から連行したユダヤ人数千人も収容された[3]。1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこの大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。しかし、囚人の中で一番多かったのは非ユダヤ系ポーランド人であった。

1942年9月から10月にかけ最初のガス室が3つ設置された[3]。最終的にマイダネクにはガス車1台と6つのガス室が置かれた[6]。マイダネクでのガス殺にはチクロンB一酸化炭素が併用された。一度に1914人をガス殺可能であったとされる[6]

 ガス室は1942年10月から1943年秋にかけ本格稼働していた。マイダネクはアウシュヴィッツと同様、強制収容所と絶滅収容所の側面を兼ね備えた収容所であった。まだ働ける者は働かせる一方、飢餓や看守の暴力で衰弱した者、チフスに罹った者、そしてナチスにとって死んだ方が好都合な者などはガス室へ送られた[6]。現在このガス室は一般公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも確認出来る[7]。マイダネクで使用されたチクロンBは総計7711キロである[7][6]

 マイダネクでは銃殺も多く行われた。1941年12月、ソ連捕虜の約1900人銃殺に始まり、ソ連捕虜が定期的に銃殺された。しかし銃殺の規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺だった。マイダネク収容所の8400人と他の収容所や町から連行された1万人の計1万8000人のユダヤ人がこの日銃殺されたとされる[8][9]

 他の強制収容所と同様、ドイツの戦況が悪化するにつれ、食糧が不足し常時餓死者が発生した。生きている囚人も骨と皮だけになるか、飢餓による鼓腸を起こし異常に太って見えるかのどちらかになっていった。

 死体は当初埋められていたが、ソ連軍接近に伴い、証拠隠滅のため死体が掘り起こされては改めて焼却された。生存者は別の収容所へ移送され、1944年7月23日にソ連軍が到着した際にはわずかな囚人しか残されていなかった。施設の多くも焼却されるか爆破されたが、焼却炉だけは爆破しきれずそのまま残っていた。

ソ連によるプロパガンダ宣伝

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マイダネクのガス室

1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの報告によると、解放時のマイダネクはこのような状態であったという。

私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。ヒトラーの悪名高き絶滅収容所である。ここで50万人以上の男女、子供が殺された。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度残されているだけだった。生きてここを出られた者はほとんどいなかったのである。連日何千人もの人が送り込まれてきて残忍に殺されていったのだ。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。 — 『ホロコースト全史』pp.392-393[10]

ソ連から送られてきたこれらの報告を受け、イギリスの新聞『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』は1944年10月にマイダネク収容者の写真を掲載するとともに次のように報道した。

余りに残虐な写真を掲載したことについて理由を述べたい。本紙読者は、ドイツ人が犯したこの残虐な犯罪について信じられないかもしれない。われわれの報道がプロパガンダと思うかもしれない。そうした懸念から写真掲載の必要があると考えたのである。これらの写真こそが60万人から100万人の人々がマイダネクで組織的に殺戮された動かぬ証拠である。掲載した写真だけでも残虐だが、マイダネクの惨状はさらに残虐だったのである。 — 『ホロコースト全史』pp.393-394[11]

これらのソ連による宣伝内容にある犠牲者数は、2024年1月の時点で、マイダネク博物館の公式サイトの記載によると、「マイダネクに入所した推定13万人の囚人のうち、8万人が収容所で死亡した」[注釈 1]とあって、大幅に異なっており、ソ連が示した犠牲者数は過大な誇張であると考えられる。

マイダネクのガス室について

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多くの学者や、専門家はマイダネクにはガス室が存在し、そこで殺人が行われたと信じているが、ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)は、マイダネクのガス室については、「マイダネクの殺人ガス室や害虫駆除ガス室が真の歴史家を待っている」として、未解明の部分が多いかのように示唆している[12]。プレサックは、確実にガス室で殺人が行われた。とは書いていない為、修正主義者は、プレサックがガス室を疑問視していると主張している[13]。また修正主義者自身もガス室の稼働を疑問視している[13]

マイダネクの死亡者数について

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解放直後の1944年8月25日の記者発表で、ソ連はマイダネクで200万人が大量虐殺された。と発表した[13]。1944年11月27日から1944年12月2日にかけて、ソ連により開廷されたマイダネク裁判(独: Majdanek-Prozesse)では、ソ連の検察は犠牲者の数を下方修正し170万人であると主張した[14]。1945年11月20日から1946年10月1日にかけて行われたニュルンベルク裁判において、ソ連・ポーランドは、また下方修正を行い150万人の犠牲者が出たと主張した[15]。 戦後、ポーランド側発表によると、さらに下方修正されて約36万人以上が死亡したと主張した[16][17]、その発表によるとマイダネクの死者で一番多いのは、ポーランド人であり、ユダヤ人ロシア人と続く[1]とされた。 2024年6月現在、マイダネク博物館の公式発表では、さらに下方修正されて、犠牲者数は8万人であり、うちユダヤ人は6万人とされている[注釈 1]

