ギヨーム1世 (ノルマンディー公)
| ギヨーム1世 | |
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セーヌ・ノルマン人のヤール ルーアン伯 | |
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在位期間 932年 - 942年 | |
| 先代 | ロロ |
| 次代 | リシャール1世 |
| 出生 | 900年頃 |
| 死亡 |
942年12月17日 ノルマンディー公国 ピキニー |
| 王室 | ノルマン朝 |
| 父親 | ロロ |
| 母親 | ポッパ・ド・バイユー |
| 配偶者 |
リュトガルド・ド・ヴェルマンドワ スプロタ |
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子女 リシャール1世 | |
| 信仰 | キリスト教 |
長剣のギヨーム(仏語:Guillaume Longue-Épée・古ノルマン語:Williame de lon Espee・ラテン語:Willermus Longa Spata・古ノルド語:Vilhjálmr Langaspjót、900年頃 - 942年12月17日)とは、10世紀前半にノルマンディーを統治した2代目のノルマン人指導者である。ロロとポッパ・ド・バイユーの息子である。セーヌのノルマン人の長(ヤール)およびルーアン伯を務めた彼は、実質的に第2代ノルマンディー公と見なされているが、「公(dux)」という称号が一般的に用いられるようになったのは11世紀に入ってからのことである[1]。彼は在位中、ノルマンディー公としてではなく、ルーアン伯(count of Rouen)として知られていた[2][3]。9 - 10世紀のフランク人年代記作者フロドルドはロロと彼の息子ギヨームの称号を一貫してノルマン人のプリンケプス(principes:首長)と言及している[4]。また、ギヨームの渾名「長剣(Longsword)」も彼と同年代に記された文献には登場せず、初出は11世紀後半になってからである[5]。
ロロの継承者
[編集]ギヨームの死後まもなく綴られた『長剣のギヨームの哀歌』によれば、彼は海を越えた異郷の地において、キリスト教徒の母と未だ異教の徒であった父ロロの間に生を授かったという。父はその時、未だ後世のノルマンディーを統べるヤールの座にはなく、掠奪の地を求めて大海を彷徨う一介のヴァイキングの首領に過ぎなかった。
911年、サン=クレール=シュール=エプト条約が締結され、西フランク王シャルル3世によりロロがネウストリアの地に定着して以降、ギヨームはこの領土の正当な後継者として立てられた。927年頃、ドゥド・ド・サン=カンタンの記録によれば、ロロはもはや国政を執るに耐えぬ状態にあったとされる[6]。これを受け、ノルマン人とブリトン人による集会が開かれ、ギヨームがその後継者に推戴された。首領の座に就いたギヨームは、直ちにシャルル3世のもとへ参じて臣従を誓い、その庇護を得た。
セーヌ・ノルマン人の新たなヤール(Jarl / 伯)となったギヨームの真の姿を詳らかにすることは容易ではない。主要な史料であるドゥド・ド・サン=カンタンの叙述は、多分に聖人伝的な潤色を帯びる傾向にあるためである。しかし、父とは対照的にギヨームが敬虔なキリスト教徒であったことは論を俟たない。935年以降、彼はヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘リュトガルドを正妃として迎えた。また、ギヨームはモン・サン=ミシェルの聖歌隊席参事会員へ多大な寄進を行い、ジュミエージュ修道院を再興した[7]。一時は同修道院への隠棲を志したほどであり、姉妹のアデールに対し、サン=シプリアン・ド・ポワティエ修道院から12名の修道士を招請するよう命じた[7]。
ギヨームの治世は、成立して間もないノルマンディーの支配を盤石なものへと昇華させた時代であった。ドゥードは、このヤールを平和と秩序の再建者として高く評価している。また、現代の史家リュシアン・ミュッセは、ギヨームを「ノルマンディーの成功における真の立役者」と形容した。ミュッセによれば、911年に創設された国家が、940年代に西方スカンディナヴィア世界を襲った全般的な危機を乗り越え得たのは、ギヨームがスカンディナヴィアの伝統をロマノ・フランクの体制に見事に接ぎ木した功績に帰せられるべきである[8]。
