ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)

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ジョーン・オブ・イングランド
Joan of England
シチリア王妃
トゥールーズ伯妃
Richard I and Joan greeting Philip Augustus.jpg
フィリップ2世に歓迎されるリチャード1世とジョーン。1230年頃に書かれた年代記ヒストリア・アングロルムの挿絵より。
出生 1165年10月
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国アンジュー
死去 1199年9月4日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国ルーアン
埋葬  
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国フォントヴロー修道院
配偶者 シチリアグリエルモ2世
  トゥールーズレーモン6世
子女 レーモン7世
父親 イングランドヘンリー2世
母親 アリエノール・ダキテーヌ
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ジョーン・オブ・イングランド(Joan of England, 1165年10月 - 1199年9月4日)は、シチリアグリエルモ2世の王妃、後にトゥールーズレーモン6世の妃。イングランドヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの三女。イタリア語名はジョヴァンナ・ディンギルテッラ(Giovanna d'Inghilterra)、フランス語名はジャンヌ・ダングルテール(Jeanne d'Angleterre)。

生涯[編集]

アンジューで生まれ、母の宮廷のあるウィンチェスターポワチエで育つ。1176年、シチリア王グリエルモ2世が大使を派遣し、ジョーンとの結婚を申し出た。婚約は同年5月に整い、8月にはノーリッジ司教、5代サリー伯ハムリン・ド・ウォーレンらに付き添われてシチリアへ出発した。ジョーンの兄2人、若ヘンリールーアンからポワチエ、そのあとをリチャードが引き継ぎポワチエからサン=ジルまで妹を護衛した。サン=ジルではシチリア王の代理人であるカプア大司教アルフォンソ、シラクサ司教リチャード・パーマーらと、彼女の随行員が面会した。

危険の多い航海ののち、1177年2月に無事シチリアへ到着し、パレルモ大聖堂で結婚式と戴冠式が挙行された。2人の間には1181年に長男ボエモンドが生まれるが夭折し、あとに子は生まれなかった。1189年にグリエルモが亡くなると、ジョーンは新王タンクレーディに捕らえられた。1190年、ジョーンの兄リチャード1世が聖地への途上イタリアへ上陸した。彼はジョーンと彼女の持参金を返すようタンクレーディに要求した。タンクレーディがこれらの要求を渋る様子をみせると、リチャードはバニャラ城の支配権を奪った。彼は一冬をイタリアで過ごし、メッシーナの町を征服した。たまりかねたタンクレーディは、要求を飲みジョーンを解放した。1191年3月、リチャードの婚約者ベレンガリアを連れて母アリエノール・ダキテーヌがメッシーナへ到着した。

アリエノールは、ジョーンにベレンガリアの後見を託すとアンジュー帝国へと帰っていった。リチャードは聖地での結婚を決め、婚約者と妹を連れて出航した。2日すると艦隊はひどい嵐に見舞われ、ジョーンとベレンガリアの乗船する船も破壊された。リチャードは被害もなくクレタ島へたどりついたが、2人は近くのキプロス島へ流されてしまった。キプロスの独裁者で太守のイサキオス・コムネノスは、イングランド王の艦隊が突然現れると、たちまち拿捕した。ジョーンとベレンガリアは無事だったが、リチャードの軍資金もろとも捕らえられてしまった。リチャードは2人の引渡しを丁重に要請したが拒否されたため、イサキオスを追跡し捕らえた。キプロスを占領したリチャードはベレンガリアと結婚し、次にアッコンへ到着した。

ジョーンはリチャードのお気に入りの妹だった。彼は一度、サラディンの弟アル=アーディルとジョーンを結婚させ、2人をエルサレムの共同統治者にしようと考えた。しかし、ジョーンがイスラム教徒との結婚を拒み、アーディルもキリスト教徒との結婚を拒絶したため、この計画は実現しなかった。同じ十字軍に途中まで参加したフランスフィリップ2世は、当時最初の王妃を亡くしており、シチリアで対面したジョーンと再婚したいと考えたようだが、これも実現しなかった。

1196年、ジョーンは対フランス政策の一環で南フランスのトゥールーズ伯レーモン6世と結婚した。持参金としてクエルシーとアジュネがレーモンにもたらされた。彼女はトゥールーズ伯レーモン7世となる息子を翌年出産した。

レーモンにとってこの結婚は3度目であり、ジョーンの持参金めあて以外の何物でもなかった。またレーモン自身が統治能力に欠け、支配下の領主たちと始終いざこざを起こしていた。1199年、第3子を妊娠中のジョーンは、サン=フェリックス・ド・カラマンの領主が起こした暴動に、夫の不在時に直面した。彼女は敵の城の攻略を命じるが、裏切りにあい劣勢となった。生命の危機から逃れるため、夫の助けがまったくあてにならないと考えたジョーンは北へ向かい、兄リチャードの保護を求めた。しかし、リチャードはシャリュ城攻略中の傷がもとで既に死亡していた。ジョーンは領土を巡回中の母アリエノールと再会、悲しみと疲労で憔悴しきった娘を静養させるべく、アリエノールはジョーンをフォントヴロー修道院へと連れて行った。だがジョーンは回復せず、次第に衰弱していった。彼女は出産後に息絶え、死の床で尼僧として出家した。彼女の産み落とした赤子(男児だった)は、洗礼を与えられた後に短い生を終えた(リチャードという名がつけられた)。ジョーンはフォントヴロー修道院へ葬られた。50年後、彼女の長男レーモン7世は、母の隣に埋葬された。