公式発表よりも少ない犠牲者数の説として ヒルバーグ (1997, p. 170) によるとユダヤ人死者数は5万人であったという。 カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)によるとマイダネクの死亡者の総数は4万人としている(そのうちのユダヤ人の割合は不明)[18]ティル・バスティアン(Till Bastian)によると、マイダネクの死亡者の総数は2万人であるとしている[19]

過大な死亡者数が記載された書籍について

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2005年にマイダネク博物館が、公式見解の死亡者の大幅な下方修正を行い、総数を約8万人(そのうちユダヤ人は6万人)とした[注釈 1]が、未だ修正されずに過大な死亡者数が記載されている書籍が存在している。

たとえば、2003年に出版された『ホロコースト大事典』では、36万人以上が死亡、内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるというと記載されている[17]

2008年に書かれた芝健介の『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』[20]でも、マイダネクの死亡者は20万人[21]と記載している。

現在の公式見解は8万人まで下方修正されているので、それらの記述は博物館が発表した数字より過大となってしまっている。但し、それらの過大な死亡者数は、『ホロコースト大事典』の場合は戦後すぐ(1948年)にポーランド当局が発表した数字と同じ(en:Majdanek concentration camp)であり、芝氏の同著では「ポーランドの公式の記録よると」と書かれているので、それらの書籍の記述者自身が誇張していたわけではないが、過大な誇張の記事になっていることには注意が必要である。

著名な囚人

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]]』にした。

収容所の体制について

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 マイダネクは親衛隊経済管理本部 (WVHA) により監督された強制収容所の一つである。したがって他の強制収容所と同様の組織体制の下で運営されていた。1943年夏にはハインリヒ・ヒムラーが視察に訪れている[5]

所長

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歴代所長は以下の通り[22]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c Among an estimated 130,000 prisoners who entered Majdanek, 80,000 people were killed according to the most recent research. Among them, the greatest number of those who died or were murdered were Jews (about 60,000), followed by Poles, Belarusians, Ukrainians and Russians. In order to remove the traces of the crimes, the corpses of those who died and the murdered were burnt on pyres or in the crematorium. GENERAL INFORMATION

出典

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  1. ^ a b リュビー 1998, p. 360.
  2. ^ a b リュビー 1998, p. 350.
  3. ^ a b c ヒルバーグ 1997, p. 159.
  4. ^ リュビー 1998, pp. 351, 352.
  5. ^ a b リュビー 1998, p. 352.
  6. ^ a b c d リュビー 1998, p. 358.
  7. ^ a b ラカー 2003, p. 139.
  8. ^ ベンツ 2012, p. 159.
  9. ^ リュビー 1998, p. 357.
  10. ^ ベーレンバウム 1996, pp. 392, 393.
  11. ^ ベーレンバウム 1996, pp. 393, 394.
  12. ^ AUSCHWITZ: Technique and operation of the gas chambers Jean-Claude Pressac
  13. ^ a b c CAMP Majdanek
  14. ^ Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P296
  15. ^ The Polish-Soviet Extraordinary Commission has ascertained that during the 4 years' existence of the extermination camp at Maidanek the Hitlerite hangmen, following the direct order of their criminal government, exterminated by mass shooting and mass killing in gas chambers approximately 1.5 million persons. Nuremberg Trial Proceedings
  16. ^ ベーレンバウム 1996, p. 264.
  17. ^ a b ラカー 2003, p. 574.
  18. ^ Jürgen Graf. “On the Revision of the Number of Victims at Majdanek”. https://codoh.com/library/document/on-the-revision-of-the-number-of-victims-at/en/ 
  19. ^ ティル 2005, p.34
  20. ^ 芝 2008
  21. ^ 芝 2008, p.195
  22. ^ ヒルバーグ 1997, p. 175.

参考文献

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  • 栗原, 優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策-ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房、1997年3月。ISBN 978-4623027019 
  • ヒルバーグ, ラウル 著、望田幸男原田一美井上茂子 訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 下、柏書房、1997年。ISBN 978-4760115174 
  • ベーレンバウム, マイケル 著、石川順子高橋宏 訳『ホロコースト全史』創元社、1996年8月。ISBN 978-4422300320 
  • ベンツ, ヴォルフガング 著、中村浩平・中村仁 訳『ホロコーストを学びたい人のために』柏書房、2012年3月。ISBN 978-4760140930 
  • ラカー, ウォルター 著、井上茂子芝健介・永岑三千輝・木畑和子・長田浩彰 訳『ホロコースト大事典』柏書房、2003年10月。ISBN 978-4760124138 
  • リュビー, マルセル 著、菅野賢治 訳『ナチ強制・絶滅収容所-18施設の生と死』筑摩書房、1998年3月。ISBN 978-4480857507 
  • ティル・バスティアン『アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘)』白水社、2005年6月。ISBN 978-4560720806 
  • 芝健介『ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』中央公論新社中公新書〉、2008年4月。ISBN 978-4121019431 

外部リンク

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