エドレッド
| エドレッド 英 : Eadred | |
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14世紀初期頃に描かれたエドレッド王の肖像画 | |
| 戴冠 |
946年8月16日 キングストン・アポン・テムズにて即位。 |
| 先代 | エドマンド1世 |
| 次代 | エドウィ端麗王 |
| 出生 |
923年頃 ウェセックス |
| 死亡 |
955年11月23日 享年32歳 イングランドサマセット地方フルーム |
| 埋葬 |
オールド・ミンスター寺院 遺骨はウィンチェスター大聖堂に移葬。 |
| 王室 | ウェセックス家 |
| 父親 | エドワード長兄王 |
| 母親 | エドギフ・オブ・ケント |
エドレッド(Eadred、若しくはEdred[1]、923年頃 – 955年11月23日)は、10世紀のイングランド王(在位:946年5月26日 - 955年11月23日)である。 彼はエドワード長兄王と、その3番目の妻ケントのエドギフとのあいだの次男であり、アルフレッド大王の孫にあたる。 兄のエドマンド王は、狼藉を働く盗賊の襲撃から自分の家令(アングロサクソン時代の役職はこの英語版記事を参照。)を守ろうとして殺害された。 その時点でエドマンドの2人の息子、エドウィとエドガーはまだ幼児であったため、弟であるエドレッドが王となった。彼は晩年に健康を大きく損ね、30歳を少し超えた年齢で死去したが、生涯結婚しなかった。彼のあとは甥たち、エドウィ、次いでエドガーが相次いで王位を継承した。
エドレッドの年長の異母兄アゼルスタンは、924年にハンバー以南のイングランド王権を継承し、927年に南ノーサンブリアのヨールヴィーク王国を征服した。 エドマンドとエドレッドはいずれも王国全体の王権を継承したが、ヨーク民衆がヴァイキング系の王を受け入れたため、その支配をまもなく失うこととなったが、最終的には両者とも自らの治世の終わりまでにはそれを回復した。 954年、ヨークの有力者たちは最後のヨーク王血斧のエイリークを追放し、エドレッドは北ノーサンブリアのバンバラを支配するアングロ・サクソン系の統治者オスルフ1世を、ノーサンブリア全域を一元統治する最初の太守に任命した。
エドレッドは兄王エドマンドと非常に親密であり、母のエドギフ、カンタベリー大司教オダ、そして「半王(Half-King)」と呼ばれるほど強大であったイースト・アングリア太守アゼルスタンなど、エドマンドの主要な助言者の多くを引き続き登用した。 グラストンベリー修道院の修道院長で、のちにカンタベリー大司教となるダンスタンは親友であり助言者でもあった。 エドレッドは晩年、ウィタン(王の評議会)に出席できないほど病状が進んだ際、ダンスタンに勅書の起草を認めたようである。
イングランドにおける修道院改革運動が本格的に結実するのは甥エドガー王の治世になってからであるが、エドレッドはその運動初期段階における強力な支持者であり、彼は改革運動の指導者2人、すなわちエゼルウォルドとダンスタンに近しい関係であり、エセルウォルドをアビングドン修道院の修道院長に任命している。 しかし、先行する諸王と同様に、エセルウォルドの周辺の人々が抱いていた「ベネディクト会修道制こそ唯一価値ある宗教生活である」という見解を共有していたわけではなく、息子を持つ既婚者であったエルフシゲをウィンチェスター司教に任命した。
背景
[編集]9世紀、ウェセックス、マーシア、ノーサンブリア、イースト・アングリアの4つのアングロ・サクソン王国は、ヴァイキングの襲撃による攻撃をますます受けるようになり、865年の大異教軍による侵攻で頂点に達した。878年までに、彼らはイースト・アングリア、ノーサンブリア、マーシアを制圧し、ウェセックスもほとんど征服しかけたが、その年に西サクソン人はアルフレッド大王のもとで反撃し、エディントンの戦いで決定的勝利を収めた。880年代から890年代にかけて、アングロ・サクソン側はウェセックスと西部マーシアを支配したが、イングランドの残りの地域はヴァイキング支配下にあった。アルフレッドはブルフ(要塞化を施した軍事拠点)のネットワークを構築したが、これは、娘婿のマーシア領主エゼルレッドおよび長男エドワードの助けを得て、890年代に再燃したヴァイキングの攻撃を挫くうえで役立った(エドワードは、899年にアルフレッドが死去すると王となった)[2]。909年、エドワードは西サクソン人とマーシア人の部隊を送り、ノーサンブリアのデーン人を攻撃させた。翌年、ヴァイキングは報復としてマーシアを襲撃した。 彼らがノーサンブリアへ戻る途中、アングロ・サクソン軍は彼らを捕捉し、テッテンホールで彼らを撃滅した。これによりノーサンブリア系ヴァイキングの脅威は一世代にわたって終息した。910年代、エドワードと、妹でありエセルレッドの未亡人であった『マーシアの貴婦人』ことエセルフリーダは、アルフレッドの要塞網を拡充し、ヴァイキング支配下の東部マーシアとイースト・アングリアを征服した。エドワードが924年に死去した時点で、彼はハンバー以南の全イングランドを支配していた[3]。
エドワードの後を継いだのは長男アゼルスタンであり、彼は927年にノーサンブリアの支配権を掌握して、全イングランドの最初の王となった。ほどなくして、ウェールズの諸王、スコットランドの王、そしてストラスクライドの王が、彼の宗主権を承認した。この後、彼は勅書において、「イングランド人の王」などの称号、あるいは誇張された形で「ブリテン全土の王」といった称号を用いるようになった。934年、彼は兄王アゼルスタンが敢行したスコットランド侵攻に参加した。そして937年、スコットランド、ストラスクライド、ヴァイキングの連合軍がイングランドへ侵入した。アゼルスタンは自身に反旗を翻したこの連合軍をブルナンブールで決定的な勝利を収め、ブリテン島における支配的地位を固めた[4]。アゼルスタンは939年10月に死去し、アゼルスタンの異母弟・エドレッドの実兄エドマンドが2代目イングランド王となった。彼は全イングランドの王位を継承した最初の王であったが、まもなく北部の支配を失った。その年のうちに、ダブリン王国のヴァイキング王オーラフ・グズフリスソンが海を渡ってヨーク王となった。彼はさらにマーシアへ侵攻し、エドマンドは北東マーシアの五市地方割譲を強いられた。グズフリスソンは941年に死去し、942年にはエドマンドが五市地方を奪還した。944年、彼はヨークのヴァイキング王たちを追放し、イングランド全土の支配を回復した。946年5月26日、彼はグロスタシャーのパックルチャーチで、追放刑を受けた無法者による襲撃から自分の家令を守ろうとして刺殺され、息子たちがまだ幼児であったため、弟であるエドレッドが王位を継いだ[5]。
