リチャード1世 (イングランド王)
| リチャード1世 獅子心王 Richard I the Lionheart | |
|---|---|
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フォントヴロー修道院にあるリチャード獅子心王の2つの横臥像のうちの1つ | |
| 戴冠 | 1189年9月3日 |
| 先代 | ヘンリー2世 |
| 次代 | ジョン(欠地王) |
| 先代 |
アリエノール・ダキテーヌ ヘンリー2世 |
| 次代 |
アリエノール・ダキテーヌ ジョン(欠地王) |
| 先代 | ヘンリー2世 |
| 次代 | アルテュール |
| 出生 |
1157年9月8日 ボーモント宮殿 (イングランド王国 オックスフォード) |
| 死亡 |
1199年4月6日 シャリュ (フランス王国 リムーザン) |
| 埋葬 | フォントヴロー修道院 |
| 王室 | プランタジネット家 |
| 父親 | ヘンリー2世 |
| 母親 | アリエノール・ダキテーヌ |
| 配偶者 | ベレンガリア・オブ・ナヴァール |
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子女 フィリップ・オブ・コニャック(庶子) | |
リチャード1世、通称獅子心王(英語:Richard the Lionheart・フランス語;Richard Cœur de Lion、1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、12世紀後半に活躍した第2代プランタジネット朝イングランド王(在位:1189年9月3日 - 1199年4月6日)である。1157年9月8日にオックスフォードのボーモント宮殿で生まれ、1199年4月6日にシャリュ=シャブロル城の包囲戦において戦死した。1189年のイングランド王位継承と同時に、ノルマンディー公、メーヌ伯、およびアンジュー伯を兼任した。王位継承以前の1171年からはポワティエ伯、1172年からはアキテーヌ公でもあった。
リチャードはイングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの息子として生まれ、イングランドとアンジューで育ち、のちにアキテーヌ公国に居住した。彼は1171年にポワティエ伯、1172年にアキテーヌ公に叙任された。父子・兄弟との紛争が絶えなかったものの[1]、1183年に兄の若ヘンリー王が死去すると、彼はイングランド王位の法定推定相続人となっただけでなく、アンジュー、ノルマンディー、およびメーヌの相続人ともなった。1189年に父が死去すると、彼はイングランド王として戴冠し、プランタジネット帝国を構成する領土を継承した。イングランド王としての在位期間は10年に及ぶものの、その間に実際にイングランドに滞在したのは通算して1年にも満たなかった[1]。
彼はフランス王フィリップ2世(尊厳王)とともに第3回十字軍を率い[2]、その過程でキプロス島を征服し、港湾都市アッコの制圧に貢献した。彼はアイユーブ朝の指導者サラディンに対してアルスフの戦いとヤッファの戦いで2度の決定的な勝利を収めたが、エルサレムを奪還することはできなかった[2]。リチャードは帰路の途上、オーストリア公レオポルト5世によって捕らえられ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身柄を引き渡されるが、1年後に巨額の身代金と引き換えに解放された。その後、自身の不在中に占領された領土を奪還するため、かつての十字軍の同志であったフランス王フィリップ2世と戦争を繰り広げることになる。1199年、リチャードはシャリュ=シャブロル城の包囲戦で受けた傷がもとで没した。
同時代において彼は英雄とみなされ、文学作品でもしばしばそのように描かれた。そしてその勇敢な名声から「獅子心王(the Lionheart / Cœur de Lion)」の異名を得た。恐るべき武将であった彼は、一連の城を築かせ、自らその工事を指揮した。詩人でもあり、オック語とオイル語による2つの作品が知られている。彼の生涯は、数多くの伝説的で驚異的な物語にインスピレーションを与えてきた。
生涯
[編集]家族と幼少期
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リチャードは1157年9月8日に生まれた。出生地はイングランドのオックスフォードにあるボーモント宮殿と推定されている[3][4][注釈 1]。彼はオディエルナという名の乳母に預けられた[6]。リチャードはヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの間の三男であり、父の後継者とは考えられていなかった。彼が幼少期にどのような教育を受けていたかは不明である[7]。リチャードは幼少期をイングランドにいた母親のそばで過ごした。1165年5月初旬、ノルマンディーに滞在していたヘンリー2世は、アリエノールとリチャードをルーアンに呼び寄せた。アリエノールはその後、子供たちを連れてアンジェに移り住んだ[8]。1168年、次男が母親の遺産を相続するという慣習に従い[注釈 2][9]、リチャードはヘンリーによって、ポワティエ伯の称号とともに、アリエノールの後を継いでアキテーヌ公となる候補者と目された[10]。これにはアリエノールの意向もあった。リチャードは彼女のお気に入りの息子であったようである[11]。その後5年間にわたり、若きリチャードに統治者としての教育を授けたのはアリエノールであった[6]。1168年以降、少年リチャードはポワティエで育ち[12][13]、宮廷詩歌の雰囲気の中で、乗馬、武器の扱い、探求、そして狩猟に励んだ[14]。リチャードは日常生活で父親の話すフランス語(オイル語)を話し、母親の話すオック語も嗜んでいた。ポワティエの宮廷では両方の言語(ならびにポワトゥー=サントンジュ語)が話されていたためである[15][16]。彼はラテン語も解していたが、英語を学ぶことは決してなかった。当時のイングランド宮廷のエリート層はラテン語とアングロ=ノルマン語で意思疎通を図っていた[17]。
アリーズ・ド・フランスとの婚約
[編集]1169年1月6日(公現祭の日)[18][19]、モンミライユでの会談において、リチャードはフランス王に対してアキテーヌ公としての臣従礼を捧げ、フランス国王ルイ7世の娘であるアリーズ・ド・フランス(アデル・ド・フランス)と婚約した[20][21][22]。ヘンリー2世は、彼女の持参金となる領土、すなわちオマール伯領とウー伯領を手に入れるため、彼女を自身の宮廷へ呼び寄せた。1174年のモンルイ条約により、ヘンリー2世は結婚の約束を更新した。しかし、当時のカンブロ・ノルマン人司祭ウェールズのジェラルドの噂によると、1176年に愛妾のロザモンド・クリフォードが亡くなった直後、ヘンリー2世はベッドの中で彼女の代わりに当時16歳だった若きアリーズ・ド・フランスを迎え、そのために息子リチャードの結婚を遅らせたという[23]。1177年、教皇アレクサンデル3世が介入し、破門の制裁を科すと脅して、合意された結婚を進めるよう彼に要求した。ベリー地方が花嫁の持参金となる予定であった。ヘンリーは1183年12月、次いで1186年の四旬節の時期に再び約束を更新したが、それでもなお約束を果たさなかった。その間にアリーズは男児を出産したとされ、噂ではそれがヘンリー2世の子であると言われていた[24][25]。1189年7月6日にヘンリー2世が没した後、リチャードは1190年2月にアリーズをルーアンに呼び寄せた。しかし1191年、アリーズの代わりに最終的に結婚相手として選んだベレンガリア・オブ・ナヴァールが到着する少し前に、リチャードはシチリアにおいてフランス王フィリップ2世(尊厳王、アリーズの兄)に対し、彼が告訴した不名誉を理由に、その妹を妻として迎えることはできないと告げた。噂話に流されにくい真面目な歴史家であるホーヴデンのロジャーは、リチャードの言葉を次のように伝えている。
アキテーヌ公およびポワティエ伯時代
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1169年以降、アキテーヌで母親のそばに居住していたリチャードの名は、母である公爵夫人の発行する公文書に連名で記載されるようになった。アリエノールは当時、自身の勅許状の半分以上で「私と息子のリチャード」という表現を用いていた[28][29]。1170年6月14日、リチャードの兄である若ヘンリー王は、父親の存命中にイングランド王(共同王)として戴冠した。彼はまだ実際に統治していなかったため、父親と区別するためにこのように呼ばれている。1170年9月、ヘンリー2世は重病に陥り、それまでの規定を承認する「生前贈与による財産分割」を行った。これに基づき、リチャードはアキテーヌを受け取った。1171年、アリエノールとリチャードはアキテーヌを巡回し、その「和解の旅」の中で、ヘンリー2世によって科されていた没収や制裁を無効にした。彼らはリモージュのサン=オーギュスタン修道院の定礎石を据えた。法的成人年齢である14歳に達したリチャードは、1171年5月[30]または1172年6月[9]に、ポワティエのサン=ティレール=ル=グラン教会、次いでその直後にリモージュのサン=テティエンヌ大聖堂で行われた2度の叙任式において、厳かにポワティエ伯に叙任され、アキテーヌ公に就任した[31][32][33]。リチャードはポワティエにおいてボルドー大司教とポワティエ司教の手から公爵の権力の象徴である槍と軍旗を受け取り、次いでリモージュにおいてアキテーヌの守護聖人である聖ヴァレリーの聖なる指輪を受け取った[34]。ジョフロワ・ド・ヴィジョワは彼の年代記に「ヘンリー王は、母親アリエノールの意志により、アキテーヌ公国をリチャードに譲渡した。」と記している。しかしながら、ヘンリー2世はその治世の終わりまでアキテーヌ公の称号を保持し続け、父親の存命中、リチャードはポワティエ伯の称号で呼ばれていた[9]。
1173年-1174年の反乱
[編集]1173年2月、リチャードの弟ジョンとモリエンヌの相続人であるアリックス・ド・サヴォワとの婚約を機に、ヘンリーはジョンにシノン城、ルードゥン城、ミルボー城を割譲したが、これらは若ヘンリー王が自身の固有領土であると考えていたものであったため、長男の不満を招いた[35][36][37]。アリエノールから公国を譲渡されていたリチャードは、叙任を受けていたにもかかわらず、1173年2月25日にリモージュにおいてトゥールーズ伯が、アリエノールが自身の公国に属するとみなしていた土地について、ヘンリー2世、次いで若ヘンリー王に臣従礼を捧げたことで、第3位の立場へと格下げされる格好となった[38][27]。1173年3月8日、若ヘンリー王は父である国王ヘンリー2世に対して反乱を起こし、義父であるフランス国王の宮廷へと逃亡した[39]。彼は弟のリチャードやブルターニュ公ジョフロワ2世、さらにはポワトゥーとアキテーヌの主要な諸侯たちから支持を受けた[40]。すでに父親から領地を与えられていたヘンリー2世の息子たちは、母親アリエノール・ダキテーヌに煽り立てされ、実際に彼に代わって権力を握ることを望んでいた[41]。彼女はリチャードにパリのフランス国王のもとへ合流するよう促し、リチャードはそこでフランス王から騎士に叙任された[42]。
フランドル伯フィリップ・ダルザスの支援を受け、ヘンリー2世の息子たちは1173年6月にノルマンディーへの攻勢を開始した[43]。ヘンリー2世は迅速に対応し、ノルマンディーの要塞を一つずつ奪還していった。1173年11月、アリエノールはフランス宮廷へと逃亡する途中で見破られて逮捕され、夫のもとへと引き渡された。彼女はまず、イングランドでの15年以上に及ぶ幽閉生活の序曲として、シノン城に厳重な監視のもとで拘留された[44]。その後、イングランドのオールド・サラム(ソールズベリー)の王室要塞や他の様々な城で非常に厳重な監視下に置かれた。ジョフロワ・ド・ヴィジョワはその年代記に「王は、妻が再び陰謀を企てるのを恐れ、自身の子供たちの実母である彼女を、イングランドのソールズベリーの塔に幽閉した」と記している[45]。
リチャードはアキテーヌで単独で闘争を続けた[46]。1174年9月8日、ジゾールにおいて両国王の間で休戦が結ばれた。しかしこの時点で、リチャードは兄弟たちとは異なり、いまだポワトゥーで抵抗を続けていた[47][48]。ヘンリー2世はその後、ブラバントの傭兵からなる軍勢を率いてポワトゥーへと進軍した。サントで包囲され、次いでタイユブール城に立てこもったリチャードは降伏を余儀なくされ、1174年9月23日にポワティエにおいて父の許しを乞うた[49][50][51]。彼の2人の兄弟も数日後にこれに倣い、ヘンリー2世とその息子たちの間に再び平和がもたらされた[49]。
