ラルフ・ワルド・エマーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
ラルフ・ワルド・エマーソン
エマーソン1857年
エマーソン1857年
別名 コンコードの賢者
生誕 1803年5月25日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 1882年4月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコード
時代 19世紀哲学
地域 西洋哲学
学派 超越主義
研究分野 個人主義、神秘主義
主な概念 自己信頼、オーバーソウル
署名 エマーソン署名
テンプレートを表示

ラルフ・ウォルドー・エマーソンRalph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən]1803年5月25日[1] - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国思想家哲学者作家詩人エッセイスト無教会主義の先導者。娘のイーディス(Edith Emerson)がウィリアム・ハサウェイ・フォーブス英語版と結婚し、エマーソン家は一層格式の高い門閥となった。

Waldoはウォルドウウォルドワルド、Emersonはエマソンエマスンなどとも表記される(英語では、Emersonは第1音節にアクセントがある)。

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワースカーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。

エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836年の評論'Nature'において、超越主義哲学を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837年に'The American Scholar'と題した演説を行い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独立宣言」であると評した。[2]

エマーソン主要な評論のほとんどを、まず講演用に書いてから出版用に改めた。最初の二つの評論集'Essays: First Series'と'Essays: Second Series'は、それぞれ1841年と1844年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience'が含み、彼の思想の核心である。'Nature'とこれらの評論によって、1830年代半ばから1840年代半ばにかけての10年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。

彼の評論は後の思想家、著述家、詩人に大きな影響を与えた。エマーソンは、自身の中心教義を一言にすると、「個人の無限性」であると語った。[3]エマーソンはまた、共に超越主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である。[4]

幼年時代、家族、教育[編集]

エマーソンは1803年5月25日、マサチューセッツ州ボストンに生まれた。[5]両親はルース・ハスキンスと、プロテスタントの一派であるユニテリアン派の聖職者であるレフ・ウィリアム・エマーソンである。彼は母方の伯父ラルフと父方の祖祖母レベッカ・ワルドから名付けられた。[6]エマーソンは成人できた5人の息子達の2番目で、他の兄弟はウィリアム、エドワード、ロバート・バークレー、チャールズである。[7]他の3人の子供達、フェーベ、ジョン・クラーク、マリー・カロリーヌは、成人する前に亡くなった。[7]

1811年5月12日、8歳になる10日程前に、父が胃癌のため若くして他界した。[8] エマーソンは一族の女性達に助けられながら、母親に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンが、彼に特に深く影響を与えた。[9]彼女は断続的に共に暮らし、1863年に亡くなるまでエマーソンと文通し続けた。[10]

エマーソンの正規教育は、1812年、9歳の時、ボストンラテン語学校に始まった。[11]1817年8月、14歳でハーバード大学に入学した。そこでは新入生の連絡係に任命され、不品行の学生を呼んで教員に伝えることが求められた。[12]3年生の半ばからエマーソンは読んだ本のリストと、後に'Wide World'と呼ばれることになる、何冊もに及ぶ日記をつけ始めた。[13]エマーソンは学費をまかなうために仕事もした。それには学生食堂のウエイター、マサチューセッツ州ウォルサムの伯父サムエルの元での臨時講師があった。[14]4年時にエマーソンは、ミドルネームのワルドを使うことに決めた。[15] エマーソンは学級詩人としての慣例に習い、正式な卒業1ヶ月前の1821年8月29日、18歳の時、ハーバード大学卒業式で自作の詩を発表した。[16]彼は学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。[17]

1826年、エマーソンは健康問題から温暖な気候を求めて移り住んだ。最初にサウスカロライナ州チャールストンに行ったが、十分な暖かさはなかった。[18]そこでさらに南の、フロリダ州セントオーガスティンへ行った。そこで彼は長いこと浜辺を散策し、詩を書き始めた。セントオーガスティンにいる間に、ナポレオン・ボナパルトの甥アシーユ・ミュラ王子と知り合いになった。ミュラはわずか2歳年上で、彼らはとても親しくなった。二人は宗教、社会、哲学、政治についての啓発的な議論をした。エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた。[19]

初期の経歴[編集]

銅版画, 1878

ハーバード大学を卒業し、マサチューセッツ州チェルムズフォードに自分の学校を建てた後、エマーソンは、母の家に設立した若い女性のための学校で、兄ウィリアムを手伝った。[20][21]ウィリアムが神学を学ぶためにゲッティンゲンに行くと、エマーソンはその学校を任かされた。その後数年にわたって教師として生計を立て、それからハーバード神学校に行った。2歳年下の弟エドワードは、ハーバード大学を首席で卒業した後、ダニエル・ウェブスターの法律事務所に入った。[22]エドワードの健康は悪化し始め、その上程なく精神の崩壊にも苦しむこととなった。彼は1828年6月、23歳でマクリーン精神病院に収容された。精神の安定は取り戻したものの、1834年、長年患った結核で亡くなったとみられる。[23]1808年生まれの聡明で将来を約束された弟チャールズは、1836年に同じく結核により死去した。[24]これでエマーソンは、数年の内に若い近親者を3人失うこととなった。

