エドマンド1世 (イングランド王)
| エドマンド1世 英 : Edmund I | |
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13世紀後半に描かれたエドマンド1世の肖像画 | |
| 戴冠 | 939年12月1日頃 |
| 先代 | アゼルスタン |
| 次代 | エドレッド |
| 出生 | 920年若くは921年 |
| 死亡 |
946年5月26日 イングランド王国 グロスタシャー地方 パックルチャーチ |
| 埋葬 | グラストンベリー修道院 |
| 王室 | ウェセックス家 |
| 父親 | エドワード長兄王 |
| 母親 | エドギフ・オブ・ケント |
| 配偶者 | |
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子女 | |
エドマンド1世(Edmund I) または エアドマンド1世(Eadmund I)[注釈 1](920/921年 - 946年5月26日)とは、10世紀前半のアングロサクソン人イングランド王(在位:939年10月27日 - 946年)である。彼はエドワード長兄王とその三番目の妃エアドギフの長男であり、アルフレッド大王の孫である。924年にエドワードが没すると、王位は長男である異母兄アゼルスタンが継承した。アゼルスタンが939年に嗣子なく死去した後、エドマンドが王位を継承して戴冠した。
エドマンドは第一王妃エルフギフとの間に二人の息子(エドウィとエドガー)をもうけたが、第二王妃エセルフリーダとの間には子供はいなかった。エドマンドはまだ息子たちが幼いうちにパックルチャーチ(グロスターシャー)で無法者との争いに巻き込まれて殺害されたので、王位は弟エドレッドに継承された。エドレッドは955年に死去し、その後はエドマンドの息子たちが順に王位を継承した。
アゼルスタンは、ハンバー川以南のイングランド王に即位し、927年にはヴァイキング支配下のヨーク王国を征服してイングランド全土の初代王となった。しかし彼の死後、ダブリンを拠点とするヴァイキングの首領オーラヴ・グスリフソンがヨーク王に推戴され、ヴァイキング支配はデーンローの五都市を含む北東マーシア地域に拡大した。エドマンドは当初この逆転を受け入れざるを得ず、これはアルフレッド大王以来のウェセックス王朝にとって初の大きな挫折であった。しかし941年にオーラヴが死去すると、エドマンドはイングランド全土の王としての地位を回復した。942年、彼は五都市を奪還し、944年にはヨークのヴァイキング王を追放してイングランド全土を再び掌握したのである。
弟エドレッドは王に即位すると再び反乱に直面したが、954年にヨークが最終的に征服された。アゼルスタンは他のブリテン諸王に対して優越的立場を確立しており、エドマンドもこの支配力を維持した。ただしスコットランドはその例外であった可能性も考えられている。北ウェールズの王イドワル・ヴォイルはヴァイキングと同盟した可能性があり、942年にイングランド軍との戦いで戦死した。ストラスクライド王国もまたヴァイキング側についた可能性があり、エドマンドは945年にこの地を蹂躙した後、アルバ王マルカム1世に割譲した。
王位継承に際して、エドマンドは兄王アゼルスタンの政策方針や主要な顧問たちを継承している。たとえば941年にはカンタベリー大司教オダをカンタベリー大司教に任命し、有力貴族アゼルスタンをイースト・アングリアの太守に、ハゲ頭のエルフヘアをウィンチェスター司教に任命した。地方統治は主に太守たちによって行われていたが、エドマンドは治世中に人事を大きく刷新し、アゼルスタンが主に依存していたウェセックス人よりも、マーシア系の人々をより重用した。前王たちの近親者とは異なり、彼の母と弟が多くの勅書に署名していることは、王家内部の協力体制の強さを示している。エドマンドは立法にも積極的であり、3つの法典が現存している。その内容には、復讐の調停を図る規定や、王の身体の神聖さを強調する規定が含まれている。
10世紀にイングランドで活発化した宗教運動であるベネディクト会主導の修道院改革運動は、エドガーの治世で最高潮に達したが、その初期段階においてエドマンドの治世は重要であった。彼はダンスタンをグランストンベリー修道院の修道院長に任命し、そこにエゼルウォルドが加わった。両者は後に改革運動の指導者となり、この修道院を普及の最初の拠点とした。エドマンドは息子エドガーの頃とは異なり、ベネディクト派修道制だけを唯一価値ある宗教生活とみなす立場を取らず、改革されていない(非ベネディクト派の)共同体にも庇護を与えた。
背景
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9世紀、ウェセックス王国、マーシア王国、ノーサンブリア王国、そしてイースト・アングリア王国の4つのアングロサクソン王国は、激しさを増すヴァイキングの度重なる襲撃を受け、865年には大異教軍の侵入に至った。878年までにヴァイキングはイースト・アングリア、ノーサンブリア、マーシアを制圧し、残されたウェセックス王国も滅亡寸前にまで追い込まれたが、その年、アルフレッド大王率いるウェセックス軍はヴァイキングに反撃し、エディントンの戦いで決定的勝利を収めた[4]。その後の880年代から890年代にかけて、アングロサクソン人はウェセックスと西マーシアをヴァイキングから守り抜くことに成功していたが、イングランドの残りの地域はヴァイキング王の支配下に置かれることとなった。アルフレッド大王は城塞網を築き、娘婿のマーシア領主エゼルレッドや長男エドワードと共に、再びウェセックスに攻撃を仕掛けてきたヴァイキングを撃退することができた。899年、大王が没するとエドワードは『エドワード長兄王』として王位を継承した[5]。909年、エドワードはウェセックス人とマーシア人の軍を派遣してノーサンブリアを拠点としていたデーン人に攻勢を仕掛けた。翌年、デーン人はその報復としてマーシアに侵攻したが、帰還途中でアングロサクソン軍に捕捉され、テッテンホールにて壊滅的な敗北を喫し、1世代にわたり続いたノーサンブリア・ヴァイキングの脅威は終息した。910年代には、エドワードとその姉でマーシア領主エゼルレッド未亡人であったエセルフリーダがアルフレッドの城塞網を拡張し、ヴァイキング支配下の東マーシアとイースト・アングリアを征服した。結果、924年にエドワードが没した時点で、エドワード王率いるアングロサクソン人はハンバー川以南のイングランド全土を掌握していた[6]。