家族と若年期
[編集]エドレッドの父エドワード長兄王には3人の妻がおり、8人または9人の娘と5人の息子がおり、娘たちのうち数人は大陸ヨーロッパの王侯と結婚している。エドワードの最初の妻エクグウィンの子であるアゼルスタンは894年頃に生まれたが、彼女はおそらくアルフレッド大王が死去した頃に亡くなったと考えられている。というのも、901年までにはエドワードがエルフレッドと結婚しているからである。919年頃、彼はエドギフと結婚し、彼女との間にエドマンドとエドレッドという2人の息子をもうけた。12世紀の年代記作者マルムズベリーのウィリアムによれば、エドマンドは939年に王位に就いた時点でおよそ18歳であったという。このことから彼の誕生年は920〜921年頃となり、父エドワードは924年に死去しているため、エドレッドは923年頃に生まれたことになる[6]。彼には実姉妹が1人、あるいは2人いた。その一人、ウィンチェスターのエドブルフはウィンチェスターの修道女となり、のちに聖人として崇敬された。マルムズベリーのウィリアムは、エドレッドには母と同名のエドギフというもう1人の実姉妹がいたと述べており、彼女はアキテーヌ公ルイと結婚したとしている。ウィリアムの記述は歴史家アン・ウィリアムズとショーン・ミラーによって支持されているが、アゼルスタンの伝記作者であるサラ・フットは、彼女は実在せず、ウィリアムがエルフレッドの娘エルフギフと混同したのだと主張している[7]。
エドレッドは兄とともにアゼルスタンの宮廷で育てられ、さらに重要な大陸出身の亡命者2人、甥のフランク王族ルイ(のちの西フランク王)およびブルターニュ貴族アラン(のちのブルターニュ公)とも共に育った可能性が高い。 マルムズベリーのウィリアムによれば、アゼルスタンはエドマンドとエドレッドに深い愛情を示していたという。「父の死の時にはまだ幼児であった彼らを、彼は愛情深く育て上げ、成長すると自らの王国の一部を分け与えた」[8]。 939年、アゼルスタンの死の直前に開かれた王会(王の集会)において、エドマンドとエドレッドは勅書S 446に証人として署名している[注釈 1]。 この勅書は、彼らの実姉妹エドブルフに土地を授与するものであった。 2人はいずれもregis frater(「王の兄弟」)として署名している[9]。これが、エドレッドが証人として名を連ねたアゼルスタン治世下での唯一の勅書である。[10]
エドマンドの治世において、エドギフとエドレッドは多数の勅書に証人として署名しており、これは王家内部の強い協力関係を示している。当初はエドギフが先に署名していたが、943年末または944年初頭の ある時点からエドレッドが彼女よりも優先して署名するようになった。これは、彼の権威が次第に増していったことを反映している可能性がある。エドギフはエドマンドの勅書のおよそ3分の1に署名しており、常にregis mater(「王の母」)として記されている。彼女は宗教機関および宗教関係者へのすべての授与勅書に署名している。一方エドレッドは半数以上の勅書に署名している[注釈 2]。歴史家ポーリーン・スタッフォードは「ウェセックス王家において、即位以前の成人男性が、これほどまでに顕著な地位を与えられた例は他にない」と述べている[12]。
治世
[編集]ノーサンブリアを巡る戦い
[編集]
エドマンド1世と同様に、エドレッドは即位と同時にイングランド王国全体を継承したが、それからまもなくノーサンブリアを失い、それを取り戻すために戦わなければならなかった。ノーサンブリアには複数の対立勢力が存在していたため、情勢は非常に複雑であり、複数の時期にヴァイキングのオーラヴ・クアラン(オーラヴ・シトリクソンとも呼ばれる)がダブリンおよび南ノーサンブリアのヨーク王国を支配した。オーラヴが940年代初頭にヨーク王であった際、彼はエドマンド1世を代父として洗礼を受けたが、これはエドマンドの支配への服従を示すものであり、彼が鋳造した鋳貨もイングランド風の意匠に従っていたが、エドマンドは944年に彼を追放した。エドレッドの治世中、オーラヴとノース系の諸侯血斧のエイリーク[注釈 3]たちが断続的にヨークを支配した。エイリークはヴァイキングの剣を意匠とする鋳貨を発行しており、これはオーラヴよりもウェセックス王権にとって深刻な脅威となっていたことを意味している[15]。ヨークの有力者たちはノーサンブリア情勢の鍵を握る存在であり、ヨーク大司教ウルフスタンがその中心であった。彼らはヴァイキング王を受け入れることで断続的にイングランドからの独立を試みたが、南部王権の支配に服従した時期も度々あった。 歴史家マリオス・コスタンベイズ(Marios Costambeys)によれば、ノーサンブリアにおけるウルフスタンの影響力は、エイリークのそれを上回っていたようである[16]。 べバンブルフの統治者オスルフ1世は、ノーサンブリア北部のバーニシアを支配するアングロ・サクソン系の統治者であり、自身の利益にかなう限りにおいてエドレッド王を支持した。しかし、これらの出来事の順序はきわめて不明瞭である。というのも、『アングロ・サクソン年代記』の異なる写本同士が互いに矛盾しており、さらに同時代資料として唯一信頼できる勅書の証拠とも食い違っているからである[1]。946年、949〜950年、955年の勅書はいずれもエドレッドを「ノーサンブリア人の支配者」と記しており、これらはヨークが南部の支配に服していた時期が存在したことを示している[17]。