エマーソンが最初の妻エレン・ルイザ・ツッカーにニューハンプシャー州コンコードで出会ったのは1827年のクリスマスであり、彼女が18歳になって結婚した[25]。2人はボストンに引っ越したが、既に結核に冒されていたエレンを世話するため、母のルースがついて行った[26]。2年も経たずに、1831年2月8日、エレンは20歳で世を去った。彼女の最後の言葉は「私は平穏と喜びを忘れたことはない」であった[27]。エマーソンは彼女の死に痛く衝撃を受け、毎日ロックスバリーの墓地を訪れた[28]。1832年3月29日の手記には、「私はエレンの墓へ行き、棺を開いた」と記された[29]

ボストン第二教会がエマーソンを助任牧師として招き、1829年1月11日に職位を授けられた[30]。彼の初任給は年1,200ドルだったが、7月には1,400ドルに上がった[31]。しかし彼は教会の仕事に加え、他の任にもあずかっていた。マサチューセッツ議会の牧師であり、ボストン学校会議のメンバーでもあった。教会の仕事は彼を多忙にし、この頃妻の死が差し迫っていたのだが、自分の信仰を疑い始めていた。

妻の死後、彼は教会のやり方に賛同しなくなってきた。1832年6月の日記には、「私は時にこう思う。良き聖職者になるには、聖職を離れる必要があるのではないか。信仰告白は時代遅れだ。時代は変わったのに、我々は先祖達のだめになったやり方で礼拝している」とある[32]。エマーソンは教派の勤めの執行についてと、一般的な礼拝法に対する疑念について、教会との意見の相違を公にし、1832年に解任された。「このようにしてキリストを讃えることは、私には合っていない。私がそれをやめる理由として十分だ」と彼は書いている[33][34]。あるエマーソン学者は、「牧師の作法に適った黒衣を脱ぎ捨て、彼は自由に講演者や教師の衣を、つまりは慣例や伝統の限界に縛られない思索家の衣を選んだのである」と指摘している[35]

エマーソンは1833年にヨーロッパを旅行し、後に1856年の'English Traits'に書いている[36]。彼は1832年のクリスマスにジャスパー号に乗船し、まずマルタ島へ向かった[37]。ヨーロッパ旅行の間に数ヶ月をイタリアで過ごし、ローマフローレンスヴェニスなどの都市を訪れた。ローマジョン・スチュアート・ミルに会い、トーマス・カーライルへの紹介状を書いてもらった。エマーソンはスイスで旅の同行者に、フェルネーにあるヴォルテールの家へ無理矢理行かされた。「徹頭徹尾、彼の恥ずべき名声に対して異義を申し立てた」[38]。それから彼は「賑やかでモダンなニューヨーク」、パリへ赴いた。そこではJardin des Plantes(パリ5区の植物園)を訪れた。彼は植物学者ジュシューの様式に従い分類された植物の体系と、そのあらゆる対象の相関性に大きな感銘を受けた。リチャードソンは、「Jardin des Plantesでエマーソンが事物の相関関係について洞察した瞬間は、彼を神学から遠ざけ科学へ向かわせた、ほとんど神秘的な瞬間であった」と述べている[39]

イギリス北部で、エマーソンはウィリアム・ワーズワースサミュエル・テイラー・コールリッジトーマス・カーライルと出会った。カーライルはとくに、エマーソンに強い影響を与えた。エマーソンは後にアメリカでカーライルの非公式な代筆者となり、1835年3月にはカーライルにアメリカへ講演に来るよう働きかけている[40]。1881年にカーライルが死去するまで、2人は文通しつづけた[41]

エマーソンは1833年8月9日にアメリカへ帰国し、マサチューセッツ州ニュートンで母親と暮らした。1834年に同州コンコードに引っ越し、義祖父のイズラ・リプレー医師と共に、後にThe Old Manse(古い牧師館)と名付ける館で暮らした[42]。あらゆる種類の論題について講演を行う新鋭の文化運動を見て、エマーソンは講演者を職業にできると考えた。生涯では1,500回余りの講演をすることとなるのだが、1833年11月5日、ボストンにおける博物学の活用について初講演を行った講演が最初であった。これは彼のパリでの経験を発展させたものである[43]。この講演で、彼はいくつかの主な信念と、最初に出版した評論である'Nature'で後に展開することになる考えを打ち出した。

