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ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョヴァンナ・ディンギルテッラ
ジャンヌ・ダングルテール
Giovanna d'Inghilterra
Jeanne d'Angleterre
シチリア王妃
トゥールーズ伯妃
在位 シチリア王妃:1177年 - 1189年

出生 1165年10月
アンジュー伯領
アンジュー
死去 1199年9月4日
アンジュー伯領
ルーアン
埋葬 アンジュー伯領
フォントヴロー修道院
結婚 1177年2月13日 パレルモ大聖堂
配偶者 シチリアグリエルモ2世
  トゥールーズ伯レーモン6世
子女 一覧参照
家名 プランタジネット家
父親 イングランドヘンリー2世
母親 アリエノール・ダキテーヌ
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フィリップ2世に歓迎されるリチャード1世とジョーン。1230年頃に書かれた年代記ヒストリア・アングロルムの挿絵より。

ジョーン・オブ・イングランド(Joan of England, 1165年10月 - 1199年9月4日)は、シチリアグリエルモ2世の王妃、後にトゥールーズ伯レーモン6世の妃。イングランドヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの三女。イタリア語名はジョヴァンナ・ディンギルテッラ(Giovanna d'Inghilterra)、フランス語名はジャンヌ・ダングルテール(Jeanne d'Angleterre)。

異父姉にマリーアリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム若ヘンリー王リチャード1世ジェフリー、弟にジョン、姉にマティルダエレノアがいる。

生涯

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アンジューで生まれ、母の宮廷のあるウィンチェスターポワチエで育つ。1176年、シチリア王グリエルモ2世が大使を派遣し、ジョーンとの結婚を申し出た。婚約は同年5月に整い、8月にはノーリッジ司教、サリー伯爵ハメリン・ド・ワーレン英語版らに付き添われてシチリアへ出発した。ジョーンの兄2人、若ヘンリーはルーアンからポワチエ、その後をリチャードが引き継ぎポワチエからサン=ジルまで妹を護衛した。サン=ジルではシチリア王の代理人であるカプア大司教アルフォンソ、シラクサ司教リチャード・パーマーらと、彼女の随行員が面会した[1]

危険の多い航海の後、1177年2月に無事シチリアへ到着し、パレルモ大聖堂で結婚式と戴冠式が挙行された。2人の間には1181年に長男ボエモンドが生まれるが夭折し、後に子は生まれなかった。

1189年にグリエルモ2世が亡くなると、ジョーンは新王タンクレーディに捕らえられた。1190年、ジョーンの兄リチャード1世が第3回十字軍総司令官として、聖地への途上イタリアへ上陸、妹の監禁を知った彼はジョーンの身柄と彼女の持参金を返すようタンクレーディに要求した。タンクレーディがこれらの要求に対して渋る様子をみせると、リチャード1世は武力を行使し、バニャラ城の支配権を奪った。それから彼は一冬をイタリアで過ごし、メッシーナの町を征服した。たまりかねたタンクレーディは要求を飲みジョーンを解放した[2]

春を迎えた1191年3月、リチャード1世の婚約者のナバラ王女ベレンガリアを連れて母アリエノールがメッシーナへ到着、ジョーンは母からベレンガリアの後見を託され、聖地での結婚を決めた兄にベレンガリアと一緒に連れられメッシーナを出航した。ところが2日すると艦隊はひどい嵐に見舞われ、ジョーンとベレンガリアの乗船する船も破壊された。リチャード1世は被害もなくクレタ島へたどりついたが、2人は近くのキプロス島へ流されてしまった上、キプロスの独裁者で太守のイサキオス・コムネノスに船ごと拿捕され身柄は無事だったが、リチャード1世の軍資金もろとも捕らえられてしまった。リチャード1世は2人の引渡しを丁重に要請したが拒否されたため、イサキオスを追跡し捕らえた。キプロスを占領したリチャード1世は同地リマソルでベレンガリアと結婚し、次にキプロスを出航してジョーンとベレンガリアも同行、一行はアッコンへ到着した[3]

ジョーンはリチャード1世のお気に入りの妹だった。宗教的偏見や敬虔さからも自由であった彼はムスリム(イスラム教徒)のサラディンとの停戦交渉中に、サラディンの弟アル=アーディルと当時未亡人であったジョーンを結婚させ、2人をエルサレムの共同統治者にしようと考えた。しかし、ジョーンがイスラム教徒との結婚を激怒して拒み、検討はしてみたアル=アーディルもキリスト教徒との結婚を拒絶したため、この計画は実現しなかった。あまりに大胆な提案にサラディンも呆れたとも伝わる。同じ十字軍に途中まで参加したフランスフィリップ2世は、当時最初の王妃イザベル・ド・エノーを亡くしており、シチリア滞在中に対面したジョーンと再婚したいと考えたようだが、これも実現しなかった[4]

1192年に兄に先立ちベレンガリアと共にローマへ出航、ジェノヴァマルセイユ、サン=ジルなどを転々として1193年ポワトゥーへ戻った。それから3年後の1196年、兄の対フランス政策の一環で南フランスのトゥールーズ伯レーモン6世と結婚、持参金としてクエルシーとアジュネがレーモン6世にもたらされた。ジョーンは翌1197年にトゥールーズ伯レーモン7世となる息子を出産した[5]

レーモン6世にとってこの結婚は3度目であり、ジョーンの持参金めあて以外の何物でもなかった。またレーモン6世自身が統治能力に欠け、支配下の領主たちと始終いざこざを起こしていた。1199年、第3子を妊娠中のジョーンは、サン=フェリックス・ド・カラマンの領主が起こした暴動に、夫の不在時に直面した。彼女は敵の城の攻略を命じるが、裏切りにあい劣勢となった。生命の危機から逃れるため、夫の助けがまったくあてにならないと考えたジョーンは北へ向かい、兄の保護を求めたが、リチャード1世はシャリュ城攻略中の傷がもとで既に死亡していた。ジョーンは領土を巡回中の母アリエノールと再会、悲しみと疲労で憔悴しきった娘を静養させるべく、アリエノールはジョーンをフォントヴロー修道院へと連れて行った。だがジョーンは回復せず、次第に衰弱していった。彼女は出産後に息絶え、死の床で修道女として出家した。彼女の産み落とした赤子(男児だった)は、洗礼を与えられた後に短い生を終えた(リチャードという名がつけられた)。ジョーンはフォントヴロー修道院へ葬られた。50年後、彼女の長男レーモン7世は母の隣に埋葬された[6]

子女

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最初の夫グリエルモ2世との間に1男を儲けた。

  • ボエモンド(1181年)

2度目の夫レーモン6世との間に2男を儲けた。

  • レーモン7世(1197年 - 1249年)
  • リシャール(リチャード、1199年)

脚注

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  1. ^ 桐生、P146、石井、P280、P298、ペルヌー、P47。
  2. ^ 桐生、P227 - P229、石井、P344、ペルヌー、P101 - P102、P116 - P121。
  3. ^ 桐生、P229 - P231、石井、P345 - P346、ペルヌー、P133、P136 - P142。
  4. ^ 桐生、P237 - P238、石井、P344、ペルヌー、P189 - P190。
  5. ^ 石井、P353、P370、P374、ペルヌー、P241、P254。
  6. ^ 石井、P384 - P385、ペルヌー、P264 - P265。

参考文献

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