アキテーヌの平定
[編集]1174年9月30日、アンジュー領内のモンルイ=シュル=ロワールにおいて、ヘンリー2世と息子たちの間で和平が結ばれた。リチャードはポワトゥーに2つの「適当な領地」と要塞化されていない城を与えられ、伯領の収入の半分を受け取ることとなった[52][53][49]。1175年1月、彼はヘンリー2世の要請により、反乱を起こしたアキテーヌを「平定」するため出発したが、これは彼自身の公国において父親の単なる代理人として行動しているかのようであった[54][55][56]。実際には、ヘンリーはリチャードに公国の軍隊の全権を与え、その統治を委ねていた[57]。しかし、リチャードが「副王」としての役割を果たしていたとしても、彼は父親の命令を実行し、彼に報告書を送らなければならなかった。そのことはホーヴデンのロジャーが証明している[58][59][22]。1175年、リチャードはアジャン、エクス、次いでリモージュを次々と奪還した[60]。反乱軍は敗北し、厳しく処罰された。彼の兄(若ヘンリー王)がトーナメント(騎馬試合)で名を馳せる一方で、リチャードはこれらの戦闘を通じて、「獅子心(Cœur de Lion)」の異名を得た[61]。1176年、若ヘンリーとリチャードは、妹のジョーンをサン=ジル=デュ=ガールまで護衛し、そこで彼女は将来の夫であるシチリア王グリエルモ2世と合流した[62]。1177年の初頭、リチャードはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を安全にするための新たな遠征を開始し、ダクスとバイヨンヌを相次いで占領した。その後、彼はポワティエに戻り、父親から委ねられていたブラバントの傭兵たちを解散させた[63][64]。1177年の末、リチャードは兄弟たちとともに、アンジェにある父ヘンリー2世の宮廷に滞在していた。1179年、反乱を起こした領主であるジョフロワ4世・ド・ランコンとヴルグラン3世・ダングレームを処罰するための新たな軍事行動において、リチャードは難攻不落とみなされていたタイユブール城をわずか3日間で占領した。リチャードはこの際、防衛側に対する最後の突撃において自ら軍勢の先頭に立ち、戦闘への熱意と勇敢さを示した[65][66]。1179年11月、彼はフランス国王フィリップ2世の戴冠式に参列し、アキテーヌ公として彼に臣従礼を捧げた[67]。
1182年から1183年にかけて、リチャードは反乱諸侯たちとの戦いを続け、リモージュ、アングレーム、ヴァンタドゥール、およびテュレンヌの領主たちによって結成され、まもなくペリゴール伯も加わった武装同盟に立ち向かわねばならなかった。リチャードはリムーザンを荒廃させ、反乱を起こした諸侯たちに対して残虐な振る舞いを見せ、いくつかの年代記にそのことが記録されている。ホーヴデンのロジャーは、リチャードのイングランド王位就任後に修正された初版において、「彼は自由民の妻、娘、女性親族を力ずくで連れ去って自身の側室とし、彼女らに対する色欲の炎を消すと、今度は彼女らを高級娼婦のごとく自身の騎士(milites)たちに引き渡したのである。」と書き残している。この残虐行為は、弟の自立性を妬んでいた若ヘンリーにとって、アキテーヌの領主たちの反乱を支援するための格好の口実となった。ヘンリー2世が長男をなだめるため、兄弟たちから彼への臣従礼を取り付けようとしたとき、リチャードは母親から受け継いだアキテーヌが「完全な正当性」をもって自分のものと認められない限り、これを断固として拒否した。若ヘンリーはこれに反対し、対立が再発した。この対立は、敵陣営に分裂の種をまく絶好の機会と捉えて喜んだフランスの新王フィリップ2世によってさらに激化させられた[68]。窮地に陥りアキテーヌで脅かされたリチャードは、やがて父親に助けを求めざるを得なくなった。父親もまた自身の身に危険が及ぶのを恐れる理由があった。しかし若ヘンリーは、義兄のフィリップ2世から派遣された傭兵たちがいたにもかかわらず、間もなく資金難に陥った。1183年6月、父親とリチャードの軍勢に追い詰められた若ヘンリーは重病に倒れた[69]。
プランタジネット帝国の相続人
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1183年6月11日、マルテルで若ヘンリー王が亡くなったことにより、反乱は終結した。リチャードは指名相続人となったが、いかなる権力も持たない推定相続人の役割を引き受けることには消極的であり、かつ「自身の」アキテーヌを放棄することはまったく考えていなかった。しかしながら、ジョンを有利にするためにリチャードをそこから排除することが、まさにヘンリー2世の計画であった[70]。ヘンリーは1183年9月29日、ノルマンディーに2人の息子を召集した。リチャードはこの再編を拒否し、母親の遺産を守る覚悟でポワトゥーに戻った。彼の兄弟であるジョフロワとジョンは彼に対抗して同盟を結び、ポワトゥーを荒廃させ始めた。リチャードは1184年以降、忠実な傭兵隊長であるメルカディエを雇った[71][72]。
1184年、息子たちの間で対立が再燃した。ヘンリーは1184年秋に彼らをイングランドに召集し、クリスマス前に彼らを和解させた。夫の要請でウェスタイルにいたアリエノールは、彼らの和解とその結果として生じた和平合意において明白な役割を果たした。クリスマス直後にリチャードがすぐさま兄弟のジョフロワに対して再び武器をとったため、和平はほとんど持続しなかった。ヘンリーはその後、アリエノールをノルマンディーに呼び寄せ、彼女を(見かけ上)その領国に復帰させ、リチャードに対してアキテーヌを母親に引き渡すよう要求した。ホーヴデンのロジャーはこの出来事を次のように伝えている。
- 「…彼(王)は、ポワトゥーの全域とその従属地が母親の遺産であったため、遅滞なく母親のアリエノール王妃に返還するよう息子リチャードに命じた…父親のメッセージを知ったリチャードは、友人たちの賢明な助言に同意した。彼は武器を置き、きわめて従順に父親のもとへと戻ったのである…」[73][74]
複数の特許状がこの合意を批准したが、やはり長くは持続しなかった。おそらくフランス国王にそそのかされたジョフロワは、アンジューの一部を要求し続けた。これが認められれば、彼はリチャードとほぼ対等の立場になるはずであった。ジョフロワは1186年8月、トーナメント(騎馬試合)で受けた傷がもとで急死した。
1187年5月、フランス国王との間で再び小競り合いが始まった[75]。しかし、父親とフランス国王との間の調停者を務めたリチャードは、2年間の休戦を取り付けることに成功し、同時にフィリップ王の好意をも勝ち得た。彼はその直後、フランス宮廷に赴き、そこでフランス国王との間に情愛の絆を築いた。新たな政治的同盟の証しでもあるこの接近は、老王を不安に陥れた。年代記作者たちは「彼らは同じ食卓で食事をし、夜でさえ彼らを分かつことはなかった」と伝えている。フィリップはリチャードに、彼の父親がアリーズをジョンと結婚させ、弟を有利にするために彼を排除することを計画していると告げた[76][77]。リチャードはあらかじめ父親の財宝を奪い、ポワトゥーにある自身の城を要塞化した上で、最終的に父親に臣従礼を捧げた[76]。

フィリップ王は、リチャードがその領地を併合しようとしていたトゥールーズ伯レーモン6世を支援した[78]。1188年7月、フィリップ王は再びヘンリーと対峙したが、今回はリチャードの軍事支援を受けていた。リチャードは実の父親に対する敵対行為を再開し、ロワール川流域の戦いで勝利を収めた。ジョンもこの陰謀に加担していた[79]。1188年8月30日、この時は父親の側に就いていたリチャードは、騎士ギヨーム2世・デ・バールを捕らえた[80]。
1188年11月18日、ノルマンディーのボンムーランにおいて、イングランド王とフランス王の間で会談が設定された。リチャードは父親に対し、自身を明確に後継者として指名すること、そしてついにアリーズを自身に引き渡すことを要求した。ヘンリーの曖昧な態度の前で、リチャードは見せつけるように父親に背を向け、大陸の全領土についてフィリップ王に臣従(リジ・オマージュ)を宣誓した。これは実の父親に対する宣戦布告に等しかった[81][82]。リチャードはその後、フィリップとともにパリでクリスマスの祝祭を過ごした。リチャードが父親に対立したのは、彼が結婚するはずであった王女アリーズとベッドを共にしたことを非難していたためであった。ヘンリーは外交問題に発展するのを避けるため、自身の素行の過ちを認めようとしなかった。聖地へと赴く決意を固めていたリチャードは、父親に対し、弟のジョンも自身とともに同行させるよう要求した。リチャードは、自分が不在の隙にヘンリーが次男を自身の代わりに戴冠させるのではないかと恐れていたためである[83]。
戦争は1189年春に再開され、両国王の間で、今回はコロンビエにおいて新たな会談が設定された。何の合意も得られないまま、1189年7月4日、完全に敗北したヘンリー2世はアゼ=ル=リドー条約においてリチャードを自身の唯一の後継者として認めることを余儀なくされた。シノンへと運ばれた老王ヘンリーは、すべての人に見捨てられ、2日後の7月6日に崩御した[84][79]。
イングランド王位への就任
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フォントヴローで父親の葬儀に参列した後、リチャードはノルマンディーへと向かい、1189年7月20日にルーアン大司教のクータンスのゴーティエから公爵の剣を帯びさせられた。7月22日、彼はフィリップ尊厳王と会見したが、フランス王からノルマン・ヴェクサンとジゾール城の引き渡しを要求されるも、これを拒絶した[85][86]。リチャードはその直後、弟のジョンとともにバルフルールからイングランドへと船出し、ポーツマスに上陸した。彼は、あらかじめウィリアム・マーシャルによって解放されていた母親のアリエノール・ダキテーヌと再会した。マーシャルは老王(ヘンリー2世)に忠実であった人物で、このときリチャードに仕え始めたばかりであった[87][88]。そして、戴冠式が行われる予定のウェストミンスターへと向かった。年代記作者であるピーターバラのベネディクトによると、「王国全体が公爵の到来を喜んだ」という[89]。リチャードは1189年9月3日、ウェストミンスター寺院において、カンタベリー大司教ボールドウィンの手により塗油され、イングランド王として戴冠した。国王が最初にとった措置は、聖地への遠征の準備であった[90][91][92][93][22]。
戴冠式の当日、ロンドンの街は激しい反ユダヤ暴動の舞台となった。リチャードが自身を祝して催された宴会に出席している間、国王への贈り物を携えてやって来たユダヤ人の使節団が、群衆あるいは衛兵によって暴力的に追い返された。すると、国王がユダヤ人の抹殺を命じたという噂がロンドンの下層民の間に広まった。群衆はただちにユダヤ人の民家に押し寄せて略奪を働き、あるいはそこに火を放った。リチャードは虐殺を止めるため、自身の高位司法官であるグランヴィルのラヌルフを派遣したが、ラヌルフは暴徒化した群衆を静めることができなかった。この暴動により、殺害されたり焼死したりした犠牲者は約30人に達した[94]。1189年から1190年の冬にかけて、イングランド全土でさらなる虐殺が発生し、とりわけ最も繁栄しているユダヤ人コミュニティの一つがあったヨークで顕著であった。暴徒がヨーク城に対して行った襲撃の後、約150人のユダヤ人が命を落とした。暴徒を処罰するためにリチャードが講じた措置は、公権力の大部分が襲撃者側に就いていたため、ほとんど効果がなかった。その上、ポグロム(虐殺)に参加した貴族たちはすでに十字軍の誓いを立てていたため、教会の保護下に置かれていた。マシュー・パリスの伝えるところによると、実際に3人の暴徒が絞首刑に処されたものの、それはキリスト教徒に属する財産を攻撃したためであったという[95][96]。
ベレンガリアとの婚約