ギヨームとブルターニュ人
[編集]931年頃、ロワール・ヴァイキングの占拠下にあったブルターニュの一部は、極めて不安定な情勢に揺れていた。ブルターニュ人がヴァイキングの占拠者に対し蜂起すると、ギヨームは(恐らくはロワール・ノルマン人の支援を得て)ブルターニュへの侵攻を開始した。ブルターニュの首領アランとジュエル・ベランジェは敗北を喫し、前者は海を渡ってイングランドへ亡命、後者はノルマン側との和解を余儀なくされた。
しかし、ギヨームの勝利がもたらした帰結は何であったか。ドゥード・ド・サン=カンタンは、ギヨームが「ノルマン人とブルターニュ人の公」であったと繰り返し強調している。事実、モン・サン=ミシェルからは、彼をブルターニュ公と記す硬貨が発見されている。また、このヤールの周囲にはしばしばブルターニュの首領たちの姿が見られた[9]。あたかもブルターニュがギヨームの支配領域に組み込まれたかのような様像を呈しているが、ミュッセはこれを征服による直接支配というよりは、ノルマンディーによるブルターニュへの保護権の確立であったと示唆している。
933年、ギヨームは国王ラウールに対し、「海辺に位置するブルターニュ人の地」を対象として臣従礼を行った。ここでいう「地」とはブルターニュ全土を指すものではない。当時の王権はもはや当該地域に何ら実効的な権利を有していなかったためである。歴史家たちは通常、この譲渡対象をコタンタンおよびアヴランシャンであると解釈している[10][注 1]。これらの地域は、66年前の867年にコンピエーニュ条約によってシャルル2世禿頭王からブルターニュ側へ割譲された土地であった。933年のこの合意により、ノルマンディーはその最終的な版図とほぼ重なる領域を手中に収めるに至った。
もっとも、カール=フェルディナント・ヴェルナーはこの通説に対し、ルーアンの第2代ヤールがこれら西方の辺境地帯を実際に掌握していたという証拠は存在しないと警鐘を鳴らしている[11]。国王ラウール自身もこの地域の支配権を喪失していた以上、この譲渡は形式的なものに過ぎず、むしろコタンタンのヴァイキング植民地を武力で屈服させ、ヤールの臣従を通じて彼らを西フランク王国へと統合することをギヨームに促す意図があったと考えられる。
リウルフの反乱
[編集]934年頃、ギヨームはコタンタンおよびエヴルー伯リウルフ率いるノルマン人の大規模な叛乱に直面した[12][注 2]。この叛乱が具体的にどの地域から発生したかについては、依然として議論の余地がある。ジュミエージュのギヨームは「ノルマンディーの奥地」と記し[13]、12世紀の年代記作家オルデリック・ヴィタルはリウルフがエヴレサンの出身であったと伝える一方、リュシアン・ミュッセは反乱軍が西方の地から進軍したと推測している[8]。叛徒らがヤールに突きつけた非難は、彼の(母方を介した)フランク的出自、およびあまりにフランク側に傾倒した政策に対するものであった。
リウルフは叛乱軍を率いてルーアンの城壁直下、モン・リブデに隣接する谷にまで進軍。数において勝る兵力を展開し、本陣を据えた。対するギヨームは、アンスレック)、ベルナール・ル・ダノワ、およびベッサン伯ボトン・ド・ベッサン)ら一族・臣下とともに打って出、モン=ト=マラドと称される丘の上に陣を構えた。ギヨームはフランク風の装甲騎兵隊を主力に据え、機を逃さずコタンタン軍への猛攻を開始。これを蹂躙し、叛乱軍を壊滅せしめた[注 3]。
歴史家たちはこの事件について、ノルマンディー西部あるいは中部に拠点を置くヴァイキングらが、ルーアンのヤールの権威に服することを拒んだ抵抗の現れであると解釈している。換言すれば、この事象は、ロロの末裔によるノルマンディー支配が未だ不完全なものであったという仮説を裏付けるものといえる。リウルフは、ルーアンの支配から独立したヴァイキング首領たちの典型的な象徴として位置づけられている[14]。
ピキニーの謀略
[編集]ギヨームは、フランドル伯アルヌール1世、ヴェルマンドワ伯エルベール2世、およびユーグ大公らとともに、西フランク王国の北部において主導的な役割を果たす有力諸侯の一群に属していた。彼らは時に同盟し、時に敵対しながら、国王を支持し、あるいはこれに抗した。