エドワードの後を継いだのは長男のアゼルスタンであった。アゼルスタン王は927年にノーサンブリアを制圧し、イングランド全土を統べる初代イングランド王となった。彼は勅書において「イングランド王」(king of the English)と称し、やがてウェールズ諸王やスコットランド王、ストラスクライド王国の王たちも彼の宗主権を承認した。その後、彼は「Rex Totius Britanniae」(ブリテン全土の王)といったより大仰な称号を採用した。934年にはスコットランドへの軍事侵攻を行い、937年にはスコットランド・ストラスクライド・ヴァイキングの連合軍がイングランドに侵入したが、アゼルスタンはブルナンブールの戦いで決定的勝利を収め、ブリテンにおけるアングロサクソン人・イングランド王国の優越的地位を確立した[7]。
ベネディクト会修道制は7〜8世紀のイングランドで栄えたが、8世紀末から9世紀にかけて衰退した。871年にアルフレッドが即位した時点では、修道院やラテン語の知識は著しく低下していたが、彼の時代から徐々に復興が始まった[8]。この動きはアゼルスタンの治世下で加速し、後の10世紀の修道院改革運動の指導者となるダンスタンとエゼルウォルド(Æthelwold)が、930年代のアゼルスタンの国際的で知的な宮廷で成長することとなる[9]。
家族と幼少期
[編集]エドマンドの父であるエドワード長兄王には3人の妻と8人または9人の娘がおり、そのうち数人は大陸の王族に嫁いだ。また5人の息子がいた。長兄アゼルスタンは、エドワードの最初の妃エクグィンとの間に生まれたことが唯一知られている息子である。第二王妃エルフレズとの間には二人の息子がいた。924年に父が死去した際にウェセックスで王として認められたとも伝わるエルフウェアドと、933年に溺死したエドウィンである。919年には、エドワードは3人目の王妃として、ケント太守シゲヘルム(Sigehelm)の娘エアドギフと結婚した[10]。920年または921年に生まれたエドマンド[注釈 2]はエアドギフ王妃の長男として誕生した。彼女の次男エドレッドはエドマンド亡きあと王位を継承することとなる。エドマンドには1人または2人の同母姉妹がいた。1人目はエアドブルフと言い、ウィンチェスターの修道女として生涯を過ごし、のちに聖人として崇敬された。12世紀の歴史家マルムズベリーのウィリアムは、エドマンドにもう一人の同母姉妹がいて、アキテーヌ公子ルイに嫁いだと記しており、彼女の名は母と同じエアドギフ(Eadgifu)であったとする。この記録は歴史家アン・ウィリアムズやショーン・ミラーはウィリアムの記述を受け入れる姿勢を示しているが、アゼルスタンの伝記作者サラ・フットはその存在を否定し、ウィリアムは彼女をエルフレズの娘であるエルフギフ(Ælfgifu)と混同したのだと論じている[12]。
エドマンドは、異母兄アゼルスタンが924年に王位を継いだときはまだ幼子であった。彼はアゼルスタンの宮廷で育ち、おそらく二人の大陸からの重要な亡命者(甥で後に西フランク王に就任することとなるフランク王族ルイと、のちのブルターニュ公アラン)と共に過ごした[13]。マルムズベリーのウィリアムによれば、アゼルスタンはエドマンドとエドレッドに大きな愛情を注ぎ、「彼らは父の死の時にはまだ赤子であったが、アゼルスタンは慈しみをもって育て、成長すると王国の一部を彼らに分け与えた」という。エドマンドは934年のスコットランド遠征に参加した可能性がある。というのも、ラテン語史料『聖カスバート伝』によれば、アゼルスタンは自らが戦死した場合にはその遺体をチェスター・ル・ストリートのカスバートの聖廟に運ぶようエドマンドに命じていたからである[14]。937年のブルナンブールの戦いにもエドマンドは参戦した。この勝利を記念する『アングロサクソン年代記(C版)』の詩では、エドマンドは王族の王子(ætheling)[15]として際立った役割を与えられ、アゼルスタンと並んでその英雄的活躍が讃えられている。そのため歴史家サイモン・ウォーカーは、この詩はエドマンドの治世中に作られたものだと示唆している[16]。939年のアゼルスタンの死の直前、王家の集会においてエドマンドとエドレッドは、同母姉エアドブルフへの土地寄進に「王の兄弟(regis frater)」として署名した。彼らの署名は血縁関係を示すためのものであったかもしれないが、アゼルスタンに嗣子がいないことが知られていたため、王位継承資格を有する異母弟たちの存在を示す意図もあった可能性がある。これはエドマンドが署名したアゼルスタンの勅書のうち、その真正性が疑われていない唯一のものである[17][注釈 3]。939年10月27日にアゼルスタンが嗣子なく死去すると、エドマンドの王位継承に異議はなかった。彼はイングランド全土の王位を継承した最初の王であり、おそらく939年12月1日(日曜日、待降節第1主日)、キングストン・アポン・テムズにて戴冠したとみられる[19]。
治世
[編集]北部の喪失と回復
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ブルナンブールの戦いでの勝利のおかげで、イングランドは統一王国として存続することができ、エドマンドが円滑に王位を継ぐ道を開いた。しかし、それは即位後の彼を対抗勢力からの挑戦から守ってくれるものではなかった[20]。当時のヴァイキング勢力の動向年代には諸説がある[注釈 4]。最も広く受け入れられている見方では、アゼルスタンの死を好機に、ヨークのヴァイキングはかつてブルナンブールでアゼルスタンに敗れ去った経験のあるダブリン王オーラヴ(またはアンラフ)・グスフリスソンを王に迎えたとされている。『ASC D(アングロサクソン年代記 D版)』にはこう記されている[注釈 5]。
「ここにおいてノーサンブリア人は誓約を破り、アイルランドから来たオーラヴを王に選んだ」[26]。
オーラヴは939年末にはヨークに到着し、翌940年には北東マーシアへ侵攻して、エドワード長兄王とエセルフリーダが征服した南方領土の奪還を狙った。彼はノーサンプトンを攻撃して撃退され、続いて古都タムワースを急襲し、双方に多数の死者を出した。退却の途上でレスター近郊にてエドマンド軍に捕捉されたが、ヴァイキング側の使者(ヨーク大司教ウルフスタン)並びにイングランド側の使者(おそらくカンタベリー大司教)による仲介で回避された[注釈 6]。その結果、レスターで条約が結ばれ、リンカーン・レスター・ノッティンガム・スタンフォード・ダービーの五都市がグスリフソンに割譲された。これは、エドワード長兄王以来のイングランドの反攻が初めて大きく挫かれた出来事であり、歴史家フランク・ステントンはこれを「屈辱的な降伏」と評している[28]。その後、グスリフソンはヨークにてイングランドのものより軽量なヴァイキング標準重量の貨幣を鋳造した[29]。
941年にグスリフソンが死去したのち、エドマンドは失地回復に成功した。942年には五都市を奪還し[30]、その勝利は『アングロサクソン年代記』で詩に詠われた:
10世紀の『アングロサクソン年代記』に収められた他の詩と同様、この詩もイングランド民族意識とウェセックス王家への忠誠を強く示している。特にここでは、キリスト教徒であるイングランド人とデーン人が、異教徒であるノルウェー系の北人に対抗して団結する姿が描かれている[32]。ステントン(Frank Stenton)は、この詩が示す重要な事実として、東マーシアのデーン人がアゼルスタンの統治から15年の間に、自らをイングランド王の正当な臣民と認識するようになっていた点を強調している。何よりも、この時代のイングランド史を通底する要素でありながら現代の著述ではしばしば無視される「デーン人とノルウェー人の対立」を明確に示していると論じた。そして彼は、この詩を「英語で書かれた最初の政治詩」であり、その作者は政治的現実をよく理解していたと評している[33]。
しかし、ウィリアムズは懐疑的で、この詩が同時代のものかは疑わしく、当時の人々が本当にこのように状況を捉えていたかも不確かであると指摘している[30]。同年、エドマンドは北マーシアの有力貴族ウルフシゲ(Wulfsige the Black)に大領地を与えており、これはヴァイキング支配下のデーンロー地域に忠実な貴族を配置することで、敵への抵抗を強めるという父王以来の方針を継続したものであった。
グスリフソンの後継として、従兄弟のオーラヴ(若しくはアンラフ)・シトリックソンが943年にヨーク王となった。彼は洗礼を受け、その代父にエドマンドを立てたことから、ウェセックス王家の権威を承認したとみられる。シトリックソンは独自の貨幣を発行したが、同時期にヨークでは他の二名──グスリフソンの兄ラグナル・グスフリスソン(彼もまたエドマンドの庇護下で洗礼を受けた)と、素性不明のシトリク(Sihtric)──の名でも貨幣が鋳造されており、共同統治の可能性を示唆している。944年、エドマンドは大司教ウルフスタン(かつてヴァイキング支持派であったが、ここではエドマンドに協力した)や、自ら940年に任命したマーシアの太守(おそらくエゼルムンド Æthelmund)の助けを得て、ヨークからヴァイキング支配者たちを追放し、都市を掌握した[30]。
しかしエドマンドの死後、王位を引き継いだ弟エドレッドは再びノーサンブリアにおける反乱に直面し、それが最終的に鎮圧されたのは954年のことであった。ミラーは、エドマンドの治世は「アゼルスタンがノーサンブリアを征服したにもかかわらず、同地がまだ真に統一イングランドの一部ではなく、エドレッド治世の終わりまでそれが実現しなかったことを明確に示している」と述べている[34]。ノーサンブリア人が繰り返し反乱を起こした事実は、彼らが分離独立の野望を持ち続けていたことを示しており、それを断念させたのは南部の王たちの継続的な圧力であった[35]。アゼルスタンとは異なり、エドマンドやエドレッドがブリテン全体に対して管轄権を主張することは稀であったが、それでも両者は時折、自らを「イングランド人の王(king of the English)」と称している。これはノーサンブリアを掌握していない時期でも例外ではなかった。一方、940年や942年の勅書では、より控えめに「アングロサクソン人の王(king of the Anglo-Saxons)」と名乗り、945年にノーサンブリア全域を支配した後になって初めて「ブリテン全土の王」を称している[36][注釈 7]。なお、彼の貨幣に「ブリテン全土の王(Rex Totius Britanniae)」と刻まれることはなかった[38]。
ブリテン諸国との関係
[編集]エドマンドは、兄王アゼルスタンからウェールズ諸王に対する宗主権を継承した。しかし、グウィネズ王国の王であったイドワル・ヴォイルは、エドマンド即位初期の弱さを利用して忠誠を拒んだようであり、またオーラヴ・グスリフソン(アンラフ)を支持した可能性がある。というのも、『カンブリア年代記』によれば、942年に彼はイングランド軍によって殺害されたと記されているからである。942年から950年の間に彼の王国はデハイバース(南ウェールズ)の王ハイウェル・ダによって征服された。ウェールズ史家トマス・チャールズ=エドワーズはハイウェルについて、「同時代の諸王の中で、イングランドの『ブリテン皇帝たち』の最も堅固な同盟者であった」と述べている。エドマンドの治世において、ウェールズ王たちがイングランドの勅書に署名した記録は、アゼルスタン治世に比べて稀であるように思われる。しかし、歴史家デイヴィッド・ダンヴィルの見解によれば、エドマンドがウェールズ諸王に対する宗主権を維持していたことを疑う理由はないという[39][注釈 8]。944年の勅書でエドマンドはデヴォンの土地を処分しており、その文中で自らを「イングランド王にしてこのブリテンの地方の支配者」と称している。これは、かつてのブリトン人の王国「ドゥムノニア」が依然としてイングランドに完全統合されたとはみなされていなかったことを示唆している[41]。ただし歴史家サイモン・ケインズは、この称号の文言について「ある種の『地域的干渉』があったのではないか」と疑っている[42]。
945年までに、スコットランドおよびストラスクライド両王国では、ブルナンブールの戦い以降に新たな王が即位していた。おそらくスコットランドはイングランドと同盟し、ストラスクライドはヴァイキングとの同盟を維持していたと考えられる。その年、エドマンドはストラスクライドを蹂躙した。13世紀の年代記作者ウェンドーヴァーのロジャーによれば、この侵攻はハイウェル王の支援を受けて行われたといい、さらにエドマンドはストラスクライド王ダヴァルの2人の息子を盲目にしたという。これはおそらく、王位継承者としての資格を奪う目的で行われた処置である[43]。その後エドマンドは、この王国をアルバ王マルカム1世に与え、代わりに陸と海における防衛を約束させた。この決定については歴史家の間で解釈が分かれる。ダンヴィルとチャールズ=エドワーズは、これはストラスクライドをスコットランド王に与える代わりに、エドマンドの宗主権を承認させたと見る[44] 。一方、ウィリアムズは、むしろこれはダブリン・ヴァイキングに対抗するために、エドマンドがストラスクライド王国領におけるマルカムの宗主権を認めた上で同盟を結んだことを意味すると考える[30]。ステントンおよびミラーは、これはエドマンドがノーサンブリアをアングロサクソン・イングランドの北限として認識したことを示すものだと解釈している[45]。
ゲール系修道士カスロエ(en:Cathróe of Metz)の聖人伝によれば、彼はスコットランドから大陸へ向かう旅の途中でイングランドを通過した。このときエドマンドは彼を宮廷に召し、カンタベリー大司教オダが彼をリムに停泊中だった彼の船まで儀式的に送り届けた。巡回聖職者たちは、この時代における写本や思想の流通に重要な役割を果たしており、カスロエがエドマンド宮廷にいた唯一のケルト系聖職者であったとは考えにくい[46]。
大陸諸国との関係