エドマンドの死後、勅書S521は、「その後、彼(エドマンド)に代わって、その同母弟エドレッドが貴族たちによって選ばれた」と記している[18]。『アングロ・サクソン年代記』によれば、彼は即座に「ノーサンブリア全土を自らの支配下に置き」、スコットランド人から服従の誓約を得たという。また彼は、スコットランド人の支援を受けた反乱への対応としてノーサンブリアに侵攻した可能性がある[19]。946年8月16日、エドレッドはカンタベリー大司教オダによってキングストン・アポン・テムズで戴冠された。この式典には、南ウェールズのデハイバース王ハウェル・ダ、ヨーク大司教ウルフスタン、バンブルフ領主オスルフらが列席した。翌年、ノーサンブリアとマーシアの境界近くにあるタンシェルフにおいて、ウルフスタン大司教と他のヨーク有力者たちはエドレッドへの忠誠を誓った[20]。
しかしヨークの有力者たちはまもなく誓約を破り、エリックを王として受け入れた。 これに対しエドレッドは軍を率いてリポンへ進軍し、大聖堂(ミンスター)を焼き払った。 これは、ウルフスタンの最も富裕な所領の中心であったことから、彼を処罰する意図によるものだったことは疑いない[21]。これに対し、ノーサンブリア人は報復を試みた。『アングロ・サクソン年代記』写本Dによれば、「王が帰路についたとき、ヨークにいた軍勢がキャッスルフォードで王の軍を追い付き、大虐殺を行った。 それを知った王は激怒し、再びその地に戻って完全に滅ぼそうと望んだ。 ノーサンブリアの評議者たちはそれを理解すると、エイリークを見捨て、行為の償いとしてエドレッド王に賠償金を支払った」[22]という。 1〜2年以内に、彼らは再び立場を変え、オーラヴを王として迎え入れた。952年、エドレッドはウルフスタンを逮捕し、同年エイリークはオーラヴを追放した。しかし954年、ヨークの有力者たちは再びエイリークを追放し、今度は侵攻によるのではなく、北部住民自身の選択によってイングランド王権へ復帰した。この変化は恒久的なものとなった[23]。エイリークはその後まもなく暗殺されたが、これはおそらくオスルフの示唆によるものであったとされる。歴史家フランク・ステントンは、この時代にはもはや、単独の冒険者がイングランドに王朝を打ち立てることはできなくなっていたと述べている[24][注釈 4]。 ウルフスタンはその後、おそらく955年初頭に釈放されたが、大司教職への復帰は許されず、代わりにドーチェスター・オン・テムズ司教に任じられたようである[30]。 エドレッドはその後、オスルフをノーサンブリア全域の最初の太守に任命した。オスルフの地位はきわめて強固であったため、王には彼を任命する以外の選択肢がなかった可能性が高い。 実際、南部の王がバンバラそのもののエアルドルマンを自由に選べるようになるのは、次の世紀になってからである[31]。エドレッドは遺言において、1600ポンド[注釈 5]を、飢饉から民を守るため、あるいは異教徒の軍勢から和平を買うために用いるよう残している。これは、彼がイングランドをまだ安全な国であるとは考えていなかったことを示している[33]。
統治体制
[編集]930年代および940年代に発給された勅書は、アゼルスタン王・エドマンド王・エドレッド王の各治世の間で、王権統治が継続しており、政権移行が円滑に行われていたことを示唆している[34]。エドレッドの主要な顧問は、その大半が兄エドマンドから引き継がれた人物であり、少数ながら異母兄アゼルスタンの時代にまで遡る者も含まれていた。カンタベリー大司教オダと、イースト・アングリアの太守であるアゼルスタン(通称「半王」)は、もともとアゼルスタン王の顧問であり、エドマンド治世下で大きな影響力を持つようになった。エドマンドおよびエドレッドの治世におけるアゼルスタン太守の権勢はきわめて強く、「半王(Half-King)」として知られるようになった[35]。 さらに彼の名声は、妻エルフウィンが、エドマンドの后が早世した後、その次男エドガー王子の養育母となったことで一層高まった。アゼルスタン太守の兄弟であるエアドリックはウェセックス中部の太守であり、エドレッドは彼にサセックスの土地を与え、エアドリックはそれをアビンドン修道院に寄進した[36]。グラストンベリー修道院長で、後にカンタベリー大司教となるダンスタンは、エドレッドが最も信頼した友人かつ顧問の一人であり、彼の勅書の多くに証人として名を連ねている[37]。エドレッドの母エドギフは、継子であるアゼルスタンの治世下では周縁化されていたが、実子であるエドマンドおよびエドレッドの治世において再び大きな権勢を持つようになった[38]。エルフガール(Ælfgar)は、エドマンドの第二王妃であるエセルフレッドの父であり、946年から951年までエセックスの太守を務めた。エドマンドはエルフガールに、柄が金で装飾され鞘が銀で覆われた剣を贈り、エルフガールはその剣を後にエドレッドへ献上している。エルフガールは常に太守の中で最後に署名しており、アゼルスタン太守の従属的地位にあった可能性がある[39]。また、ウルフリック・クフィング(Wulfric Cufing)と、ダンスタンの兄弟である別のウルフリックの2名の従士は、エドマンドおよびエドレッドから莫大な土地を与えられており、王権による庇護が地方の小有力者を大貴族へと押し上げ得たことを示している[40]。