[編集]1189年の末、いまだ適法な子嗣(嫡子)のいなかったリチャードは、自身の婚礼を整えねばならなかった。すでに1185年の時点で、彼は父親の宮廷で出会ったナヴァラ国王サンチョ6世の娘ベレンガリア・オブ・ナヴァールとの結婚を検討していた。トルヴェール(吟遊詩人)であるアンブロワーズは、リチャードのベレンガリアへの傾倒について、「王はポワティエ伯であった頃から彼女を深く愛していた。彼の欲望は彼女を切望していたのだ!」と言及している。この同盟の戦略的利点は明白であった。なぜなら、それはリチャードに対し、しばしば反乱を起こしていたトゥールーズ伯、ベアルン副伯、およびガスコーニュの諸侯たちに対抗するための支援をもたらし得たからである[97]。
リチャードは1190年2月初旬、次いで1190年6月に、結婚の条件について話し合うため、ガスコーニュの貴族や将来の義父と会うべく、ラ・レオルおよびナヴァラとの国境へと赴いた[98][99]。アリエノールは、1190年3月にノルマンディーのノナンクールで開かれた家族会議において言及されたこの婚姻を承認するほかなかった[100]。アリーズとの21年間に及ぶ婚約の破棄が確定した[101][102][103][104]。
第3回十字軍
[編集]準備
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王位に就いた直後、リチャードは自身の不在中の摂政に母親のアリエノールを指名し、彼女に莫大な資金を与えた。イングランドで彼女とともに統治させるため、彼は一種の「摂政評議会」を彼女に組織させた。そこにはダラム司教ヒュー・ド・ピュイゼ、そして何よりも、ウィリアム・ド・マンデヴィルの死後は、国王の大法官であり王国の最高法官(Chief Justiciar)でもあったエリー司教ウィリアム・ド・ロンシャンが加わった[105][106][91][107]。十字軍のための資金を調達するため、彼は官職の大規模な売却でそれを賄った。年代記作者ピーターバラのベネディクトは、「権力、支配権、伯領、子爵領、城、都市、戦利品、その他これらに類するすべてのものが彼にとっては売り物であった」と苦々しく記している[108]。これらの売却益により、リチャードは莫大な金銭の財宝を獲得した。彼はまた税金を増やすとともに、父親の財産の大部分を使い果たした。彼はできる限り多くの資金を集めて借入を行い、例えばスコットランド王ウィリアム1世(獅子王)を1万スターリング・マルクと引き換えに臣従礼から解放し[109]、多くの公職や土地に対するその他の権利を売却した。さらに、彼が長期間イングランドを離れることができたのは、立法と司法に関する父親の重要な改革のおかげであった。
不信感を抱いていたジョンの忠誠を確実にするため、リチャードは彼にモルタン伯領のほか、ランカシャー、コーンウォール、デヴォン、ドーセット、サマセットの土地を与えた[110]。彼はまた、1189年8月20日にジョンが裕福なイザベル・オブ・グロスターと結婚することを許可した[111][112]。しかしながら、リチャードはジョンが過大な権力を獲得するのを防ぐため、これらの伯領にある主要な城の管理権を保持し続けた。なぜなら、この時期にすでに彼は甥アルテュールを王位継承者に指名することを検討していたためである[113]。1190年、ジョンは続く3年間イングランドに立ち入らない旨の約束を強いられた。しかし、この措置はのちにアリエノールの要請によって取り消されることとなる[114][115][116]。リチャードはさらに、アリエノールの同意を得て、もう一人の甥であるブラウンシュヴァイクのオットー4世をポワトゥー伯領とアキテーヌ公国の相続人に指名した[117][118]。
リチャードは、自分が不在の間にフィリップ尊厳王が自身の領土を強奪することを恐れていた。フランス国王もまた、イングランドのライバルに対して同様の懸念を抱いていたため、両国王はともにパレスチナへと出発することにした[119]。彼らは十字軍に赴いている間、お互いの領土を保護し合うことを約束した[120]。リチャードはドーバーに向かい、1189年12月にフランスに上陸した。彼はカレーにおいてフランドル伯フィリップ・ダルザスに迎えられ、その少し後に、義弟であるシチリア王グリエルモ2世が後継者を残さずに死去したことを知った。リチャードは遠征の詳細を決定するため、サン=レミ=シュル=アヴルの渡し場でフランス国王と再会した。彼らは相互の同盟を誓い合い、それぞれの封臣とともに、巡礼の期間中は敵対行為を行わないことを約束した[121]。十字軍は1190年7月4日、ヴェズレーにおける厳かな儀式の後に出陣した[122]。
1190年8月7日、リチャードはマルセイユから第3回十字軍に向けて船出した。彼の艦隊は、メーヌ伯領における封臣であり、のちにテンプル騎士団グランドマスターとなるロベール4世・ド・サブレに委ねられた[123]。しかしながら、国王不在のイングランドでは、ウィリアム・ロンシャンとリチャードの兄弟(ジョン欠地王およびヨーク大司教ジェフリー)との関係は困難なものであった[124][125]。
1190年の夏、フィリップ尊厳王がメッシーナに直行して9月14日に上陸したのに対し、リチャードは船でイタリア沿岸を進んでシチリアへと向かった。彼はニース、サヴォーナ、ジェノヴァ、ピサ、オスティア、次いでサレルノに立ち寄った[126][127]。ミレートにおいて、彼はわずか1人の騎士を伴っているときに、村人が所有していた猛禽類を奪った。彼はただちに村の全住民から襲撃を受け、彼らから逃れるために剣を振りかざした[128]。彼は最終的に、9月3日に鳴り物入りでメッシーナに到着した[127]。彼の華々しい到着は、フィリップ王のより控えめな上陸とは対照的なものであった[127]。
シチリア
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逆風により両国王は聖地へ赴くことができず、リチャードとフィリップはシチリアで冬を越すことを余儀なくされた[129]。シチリア王国は、国王グリエルモ2世が直系の後継者を残さずに死去して以来、深刻な王位継承危機に直面していた[127]。ホーエンシュタウフェン家に敵対的な教皇クレメンス3世は、指名相続人であったコンスタンツァ(神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の妻)を犠牲にして、先王の従弟であるタンクレーディを支持した[127]。1190年1月にシチリア王として戴冠したタンクレーディは、ドイツ人の君主に統治されることを拒むシチリアおよびプッリャ州の諸侯たちの大部分から支持されていた[130]。
即位に際してタンクレーディは、グリエルモの未亡人でありリチャードの妹でもあるジョーン王妃を幽閉し、彼女がシチリア王から相続した財産を没収していた。到着するやいなや、リチャードは妹の解放と彼女の寡婦産の引き渡しを要求した[127]。その間、2つの外国軍が駐留していることは、兵士たちの振る舞いに憤慨していたメッシーナの住民の間に混乱を引き起こした[131]。ギリシャ人、ムスリム、そしてロンバルド人は、シチリアにおいてまるで占領地であるかのように振る舞う十字軍の態度に苛立っていた[132]。
1190年10月2日、リチャードはタンクレーディに圧力をかけるためにメッシーナの聖サウヴェール修道院を占領した。その直後、イングランド兵とメッシーナ住民の間で乱闘が勃発した。街の住民によるアキテーヌ軍の野営地への襲撃に対する報復として、リチャードは1190年10月4日にメッシーナを急襲した[133]。彼は街を見下ろす高台に城を建設するよう命じ、これを「マテ=グリフォン(ギリシャ人を制圧するもの)」と名付けた。その後、街はテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団に委ねられた。タンクレーディとの間で速やかに合意が成立し、1190年11月11日に平和条約が批准された。この条約により、ジョーン王妃は寡婦産の補償として2万オンスの金を受け取り、リチャードも同額の金を受け取った。また、彼の3歳になる甥アルテュールとタンクレーディの娘との結婚が計画され、リチャードが子嗣なくして死去した場合にはブルターニュのアルテュールがリチャードの相続人となるよう指定された[134][135]。この条約はイングランドと神聖ローマ帝国との関係を揺るがし、甥の代わりにリチャードの跡を継ぐことを望んでいたジョンの反乱を引き起こした。
1191年3月、リチャードとフィリップは新たな同盟条約を結び、銀1万マルクの支払いとジゾールの引き渡しを条件に、リチャードがアリーズの代わりにベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚することを認めた。リチャードはまた、ブルターニュのアルモリカ地方の領主としての臣従礼を捧げねばならなかった[136][137]。メッシーナではもう一つの婚姻も回避された。1年前に妻を亡くしていたフィリップ尊厳王は、ジョーンに対して並々ならぬ関心を示したとされている。ホーヴデンのロジャーは、「フランス国王は当時非常に嬉しそうな顔をしていたため、人々は彼が彼女と結婚するのだろうと噂していた」と記録している。この婚姻に断固反対であったリチャードは、フィリップが出発するまで、ただちに妹を修道院へと送り込んだ[25][138]。
1191年3月30日、レッジョで母親と婚約者を迎えたリチャードを伴い、アリエノールとベレンガリアがメッシーナに上陸した。アリエノールは4月2日に出発し、婚礼の日までベレンガリアをジョーンの監視下に委ねた。メッシーナにおいて、リチャードとアリエノールは、イングランドの統治に関する非常に危機的な状況とそれを揺るがす危機について話し合った。リチャードは異母弟ジェフリーを利用するつもりであり、ヒュー・ド・ピュイゼとウィリアム・ロンシャンの対抗勢力やジョンの画策を阻止するため、ジェフリーをヨーク大司教に叙任することを要求した[139][140]。シチリア滞在中、リチャードは修道士フィオーレのヨアキムをも訪問した。ヨアキムは聖地における異教徒の敗退を予言した[141][22]。
キプロスの征服
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200隻の艦船と1万7,000人の兵士からなるリチャードの軍勢は、1191年4月10日に船出した[22]。リチャードは嵐を避けるためにビザンツ帝国領のロードス島に立ち寄った。彼は5月に島を離れたが、新たな嵐によって彼の艦隊はキプロスへと流され、そこで3隻の艦船が座礁した。キプロスの統治者イサキオス・ドゥーカス・コムネノスの敵対的な態度を受け、1191年5月6日、リチャードの艦隊はリマソールの港に上陸し、これを急襲した[22][142]。5月12日、リチャードはリマソールにおいてベレンガリアとの婚礼を執り行い、彼女はブロワ司教の手によってイングランド王妃として戴冠した[143][22]。リチャードの妹であるジョーンもシチリアから彼に同行しており、この儀式に参列した。この婚姻によって後継者が生まれることはなく、夫妻の仲については意見が分かれている。ベレンガリアは1194年にソールズベリーで行われた王冠披露の儀式を欠席することとなる[144][145]。事実、彼女は夫の治世中にイングランドの地に足を踏み入れることは一度もなかった[146]。
イサキオスとの交渉が無駄骨に終わるや否や、リチャードは島の征服に着手した。彼は、ギー・ド・リュジニャンが率いるサン=ジャン=ダコ(アッコ)からの部隊の補強を受けた[22]。島にいたわずかなラテン系住民に加え、イサキオスによる7年間に及ぶ圧政に反発していたギリシャ系住民もリチャードに合流した[147]。イサキオスはリマソールの西にあるコロッシで敗北したのち、イサキオスは首都ニコシアへ続く道中にあるトレミトゥシアで防衛線を再編したが、1191年5月21日にそこで決定的な戦闘が繰り広げられた。ニコシアは占領されたが、イサキオスは抵抗を続けた[147]。ギー・ド・リュジニャンが指揮する軍勢がセリヌ(キレニア)の港を占領し、イサキオスの妻と娘を捕らえた[147]。イサキオスは降伏してリチャードに身を委ね、これによりリチャードがキプロスの新たな統治者となった[147]。この時リチャードが得られた戦利品は莫大であった。リチャードはラテン系の守備隊を配置し、ギリシャ系住民に対しては伝統的な慣習を維持することと引き換えに重い貢納金を課した[147]。
アッコへ出発する前に、リチャードはキプロス島を自身の部下であるリチャード・ド・キャンヴィルとロべール・ド・ターンハムに委ねた[148]。島は十字軍のための補給基地となった。6月8日、皇帝に忠実なキプロス人の一派が反乱を起こしたが、この動きはロベールによって鎮圧された[149]。数週間後、リチャードは島を自身の友人であり、テンプル騎士団総長であったロベール4世・ド・サブレに10万ドゥカートで売却することを決定した。テンプル騎士団はギー・ド・リュジニャンに島を転売するまでの数年間、そこに東洋における最初の拠点を置いた[150]。