[編集]エドマンドは、兄王アゼルスタンの国際色豊かな宮廷から強力な大陸方面の人脈を継承し、さらに彼らの姉妹が外国の王や王子に嫁いだことでその結びつきは強化された。エドマンドは兄の対大陸政策を継承し、その同盟関係を維持した。特に、甥である西フランク王国の王族ルイや、東フランク王国の王で後に神聖ローマ皇帝となるオットー1世との関係が重視された。ルイはオットーの甥であり義理の弟でもあったが、そのオットーとエドマンドは義兄弟の関係にあった[30]。エドマンドと大陸諸侯の間には、おそらく記録に残らなかった広範囲にわたる外交関係が存在したとみられるが、少なくともオットーがエドマンドの宮廷に使節を派遣したことは記録上に残されている[47][注釈 9]。940年代初頭、数名のノルマン人領主たちがルイに対抗するためデンマーク王子ハーラルの支援を求め、945年にハーラル王子がルイを捕らえてフランク公ユーグに引き渡すという事件が起きた。ユーグはルイを幽閉し、エドマンドとオットーは両者ともに抗議して即時解放を要求したが、結局ルイが釈放されたのはランの町をユーグに譲り渡した後のことであった[49]。
また、エドマンドの名はスイスのプフェーファース修道院の交誼簿に記されている。これは、カンタベリー大司教オダが、パリウムを受け取るためにローマへ向かう途上、あるいは帰途にここへ滞在した際に記録させたものかもしれない。この記録もまた、外交使節の派遣と同様に、アゼルスタン治世以来続いていたイングランドと大陸側の聖職者との幅広い交友活動を裏付ける、稀少な現存証拠であると考えられる[50]。
行政
[編集]エドマンドは、兄王アゼルスタンの政策や主要な顧問たちをそのまま継承した。たとえば、イースト・アングリア太守アゼルスタン(通称 半王)、ウィンチェスター司教エルフヘア、そしてラムズベリ司教オダ(941年にカンタベリー大司教に任命)である[30]。アゼルスタン半王は932年に太守として初めて勅書に署名し、エドマンドの即位から3年以内に彼の兄弟2人も太守に任じられ、彼らの領地はイングランドの半分以上を占めた。また、彼の妻はのちのイングランド王エドガーを養育した。歴史家シリル・ロイ・ハートは、エドマンド治世下におけるこの兄弟たちの権勢を、1世紀後にイングランドで権勢をふるうこととなる大貴族ゴドウィン家と比較している[51]。また、異母子の治世中は影を潜めていた母エアドギフも大きな影響力を握っていた[52]。
940年の前半、太守の勅書署名はアゼルスタン治世末と比べて変化がなかったが、その年の後半には太守の人数が4名から8名に倍増し、そのうち3名はマーシア地域を担当した[注釈 10]。この時期にはアゼルスタン半王一族への依存度が高まり、942年の土地授与によって彼らの家は豊かになった。こうした任命は、オーラヴの侵攻に対抗するために実行したエドマンドの施策の一環であった可能性がある[55]。
エアドギフと弟エドレッドはエドマンドの勅書に多く署名しており、これは王家の高度な協力体制を示している。当初はエアドギフが先に署名していたが、943年末から944年初頭にかけてはエドレッドが優先されるようになり、これは彼の権威の増大を反映している可能性がある。エアドギフは全体の約3分の1に署名しており、常に「regis mater(王の母)」として署名していた。その中には宗教機関や個人へのすべての土地授与が含まれていた。エドレッドは兄の勅書の半数以上に署名した[注釈 11]。 エアドギフとエドレッドの勅書署名における目立った存在感は、他のどのウェセックス王の母や王族男性にも見られないものであった[57]。
勅許状
[編集]925年から975年頃の時代は、アングロサクソン王室の勅書の黄金期であり、勅書が王権の統治文書として最盛期を迎えた時代であった。この時期にエドマンドの勅書を起草した書記たちは、彼が兄から引き継いだ王室秘書団を構成していた。928年から935年までの間、学者たちによって「アゼルスタンA」と呼ばれる非常に博識な書記が、きわめて精緻な文体で勅書を作成していた。サイモン・ケインズは次のように述べている。「アゼルスタンAによって起草・筆記された勅書の栄華と複雑さに目を向けることによってのみ、その後に現れる勅書の優美な簡潔さを理解できる」[58]。「エドマンドC(Edmund C)」として知られる書記は、アゼルスタンの治世に福音書(Cotton Tiberius A. ii folio 15v、大英図書館所蔵)に銘文を記し、944年から949年の間にはエドマンドとエドレッドの勅書を作成した[59]。
エドマンドの勅書の大半は、外交文書の「主流派」に属しており、そこにはエドマンドCのものも含まれる。しかし4点は「頭韻勅書(alliterative charters)」と呼ばれるグループに属している。このグループは主にエアドレッドの治世に作成されたスタイルであり、これらは非常に博識な学者によって起草され、おそらくウスター司教ケンワルドの周辺人物、あるいは彼自身が起草者であった可能性が高い。これらの勅書は、多くの単語が同じ頭文字で始まること、そして珍しい語彙が使われていることを特徴としている。ベン・スヌークはこれらの勅書を「印象的な文学作品」と評しており、その文体はこの時代の多くの著作と同様、8世紀初期ごろのシャーボーン司教であり著名な学者であったアルドヘルムの影響を示している[60]。
貨幣
[編集]10世紀のイングランドで日常的に使用された唯一の貨幣はペニー硬貨であった[62][注釈 13]。エドマンドの治世における主要な硬貨デザインは「H型(Horizontal)」であり、表面には十字架やその他の装飾が刻まれ、それを囲む円形の銘文に王の名が記され、裏面には貨幣鋳造人の名が横書きで刻まれた。さらに、イースト・アングリアやデーン人支配の州では「BC型(Bust Crowned)」が多数発行され、王の肖像(しばしば粗雑に描かれたもの)が表面に刻まれていた[64]。アゼルスタンの治世の一時期には、多くの貨幣に鋳造都市が示されていたが、エドマンドの即位時にはこれが稀となり、940年代もイースト・アングリアのノリッジで発行されたBC型にのみにその傾向が見られた[65]。
エドワード長兄王の治世以降、アゼルスタンの時代に貨幣の重量がわずかに減少し、940年頃からその劣化は進行し、最終的に973年頃のエドガーによる貨幣改革までその減少傾向は続いた。しかしごく少数のサンプルに基づく限り、エドマンド治世下で銀含有量が低下した証拠は残されていない[66]。彼の治世には、地域ごとに多様な貨幣デザインが増加し、これはその後20年間続き、最終的にエドガー治世初期に再び統一的なデザインへと収束した[67]。
立法
[編集]エドマンドの法典は3つが現存しており、これらは兄アゼルスタンの法改革の伝統を受け継いでいる[30]。これらは『第一エドマンド法典(I Edmund)』『第二エドマンド法典(II Edmund)』『第三エドマンド法典(III Edmund)』と呼ばれる[注釈 14]。発布順は明確であるが、具体的な年代は不明である。『第一エドマンド法典』は教会に関する事柄を扱い、他の法典は治安維持を主題とする[69]。