エドレッドは、後期アングロ・サクソン王の中でも、成文法典が現存しない数少ない王の一人であるが、「百戸制令(Hundred Ordinance)」を発布していた可能性は指摘されている[41]。当時、太守は地方において国王に代わって司法判断を下した。エドレッド治世下におけるその一例として、ある女性(おそらく奴隷)が盗まれた事件が知られている。サンベリーのアゼルスタンという男が盗まれたとされるその女性を所持していることが判明したが、彼がその女性を正当に取得したことが証明できなかったため、彼は彼女をもとの持ち主に返還し、また所有者に賠償金を支払った。しかし、ビュルトヘルス太守(Byrhtferth)は彼に対し、国王に対して自らの「ウェル(wer=命の価値)」を支払うよう命じ、支払えなかったため、サンベリーの所領を没収させたという[42]。952年には、修道院長エドヘルム(Eadhelm)(おそらく聖オーガスティン修道院の人物)が殺害されたことへの報復として、エドレッドはセットフォード住民に対する「大虐殺」を命じた。これは共同体による犯罪に対する通常の処罰であった[43]。歴史家シリル・ハートは、エドヘルムが当地に新たな修道院を設立しようとし、住民の反発を招いた結果殺害された可能性を指摘している[44]。武力はウェセックス家の諸王がイングランドを支配する上で不可欠な要素であり、歴史家ジョージ・モリニューは、セットフォード虐殺を「断続的に解き放たれる、粗野ではあるが恐るべき強制力の誇示」の一例と捉えている[45]。
アングロ・サクソン王廷は巡回的(peripatetic)であり、定まった首都は存在しなかった[46]。他の後期アングロ・サクソン王と同様、エドレッド王の直轄地の大半はウェセックスにあり、王と廷臣はそれらを巡回した。彼の移動宮廷の行程として知られる地点は、タンシェルフを除けばすべてウェセックスに位置している[47]。また、中央財庫も存在しなかったが、エドレッドは聖遺物を携行しており、それらはミサ司祭によって管理されていた[48]。 ダンスタンの最初の伝記作者によれば、エドレッドは「多くの土地勅書、先王たちの古い宝物、そして自らが得たさまざまな財宝という、最も貴重な所有物をダンスタンに託し、修道院の壁の内で忠実に守らせた」とされる[49]。しかし、ダンスタンは財宝を託された唯一の人物ではなく、ウェルズ司教ウルフヘルムなど他にも存在した。エドレッドは死の床で財産を集め、分配しようとしたが、ダンスタンが自身が保管を担当していた分の財宝を携えて到着する前に崩御した[50]。また、儀礼は極めて重要であった。復活祭の949年に発給された勅書では、エドレッドは「王冠によって高められた者」と描写されており、他の人々から隔絶された、卓越しカリスマ的な存在として王を示している[51][52]。
勅許状
[編集]925年から975年にかけての時期は、アングロ・サクソン王権文書(王憲章・ディプロマ)の黄金時代であった[注釈 6]。この時期、勅許状は王権統治の道具として最盛期を迎え、国王たちはそれを王権の威信を示す手段として、また宮廷と地方を結ぶ最も信頼性の高い通信手段として用いた[54]。アゼルスタン王治世末期からエドレッド王治世中頃までに作成された勅許状の大半は、王の文書作成局で作成されたいわゆる「外交文書の主流様式(diplomatic mainstream)」に属している。下に示す勅許状もその一例であり、「エドマンドC」と呼ばれる書記によって書かれた。彼はエドマンド王治世の憲章を2点、エドレッド王治世のものを3点作成している。この様式はおよそ950年頃からエドレッド王治世末までの間にほぼ姿を消す。また現存する憲章の数も減少し、952年および954年に作成されたものは一件も残っていない[55]。この時期の憲章には、他に二つの異なる伝統が存在する。950年頃に見られる劇的な変化の理由は不明であるが、エドレッド王が晩年に健康を害したため、憲章作成の責任を王の文書作成局から他の拠点へ移した可能性が指摘されている[56]。
一つ目の代替的伝統は、940年から956年にかけて作成された「頭韻勅許状(alliterative charters)」である。これらは頭韻の多用や異例な語彙を特徴とし、7世紀のシャーボーン司教アルドヘルムの文体的影響を受けている。作者は高度な学識を備えた書記であり、ウスター司教コエンワルドの周辺人物、あるいは彼自身であった可能性が高い。これらの勅許状はマーシア的な先行例を持ち、テムズ川以北の荘園に関するものが大半である。949年から951年の間にこの種の勅許状が7点現存しており、これは当該期間の総数の半分に相当する。さらに955年付のものが2点知られている[57]。歴史家サイモン・ケインズは次のように述べている。
「『頭韻勅許状』は、相互に密接に関連し、学識と文学作品としてそれ自体きわめて興味深い、特異な史料群を成している。ディプロマとして見た場合、それらは創意に富み、生き生きとしており、心地よいほど混沌としている。外交文書の主流からは明確に区別されるが、それでもなお、王の集会において行われた土地譲渡儀礼の中枢から生み出されたものであるように見える[58]。」
もう一つの代替的伝統は「ダンスタンB勅許状(Dunstan B charters)」である。これらは「頭韻勅許状」とは対照的に、簡素で飾り気のない文体を採用し、通常見られる冒頭の祈願文(invocation)や前文(proem)を欠いている。これらはダンスタンおよびグラストンベリー修道院と結び付けられ、エドレッド王治世中に発行されたものはすべてイングランド南部および西部の荘園に関するものである[59]。この様式の勅許状は951年から986年の間に作成されたが[60]、その先駆けとみられるのが、949年にリカルヴァー修道院とその所領をカンタベリー大聖堂に与えた勅許状である。この文書は、ダンスタンが「自らの指で」書いたと主張している。現存する文書は原本ではなく、10世紀後半の作と考えられているが、時代錯誤的要素は含まれておらず、「ダンスタンB勅許状」に特有の文体的特徴を多く備えているため、原勅許状を「改良」した版である可能性が高い[61]。ダンスタンと勅許状との関係を示すさらなる証拠として、彼の命により書写されたカエサリウス・アレラテンシスの『黙示録注解』写本に付された注釈が挙げられる。この写本の書体は、原本として現存する唯一の「ダンスタンB勅許状」と極めて類似しており、両文書がグラストンベリーの書記によって書かれた可能性が高い。ケインズはこの勅許状を「規律正しく、完全に職業的な仕事」と評している[62]。953年および955年に作成された勅許状は合計8点が現存しており、そのうち6点がこの伝統に属し、残る2点は「頭韻勅許状」である。6点の「ダンスタンB勅許状」には国王の立会署名がなく、ダンスタンは国王が重病により政務を行えなかった際、国王名義で憲章を作成する権限を与えられていたと考えられている[63]。