キプロスの迅速な征服は、リチャードの確かな戦略的能力を証明し、同時代の人々の間での彼の威信を高めた。この征服はまた、十字軍国家に極めて重要な影響を及ぼした[151]。まず、資源の豊かなこの島は、聖地のための確実な補給拠点となり、イタリア諸都市の艦隊にとって安全な寄港地となった[152]。反面、この島はヨーロッパからの入植者やシリアの諸侯たちを惹きつけることで、十字軍国家の衰退を間接的に早める要因にもなったのである[注釈 3]。
聖地の再征服
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リチャードは、フィリップ尊厳王の到着から約2ヶ月後の1191年6月8日、サン=ジャン=ダコ(アッコ)に上陸した[142]。この都市は、2年前から十字軍によって包囲されており、その十字軍自身もサラディンの軍勢に包囲されていたため、限界を迎えつつあった。卓越した戦士であり戦術家でもあったリチャード王の到来は、十字軍の士気を大いに高めた[154]。7月初旬にフランス軍とイングランド軍が繰り返した猛攻を受けて、市内の住民は速やかに降伏交渉を開始した。都市は7月12日に開城した。住民は戦争捕虜とみなされたが、キリスト教徒の捕虜の返還、20万ディナール金貨の身代金の支払い、および聖十字架の引き渡しと引き換えに解放されるという選択肢も残された。その翌日、十字軍はアッコへと入城した[155]。
ギー・ド・リュジニャンとモンフェッラート侯コッラードの間で争われていたエルサレム王位継承論争において、リチャードはポワトゥーにおける自身の封臣であるギーの側に就いた。十字軍に参加していた両王は、ギーが死ぬまでエルサレムの王冠を保持し、その没後はコッラードとエルサレム女王イザベル1世の子孫に王位を委ねるという合意に達した[156][157]。7月31日、フランス国王はコッラードを伴ってティルスに赴いたのち、ブリンディジに向けて船出し、聖地にはブルゴーニュ公ユーグが率いる部隊を残した[158]。リチャードはこれ以降、フランス・イングランド連合軍の総指揮を執ることとなった。8月20日、アッコの降伏条件を履行するにあたってサラディン側に遅延が生じたため、また戦略的な理由や、サラディンによるキリスト教徒捕虜の殺害に対抗するため、リチャードは2,700人のムスリムの捕虜を、その妻子ともども処刑させた[159][160][注釈 4]。この大量処刑ののち、キリスト教徒とムスリムの間の衝突は過激化し、アラブ人の年代記作者であるバハー・アッディーンが「人々はいっそう熱を上げてお互いを虐殺し合うようになった」と強調する事態となった[162]。リチャードはその後、パレスチナ沿岸部の征服に乗り出した[163]。

エルサレムへ向かう前に、リチャードの軍勢は聖地に最も近い港湾都市であるヤッファを目標に定めた。騎士、歩兵、および軽装の荷物は沿岸の道路を進み、一方で攻城兵器や重装の荷物は海路で輸送されてヤッファで陸揚げされることとなった[160]。右側面はサラディンの軍勢による襲撃を受けつつも、左側面は十字軍の艦隊によって防衛されながら、リチャードは軍勢を率いて沿岸部を南下した[164]。いくつかの小競り合いはあったものの、十字軍の軍勢は統制を保ったまま、アルスフの近郊まで前進した[165]。サラディンはこの頃、自身の好む騎馬弓兵の展開に適した、この見通しの良い広大な土地で十字軍を迎え撃つ策を立てた。トルコマンの援軍の支援を受け、サラディンは1191年9月7日に、十字軍を海に背を向けさせた状態で包囲するという極めて有利な戦略的陣形を整え、十字軍に決戦を仕掛けた。リチャードは冷静さを失わず、敵軍を完全に殲滅するために巧みな包囲機動作戦を試みた[166]。しかし、1人の聖ヨハネ騎士団員と1人のイングランド人騎士が名誉を求めて突撃を敢行し、これに数名の他の騎士たちが引きずられて追随してしまった。リチャードは、部隊の瓦解という命取りになりかねない事態を回避するため、全騎兵隊を率いて突撃せざるを得なくなった[166]。激戦の末、十字軍は勝利を収めた。しかしながら、この勝利は完全なものではなかった。リチャードが決定的な勝利をもたらすはずであった包囲機動を完遂できなかったため、敵軍を散開させて退けたにすぎなかった。それでも、アッコ奪還に次いでこの勝利は十字軍の士気を高め、サラディンの配下における彼の威信を失墜させた[167]。

サラディンはエルサレムへ続く道中にあるラムラへの退却を余儀なくされ、そこから十字軍の次なる動向を注視した[167]。リチャードはヤッファまで進軍を続けたが、都市の防御施設を再建し、兵士たちを休息させるために2ヶ月の間その地に留まった[167][168]。サラディンの軍勢は依然として十字軍にとって脅威であり、リチャードはそれ以上深く進軍することを拒んだ[169]。サラディンはこの隙を利用してエルサレムの防備を強化し、アスカロンの街を破壊した[169]。そしてサラディンは、十字軍が内地に足がかりを得て定着するのを完全に阻止するため、彼らに対して焦土作戦を展開した[168]。それにもかかわらず、リチャードはエルサレム奪還の可能性に自信を持ち続けていた。1191年10月1日付の書簡で彼は「神の助けにより、クリスマスの20日後[すなわち1192年1月中旬]には、我々はエルサレムと主の聖墳墓教会を奪還し、そののち故郷への帰還を望んでいる」と書き記している[170]。
リチャードとサラディンは休戦に向けた交渉を開始した[171]。リチャード王は当初、エルサレムとヨルダン川以西の全領土の返還、および真十字架の引き渡しを要求した[171]。拒絶を食らったリチャードは、自身の妹ジョーンとサラディンの弟アル=アーディルとの婚姻、ならびに最近征服した沿岸諸都市の返還を提案した[171][172]。11月8日、リチャードはリッダにおいてアル=アーディルが催した宴会に出席した[171]。並行して、シドン伯ルノー・グルニエの仲介によって、サラディンとモンフェッラート侯コッラードの間でも交渉が進められていた[171][172]。この時期、両軍の間の戦闘は散発的であったが、リチャードは鷹狩りに興じている最中に伏兵の奇襲に遭い、辛うじて難を逃れる一幕もあった[173]。

1191年11月22日、リチャードの軍勢はラムラに到達したが、そこはあらかじめサラディンによって破壊され、住民が避難させられたあとであった[174][175]。リチャードはラトルンでクリスマスを過ごしたのち、エルサレムから約20キロメートルの距離にあるベテノブルの城塞へと進んだ[175]。しかしながら、現地のシリアの諸侯たちやテンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団の総長たちは、聖地への突撃を行わないよう彼に勧告した[175]。季節が悪かった上に、彼らはヨーロッパから来たすべての十字軍戦士が撤退したあとに自分たちだけでエルサレムを維持することは不可能だと理解していたためである[注釈 5]。
「彼らはこう言っていた。たとえ都市が占領されたとしても、そこに定住する人々がただちに配置されない限り、それは極めて危険な企てとなるだろう。なぜなら、すべての十字軍士たちは巡礼を終えるやいなや、それぞれの故郷へと帰国してしまい、一度彼らが散開してしまえば、この地は再び失われてしまうからである」[178]—アンブロワーズ『聖戦の歴史』より

1192年1月20日、リチャードと軍勢の残党はアスカロンに引き返し、そこに約4ヶ月間滞在してその要塞施設の再建に当たった[179][180]。コッラードは彼への援助を拒否し、一方でフランス軍の部隊はアッコへと退却した[179]。財政的な困難に直面し、かつ軍勢が弱体化していたリチャードは、サラディンとの間で新たな和平交渉に乗り出した[181]。ギー・ド・リュジニャンとモンフェッラート侯コッラードの間の確執に決定的な終止符を打つため、彼はアスカロンに諸侯たちを集めて会議を招集し、彼らに指導者を選出するよう促した。全員がモンフェッラート侯を指名し、彼を国王に据えるようリチャードに懇願した[182]。そこでリチャードは、コッラードにエルサレム王国の統治を委ねるため、自身の甥であるシャンパーニュ伯アンリ2世を使節としてティルスに派遣した[183]。戴冠式の準備を進めていた最中の1192年4月28日、コッラードは2人のイスマイル派の暗殺者によって突如暗殺された[183]。エルサレムに国王がいない状態を避けるべく、彼の未亡人となったイザベルは数日後の1192年5月5日、シャンパーニュ伯アンリと再婚した[184][185]。
1192年5月22日、リチャードはダロンの城塞を占領した[184]。その直後、彼はシャンパーニュ伯アンリ率いるフランス軍の補強を受け、彼らから再びエルサレムを攻撃するよう促された[186]。リチャードはまさにその時、イングランドから凶報を受け取った。ジョンがイングランドの諸侯たちの支持を受け、さらにフィリップ尊厳王の助けを得た上で、イングランド王国を強奪しようと陰謀を企てているという内容であった。リチャードは側近たちに、パレスチナを離れる意向を伝えた[187]。彼はこの二度目のエルサレム遠征という新たな軍事行動に、ただ気が進まないまま参加したにすぎなかった[186]。ベテノブルに1ヶ月間滞在し、十字軍とムスリムの間で数回の小競り合いがあったのち、リチャードは攻略を断念して撤退を命じた[188]。
1192年7月26日、リチャードはアッコに滞在し、ベイルート方面へ向けた新たな作戦の準備を整えていた[189]。より南方では、サラディンがこの隙を利用してヤッファに奇襲を仕掛けた。5日間に及ぶ包囲と砲撃ののち、都市は陥落し、十字軍は城塞への後退を余儀なくされた。この事態を知らせるため、1隻の小舟がアッコへと派遣された。8月1日、城塞がまさに陥落せんとしていたその時、リチャードが小規模な軍勢とともに、ピサ共和国やジェノヴァ共和国の艦船の支援を受けて上陸した。ムスリムの部隊は撃退され、サラディンの軍勢はヤズールまで敗走した[190]。8月4日と5日、ムスリムによる反撃は再び粉砕され、サラディンはエルサレムへの退却を余儀なくされた[191]。その後、両者の間で和平交渉が開始され、1ヶ月間にわたって続けられた。1192年9月2日、リチャードはサラディンとの間で「3年3ヶ月3日3時間」の休戦を定めるヤッファ条約に調印した。これにより、キリスト教徒の巡礼者(現在の十字軍兵士も非武装の巡礼者として含む)が、税金や権利金の支払いを強いられることも、嫌がらせを受けることもなく聖地を訪問することが認められた[192]。リチャードはまた、キリスト教徒の捕虜、とりわけギヨーム・ド・プレオーを解放させた。しかしながら、彼は「敵の手から都市を奪取することができなかった」という理由から、エルサレムへ赴くこと自体は拒絶した[193]。リチャードは最終的に1192年10月9日、海路でイングランドへ帰還すべく、アッコを発った[194][195]。
オーストリアでの捕縛
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アッコを出発したリチャード一団は悪天候のため、ビザンツ帝国の領有下にあったコルフ島への寄港を余儀なくされた[195]。捕縛を避けるために彼は商人に変装し、海賊船に乗り込んでザラの近郊で下船した[196]。リチャードは義兄であるハインリヒ獅子公の領地に向けて進み、カリンティアとオーストリアを抜ける陸路で旅を続けた[195]。1192年12月21日、彼はウィーンの居酒屋に立ち寄ったところを見破られ、逮捕された[197]。彼はアッコで屈辱を与えて以来の敵であったオーストリア公レオポルト5世の前に引き出された[198]。公爵は武装した騎士たちに昼夜を問わず彼を厳重に監視させたが、彼が鉄鎖に繋がれることはなかった[199]。デュルンシュタイン城に3ヶ月間滞留したのち、リチャードは銀7万5,000マルクの代金と引き換えに神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世へと引き渡された[200]。彼はその後、トリフェルズ城に監禁された[201]。