935年、ギヨームはヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘リュトガルド・ド・ヴェルマンドワとキリスト教式の婚礼を挙げた[15]。ドゥードによれば、936年にカロリング朝の王位請求者であるルイ4世が王座に復帰した際、ノルマン人の支援が決定的な役割を果たしたとされる。対照的に、940年には、ギヨームは国王およびフランドル伯アルヌールに対抗すべく、ユーグ大公およびエルベール2世の側に転じた。彼はルイ4世との合意が成立するまで、ランスおよびランの包囲戦において彼らを支援した。

ノルマンディーとフランドル伯国の関係は常に流動的であった。925年、ロロが未だヤールの座にあった頃、アルヌール1世はウーの要塞を奪取していた。しかし939年には、ギヨームとアルヌールは西フランク王に対抗すべく、東フランク国王オットー1世に対して共同で忠誠を誓った。938年から939年にかけて、フランドル伯(およびアルトワ伯)アルヌール1世により本拠地モントルイユを奪われたエルルアン・ド・モントレイユは、ギヨームに救援を求めた[16]。これに応じてノルマン軍が介入した。リシェ・ド・ランスおよびドゥードによれば、ルーアンのヤール自らもこの戦闘に参加したという。939年、モントレイユは奪還された。所領を回復したエルルアンは、ポンチュー領主の立場において、ギヨームに忠誠(臣従礼)を誓った。これによりノルマン人はピカルディーの沿岸部を支配下に置き、フランドル勢力の南方進出を阻止するに至った。
このモントレイユを巡る紛争こそが、942年12月17日に起きたギヨームの悲劇的な最期を説明する一因かもしれない[15]。ノルマンディーの強大化を危惧する主要なフランク諸侯らが画策する中、ギヨームは和睦の交渉を口実として、アルヌール1世からピキニーでの会見に招かれた。ソンム川の中州において両諸侯の間で平和の誓約が交わされた直後、ギヨームは卑劣な罠に嵌められた。恐らくはアルヌール1世の命を受けたカンブレー伯の息子ボードワンの手により、彼は暗殺されたのである。
ギヨームの忠臣たちがその遺体を回収した際、彼の手元からは一本の鍵が発見された。それは、修道士が纏う粗末な修道服(ビュール)が納められた櫃を開くためのものであった。彼の墓所はルーアン大聖堂に安置されている。
家族と子女
[編集]父母
[編集]配偶者
[編集]- リュトガルド:ヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘。キリスト教婚を挙げたが、子女には恵まれなかった。ギヨームの死後、彼の暗殺に関与した疑いのある諸侯の一人、ブロワ伯ティボー1世と再婚。974年には、マント=ラ=ジョリーの参事会教会に対し、アルヌヴィル、イスー、リメー、マント=ラ=ヴィルの地を寄進した。
- スプロタ:高貴な家系の出身であるブルターニュ人女性で、レンヌ伯ジュエル・ベランジェの娘[17]。ギヨームとは「デーン人の習俗(モレ・ダニコ)」に従って婚姻の契りを結んだ。後にアスペルレング・ド・ピートルと再婚した(イヴリー家参照)。
姉妹
[編集]子女
[編集]- リシャール1世:スプロタとの間に生まれた息子。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ この「ブルターニュ人の地」には、フェレカンあるいはフレスタリなる首領に率いられた異教のノルマン人が定住していた。彼らは主に湿地帯の北方、すなわちロロの権威が及ばぬ地域を占拠していた。フレスタリは後に、ブルターニュ人との戦いの中で、本来彼らの権利に属する土地において討ち取られることとなる(Davy 2014, p. 77)。
- ↑ リウルフは931年の聖ミカエル祭において、一度ギヨームを破っていた(Davy 2014, p. 77)。
- ↑ ルーアンの「プレ=ド=ラ=バタイユ通り(戦闘の草原通り)」の名は、ギヨームの軍勢と、リウルフに率いられたベッサンおよびコタンタンのノルマン人との間で行われたこの衝突を今に伝えている(Neveux 1998, p. 35)(d'Hauterive 1926, p. 166)(Dubuc 2003, p. 156)。
- ↑ デーン人の習俗(モレ・ダニコ)の下では、男性は正妻以外に門地の高低を問わず一名以上のフリッラ(愛妾)を持つことが容認されていた。そこから生まれた子供たちは、カトリック教会からは私生児と見なされたものの、世俗の法においてはあらゆる面で正当な相続人と見なされた。
出典
[編集]- ↑ Douglas 1946, p. 130.