『第一エドマンド法典』はロンドンにてエドマンドが召集し、大司教オダとウルフスタンが出席した評議会で公布された。この法典は、かつてオダが公布した「憲章(Constitutions)」と非常によく似ている。独身でない聖職者は財産没収の脅威にさらされ、聖別された墓地に埋葬されることを禁じられた。さらに、教会の税金や教会財産の返還に関する規定も含まれていた[70]。殺人者が罪を悔い改めていない限り王の近隣に近づくことを禁じる条項は、王権の神聖性が増していたことを反映している[71]。エドマンドは魔術や偶像崇拝に関わる法律を公布した数少ないアングロサクソン王のひとりであり、この法典では偽証や魔術に用いられる薬物の使用を非難している。偽証と薬物の使用が関連づけられるのは伝統的であり、おそらく両者が宗教的誓いの破棄を伴うためと考えられる[72]。
『第二エドマンド法典』では、王とその顧問団が「我らの社会に蔓延する数々の不法な暴力行為を深く憂慮している」と述べ、「平和と調和」を促進することを目的としていた。主な焦点は復讐の規制と抑制にあった[73]。当局(witan)[注釈 15]は、殺人後の復讐を阻止する義務を負った。殺人者は代わりに被害者の親族にヴェルゲルト(補償金)を支払わねばならない。支払わない場合は加害者自身が復讐を負うことになるが、教会や王の荘園で彼を襲うことは禁止された。加害者の親族が彼を見捨て、ヴェルゲルトの支払いにも加担せず、また保護しない場合、王の意志により彼らは復讐の対象から免除されるとされた。もし被害者の親族が彼らに復讐したなら、王とその友人の敵意を買い、全財産を没収されることになる[75]。ホワイトロックによれば、復讐を抑制する法制が必要となった背景には、争いを補償で解決するよりも復讐を遂行する方が男らしいと考えたデーン人入植者の流入があった[76]。この法典には、hamsocn(住居襲撃)のようなスカンディナヴィア語からの借用語が初めて記録されており、その刑罰は全財産没収であり、さらに命を奪うか否かは王が決定した[77]。スカンディナヴィア語借用語は他の法典には見られず、この法典が特にデーン人臣民に向けられた可能性がある[78]。暴力に関する懸念とは対照的に、エドマンドは盗難の抑制に成功したことを民に祝福している[79]。この法典は、法の維持における地域社会の主体性を奨励しつつ、王の威厳と権威を強調している[80]。
アングロサクソン王とその有力者の関係は個人的であり、王は彼らの忠誠と服従の誓約と引き換えに彼らの保護者となった。この関係が初めてサリカ法典を基盤として明文化されたのが、『第三エドマンド法典』であり、デヴォン州のコリトンで公布された。この法典では、「すべての者は主の名において誓うべし。その聖なるものの前において、彼らがエドマンド王に忠実であることを――人が己の主に忠実であるべきであるように――いかなる争いや不和もなく、公然とまた密かに、王の好むものを好み、王の退けるものを退けるように」と規定している。強制力が限られていた当時の社会では、法の破りや不忠に対する神罰の脅威が重要であった[81]。軍事史家リチャード・エイベルズは、「すべての者」(omnes)とは文字通り万人を意味するのではなく、王の代官(reeve)によって州裁判所(en:shire court)で誓いを立てる資格を持つ人々――すなわち中堅以上の土地所有者を指すと論じている。そして、この誓約によりエドマンドは多様な民を個人的に自らへ結びつけたとされる[82]。また、主従関係の強調は、領主が従者に責任を負い、保証人となる義務を明示する条項にも表れている[30]。
『第三エドマンド法典』はまた盗難、特に家畜盗難の防止にも重点を置いた。地域共同体は盗賊を生死を問わず捕らえることに協力し、盗まれた家畜を追跡することが義務づけられた。また商取引は高位代官、司祭、財務官、または港湾代官の立会いが必須とされた[83]。法制史家パトリック・ウォーマルドが「残虐」と評した条項によれば、「奴隷の一団が盗みを働いた場合、その首領は捕らえられて殺されるか絞首刑に処され、他の奴隷はそれぞれ三度鞭打たれ、頭皮を剥がされ、小指を切り落とされて罪の証とされる」とある[84]。この法典には地方行政単位としての行政区画であるハンドレッドの最初の言及も含まれており、盗人捕縛への協力を拒む者には王に120シリング、ハンドレッドに30シリングの罰金を科すと定められている[85][注釈 16]。
ウィリアムズは「第二法典とコリトン法制の双方において、中世社会の四本柱――王権、主従関係、家族、地域共同体――の機能が明確に示されている」と述べている[30]。ウォーマルドはこれらの法典を「アングロサクソン法文書の多様性を示す実例」と評しつつも、むしろ共通点――特に殺人を王権への冒涜として扱う高揚した修辞的調子――こそ重要であると考えている[87]。歴史家アラリック・トラウズデイルは、エドマンドの法制の独自性として「地方行政機関への明示的な資金供給と、法律適用における地方官の権限強化」を指摘している[88]。エドマンドは、自身の孫でのちにイングランド王となるエゼルレッドが制定する法典において、過去の賢明な立法者の一人として挙げられている[89]。
宗教
[編集]
10世紀の主要な宗教運動であるベネディクト会修道院改革はエドガー王の治世で最高潮に達したが[90]、その初期段階においてエドマンドの治世は重要な役割を果たした。この時期の主導者はオダとエルフヘアであり、この頃は両者とも修道士であった。オダは大陸の改革拠点、特にフルーリー修道院と強いつながりを持っていた。彼はアゼルスタンの主要な顧問の1人であり、936年にフランク王国の王としてフランク王子ルイの帰還を交渉するのを支援している[91]。ダンスタンはやがて改革の中心人物となり、カンタベリー大司教に就任するが、最初の伝記作者によれば彼はエドマンドの宮廷で有力な地位を占めていた。しかし敵対者たちがエドマンドを説得して彼を追放させたとされ、その後、王が死を免れる出来事を経験して心変わりし、彼にグラストンベリーの王領とグラストンベリー修道院を与えたという。ウィリアムズは、この時期に彼が影響力を持っていた証拠がないことから、この話を退けている。彼の兄は勅書に署名していたが、ダンスタン自身はそうではなかったからである[30]。エドマンドは、ダンスタンが宮廷であまりに騒がしい存在だったため、彼を遠ざける意図で修道院を与えた可能性もある[92]。そこに将来もう一人の改革指導者となるエゼルウォルド(Æthelwold)が加わり、彼らは次の10年の多くをグランストンベリーでベネディクト会文献の研究に費やし、この地は修道院改革を広める最初の拠点となった[9]。