1193年3月、リチャードは裁判にかけるため、シュパイヤーで開催されていた帝国議会の前に連行された[22]。彼は、モンフェッラート侯コッラードを暗殺させた容疑、および聖地に対する裏切りの容疑で再び告発された。リチャードはこれらの「中傷に対し、激しさと巧みさをもって見事に自らの無実を証明した」という[202][22]。皇帝はリチャードの身代金をケルン重量で銀15万マルク、すなわち銀34トン分に設定した[203]。彼の監禁条件は厳格なものではなかったが、自由に旅をすることができないことで彼は不満を募らせた。この幽閉生活から、13世紀の『ランスの吟遊詩人の物語(Récits d'un ménestrel de Reims)』に語られるブロンデル・ド・ネールの伝説が生まれた[204][205][206]。教会が十字軍兵士に与えていた教会法による保護を理由に、教皇ケレスティヌス3世はレオポルト5世を破門し、皇帝に対しては聖務停止処分に処すと脅した。同様に、フィリップ尊厳王もイングランド王の領土に侵攻した場合は聖務停止処分に処すと警告された[207][208]。それにもかかわらず、フィリップ王は1193年4月にジゾール城を奪取した[209]。
アリエノール・ダキテーヌは、銀10万マルクの支払いと数名の人質の引き換えにより、1194年2月4日にリチャードを解放させることに成功した。さらにリチャードは皇帝の封臣となることを余余儀なくされ、年間5,000ポンドの貢納金を支払う義務を負った[210]。リチャードとアリエノールはその後、ケルン、次いでアントウェルペンへと向かった。リチャードの解放を知ったフィリップ尊厳王はジョンに「警戒せよ、悪魔が解き放たれた」という書簡を送ったとされる[211]。
フィリップ尊厳王との戦争
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1194年3月10日[212]または13日[146]、リチャードはアリエノールを伴ってサンドウィッチの港に上陸し、イングランドの地を踏んだ。現地では熱烈な歓迎を受けた[213]。1194年4月17日の日曜日、リチャードはウィンチェスター大聖堂において、再び戴冠式、より正確には厳かな王冠披露の儀式を執り行った[214]。リチャードがその功績を称え、感謝を捧げようとしたアリエノールは、聖歌隊席に立ち、リチャードと対面した。大陸にとどまっていたとみられるベレンガリアについては、年代記作者たちによる言及はない[145][215][214][146]。国王の不在中、ジョンは兄の領土を強奪するためにフランス王と結託していた。リチャードはただちに、弟からノッティンガム城とティックヒル城の城塞を没収した[216]。弟がフィリップ尊厳王に割譲した領土を奪還することを取り決めたリチャードは、アリエノールとともにポーツマスを出、1194年5月12日にノルマンディーへと針路を向けた[214]。彼は王国の統治をカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターに委ね[22]、これ以降イングランドの地へ戻ることは二度となかった[215][22]。
リチャードはバルフルールに上陸し、そこでノルマン人から熱狂的な歓迎を受けたのち、リジューへと向かった[217]。そこで彼は、自身の許しを乞う弟のジョンから帰順の意を受け入れ、「ジョン、恐れることはない。お前は子供なのだ。悪い奴らに見張られていたのだ。お前に耳打ちした者たちには、代償を払わせる」と述べたという[218]。リチャードはその後、フィリップ尊厳王によって包囲されていたヴェルヌイユ=シュル=アヴルへと進軍した。リチャードはヴェルヌイユからほど近いレーグルに陣を敷いた。リチャードに対抗できないと察したフランス王は、聖霊降臨祭の祝祭を利用して5月29日に包囲を解き、自身の陣営の大部分と補給物資を放棄して敗走した。リチャードは5月30日、意気揚々とヴェルヌイユへ入城した[219]。これ以降、リチャードは1月にフィリップとジョンの間で署名された条約の対象となった城塞の管理権を奪還すること、あるいはその奪取を阻止することを目指した。すべての城代がその条約の条項を受け入れていたわけではなかったためである。彼はアンジューへと南下した。
フィリップ尊厳王は、5月28日にヴェルヌイユの包囲を放棄したのち、エヴルーへと向かい、そこからジョンを追い出して街を略奪し、エヴルーのサン=トーラン教会にさえ容赦しなかった[220]。そして彼がフォンテーヌの城を包囲して破壊し、次いで6月中旬にシャトードゥンを破壊する一方で、ベレンガリアの弟サンチョ7世率いるナバラ部隊の支援を受けたリチャードの軍勢は、ロシュを包囲し、城に猛攻を仕掛けたが、大きな成果は得られなかった。リチャード自身は6月11日にトゥールに向かい、フランス国王に帰順していた市民や聖堂参事会員(カノン)に対して罰金や没収を科した。6月13日、彼はロシュにいる自身の軍勢に再び合流した。ロシュの街はその翌日に強襲によって占領された。この占領は、その戦略的地位からして大勝利であった。リチャードはこれにより、短期間で周辺地域を平定し、自身へ帰順させることができた[221]。
フィリップ王は、リチャードの機動力を削ぐためにロワール川沿いでリチャードを追跡した。両国王は7月3日、ヴァンドームの近郊で対峙した。7月4日、リチャードがフレトヴァルにおいて仏軍に戦闘を仕掛けたのに対し、フィリップは自身の軍勢とともに敗走した[22]。リチャードは追撃を開始し、残りの部隊の指揮をウィリアム・マーシャルに委ねた。リチャードの接近を前に、フランス国王は自身の荷物を放棄して教会へと避難した。リチャードは彼が前方にいると信じて追跡し、メルカディエに軍馬の支援を受けた。ジャン・フロリによると「リチャードはその日、真にフィリップを殺害するか、少なくとも捕虜にするつもりであった」という[222]。彼はフィリップ王を捕らえることには失敗したが、彼の野営地、彼の財宝、そして王室文書を強奪した。フレトヴァルにおけるフランク王室の印章や数多くの特許状、財政・領地文書の喪失が、フランスにおける王室文書蔵の創設の契機となったとされる[注釈 6][223]。この戦闘により、リチャードとその軍勢は確実な優位性を確立することができた。彼はアキテーヌの平定を続け、反乱を起こした諸侯たちを屈服させた[224]。7月22日付のヒューバート・ウォルターへの書簡において、リチャードはこれまでの戦闘を次のように総括している。
「すべてにおいて正義を支持される神の恵みにより、我々がタイユブール、マルシヤック、およびジョフロワ・ド・ランコンの全領土を奪取したと知られたし。またアングレームの街、シャトーヌフ=シュル=シャラント、モンティニャック、ラシェーズ、その他すべての城およびアングレーム伯の全領土も同様である。我々はわずか一晩の間にアングレームの街と城塞を占領した。我々は合計で300人の騎士と4万人の兵士を捕らえたのである」—ホーヴデンのロジャー『年代記』、3.256-7[22]。
リチャードとフィリップは1194年7月23日、ティリエール=シュル=アヴルと呼ばれる休戦協定に調印した。これは現状維持を守るものであったためフランス国王にとって有利なものであり、1195年7月まで維持された。翌月、和平交渉が再び開始された。和平合意の証しとして、アリーズはその兄フィリップ王へと返還され、フィリップはただちに彼女をポンチュー伯ギヨーム2世と結婚させた[225]。フィリップによるヴォードゥレイの城の破壊を受けて、交渉は決裂した。リチャードはベリー地方に進出して占領された土地を奪還し、イスーダンを占領した。11月、軍事作戦はノルマンディーとベリーで相次いで繰り広げられ、12月には新たな休戦協定が結ばれた[226]。
1196年1月、リチャードとフィリップはガイヨン条約に調印したが、これはイングランド王にとって有利なものであった[227][22]。リチャードはジゾールとノルマン・ヴェクサンをフィリップに割譲し、フィリップは獲得したしたノルマンディー内の征服地や、ベリーおよびオーヴェルニュに対する要求を放棄した。条約締結の数ヶ月後、ノルマンディーで戦争が再開され、年代記作者ブレトン人のギヨームはその叙事詩『フィリピド(Philippide)』の中で半ば伝説的なエピソードを書き記している[228]。リチャードは、ランベール・カドックによって防衛されていたガイヨン城を包囲した。塔の上からカドックはリチャードを見つけ、石弓の矢で彼を負傷させた。矢は王の膝に命中し、彼の馬を殺した[22][229]。皮肉なことに、フランス国王と戦うためにウェールズでランベール・カドックや他のウェールズ人傭兵を徴募したのはリチャード自身であったが、カドックを含むこれらウェールズ人の一部は、ノルマン人とサクソン人に対する憎悪に突き動かされ、裏切って敵陣営に合流していたのである[230]。
短い休戦期間を経て、1196年の夏に戦争が再開された。イングランド王は、フランスの支配下にあったヴェクサンの一部に侵攻した。オマールの前で敗北したリチャードは、レ=ザンドにガイヤール城を含む一連の城を建設させ、その工事を自ら指揮した[231]。彼はまた、アンデル川流域のラドポン城、リル川流域のモンフォール=シュル=リル城、ルーアンの上流でエルブフの上方に位置するセーヌ川を見下ろす地にオリヴァル城の建設を命じ、同時にルーアンの下流でセーヌ川を見下ろすロベール・ル・ディアブル城の改築も推し進めた。並行して、リチャードは妹のジョーンをトゥールーズ伯レーモン6世と結婚させることで寺領南方の側面を守りを固めた[232]。彼はまた、フィリップの2人の強力な同盟者、。フランドル伯ボードゥアン9世とブローニュ伯ルノーをイングランド陣営に引き入れることに成功したである[232]。2人の伯爵は『ウィリアム・マーシャルの歴史』が明言しているように、彼らは「イングランド王の臣下であり忠臣」となった[232]。
1197年9月、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の崩御に伴い、リチャードはドイツの諸侯たちからその後継者(次期皇帝)となるよう打診された。イングランド王はこの提案を拒絶したが、ハインリヒ獅子公と自身の姉マティルダの息子である甥のブランズウィックのオットーの立候補を支持した。その前年、リチャードはオットーにポワティエ伯領を譲渡していた[233]。イングランド王は並行して広範な外交攻勢を展開し、ヨーロッパの複数の諸侯、すなわちホラント伯ディルク7世、リンブルフ公ハインリヒ3世、ブラバント公アンリ1世、およびケルン大司教アルテナのアドルフとの間に友誼の絆を築いた[234]。

1197年春、メルカディエの部隊がドルー司教フィリップを捕らえたことで戦争が再開された。フィリップはアラスの前でフランドル伯ボードゥアンと対峙することを余儀なくされ、一方でリチャードはオーヴェルニュへの攻勢を開始した。イングランド王は並行して、フィリップの封臣であった諸侯、すなわちサン=ポル伯ユーグ、ギーヌ伯ボードゥアン2世、ペルシュ伯ジョフロワ3世、およびブロワ伯ルイ1世を自身に帰順させるという、さらなる外交的成功を収めた[235]。1198年9月、リチャードはガマシュとヴェルノンの間でフィリップ尊厳王を破り、次いで同月27日のジゾールの戦いにおいて再び彼を撃破した[236]。1199年1月13日、両国王はリチャードにとって有利な5年間の休戦協定に調印した[236]。
シャリュでの最期
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数々の成功を収めたリチャードは、アキテーヌの貴族層を屈服させることを決意した。1199年3月、アングレーム伯アイマール2世が新たな反乱を起こしたため、彼はリムーザンへの進軍を余儀なくされた[237]。1199年3月23日、リチャードはリモージュ副伯アデマール5世の領地であったシャリュ=シャブロル城の包囲戦においてメルカディエと合流した。彼はアデマール5世の反乱を処罰し、その諸城を奪取するためにやって来たのであった[238][239]。
3月26日、王は肩に石弓の矢を受けた[22]。矢を放った人物の身元は確実には特定されておらず、年代記作者たちの記述はこの点で分かれている。ホーヴデンのロジャーは非常に物語化された記述の中で、騎士グルドンのベルトランを告発しており、彼はその後メルカディエによって生きたまま皮を剥がされたとされているが、アルベロー神父が証明したように、彼は実際には1231年時点でもまだ生存していた[240]。ジャン・フロリによると、それよりもはるかに確実な説として、マシュー・パリス、ラルフ・ド・ディセト、ベルナール・イチエ(ヴィジョワのジョフロワの『年代記』の余白の注記において)、およびウェンドーヴァーのロジャーが、地元の小貴族であるピエール・バジルに言及している[241]。ウェストミンスターのジェルヴァーズは、ジャン・サブラズという人物を王の死の責任者とする数少ない年代記作者の一人である。年代記作者ブレトン人のギヨームは、歴史というよりは神話に近い記述の中で、デュドンという名の人物に言及している[242][243]。