- ↑ David Crouch, The Normans: The History of a Dynasty, (London: Hambledon Continuum, 2007), p. 14.
- ↑ The Normans in Europe, ed. & trans. Elisabeth van Houts (Manchester; New York: Manchester University Press, 2000), pp. 31, 41, 182
- ↑ Eleanor Searle, Predatory Kinship and the Creation of Norman Power, 840–1066 (Berkeley: University of California Press, 1988), p. 45
- ↑ Crouch, David (2002). The Normans: The History of a Dynasty. London: Hambledon Continuum. p. 9
- ↑ Douglas 1942, pp. 434–435.
- 1 2 Neveux 2009, p. 98.
- 1 2 Musset 1970, p. 109.
- ↑ Guillaume de Jumièges 1826, p. 71.
- ↑ Neveux 2009, pp. 87–88.
- ↑ Werner 1976, p. 701.
- ↑ Davy 2014, p. 77.
- ↑ Guillaume de Jumièges 1826, p. 62.
- ↑ Bauduin 2002, p. 80.
- 1 2 Neveux 2009.
- ↑ Neveux 2009, p. 96.
- ↑ Davy 2014, p. 79.
参考文献
[編集]- Douglas, David C. (1946). “The Earliest Norman Counts”. The English Historical Review (Oxford University Press) 61 (240): 129-156. JSTOR 555396.
- Douglas, C. D. (1942). “Rollo of Normandy”. The English Historical Review (Oxford University Press) 57 (228): 417-436. JSTOR 554370.
- Neveux, François (2009). L'aventure des Normands : VIIIe-XIIIe siècle. Perrin. ISBN 978-2262029814
- Neveux, François (1998). La Normandie des ducs aux rois : Xe-XIIe siècle. Rennes: Ouest-France. ISBN 978-2737309854
- Musset, Lucien (1970). “Naissance de la Normandie”. In de Bouärd, Michel. Histoire de la Normandie. Toulouse: Privat
- Guillaume de Jumièges (1826). Guizot, François. ed. Histoire des Normands par Guillaume de Jumièges. Paris: Brière
- Davy, André (2014). Les barons du Cotentin. Condé-sur-Noireau: Éditions Eurocibles. ISBN 978-2-91454-196-1
- Werner, Karl-Ferdinand (1976). “Quelques observations au sujet des débuts du duché de Normandie. Droits privés et institutions régionales”. Droit privé et Institutions régionales. Études historiques offertes à Jean Yver. Paris: PUF
- d'Hauterive, Ernest (1926). “Intermédiaire des chercheurs et curieux de Normandie”. Revue catholique d'histoire, d'archéologie et littérature de Normandie 35: 166. ISSN 1245-6241.
- Dubuc, Jean (2003). Histoire chronologique de la Normandie et des Normands : des origines à 1204. Marigny: Eurocibles. ISBN 978-2-9145-4130-5
- Bauduin, Pierre (2002). La première Normandie (Xe-XIe siècles). Caen: Presses Universitaires de Caen. ISBN 978-2841331451