940年代の「主流様式」勅許状では、国王は「イングランド王(king of the English)」と称されている。一方、950年代初頭の「ダンスタンB勅許状」では、エドレッドは「アルビオンの王(king of Albion)」と記されている。これに対し、「頭韻勅許状」ではエドレッドの称号に複雑な政治的分析が反映されており、最終的にヨークを制圧しきった後になって初めて彼を「全ブリテンの王」と記している[64]。エドレッドの戴冠式の際に発行されたものを含む複数の「頭韻勅許状」では、「アングロ・サクソン人とノーサンブリア人、異教徒とブリトン人の諸王国の統治」といった表現が用いられている[65]。ケインズは「もちろん、この種の証拠を過度に重視するのは危険である。しかし、それでもなお、少なくとも一人の観察者の目には、全体はその構成要素の総和以上のものではなかった、という事実を思い起こさせる点で興味深い[34]。」と指摘している。

貨幣
[編集]後期アングロ・サクソン時代のイングランドで一般に流通していた唯一の硬貨は、銀製のペニーであった[68]。半ペニー硬貨は非常に稀であったが、エドレッド治世にさかのぼるものがいくつか発見されており、そのうちの1枚は4分の1ペニー硬貨を作るために半分に切断されている。エドワード長兄王の治世には、ペニー貨の平均重量はおよそ24グレーンであったが、これはエドガー王の改革前貨幣に至るまで徐々に減少し、エドレッドの時代までにはその減少幅は約3グレーンに達していた。[69]。いくつかの例外を除けば、前代の治世における85〜90%という高い銀含有率は、エドレッドの下でも維持された[70]。
エドレッド治世における一般的な貨幣型の1つは BC型(bust crowned)と呼ばれ、表面(obverse)に王の頭像が描かれている。多くの BC 硬貨は、アゼルスタン治世の原型様式に基づいているが、出来栄えは粗雑である。いくつかは前治世から活動していた貨幣鋳造者によって製作されたが、BC 硬貨を製作した新しい貨幣鋳造者は30人以上おり、そのうち20人近くは1枚の硬貨によってしか確認されていないため、現時点では未発見ながら BC 硬貨を製作していた他の鋳造者たちも存在した可能性が高い[71]。
H(Horizontal)型は、表面に王の胸像を持たず、裏面に貨幣鋳造者の名を横向きに記すもので、さらに一般的であった。エドレッド治世については80人を超える鋳造者が知られており、その多くは単一の現存例からのみ確認されている[72]。エドレッド治世で支配的であった様式は、南部と東部では裏面の上下にトレフォイルを備える HT1 型(右図参照)であり、北中部ではトレフォイルの代わりにロゼットを備える HR1 型であった。この HR1 型はおよそ60人の鋳造者によって作られ、エドレッド治世で最も豊富な様式であった[73]。
エドレッド治世のノーサンブリアおよび北東部では、少数の鋳造者が大量生産を行っていた一方、それ以外の地域の硬貨は多数の異なる鋳造者によって製作されていた[74]。鋳造都市名は一部の BC 硬貨には示されているが、H 型では稀である。少数の HR 型にはダービーとチェスターが示されており、また HT1 型ではオックスフォード銘を持つものが1枚、カンタベリー銘を持つものが1枚現存している[75]。エドレッド治世のほぼ全期間を通じて、ヨークにおける主要な貨幣鋳造者はインゲルガー(右図参照)であった。彼はエドレッド、オーラヴ、エイリークのために高水準の硬貨を製作し、エドレッド治世の最後の数か月まで活動したが、その後ヘリガーに交代した。もう1人の大規模な鋳造者はフンレッドで、ヨークがヴァイキングの支配下にあった時期にはダービーで活動していた可能性がある[76]。
宗教
[編集]
10世紀の主要な宗教運動であるイングランドの修道院改革運動は、エドガーの治世に頂点に達したが、エドレッドはその初期段階における強力な支持者であった[78]。もう一人の推進者は大司教オダであるが、彼は大陸における主要な中心地であるフルーリー修道院と強い結びつきを持つ修道士であった。エドレッドが即位したとき、この運動の将来の指導者となる二人の聖職者、ダンスタンとエゼルウォルドがグラストンベリー修道院にいた。ダンスタンはそれ以前にエドマンド王によって修道院長に任命されており、後にウィンチェスター司教になることとなるエゼルウォルドもこの修道院に在籍していた。またこの改革運動には、特にダンスタンと親密であった有力太守アゼルスタンやエドギフといった世俗の支持者もいた[79]。歴史学者のニコラス・ブルックスは、「証拠は間接的で不十分ではあるが、ダンスタンが10世紀初頭のウェセックスにおける有力な女性たち、特にエドギフから多大な支持を得ていたことを示唆している可能性がある」と評している。ダンスタンの最初の伝記作家によれば、エドレッドは空席となっていたクレディトンの司教職を受諾するようダンスタンに促した。ダンスタンがこれを拒むと、エドレッドはエドギフを介してダンスタンを食事に招き、彼女の「女性特有の言葉の才」を用いて説得を試みさせたが、その試みは失敗に終わった[80]。
エドレッドの治世中、エゼルウォルドは聖書と修道生活への理解を深めるため、フルーリーのような微塵も疑う余地のないほど改革された修道院を目指して海外へ渡る許可を求めた[81]。彼はグラストンベリーの規律が緩すぎると考えていた可能性がある[5]。エドレッドは、これほど賢明な人物を王国から去らせるべきではないという母の助言を受け入れ、代わりに彼をアビンドン修道院長に任命した。当時アビンドンは世俗司祭によって運営されていたが、エゼルウォルドはここを主要なベネディクト会修道院へと変貌させた。エドレッドはこの共同体を支援し、アビンドンの100ハイドもの王室直轄領を譲渡するなどした。エドギフはさらに寛大な寄進者であった[82]。エドレッドは修道院の計画を立てるためにアビンドンへ赴き、壁を築く予定の基礎を自ら測量した。その後、エゼルウォルドの招きに応じ、王は夕食を共にした。王はミード(蜂蜜酒)をふんだんに供するよう命じ、王の晩餐を途中で去る者が出ないよう扉には鍵がかけられた。随行していたノーサンブリアの従士たちは、彼らの慣習通り泥酔し、非常に上機嫌で立ち去った。しかし、建設作業が実施される前にエドレッドは没し、建物が完成したのはエドガーが即位してからのことであった[83]。