リチャードの肩に刺さった矢は引き抜かれたものの、壊疽が進行した。年代記作者たちの記述は、リチャードがこの致命的な矢を放った者を呼び寄せ、彼に赦しを与えて命を助けるよう要求したという点で一致している[244][245]。リチャードは11日後の1199年4月6日、その間に陥落していたシャリュの城において崩御した。母親のアリエノールは彼の枕元におり、息子の最期を無事に見届けることができた。死の床において、リチャードは弟のジョンをイングランド王位の、およびプランタジネット帝国の最高権力者の後継者に指名した[241][246][247][248]。同時代の人々の目には騎士王の典型と映ったリチャードは、「自身の領国に封建的秩序を支配させることを切望する君主として」没したのである[249]。

リチャードの遺体は1199年4月11日(枝の主日)、リンカーン司教の手により、王室の礼をもってフォントヴロー修道院に埋葬された[251]。アリエノールは当時、美術史家や考古学者によって1200年頃のものとされる、彩色された横臥像を注文した[252]。彼の防腐処理を施された心臓は聖遺物容器に納められ、のちに彼の容貌を模した横臥像が上に置かれた墓に納められてルーアン大聖堂に埋葬された[253]。また、彼の内臓はシャリュ=シャブロル城の教会に安置された[254][255]。このように遺体を心臓[注釈 7]、内臓、骨に分割して複数の場所に埋葬する習慣(ラテン語:dilaceratio corporis)は、11世紀半ばに、十字軍の最中、あるいは自身が選んだ埋葬地から遠く離れた場所で没したイングランド王国や神聖ローマ帝国の騎士や君主たちによって始められた慣習であった[257]。
年代記作者ホーヴデンのロジャーによると、リチャードの庶子と想定されているフィリップ・オブ・コニャックは、アデマール副伯を暗殺することで父親の死の復讐を果たしたという[258][259][260]。
1199年4月25日、ジョンはノルマンディー公に就任し、1199年5月27日、ウェストミンスターにおいてイングランドの王冠を受け取った。アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌの諸侯たちは当初彼を拒絶し、リチャードとジョンの甥にあたるブルターニュ公アルテュールを支持した。しかし、ジョンの選択はアングロ・ノルマンの貴族層に適うものであり、フィリップ尊厳王国王の干渉を恐れていたアリエノールの影響力に大きく負うていた[261][262]。ジョンの治世は、1202年4月にフランス国王によって宣誓された大陸の領地の没収宣告(fr:Commise)ののち、プランタジネット帝国の崩壊を見ることとなった[263][264]。1204年3月、フィリップ尊厳王はガイヤールを占領し、同年中にノルマンディー公国の征服を完遂した[265]。
人物
[編集]評価・影響
[編集]リチャードは同時代の人々から、イングランドのためにほとんど尽くさなかったと非難されており、イングランドを単に聖地遠征の資金調達のための財源としか見なしていないようであった[266]。この状況は、帰国後にフィリップ尊厳王との戦争資金を調達する際にも繰り返された。コグシャルのラルフは「いかなる時代や歴史的記述をひもといても、この王が囚われの身から帰還した後の5年間に搾取し蓄積したほど、自身の王国から多額の資金を要求し、奪い取った国王の歴史は語られていない」と記している[22]。聖職者であることが多かった年代記作者たちは、教会の負担が大きすぎると判断したその財政政策に基づいて、リチャードの治世を否定的に評価している[267]。しかしながら、記録が示唆するところによれば、イングランドの臣民はノルマンディーの臣民に比べて比較的負担を免れていたようである。また、これほどの巨額の資金を徴収できたことは、行政機構が特に効率的であったことの証明でもある[22]。
主要な大臣の任命に際して、リチャードは通常、最も有能な人物を選んでいた。アンジューにおけるロバート・ド・ターンハム、アキテーヌにおけるジェロワ・ド・ラ・セル、そしてノルマンディーにおけるウィリアム・フィッツラルフなどがその例である。イングランドでは、リチャードは自身が不在の間、最も優秀な官僚の一人であるヒューバート・ウォルターに王国の統治を委ねた[22]。教会からの圧力があったにもかかわらず、大司教に1198年まで留任するよう説得したのもリチャードであった。さらに、ヒューバートが首席司法官の職を辞したとき、彼に劣らず有能な後継者としてジェフリー・フィッツピーターを見出したのも国王であった。リチャードは海外から統治することに何の困難も感じていなかった。彼はイングランドの民政や教会組織の件に頻繁に介入し、君主としての義務を決して怠らなかった。リチャードがシチリアに滞在している間や囚われの身であった期間にも、イングランドの訴訟人たちが裁きを求めて彼のもとを訪れていた[22]。
1189年に王位に就いたのち、リチャードはポワトゥー出身者を宮廷の重要ポストへ登用することを推し進めた。1189年から1191年にかけて、彼の不在中にイングランド統治の陣頭指揮を執ったのは、騎士の家系の出身でポワトゥーでの彼の大法官であったウィリアム・ド・ロンシャンであった。しかし、彼の低い身分はイングランドの貴族層から否定的に捉えられ、大法官は「農民の孫」であると非難された。ウィリアムの経歴は、プランタジネット家が領国を統治するために登用した、これら「新興の人々(オム・ヌーヴォー)」の典型的な特徴を示している[268]。その治世の終わりに向け、リチャードの政府は軍事化の傾向を強め、王の側近の大部分を兵士が占めるようになった。この現象は、のちのジョン欠地王の治世でも続くこととなる[269]。
中世史家たちの大部分は、現在ではリチャードの治世を「プランタジネット領の行政・財政構造の確立、あるいは変革における不可欠な時期」として認めることで一致している。そして、戦争による度重なる不在があったからこそ、リチャードは父によって始められた「非常に効率的な行政機構の構築」を永続させ、継続させることができたのである[270]。
存命中から、リチャードは不屈の兵士であり、卓越した価値を持つ騎士として認められていた。同時代の人々は、彼を騎士道精神の先導者(旗手)であり、その価値観の擁護者(チャンピオン)であると認めていた[271][272]。事実、リチャードはプランタジネット家のイデオロギーにおいて強調されていた騎士道の徳、すなわち「武勇(プルエス)」、「寛大(ラルジェス)[注釈 8]」、「宮廷風の礼節(クルトワジー)」を完璧に体現していた[274]。これらの美徳は、彼が真の「キリストの戦士」として行動した聖地において成就された[275]。彼の死後、この名声によって、彼は最も驚異的な物語にふさわしい伝説的な英雄のイメージを不動のものとした[204][276]。このような名声の有用性を自覚していたリチャードは、広く拡散されることを意図した書簡の中で、自身の数々の偉業を賛美した。彼は文学の世界とも結びついており、馬にまたがってエクスカリバーを振りかざしながらヴェズレーを出陣したという逸話もある。同時に彼は実利主義者でもあり、シチリアにおいては、アーサー王の剣を4隻の輸送船と15隻のガレー船と交換している[22]。
リチャードは、10年間に及ぶ治世の中で、イングランドに滞在したのは通算して1年にも満たなかったと考えられる。しかし、「リチャードは自国の統治にほとんど関心を持たず、何よりも騎士道的な冒険に夢中になった暗君であった」と見なしたがるイングランドの歴史家たちによって広められたこの伝統的なイメージは、中世史家のジャン・フロリやジョン・ジリンガムによって反駁され[277]。彼らは「騎士王であった彼は、それと同時に極めて価値ある君主でもあったのである」と述べている[278]。
人物と名声
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イングランド人は彼をリチャード1世(Richard I)または獅子心王(Richard the Lionheart)と呼び、フランス人もまた彼をリチャード獅子心王(Richard Cœur de Lion)と呼んだ。また、サラセン人(ムスリム勢力)は彼のことをメレク=リク(Melek-Ric)あるいはマレク・アル=インクリタール(Malek al-Inklitar、イングランド王の意)と呼んでいた[279]。
リチャードはまた、ベルトラン・デ・ボルンからオ・エ・ノ(Oc e no)という異名も与えられていた[注釈 9][280]。これは彼の衝動的な性格や、感情が目まぐるしく変化する傾向に由来している。彼の生涯は多くの行動の豹変や、それまでとは正反対の決断を突如として下すことに特徴づけられていた。実の父親に対して数々の反抗を企てたのち、彼はかつての支持者たちに対しても、それまでと全く同じ毅然とした態度で戦いを挑んだ。彼はこの特異な気質を、同じく衝動的で激しい性格であった父ヘンリー2世から受け継いだものと考えられる[281]。これに対して歴史家ジョン・ジリンガムは、この「オ・エ・ノ」という異名はむしろ、リチャードの決断力や揺るぎない精神の強さを指し示していると解釈している[282]。
彼に「獅子心王」の異名をもたらした、その並外れた勇気と武勲に対する名声は、非常に早い時期、おそらくは第3回十字軍の最中にはすでに定着していた。自ら先頭に立って戦う勇猛さで知られる一方、戦況判断や兵士の士気掌握にも優れていた。第三回十字軍では、病に倒れた際にも寝台の上からクロスボウを射て兵士を鼓舞したという逸話が残されている。また、籠城戦においては自ら船首に立って入城し、疲弊した守備兵の士気を高めたとも伝えられる[283]。リチャードの存命中に『聖戦の歴史』を執筆したアンブロワーズは、この「勇敢なる王、獅子の心を持つ者(preuz reis, le quor de lion)」の数々の武功について語り残している[284][285]。この異名は、年代記作者ベルナール・イチエが記した追悼記事の中にも見られる[285]。リチャードの十字軍の同志の一人であったトルバドゥール(吟遊詩人)のゴーセルム・ファイディは、聖地におけるリチャードの偉業を詳細に描き、自作の詩の中で、シャルルマーニュ(カール大帝)やアーサー王でさえもリチャードには遠く及ばなかったであろうと賛美している[286]。それから半世紀以上が経過してもなお、聖地におけるリチャードの名声は衰えることがなかった。それはジャン・ド・ジョアンヴィルの以下の記述からも窺える。
「リチャード王は、かつて自身が滞在していた聖地において極めて多くの偉業を成し遂げた。そのため、サラセン人たちの馬が何かの茂みに怯えたとき、その主たちは馬に向かってこう言ったという。“お前はそこにイングランドのリチャード王がいるとでも思っているのか?”と。また、サラセン人の子供たちが泣き叫ぶとき、母親たちは子供に向かってこう言ったという。“静かにしなさい、さもないとリチャード王を呼んできてお前を殺させますよ!”」
この勇敢さに対する高い評価は、ムスリム(アラブ側)の史料でも共有されている。13世紀のアラブ人歴史家イブン・アル=アシールによると、リチャードは「その勇敢さ、策略、活動性、そして忍耐力において、同時代で最も突出した人物であった。彼のためにムスリムは他に類を見ないほどの災禍に見舞われ、試練に立たされたのである」という[289]。サラディンの伝記記者であったバハー・アッディーンもまた、リチャードを「強大な力を持ち、大いなる勇気と高潔な心の持ち主」と描写している。彼は同時に、イングランド王が「その王国と地位の面ではフランス王(フィリップ2世)に劣っていた」ものの、「富の面では勝っており、戦場においてはより高名で勇敢であった」と書き残している[290][291]。また同時代のあるムスリムは「彼ほど豪胆な敵、また頭の切れる敵とは、これまで対戦したことがない」と書いている[292]。逆に、リチャード自身も敵将サラディンを「間違いなく最も強力かつ偉大なサラセンの指導者」と賞賛している[293]。
騎士と詩人
[編集]リチャードはトルバドゥールやトルヴェールの庇護者でもあった。兄弟たちよりも自由に動かせる莫大な財源を手にしていたためである。母親のそばでポワティエの宮廷において育った彼は、文学に対する深い関心を示した[294]。加えて、彼もまた詩人でもあり[22][295]、自ら執筆や音楽に関心を持っていた[注釈 10]。彼の専属のジョングルールであったトルヴェールのアンブロワーズは、ヤッファにおいて、ブルゴーニュ公ユーグ3世からの辛辣な批判に対し、リチャードがシルヴェンテスを介して即座に応酬した際の即興能力を強調している[297]。