945年、エドマンド王はチェスター・ル・ストリートに鎮座するカスバートを祭る聖堂(おそらくスコットランドに向かう道中)に立ち寄った。彼は聖堂で祈りを捧げ、彼自身と彼が率いる軍団の身を聖カスバートにゆだねた。エドマンド王の兵たちは聖堂に対して60ポンドの財を聖堂に寄進し[注釈 17]、王自身も聖人の遺体に金の腕輪を2本捧げ、さらに高価なパッリア・グラエカ(pallia graeca)と呼ばれるギリシャ製の布2枚をその上に巻いた。このうち1枚は、後に聖カスバートの墓から発見された「自然神のシルク(Nature Goddess silk)」[注釈 18]と呼ばれる、優れたビザンティン絹織物であったと考えられている。また彼は、「聖カスバートの全領域に対し、かつてないほど良き平和と法を授けた」とも伝えられている[95]。このような聖廟への敬意と支援の表明は、北部における聖カスバート共同体の政治的影響力と、南部の王権による同聖人への敬意の双方を反映していた[96]。マームズベリのウィリアムによれば、エドマンドはノーサンブリアの聖人たち(たとえば聖エイダンなど)の遺物を南方のグラストンベリー修道院へも運んだという[30]。
宗教的復興のもう一つの徴候として、貴族出身の女性たちが修道生活を志す例が増加したことが挙げられる。エドマンドはそうした女性たち数名に土地を与えており、たとえばウィルトン修道院の庇護者であった修道女 Ælfgyth や、王の最初の妻の母ウィンフレッド(Wynflæd)などがエドマンドから土地を授けられている[97]。アゼルスタンが女性修道者に2つの荘園を与えたのに対し、エドマンドは7つ、次代の王エドレッドは4つを授与した。その後、この慣行は急に途絶え、さらに1件を除けば再び行われることはなかった。これらの寄進の意図は明確ではないが、最も可能性が高いとされる理由は、10世紀半ばのイングランドにおいて敬虔な貴族女性たちが自らの宗教的生活の形(すなわち修道院を創設するか、自邸で信仰生活を送るか)を選択できるようにするために、王が土地を与えたというものである[98]。
エドマンドの息子エドガーの治世には、エゼルウォルドら改革派が「ベネディクト会修道制こそ唯一価値ある宗教生活の形である」と主張したが、エドマンド自身はそうした思想的立場を取っていなかった。彼は宗教の保護に関心を持っていたものの、特定の修道制にこだわることはなかった。彼の施策はアゼルスタンの方針を引き継ぐものであった[99]。944年、ジェラール・ド・ブローニュがサン=ベルタン修道院をベネディクト会規に改めた際、その改革を拒んだ修道士たちはイングランドに逃れた。エドマンドは王領教会のひとつであるバースの教会を彼らに与えたとされる。この寛大な措置の背景には、彼らがかつてエドマンドの異母兄で海難事故で亡くなったエドウィの埋葬を行ったという個人的恩義があった可能性もある。しかしこの出来事は、エドマンドが「ベネディクト会以外の修道制」も有効なものと認めていたことを示している[100]。また彼は、非改革派(非ベネディクト会)のバリー・セント・エドマンズ修道院に特権を与えたとも伝えられるが、その勅許状の真正性については議論がある[101][注釈 19]。
学問
[編集]アゼルスタンの治世には、ラテン語学習が復興したが、これは大陸の模範および7世紀の著名な学者でシャーボーン司教であったアルドヘルムの解釈学的文体(en:hermeneutic style)の影響を受けていた。この復興傾向はエドマンドの治世にも続き、ウェールズの書物制作が次第に影響力を増していった。ウェールズの写本は大いに学習・模写の対象となり、カロリング朝小文字体(en:Carolingian minuscule)がイングランドで初期に使用される際にも影響を及ぼした。ただし、大陸側の資料も同様に重要である。さらに、エドマンドの治世中には、自国でスクエア・ミヌスキュール体(square minuscule)の新しい書体様式が発展し、10世紀半ばの王室勅許状に使用された。カンタベリー大司教オダの学派は、ノルマンコンクエスト後の年代記作者たちから高く称賛されており、特にフリスゴッドという優れた大陸出身の学者(10世紀半ばのイングランドにおける最も技巧的な詩人とされている。)が在籍していたことで名高かった[102]。また、『ブリトン人の歴史』の「バチカン版」(Vatican recension)は、エドマンドの治世中、恐らく944年頃にイングランドで編纂された[103]。
結婚と子女
[編集]エドマンドは、即位の頃に第一王妃エルフギフと結婚したとみられており、943年には彼らの次男が誕生している。二人の息子、エドウィとエドガーはともにイングランド王となった[30]。エルフギフの父は不明だが、母については、エドガーによる勅書で、エドガーの祖母ウィンフレド(Wynflæd)がシャフツベリ修道院に土地を寄進したことを確認する勅許状により特定されている[104]。エルフギフ自身もシャフツベリ修道院の支援者であり、944年に死去するとそこに埋葬され、聖女として崇敬された[105][注釈 20]。
エドマンドは第二王妃エセルフレーダとの間には子がなかった。彼女は991年以降に死去した。彼女の父エルフガー(Ælfgar)は946年にエセックスの太守となった。エドマンドは彼に金銀で華麗に装飾された剣を贈り、エルフガーはそれを後に国王エドレッドに献上した。エセルフレーダの再婚相手は南東マーシアの太守アゼルスタン・ロタであり、彼女の遺言書は現存している[107]。
死と継承
[編集]946年5月26日、エドマンドはグロスターシャーのパックルチャーチにおける争いの中で殺害された[30]。ノルマン・コンクエスト後の年代記作者であるウスターのジョンによれば、次のように記されている。
歴史家クレア・ダウナム(Clare Downham)とケヴィン・ハロラン(Kevin Halloran)は、このウスターのジョンの記述を退け、王は政治的暗殺の犠牲者であったと示唆している。しかしこの見解は他の歴史家たちには受け入れられていない[109]。
息子エドガーが30年後にそうされたように、エドマンドもグランストンベリー修道院に埋葬された。この場所は宗教的権威や修道院改革運動に対する王権の支持を反映していた可能性もあるが、彼の死は不意のものであったため、むしろダンスタンが遺体の引き取りに成功した結果であった可能性が高い[110]。 当時彼の息子たちはまだ幼かったため、王位は弟エドレッドが継承し、955年にはさらにエドマンドの長男エドウィがその後を継いだ[111]。
評価