修道院改革の支持者たちは、聖人崇拝や遺物に対して献身的であった。エドレッドがノーサンブリア侵攻に際してリポン修道院を焼き払ったとき、オダは聖ウィルフリッドの遺物と、エディウス(リポンのステファヌス)が記した『聖ウィルフリッド伝』を奪い、カンタベリーへと持ち去った。この伝記(ヴィタ)を基に、オダの家臣であったフランク人学者フリテゴドが、新たな韻律によるウィルフリッドの伝記(Breuiloquium Vitae Wilfridi)を執筆した。また、オダの名による序文(おそらくはフリテゴドが起草したもの)は、リポン修道院側によるウィルフリッドの聖遺物の「忌まわしき放置」を非難することで、この奪取を正当化した[84]。マイケル・ラピッジは、修道院の破壊は「悪名高い『神聖な盗み(furtum sacrum)』」の口実となったと見ている[85]。ウィルフリッドは独立心の強い北部の司教であったため、歴史学者デイヴィッド・ローラソンの見解によれば、この奪取は、遺物がウェセックス王家に対する抵抗の象徴となるのを防ぐ意図があった可能性がある[86]。歴代の王たちもまた遺物を熱心に収集しており、それは自らの信心深さを示し、威信を高めるものであった。エドマンド王は遺言により、自身の遺物を守るために任命した司祭たちへ遺贈を行っている[87]。
エドガーの時代になると、ベネディクト会こそが唯一価値ある宗教生活であるというエゼルウォルドら一派の考えが主流となったが、エドレッドのような初期の王たちの見解はそうではなかった[88]。951年には、エドレッドは妻子ある身であったエルフシゲをウィンチェスター司教に任命した[1]。エルフシゲは改革派の聖職者ではなく、後世には改革運動に敵対的な人物として記憶された[89]。エドレドの治世では、勅許状の受領者が聖職者から離れていく傾向が継続した。アゼルスタンの治世では受領者の3分の2以上が聖職者であったが、エドマンドの時代には3分の2が世俗人となった。エドレッドおよびエドウィの治世下では、受領者の4分の3を世俗人が占めた[90]。
10世紀半ば、一部の宗教的な貴族女性は、尼僧院の構成員となることなく土地の譲渡を受けていた[91]。アゼルスタンは2件、エドマンドは7件、エドレッドは4件の所領を授与した。この後、もう1件の寄進を除いて、この慣習は突如として途絶えた。これらの寄進の意義は定かではないが、最も有力な説明は、一部の貴族女性が自らの方法で宗教的な使命を追求できるよう、つまり、尼僧院を設立するか、あるいは自邸で宗教的生活を送るために、所領を授けられたというものである[92]。953年、エドレッドは母にサセックスの土地を譲渡したが、勅許状の中で彼女は「神の侍女(famula Dei)」と記されている。これは、彼女が修道院に入ることなく、自らの所領を保持したまま宗教的生活に入ったことを意味していると考えられる[93]。
学問
[編集]グラストンベリーとアビンドンは学問の主要な中心地であり、ダンスタンとエゼルウォルドはいずれも優れたラテン語学者であったが、彼らの修道院における研究についてはほとんど知られていない。オダもまた有能なラテン語学者であり、カンタベリーにある彼の邸宅は、10世紀半ばにおけるもう一つの主要な学問の中心地であった。そこにおける最も輝かしい学者は、フリテゴドであった。中世ラテン語文学の専門家であるラピッジは、彼の詩『Breuiloquium Vitae Wilfridi』を「おそらく10世紀のアングロ・ラテン文学において最も注目すべき記念碑」と評している[94]。それは「アングロ・サクソン期のイングランドにおける、最も輝かしく独創的だが、同時に忌々しいほど難解なラテン語作品の一つ」であり[95]、「解釈学的様式のアングロ・ラテン文学における『傑作』と(疑わしくも)表現される可能性がある」[96]。フリテゴドは、オダの甥であり後のヨーク大司教、そして修道院改革運動の第3の指導者となるウスターのオズワルドの家庭教師を務めた。フリテゴドは、パトロンであったオダが958年に没するとフランク王国へと帰還した[97]。
エドレッド王の遺言
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エドレッドの遺言は、現存するアングロ・サクソン王の遺言のうち、わずか2つのうちの一つである[99][注釈 9]。その内容は以下の通りである。
- 「主の名において(In nomine Domini)。これはエドレッド王の遺言である。第一に、王は自身の遺体が安置されることを望む財団に対し、2つの金の十字架、金装飾の柄を持つ2振りの剣、および400ポンドを贈呈する。また、ウィンチェスターのオールド・ミンスターに対し、3つの領地、すなわちダウントン、ダメラム、およびカインを贈る。また、ウィンチェスターのニュー・ミンスターに対し、3つの領地、すなわちウェルウェル、アンドーヴァー、およびキングスクリア を贈る。さらにウィンチェスターの聖マリア修道院に対し、シャルボーン 、サッチャム、およびブラッドフォード=オン=エイヴォンを贈る。また、聖マリア修道院に30ポンド、ウィルトン修道院に30ポンド、シャフツベリー修道院に30ポンドを贈る。