今日、リチャードが作ったとされる2つの詩が現代に伝わっている。1つ目は、オーヴェルニュのロベール4世ドーファンに宛ててオック語(あるいは少なくともオック語の単語や表現が混ざった古フランス語[298])で書かれたシルヴェンテス『Dalfin je us voill desrenier』であり、2つ目は、オイル語で書かれた哀歌(ロトルアンジュと呼ばれる形式)である『囚われの身の語る言葉とて』である[299][295]。歴史家マルタン・オレルによると、シャルメーヌ・リーの最新の研究成果に鑑みれば[300]、かつてピエール・ベックが主張していた説とは異なり、この楽曲が本来オイル語で執筆されたことは現在では判明しており、写本の伝承もそれを証明しているという[301][302]。リチャードはドイツでの幽閉期間中、自身の「伯爵夫人なる姉」、シャンパーニュ伯妃マリーに捧げるためにこの楽曲を作詞した。歴史家ジャン・フロリによれば、この哀歌は「王、騎士、詩人、そしてトルバドゥールという、多彩な才能を持ったこの人物の新たなイメージを後世に残すもの」であるという[303]。また、シャルメーヌ・リーの研究に基づけば、彼は「トルヴェール」(オイル語の詩人)の側面も兼ね備えていたことになる[300]。
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Ja nuls hom pres(オック語原文): |
Ja Nus Hons Pris(オイル語原文): |
日本語対訳: |
アーサー王崇拝
[編集]リチャードの治世下において、伝説的な英雄であるアーサー王のイメージは一種の崇拝へと変貌を遂げた。事実、1191年にはグラストンベリー修道院においてアーサーとグィネヴィアの遺骨が「発見」されている。この発見へのプランタジネット家の関与を示す確実な証拠はないものの、その可能性は極めて高いとされている[307][308]。この発見により、プランタジネット朝とアーサー王の系譜を結びつけ、この高名な文学的英雄を「精神的な祖先」として政治的に利用することが可能となった[309]。リチャードはこの伝説的な血縁関係を演出し、1191年3月にカターニアで結ばれた最終合意の際、シチリア王タンクレーディに対し、アーサー王の神話的な剣であるカリブルヌス(エクスカリバー)を贈呈している[136][310][注釈 11]。ちなみに、アーサー王の剣がエクスカリバーという名称になったのは、1155年頃に完成したウァースの『ブリュ物語』が起源だが、この作品は母のアリエノールに献上されている[312]。
ロビン・フッド
[編集]ロビン・フッドの伝説は、当初はエドワード2世の治世(1322年頃)を舞台としていたが、1521年に哲学者ジョン・メイヤーによって初めてリチャード1世の治世へとその舞台が移された[313]。なお、ロビンの実在性に関する歴史的な確証はなく、彼が生きたのは12世紀、13世紀、あるいは14世紀とも言われている。したがって、両者の間に「1192年から1194年にかけてリチャードが幽閉されていた際、ジョン王子によって強奪された王位をリチャードに復帰させることがロビンの目的であった」という結びつきが作られたのは、後世になってからのことである。現実には、リチャードがイングランド国内で得ていた大衆的な支持は、弟ジョンと大差ないものであった[314]。
性愛傾向
[編集]幼少期からの知り合いであったフィリップ尊厳王とリチャードの友誼は、しばしば同性愛関係と見なされることがあり、とりわけ1948年にイギリスの歴史家ジョン・ハーヴィがこの説を唱えた[315]。これに対し、リチャード獅子心王の伝記作家であるイギリスの歴史家ジョン・ジリンガムは、20世紀に現れたこの「同性愛者としての国王」という概念は、既知の史料に対する時代錯誤な解釈に基づいていると反論している[22]。彼に言わせれば、リチャードの性愛傾向を確実にとらえることは不可能であるという[22]。ウィリアム・E・バーグウィンクルも、自身はこの説を支持しつつも、リチャードの同性愛を裏付ける決定的な証拠は存在しないことを認めている[316]。
12世紀の一部の年代記作者、とりわけピーターバラのベネディクトは、当時若者であったリチャードとフィリップの間の「愛(amour)」について語り、彼らが寝所を共にしていたと強調している[317]。
いずれにせよ、同時代の人々は彼を異性愛者と見なしていた[22]。歴史家ジャン・フロリも中世史家マルタン・オレルも、国王が同性愛者であったという説には同意していない[280]。フロリに言わせれば、これを同性愛関係であると結論づけるのは「愛」という言葉に対するあまりに「現代的」すぎる解釈であり、1187年にホーヴデンのロジャーが記録したような「同じ皿から食事を摂り、同じベッドで寝る」という行為は、「当時においては今日我々が見出すような官能的なニュアンスは存在しなかった」と言い添えている。それは実際には、相互の信頼を示す極めて政治的なデモンストレーションであり、戦略的同盟、すなわち「軍事協定」の証明であった。そしてこれこそが、実父ヘンリー2世を不安に陥れた原因であった[318][319][320]。ただし、1191年と1195年にリチャードが性的な罪、おそらくは「ソドムの罪」のために悔悛を行ったという記述を根拠に、ジャン・フロリは彼が両性愛者(バイセクシュアル)であった可能性は高いと結論づけている[321]。
リチャードは34歳でベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚した。この夫婦が顔を合わせることは滅多になく、この婚姻は第一に政略結婚(便宜的な結婚)であった。ただし、リチャードの側近であったトルヴェールのアンブロワーズは、リチャードがポワティエ伯時代からベレンガリアを愛していたと言及している[322][323]。同時代の年代記作者ホーヴデンのロジャーによれば、1195年に隠者からの警告を受け、さらに突如として重病に倒れたリチャードは、妻を遠ざけていたことについて悔悛し、彼女と肉体的な和解を果たしたという[324][325]。しかしながら、この婚姻は「精神的な失敗」であり、相続人が生まれることはなかった[326]。
また、同時代の年代記作者ピーターバラのベネディクトは、リチャードが平民の女性たちに対して強姦を働いていたと告発している[327]。年代記作者ギスボローのウォルターによれば、リチャードは自らの最期が近づいた時、自分の元に女性たちを連れてくるよう要求したという。ジャン・フロリの分析によれば、リチャードは「何よりも、その父親や祖先たちと同様に、快楽主義者であったようである」という[328]。
子女
[編集]リチャードには、名もなき愛妾との間に生まれた庶子であるフィリップ・ド・コニャックがおり[22]、彼は「アキテーヌで過ごした若き日に」もうけた子とされる。リチャードは彼に対し、当時自身の後見下にあったコニャックの女相続人であるアメリーを娶らせた[260]。
系図
[編集]| ヘンリー2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 若ヘンリー | リチャード1世 | ジョン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ヘンリー3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード黒太子 | ライオネル | ジョン | エドマンド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| リチャード2世 | (ランカスター朝) | (ヨーク朝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
芸術と文化
[編集]ベルトラン・デ・ボルンやアルノー・ダニエルらと交流し[329]、死の直後にはガウセルム・ファイデットから哀歌をおくられるなど、同時代のトルバドゥールたちから英雄視されたが、その後は中世騎士道の華として偶像化され、小説『アイヴァンホー』やロビン・フッド物語などでは主人公の頼もしい助っ人として登場する。
注釈
[編集]- ↑ 生まれはイングランドであったが、アンジューおよびアキテーヌで育ち、イングランドに滞在することは少なかったため、英語(中英語、古英語)はほとんど話せなかったという[5]。
- ↑ 前述の通り本来は三男であるが、長兄ウィリアム(ギヨーム)は1156年に死去している。
- ↑ [153]:「その治世において、キプロス領主となったギーは、聖地から彼の新たな王国への組織的な移民を推し進めた。」
- ↑ この虐殺は、歴史家のルネ・グルッセとジョシュア・プラワーによって否定的に評価されている。グルッセは「強襲による開城という言い訳も立たない、冷静沈着に行われた前代未聞の蛮行」と呼び、この際のリチャードについて「政治的精神が完全に欠如していた」と非難している[161]。プラワーは「当時としても極めて稀な、前代未聞の残虐行為」と言及している。しかしながら、プラワーは当時のキリスト教徒の年代記作者たちによってこの行為が肯定的に評価されており、「彼らはこの行為を正当化し、神に喜ばれる復讐とみなしていた」とも書き添えている[160]
- ↑ 歴史家のルネ・グルッセはこの局面における、リチャードの「引き延ばし」について言及し、彼は「猛烈な戦術家」ではあったが「不決断で臆病な戦略家」であったと評している。グルッセは、アルスフでの勝利の直後であれば、イングランド王は当時防備のなかった聖地を奪還できたはずだと主張している[176]。ジョシュア・プラワーによると、リチャードは顧問の意見に屈したことで主体性を欠いていたとし、「彼は戦闘において兵士たちを指揮することはできたが、人々の精神を支配することはできなかった」と指摘している[177]。
- ↑ この時代、大法官庁や古文書、さらには国家の金庫にいたるまで、大部分はまだ移動式であり、王の移動、すなわち戦場へ赴く際にも王に随行していた[223]。
- ↑ リチャードの1世の心臓は小さな鉛の箱に納められており、1838年の発掘調査で発見された。一般的に聖地で人骨が発見された場合、教会、国家、法律のすべてが科学的な分析を行うことを禁じている。異例なことではあるが、近年、リチャード1世の心臓は、法医学専門家らによって分析された。分析の結果、毒物学的分析では、ヒ素やその他の金属は検出されず、毒殺されたとする説の根拠は見つからなかった。また、心臓の防腐処理には非常に質の高いハーブやスパイス、その他希少で貴重な素材が使用されていることが分かった。また、水銀も検出された。水銀は心臓の腐敗を防ぐために使用されたものと考察された。リネンに包まれた心臓からは、ギンバイカ、ヒナギク、ミント、そしておそらくライムの痕跡が検出された。また、乳香が見つかった。いままで乳香が用いられた例は確認されておらず、リチャード1世の心臓が唯一となっている。法医学者らは、リチャード1世にこれらの香料が使用されたのは、「キリストに似た聖なる香り」を与えるためだったと考察している[256]。
- ↑ 騎士道精神を重んじ、忠誠を示した家臣を厚遇したことで知られる。父ヘンリー2世との争いにおいても、最後まで父に従ったウィリアム・マーシャルらをその忠義ゆえに高く評価し、後に重用した。一方で、情勢を見て寝返った者には厳しい態度を取ったとされる[273]。
- ↑ 古プロヴァンス語で「良し、また悪し」の意。
- ↑ リチャードが幽閉されていた時、その安否と捕囚場所を確認するため、お気に入りの吟遊詩人(騎士のトルバドゥールとも言う)ブロンデルが、ドイツ中の城の城壁の下でリチャードの好きな歌を歌い、リチャードが歌い返すのを待ったという伝説がある[296]。
- ↑ 歴史家ジャン・フロリによれば、この贈り物の交換は1191年3月4日に行われた。また、ホーヴデンによって「カリブルヌ(Caliburne)」と名付けられたこの剣は、ウェイランドの鍛冶屋によって鍛えられたという、同じく伝説的な別の剣である可能性もある。それはヘンリー2世の王室財宝から出されたもので、1128年にイングランド王ヘンリー1世からリチャードの祖父ジョフロワが騎士に叙任された際に授けられたものという[311]。
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- ↑ Flori 1999, p. 464.