[編集]歴史学者たちによるエドマンド1世の人物像と治世の評価は、大きく分かれている。歴史家バーバラ・ヨークは、王が大きな権限を臣下に委ねるような体制では、その臣下の力が王権を脅かすほど肥大化してしまう危うさがあったと指摘している。アゼルスタンの後継王たちは、いずれも若くして王位に就いた上に治世も短命であったため、イーストアングリア太守アゼルスタンや、マーシア太守エルフヘア[注釈 21]の一族が、ほぼ揺るぎのない地位を築くに至ったのであろう[113]。 シリル・ハートは「その短い治世の全期間を通して、若き王エドマンドは母エアドギフと『半王』の強い影響下にあり、この二人の間で国家政策の多くが決定されたに違いない」との見解を示している[114]。これに対して、アン・ウィリアムズはエドマンドを「精力的で、かつ強力な統治者」であったと評し[30]、フランク・ステントンも「彼は戦闘的であると同時に、政治的にも有能であることを証明した」と述べている[115]。さらにデイヴィッド・ダンヴィルは、もし彼が早世しなかったならば「彼は、アングロサクソン諸王の中でも、より顕著な存在として記憶されたであろう」と述べている[116]。
歴史家ライアン・ラヴェルは、「アラリック・トラウズデールが最近(エドマンドの治世に関する博士論文において)論じたように、10世紀イングランド国家の諸成果に、エドマンド1世が中心的な役割を果たしたとみなすことは十分に可能である」とコメントしている[117][注釈 22]。トラウズデールは、アゼルスタンとエドガーの治世に挟まれた時期が、歴史学において比較的軽視されてきた、すなわち、エドマンド1世・エドレッド・エドウィの治世は、「しばしば、より興味深いとみなされるアゼルスタンとエドガーの治世のあいだに挟まれた、一種の『つなぎ期間』として一括りにされてきた」と指摘する[119]。彼によれば、「エドマンド王の立法は、統治のあらゆる階層間の協力関係を強化することを通じて、地方支配をより厳格に掌握しようとする野心を示しており、国王と大司教が協力して、イングランドの行政機構の再編に取り組んでいた」ことを物語っているという。またトラウズデールは、こうした変化の過程において、「アゼルスタン王のもとで影響力を持っていた、伝統的なウェセックスの行政構造や権力ブロックへの依存から、マーシアやイースト・アングリアの有力家系・利害勢力との協力へと、ささやかではあるが重要な転換が生じていた」と見る[120]。さらに彼は、エドマンド1世がアゼルスタンの強い権力集中路線から距離を取り、地方の世俗権力および聖職者層との、より合議的・協調的な関係へと移行しつつあったと論じている[121]。トラウズデールの描き出すエドマンド像は、アゼルスタンの業績を強調するサラ・フット[122]や、エドガーの治世における後期アングロサクソン国家の形成を中心に論じたジョージ・モリノー[123]といった歴史家たちの見解とは、対照的なものである。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 彼はシャロン・ターナーの19世紀初頭の著作『アングロサクソン人の歴史』において「エドマンド長兄王(Edmund the Elder)」と呼ばれている[1]。その他の通称には「エドマンド事績王(Edmund the Deed-Doer)」[2][3]、「エドマンド公正王(Edmund the Just)」[3]、そして「エドマンド壮麗王(Edmund the Magnificent)」[3](ラテン語表記でEdmundus Magnificus)がある[2]。
- ↑ マルムズベリーのウィリアムによれば、エドマンドは939年に王位を継承したときおよそ18歳であった[11]。
- ↑ エドマンドはアゼルスタンの別の勅書(S 455)にも署名しており、これを真正と認める学者もいる。この勅書の日付は934年から939年の間とされている[18]。 (勅書のS番号は、歴史家ピーター・ソーヤー(Peter Sawyer)のアングロサクソン勅書リストの番号であり、電子版は[https://esawyer.lib.cam.ac.uk/about/index.html Electronic Sawyer]で閲覧可能である。)
- ↑ 1918年、マレー・ビーヴァンは、諸写本間で食い違う年代記の記録や、同時期にヨークを治めたグスリフソン(Guthfrithson)とシトリックソン(Sihtricson)(両者ともに名がオーラヴ(Anlaf/Olaf)である。)の区別の難しさを指摘し、エドマンドの治世を「我が国の歴史の中でも最も不明瞭な時代の一つ」と評した。『アングロサクソン年代記 D版』は941年に「アイルランドから来たオーラヴ(アンラフ)」がノーサンブリア人に王として認められ、943年にタムワースを奪取したと記すが、ビーヴァンはこれを939-940年のグスリフソンの行動と見なし、941年に彼が死ぬとシトリックソンがヨーク王に迎えられたと論じた[21]。多くの歴史家はこの見解を支持しており、本記事もそれに従う。ただし一部には異論もある。アレックス・ウルフは、ブルナンブールの戦いの後にアゼルスタンが北部の直接統治を再開せず、エイリーク血斧王を副王に任じ北部を統治させたが、940年春にエイリークがグスリフソンに追放されたことで彼の北部統治が開始されたと主張する[22]。これに対しクレア・ダウナムはウルフ説を退け、『アングロサクソン年代記 D版』に記された年代が正しいとし、ここではグスフリスソンが941年に亡くなった後の出来事を記していると説明している。つまり、エドマンドの「五都市での勝利」はグスリフソンから奪還したのではなく、長年異教徒のヴァイキングたちが支配していた領土を完全に掌握したものだと論じた[23]。ケヴィン・ハロランはこれに加えて、グスリフソンはそもそもヨーク王ではなかったと主張している[24]。
- ↑ 『アングロサクソン年代記(ASC)』の写本は慣例的にA〜Hの記号で呼ばれる[25]
- ↑ イングランド側の仲介者は確実ではない。12世紀の書物『諸王の歴史』はこの時のカンタベリー大司教をオダと伝えるが、この調停は940年のことであり、オダが大司教に就任するのは941年である。[27]
- ↑ エドマンドの勅書における称号一覧は、トラウズデイル(Trousdale)の博士論文にまとめられている。また、治世初期には「baselios」という称号を用いており、これを「皇帝」と解釈するか「王」と同義と見るかについても議論がある[37]。
- ↑ ウェールズ諸王が署名したとされるのは、エドマンド治世末期の1通の勅書(S 1497)のみである。しかしこれは「主流派」の書記たちがウェールズ王の署名を記録しなかったためと考えられる。928年から956年の間にウェールズおよびスコットランド王が署名したすべての勅書は「アゼルスタンA」または「頭韻勅書」である。[40] これらの勅書については「勅書」の節を参照。