- また、王は自身の魂の救済と民の安寧のため、彼らが困窮や異教徒の軍勢から自らを救うための費用を賄えるよう、1600ポンドを贈る。このうち、クライストチャーチの大司教は、ケント、サリー、サセックス、およびバークシャーの民の救済のために400ポンドを受け取るものとする。もし大司教に万一のことがあれば、その金銭は修道院に留め置かれ、当該の州にいる評議会議員がこれを管理するものとする。そして、ウィンチェスター司教座の司教エルフシィは400ポンドを受け取り、そのうち200ポンドをハンプシャーに、100ポンドずつをウィルトシャーとドーセットシャーに充てるものとする。もし彼に万一のことがあれば、上述のケースと同様に、当該の州の評議会議員がこれを管理するものとする。また、修道院長ダンスタンは200ポンドを受け取り、サマセットとデヴォンの民のためにグラストンベリーに保管するものとする。彼に万一のことがあれば、上述と同様の措置が取られるものとする。また、エルフシゲ司教は残りの200ポンドを受け取り、必要とする州のためにウィンチェスターの司教座に保管するものとする。そして、オスキテル司教は400ポンドを受け取り、上述の取り決めに従って、マーシア人のためにドーチェスターの司教座に保管するものとする。現在、ウルフヘルム2世司教がその400ポンド(?)を保持している。また、2000マンクスに相当する金を取り出し、マンクス金貨として鋳造するものとする[注釈 10]。大司教がその一部を、エルフシゲ司教が二部を、オスケテル司教が三部を受け取り、彼らは神のため、そして私の魂の救済のために、各司教区にこれらを分配するものとする。
- また、我が母に対し、エームズベリー、ウォンテージ 、オールド・ベイジングの領地、および私がサセックス、サリー、ケントに所有するすべてのブックランド、ならびに彼女が以前から所有していたすべての領地を贈る。また、大司教に200マンクスの金を贈る(※100を120として計算する)。そして私の各司教に120マンクスの金を、各伯爵に120マンクスの金を贈る。また、任命された各家令、任命された各王室衣裳局および献酌官に80マンクスの金を贈る。そして、私が自身の遺物の管理を任せた各司祭に50マンクスの金と5ポンドの銀を贈る。その他の各司祭には5ポンドを贈る。また、任命された各管理人に30マンクスの金を贈り、私が即位して以来任命された(?)すべての聖職者、および私の王室のすべての構成員に対し、その職分が何であれ、……王宮に属さない限り、30マンクスの金を贈る。
- また、上述の各領地において12名の施しを受ける者(almsmen)が選ばれることを望む。彼らの誰かに万一のことがあれば、別の者がその職に任命されるものとする。これはキリスト教が続く限り、神の栄光と私の魂の救済のために有効であるものとする。もし誰かがこれを実行することを拒むならば、その領地は私の遺体が安置される場所へと帰属するものとする[102]。」
この遺言は、ステントンによって「征服前の王室に関する主要な典拠」と評されている。それによれば、王の食卓には「discthegns(家令)」が仕え、その他の主要な官職には献酌官や「hræglthegns(衣裳局長)」がいたことが示されている[103]。遺言に記されたすべての領地はウェセックスにあり、これは王室の財産がそこに集中していたことを反映しているが、王は場所を特定せずに南東部のブックランドについても言及している[104]。エドウィは自身が遺言から除外されたことに満足していなかったはずであり、彼の即位後にこの遺言は破棄(あるいは棚上げ)されたようである[105]。

病気と死
[編集]エドレッドは晩年は病に苦しみ、それは徐々に悪化して早すぎる死を招いた[1]。おそらく王室の一員として宮廷に仕えていたと思われる、ダンスタンの最初の伝記作家は次のように記している。
- 不幸なことに、ダンスタンの愛したエドレッド王はその治世を通じて非常に病弱であった。食事の際、彼は食べ物の汁を吸い、残ったものをしばらく噛んでは吐き出した。この習慣は、共に食事をしていた従士たちの吐き気を催させることもしばしばであった。彼は肉体の抗議(?)にもかかわらず、かなり長い間、病人としての生活を精一杯送り続けた。ついに悪化した病が千倍もの重みで幾度となく彼を襲い、不運にも彼を死の床へと追いやった[107]。
11世紀の聖人伝作家ヘルマン執事長は、エドレッドを「debilis pedibus」(両足が不自由)であったと表現しており[108]、晩年の王はおそらくダンスタンのような主要な有力者に権限を委ねていた[109]。王が病に伏せると賢人会議の開催は稀になり、実務は制限され、太守の任命も行われなくなった[110]。健康状態が悪かったためか彼は結婚せず、955年11月23日、サマセットのフロームにて30代前半で没した[1]。
彼はウィンチェスターのオールド・ミンスターに埋葬された[注釈 11]。しかし、それはおそらく彼の望んだ場所ではなかった。遺言の中で彼は「自身の遺体が安置されることを望む」場所(具体的な地名は特定せず)への遺贈を行い、それとは別にオールド・ミンスターへ財産を贈っていることから、それらが別の場所であったことが示唆される。エドウィとウィンチェスター司教エルフシゲが埋葬場所を決めた可能性がある[112]。歴史学者のニコール・マラフィオティは、エドレッドはグラストンベリーへの埋葬を望んでいたが、エドウィがそれを阻むためにウィンチェスターを強行したのではないかと推測している。これは、エドレッドの支持者たちがその墓を新政権に対する「イデオロギー的な対抗手段」として利用するのを防ぐためであった[113]。
評価
[編集]内政とイングランド全土の支配権の回復はエドレッドの統治政策の中心であり、アゼルスタンやエドマンドとは異なり、彼が西フランク王国の政治に関与したという記録はない。ただし、949年にはエドレッドからの使節が、アーヘンにある東フランク王オットー1世の宮廷を訪れている。自身の権威を一般に認めさせることがエドレッドの第一の義務であり、彼の主な関心事は北部の反乱に対処することであった[114]。ノーサンブリアは歴代のウェセックス王に対して独立を求めて戦ったが、ノルウェー王族 血斧のエイリークの受け入れが最後のあがきとなり、最終的にエドレッドの治世において征服された[115]。歴史学者の間では、彼の役割がいかに大きかったかについて意見が分かれている。歴史学者ベン・スヌークの見解では、エドレッドは「自身の代わりに国を運営するためにキッチン・キャビネット(側近グループ)に依存しており、直接的な権限を大きく行使したことは一度もなかったようである」という[116]。