- ↑ ベルヌー(2005)p.33
参考文献
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- Flori, Jean (1999). Richard Cœur de Lion. Biographies. Paris: Payot. pp. 598. ISBN 9782228892728
- Minois, Georges (2017). Richard Cœur de Lion. Paris: Perrin. pp. 600
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- Flori, Jean (2004). Aliénor d'Aquitaine, La reine insoumise. Paris: Payot & Rivages. pp. 545. ISBN 2-228-89829-5
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伝記(英語)
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一般研究書
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- Turner, Ralph V. (2011). Aliénor d'Aquitaine. Paris: Fayard. pp. 485. ISBN 978-2-213-66286-2
- Turner, Ralph V. (2009). King John: England's Evil King?. History Press. ISBN 978-0-7524-4850-3
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地域研究
[編集]- Billoré, Maïté (2014). De gré ou de force. Presses universitaires de Rennes. pp. 448. doi:10.4000/books.pur.49253
- Boutoulle, Frédéric (2007). Le duc et la société. Bordeaux: Ausonius. pp. 439. HAL hal-01792959
- Richard, Alfred (1903). Histoire des comtes de Poitou (778-1204). Paris: Alphonse Picard & Fils. pp. 597
- Arbellot, Abbé François (1878年). “La vérité sur la mort de Richard Cœur de Lion”. Bulletin de la Société archéologique et historique du Limousin: pp. 161-260
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プランタジネット家
[編集]- Aurell, Martin (2003). Aurell, Martin. ed. Culture politique des Plantagenêts (1154-1224). Poitiers: Centre d'études supérieures de civilisation médiévale. pp. 388. ISBN 2-9514506-7-2
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- Favier, Jean (2015). Les Plantagenêts. Paris: Tallandier. pp. 960. ISBN 2-213-62136-5
- Madeline, Fanny (2023). “L'empire controversé. Interpréter les pratiques successorales des rois normands et Plantagenêt (1066-1199)”. Succéder au Moyen Âge. Paris: Éditions de la Sorbonne. pp. 139-152. ISBN 979-10-351-0899-1
- Gillingham, John (1984). The Angevin Empire (1st ed.). London: Edward Arnold. ISBN 0-7131-6249-X
第3回十字軍
[編集]- Deabes, Mustapha (2003). “Richard Cœur de Lion et la troisième croisade, d’après les sources arabes”. Civilisation médiévale (Poitiers: Centre d'études supérieures de civilisation médiévale) 14: 189-222.
- Grousset, René (1991). Histoire des Croisades et du Royaume Franc de Jérusalem. III. Perrin
- Prawer, Joshua (2001). Histoire du royaume latin de Jérusalem. 2. Paris: CNRS. ISBN 978-2-271-07867-4
- Runciman, Steven (1987). A History of the Crusades. III. Cambridge University Press. ISBN 9780521347723
その他
[編集]- Flori, Jean (2003). “Ambroise, propagateur de l'idéologie Plantagenêt ?”. Culture politique des Plantagenêts (1154-1224), Civilisation Médiévale 14: 173-187.
- Gillingham, John (1980). “Richard I and Berengaria of Navarre”. Bulletin of the Institute of Historical Research 53 (128): 157-173.
- Gillingham, John (2004b). “Telle mère, tel fils”. Revue 303 (81): 27-33.
- Lejeune, Rita (juillet-septembre 1958). “Rôle littéraire de la famille d'Aliénor d'Aquitaine”. Cahiers de civilisation médiévale (Poitiers: Centre d'études supérieures de civilisation médiévale) (3 (1re année)): 319-337.
- Loomis, Roger Sherman (1915). “Richard Cœur de Lion and the Pas Saladin in Medieval Art”. PMLA 30 (3): 509-528. doi:10.2307/456947. ISSN 0030-8129.
- Burgwinkle, William E. (2004). Sodomy, Masculinity and Law in Medieval Literature. Cambridge University Press. pp. 76-85. ISBN 978-0-511-21143-0
- Holt, J. C. (2011). Robin Hood. Thames & Hudson
- Geraud, Hercule (1842). Mercadier. Les routiers au treizième siècle. 3. 417-447
- Stévanovitch, Colette (2022). “Les failles de Richard Cœur de Lion”. Bulletin des anglicistes médiévistes (99): 81-104. doi:10.3406/bamed.2022.2554.
- 堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中央公論社〈中公文庫〉、1974年12月。
- 石井美樹子『王妃エレアノール-十二世紀ルネッサンスの華』朝日新聞社〈朝日選書〉、1994年3月。ISBN 4-02-259594-9。
- アンリ・ルゴエレル 著、福本秀子 訳『プランタジネット家の人びと』白水社〈文庫クセジュ〉、2000年12月。ISBN 4-560-05834-2。
- J.M.ロバーツ 著、月森左知・高橋宏 訳「十字軍」、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6。
- レジーヌ・ベルヌー 著、福本秀子 訳『リチャード獅子心王』白水社、2005年3月。ISBN 4-560-02605-X。
- Malcolm Cameron Lyons & D.E.P.Jackson (1982). Saradin: The Politics of the Holy War. University of Cambridge Oriental Publications. ISBN 978-0-521-31739-9
- ジョナサン・フィリップス 著、野中邦子/中島由華 訳『第四の十字軍―コンスタンティノポリス略奪の真実』中央公論新社、2007年4月。ISBN 978-4-12-003791-7。
関連項目
[編集]- リチャードの長年の婚約相手であり、フランス王家との関係をめぐる重要人物。
- 最終的にリチャードが結婚した王妃。
- リチャードの妹で、シチリア問題の中心人物。
- リチャードの兄であり、父ヘンリー2世への反乱の中心人物。
- 兄弟間対立と継承問題で重要な役割を果たした弟。
- ジョン(欠地王)
- 弟であり、継承問題・留守中の政治・後継関係で頻出する重要人物。
- 晩年に王位継承候補として意識された甥。
- アリエノールの同意のもとで相続人候補とされた甥。
- フィリップ2世(尊厳王)
- 青年期後半から晩年まで、最大の同盟者であり最大の敵でもあったフランス王。
- サラーフッディーン(サラディン)
- 第3回十字軍における最大の対戦相手。
- 帰路のリチャードを拘束した人物。
- 拘束されたリチャードの身柄を引き取った皇帝。
- シチリア滞在中に交渉・対立の対象となった王。
- シチリア王位継承問題の本来の相続人。
- リチャード不在中の王国統治を担った最重要人物の一人。
- 留守中の統治評議会に参加した高位聖職者。
- 戴冠時の反ユダヤ暴動鎮圧に派遣された高位司法官。
- リチャード不在時の統治を理解する上で重要な役職。
- リチャードの統治機構を理解するために重要な役職。
- 晩年の対仏戦争で活躍した忠実な傭兵隊長。
- 十字軍艦隊を任され、のちにテンプル騎士団総長となった人物。
- ベレンガリアや十字軍を語る詩人・同時代の証言者。
- リチャードの言動を伝える最重要級の年代記作者。
- 戴冠・財政・十字軍準備を伝える年代記作者。
- 婚約記事などに現れる重要な年代記作者。
- アキテーヌ情勢やアリエノール幽閉を伝える年代記作者。
- サラディン側から十字軍を伝える重要証言者。
- 若ヘンリー王・リチャードらが父ヘンリー2世に反旗を翻した大反乱。
- リチャードの生涯最大の軍事行動。
- 第3回十字軍における主要戦果の一つ。
- リチャードの軍事的名声を決定づけた代表的勝利。
- 十字軍中の決定的勝利として本文で強調される戦い。
- 帰還後のリチャードの後半生を特徴づける対仏戦争。
- 十字軍中に征服した重要拠点。
- 若年期に軍事的才能を示した代表的な攻略対象。
- リチャードが致命傷を負った包囲戦の舞台。
- リチャードの墓所として特に重要な場所。
- リチャードの出生地。
- アリーズとの婚約が取り決められた重要会談の地。
- リチャードの政治行動を理解するうえで欠かせない封建儀礼。
- ポワティエ宮廷における文化的背景。
- リチャードが詩作に用いた言語の一つ。
- 同じくリチャードが用いた言語の一つ。
- リチャードやアンブロワーズの文化的背景となる詩人類型。
- 後世におけるリチャード像と結びつけられる伝説的英雄。
外部リンク
[編集]- Les blasons de Cœur de Lion
- Généalogie de Cœur de Lion - Medieval Lands
- Richard I - ウェストミンスター寺院