- ↑ オットーがエドマンドの宮廷に使節を派遣したという記録は、1000年頃に匿名の著者「B」によって書かれたダンスタン伝記に基づくものである。Bは、エドマンドがダンスタンを宮廷から追放しようとした際、ダンスタンが「東方王国」(regnum orientis)から来た使節団に庇護を求めたと記している。当時の大陸の同時代資料の多くで「orientale...regnum」は東ローマ帝国を指すが、この文脈では東フランク王国を意味すると考える方が妥当である。またBは、エドマンドが崩御した日に「東方王国」から来たと称する幻影がダンスタンの前に現れたと書いている[48]。
- ↑ 935年から946年までの勅書署名者はアラリック・トラウズデール(Alaric Trousdale)の博士論文にリストアップされている[53]。また、アングロサクソン勅書の全署名者はサイモン・ケインズの『An Atlas of Attestations in Anglo-Saxon Charters』に網羅されている[54]。
- ↑ エアドレッドはほぼ常に「frater regis(王の兄弟)」として署名している。例外はS 505における「cliton(アングロサクソン語のætheling(王子)に相当するラテン語)」と、S 511における「cliton et frater regis」の2例のみである[56]。
- ↑ これはシュルーズベリーの貨幣鋳造者エオフェルムンド(Eofermund)によって鋳造されたHM var (d) 型(水平逆面・装飾付き・d型)のペニーであり、ヨーク博物館に所蔵されている。「M」は’‘Moneta’’(貨幣鋳造者)を意味する[61]
- ↑ 他にはきわめて稀少なハーフペニーが少数だけ流通していたのみである。1989年の時点で、アゼルスタンの治世からはその硬貨は確認されておらず、エドマンドの治世からは2枚のみが知られている[63]。
- ↑ エドマンドの法典は、アグネス・ロバートソンの著書『’‘The Laws of the Kings of England from Edmund to Henry I’’』に収録・翻訳されている。『第二エドマンド法典』についてはドロシー・ホワイトロックによる翻訳も存在する。これらの法典はロバートソン、パトリック・ウォーマルド、そしてアラリック・トラウズデイルによって論じられている[68]。
- ↑ ここでいうwitan(賢者たち)は、通常の「王の顧問」という狭義の意味よりも広い意味で用いられているようである[74]。
- ↑ 「ハンドレッド」はアゼルスタンの法典にも言及されているが、それは単に百人の集団を意味するのみであった[86]。
- ↑ 後期アングロサクソン時代における1ポンドは240セントと同価値である[93]。
- ↑ 繊維史家クレア・ヒギンズ(Clare Higgins)は、この絹布を8世紀後半から9世紀初頭の作品と推定しており、聖カスバートの墓にそれを納めた最も有力な人物はエドマンド王であると論じている。この絹布は、934年に墓を訪れたアゼルスタンによって納められた可能性もあるが、エドマンドとは異なり、アゼルスタンが遺体に再装飾を施したという記録は存在しない。また、この墓は1104年に再び開封されているため、その際に絹布が追加された可能性もある[94]。
- ↑ S507号勅許状の真正性の賛否については、以下のリンクの'Comment'説を参照 S 507
- ↑ 真偽不明の勅書の一つによれば、エルフギフがconcubina regis affui(王の側室として臨席した)と署名している。この文書が本物である場合、彼女の生涯の末期頃に作成されたものである可能性が高い。なぜなら、そこではエドレッドがエアドギフより上位に署名しているが、943年末から944年初頭以前にはエアドギフが先に署名していたからである[106]。
- ↑ ただし、エルフヘアの活動時期はエドマンドの治世より後の時期であり、彼の父エアルヘルム(Ealhhelm)は940年から951年のあいだ、有力太守として活動していた[112]。
- ↑ トラウズデールの博士論文の第5章の一部は、ゲイル・オーウェン=クロッカーおよびブライアン・シュナイダー編による書籍Kingship, Legislation and Power in Anglo-Saxon England(『アングロサクソン期イングランドにおける王権・立法・権力』)に収録されて出版されている[118]。
出典
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- Winterbottom, Michael, ed (2012). The Early Lives of St Dunstan. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-1996-0504-0
- Woolf, Alex (1998). “Erik Bloodaxe Revisited”. Northern History 34 (1): 189–193. doi:10.1179/007817298790178303. ISSN 1745-8706.
- Wormald, Patrick (1999). Legal Culture in the Early Medieval West: Law as Text, Image and Experience. London: The Hambledon Press. ISBN 978-1-8528-5175-0
- Wormald, Patrick (2001). The Making of English Law: King Alfred to the Twelfth Century. 1 (paperback ed.). Oxford: Blackwell. ISBN 978-0-6311-3496-1
- Yorke, Barbara (1995). Wessex in the Early Middle Ages. London: Leicester University Press. ISBN 978-0-7185-1856-1
関連文献
[編集]- Blanchard, Mary; Riedel, Christopher, eds (2024). The Reigns of Edmund, Eadred and Eadwig, 939-959: New Interpretations. Woodbridge, UK: The Boydell Press. ISBN 978-1-78327-764-3
外部リンク
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- Edmund I at the official website of the British monarchy
- イングランドのアングロサクソンのプロソポグラフィのEdmund 14。
- King Edmund I - ナショナル・ポートレート・ギャラリー