ハートは、エドマンドの治世においてエドギフとアゼルスタン半王(イーストアングリア太守)が国家政策の多くを決定しており、その状況はエドレッドの下でもあまり変わらなかったと示唆している[117]。対照的に、ウィリアムズの見解では、エドレッドは「明らかに有能で精力的な王であったが、虚弱体質と、(最期には)早すぎる死をもたらした重病によって妨げられた」という[1]。
甥たちに対するエドレッドの態度は定かではない。いくつかの勅許状には、エドウィとエドガーの両名が「クリトン(cliton)」(王子を指す中世ラテン語)として署名しているが、別の勅許状ではエドウィが「クリトン」または「アシリング(ætheling)」(王子を指す古英語)として、エドガーはその弟として署名されている[118]。エドウィは即位すると、エドギフから所領を没収し、ダンスタンを追放した。これは明らかに、父や叔父の強力な顧問官たちから自由になろうとする試みの一環であった。この試みは失敗に終わった。2年以内に彼は王国を分割することを余儀なくされ、エドガーがマーシア王となり、エドウィはウェセックスを保持したからである。エドウィはわずか4年の統治の後、959年に没した[119]。
注釈
[編集]- ↑ 勅書に割り振られているS(番号)は、歴史家ピーター・ソイヤーによって割り振られたアングロサクソン時代の勅書の振り分け番号であり、以下のウェブサイトにてそれらを確認することができる。 Electronic Sawyer.
- ↑ エドレッドはエドマンドの勅書にほぼ常にfrater regis (王の弟)として署名しており、例外は以下の2つの勅書(S505ではクリトン(Cliton、中世ラテン語で王子の意)、S511ではクリトンかつ王弟)である“S 505”. 2026年4月5日閲覧。“S 511”. 2026年4月5日閲覧。.[11]。
- ↑ 多くの歴史家は、ヨークを支配したエイリークを、ノルウェー王ハーラル美髪王の子である血斧のエイリークと同一人物とみなしているが、クレア・ダウンハムは両者は別人であると主張している[13]。アレックス・ウルフによる議論も参照[14]。
- ↑ 年代の整理は非常に混乱しているが[25]、多くの歴史家はここに示した出来事の順序自体は受け入れている。ただし年代については意見が分かれる[26]。例えば、アレックス・ウルフはオーラヴの治世開始を949年末とし、ショーン・ミラーは950年末または951年としている[27]。ピーター・ソーヤーとアン・ウィリアムズは、エイリークの治世は一度きりであったと主張している[28]。ダウンハムによる議論も参照[29]。
- ↑ この時代の「ポンド」は貨幣ではなく、240ペンスに相当する計算単位であった[32]。
- ↑ 勅許状(charter)またはディプロマ(diploma)とは、国王が個人や宗教施設に対して土地や特権を授与するための法的文書であり、通常は一枚の羊皮紙にラテン語で書かれた[53]。
- ↑ M は Moneta(貨幣鋳造者)を意味する(M stands for Moneta (Moneyer).)。この硬貨は HT1 に分類され、そのreverse(Obverse and reverse)には貨幣鋳造者の名が横向きに示され、中央に3つの十字、上下にtrefoil(trefoil)が配されている。[67]
- ↑ 15世紀半ばの『リーベル・アバティア (Liber Abbatiæ)』には、エドレッド王の遺言の唯一現存する写しが収められている。古英語による遺言は23面表(f. 23r)にあり、中英語への翻訳は23面表から23面裏(ff. 23r-23v)に、ラテン語への翻訳は23面裏から24面表(23v-24r)に記されている。古英語版は1914年にフローレンス・ハーマーによって翻刻・翻訳され、1955年(第2版1979年)にはドロシー・ホワイトロックによって翻訳された。これら3つのバージョンすべてが、2001年にショーン・ミラーによって翻刻されている[98]。なお、著作権上の理由から、ここではハーマーによる翻訳を基に記述する。
- ↑ もう一つの現存する王の遺言は、アルフレッド大王のものである[100]
- ↑ マンクスは金の重量単位、あるいは30ペンスに相当する硬貨を指す。現存するマンクス金貨は極めて少なく、儀式目的でしか大量生産されなかった可能性がある[101]
- ↑ オールド・ミンスターは11世紀後半に解体され、ウィンチェスター大聖堂に建て替えられた[111]。大聖堂にはアングロ・サクソンの君主の名が記された6つの納骨箱があり、そのうちの一つにエドレッドの名がある。1642年、イングランド内戦 の議会派軍がこれらの箱を空にして骨を混ぜ合わせたため、各箱には様々な人物の骨が混在している[106]
脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 Williams 2004b.
- ↑ Keynes & Lapidge 1983, pp. 9, 12–13, 24–25, 37–38, 41–44; Costambeys 2004a.
- ↑ Miller 2004.
- ↑ Foot 2011a.
- 1 2 Williams 2004a.
- ↑ Miller 2004; Foot 2011b, pp. 31, 50–51; Mynors, Thomson & Winterbottom 1998, p. 229.
- ↑ Foot 2011b, p. 45, 50–51; Williams 2004a; Miller 2004; Mynors, Thomson & Winterbottom 1998, p. 201.
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