ヤッファ条約 (1192年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヤッファ条約英語: Treaty of Jaffa、稀にラムラ条約[1][2][3]Treaty of Ramla)または1192年の条約[4]と称される)は、十字軍の間に合意された休戦協定の一つで、1192年7月から8月にかけてのヤッファの戦い英語版の直後、アイユーブ朝の創始者にして君主(スルターン)のサラディンプランタジネット朝第2代のイングランド王リチャード獅子心王の間で、西暦1192年9月1日[1]ないしは2日(AH[注釈 1]588年シャアバーン20日)に調印されたものである。この条約は、エルサレム王国バリアン・ディブラン英語版フランス語版ハンガリー語版と交渉し、両軍の間に3年間の停戦を保証するものであった。この条約により、第3回十字軍は終結した。

概要[編集]

1189年から1191年までのアッコン包囲戦の後、リチャード1世とサラディンは、第3回十字軍の幕引きについて何度も話し合いを持った。大抵は宗教的所有権やエルサレムの帰属ついての議論が含まれていたが、このような試みから実際に停戦に至ったものはなかった。もちろんこれは、王が不在で崩壊が不可避となりつつあったイングランド王国に戻る必要性から、リチャードがヤッファ条約を結ぶまでのことであった[5]

エルサレム王国バリアン・ディブラン英語版フランス語版ハンガリー語版[注釈 2]との交渉の末結ばれたこの条約は、エルサレムの地位とキリスト教徒が同市を巡礼英語版する権利、そしていわゆる「アブラハムの宗教」に共通する聖地聖地における十字軍国家の主権の範囲という2つの主要な問題についてのものであった。第一に、エルサレムをイスラム勢力の支配下に置きながらもキリスト教の巡礼地として開放することで、パレスチナにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の安全な往来を保障した。第二に、ティルスからヤッファまでの海岸をキリスト教徒が支配することを定め、1187年ヒッティーンの戦いなどに敗れほぼ全領土を失ったエルサレム王国[注釈 3]は、実質的にこの二つの都市の間に広がる海岸線に縮小することになった。アスカロンの要塞は破壊され、町はサラディンに返還されることになった。リチャードもサラディンも自国のことがあったので結局和議をなす以外にすべなく10月9日にはリチャードもアッコンを去った。[要出典]

1229年のヤッファ条約との相違[編集]

1229年には、テル・エル=アジュール(Tell el-Ajjul)で1つ、ヤッファで1つ、やや似た二重条約が調印され、共に第6回十字軍の幕引きをもたらした。この条約(テル・アジュール及びヤッファ条約)は、エジプトシリア、および種種の小規模な公国の割拠するアイユーブ朝の支配者間の領土紛争を解決し、同朝の第5代スルタンであったアル=カーミルが第6回十字軍の指導者である神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世皇帝と外交協定を結ぶことを可能にした[6][7]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ヒジュラ暦のこと。
  2. ^ エルサレム王国の重臣の一家であるイブラン家の人物。
  3. ^ エルサレムもこの年失った。

出典[編集]

  1. ^ a b El-Sayed, Ali Ahmed Mohamed (2017). Islamic Awqaf related to Peace-Building Among Nations: Tamim Al-Dari Hospice as a Model. Cairo: Dar al-Kitab al-Gamey. 45–74 [60]. https://www.academia.edu/42142861 2020年6月22日閲覧。 
  2. ^ Stark, Rodney (2009). God's Battalions: The Case for the Crusades (digital ed.). Harper Collins e-books. p. 115. ISBN 978-0-06-194298-3. http://ebooks.rahnuma.org/religion/Christianity/Gods_Battalions-_The_Case_for_the_Crusades.pdf 2020年6月22日閲覧。 
  3. ^ Lane-Poole, Stanley (1901). A History of Egypt in the Middle Ages. VI, The Middle Ages. London: Methuen & Co.. 213. https://archive.org/details/historyofegypt06petr/page/n239/mode/2up?q=Treaty+of+Ramla 2020年6月22日閲覧。 
  4. ^ Amitai, Reuven (July 2017). “The Development of a Muslim City in Palestine: Gaza under the Mamluks”. ASK Working Paper 28 (Bonn: University of Bonn, Annemarie Schimmel Kolleg: History and Society during the Mamluk Era (1250–1517)): 5. ISSN 2193-925X. https://www.mamluk.uni-bonn.de/publications/working-paper/ask-wp-28-reuven-amitai.pdf 2020年6月22日閲覧。. 
  5. ^ Lane-Poole, Stanley (2007) [Original in 1898] (英語). Saladin and the Fall of the Kingdom of Jerusalem. The Other Press. ISBN 978-9839541557. https://books.google.com/books?id=9nTiBN5pWD0C 
  6. ^ Adrian J. Boas (2001). Jerusalem in the Time of the Crusades: Society, Landscape and Art in the Holy City Under Frankish Rule. London: Routledge. p. 1. ISBN 978-0415230001. https://books.google.com/books?id=0TuCAgAAQBAJ&pg=PA1 2015年5月10日閲覧。 
  7. ^ Humphreys, R. Stephen (1977). From Saladin to the Mongols: The Ayyubids of Damascus 1193–1260. State University of New York (SUNY) Press. pp. 197–198. ISBN 0873952634. https://books.google.com/books?id=JfXl5kvabhoC&q=ajul 2015年5月10日閲覧。 

参考文献[編集]

  • Richard, Jean. The Crusades, p. 328.
  • Tyerman, Christopher. The Crusades. pp. 461, 471[どれ?]]
  • Riley-Smith, Jonathan. The Crusades, p. 146[どれ?]]
  • Axelrod, Alan and Charles L. Phillips, editors. "Encyclopedia of Historical Treaties and Alliances, Vol. 1". Zenda Inc., New York, 2001. ISBN 0-8160-3090-1.

関連項目[編集]