自然とは言語であり、人が学び得るあらゆる新しい発見とは、新しい言葉なのである。しかしそれは、個々に分けられて辞書の中で生気を失った言語ではなく、一体として最も重要で普遍的な意味合いを伝えるものである。私はこの言語を学びたい。それは新しい文法を知ることではなく、その言語によって書かれた大いなる書物を読むことであるだろう。[44]

1835年1月24日、エマーソンはリディア・ジャクソンに結婚を申し込む手紙を書いた[45]。彼女の承諾の返事は28日に届いた。1835年7月、マサチューセッツ州コンコードの、ケンブリッジ・コンコード有料道近くに家を買った。その家は後にBushと名付けられ、現在ラルフ・ワルド・エマーソンの家として公開されている[46]。エマーソンはすぐに、町の主導者の一人となった。彼は1835年9月12日に、コンコード市200周年記念講演を行った[47]。2日後、彼はリディア・ジャクソンと彼女の郷里マサチューセッツ州プリマスで結婚し[48]、9月15日にエマーソンの母親と共にコンコードの新居へ移った。

エマーソンはすぐに、妻の名をリディアンに変え、彼女をQueenie[49]、時にはAsiaと呼んだ[50]妻は彼を、ミスター・エマーソンと呼んだ[51]。彼らの子供は、ワルド、エレン、エディット、エドワード・ワルド・エマーソンである。エレンは最初の妻からとったとリディアンは指摘している[52]

エマーソンは大学時代は貧しく[53]、後の生涯の多くは家族を支えていた[54][55]。エレンの死後はかなりの額を相続したが、1836年にはそれを得るためにツッカー家を訴訟しなければならなかった[55]。1834年5月、彼は11,600ドルを[56]、1837年7月にはさらに11,674ドルを受け取った[57]。1834年、彼は最初の遺産の支払いで1,200ドルの収入を見込んでおり[54]、牧師としての収入に匹敵した。

文学的経歴と超越主義[編集]

ラルフ・ワルド・エマーソン 1859

1836年9月8日、'Nature'出版前日、エマーソンはフレデリック・ヘンリー・ヘッジジョージ・パトナムジョージ・リプリーと会い、同好の知識人達の定期集会を企画した。[58]これが超越クラブのはじまりであり、運動の中心部となった。最初の公式会議は1836年9月19日に行われた。[59]1837年9月1日、女性が初めて超越クラブの会議に参加した。エマーソンはマーガレット・ヒュラー、エリザベス・ホール、サラ・リプリーを確実に参加させるために、会議の前に自宅の夕食に招いた。[60]ヒュラーは超越主義の重要人物になって行く。

1836年9月9日、エマーソンは匿名で最初の評論である'Nature'を出版した。1年後の1837年8月31日、エマーソンは今は有名となったΦΒΚで'The American Scholar'を演説した。[61]それは当初は「ケンブリッジΦΒΚクラブ前で行われた演説」として知られていたが、1849年刊行の評論集で改名された。[62]友人達は話を出版するよう促し、自費出版したところ、500部はひと月のうちに売り切れた。[2]演説の中でエマーソンは、アメリカの知的独立を宣言し、アメリカ人がヨーロッパを離れて独自の様式で執筆すべきことを力説した。[63]当時ハーバードの学生だったジェームズ・ラッセル・ローウェルはそれを「アメリカ文学史上前代未聞」と言い、[64]ロヴァーエンド・ジョン・ピースは「支離滅裂で意味不明に聞こえる」と言った。[65]

1837年、エマーソンはヘンリー・デイヴィッド・ソローと親しくなった。1835年頃には既に会っていたようだが、1837年秋、エマーソンがソローに「あなたは日記をつけていますか」と尋ね、この問いかけがソローに一生涯にわたるインスピレーションを与え続けたのである。[66]エマーソン自身の日記は、大判本16巻の完全版が1960年から1982年にかけてハーバード大学出版会より発表された。日記をエマーソンの重要な文学作品とみなす学者もいる。[67]

1837年、エマーソンはボストンフリーメイソン寺院で歴史哲学に関する連続講演を行った。これが初めて彼自身が運営した連続講演であり、真の講演者としての経歴の始まりであった。[68]この連続講演で得た収入は講演団体からもらっていたものよりかなり高額だったため、エマーソンはその後も度々、自分で講演を運営した。結果として年80回にも及ぶ講演をし、北部アメリカ中をめぐった。セントルイスデモインミネアポリスカリフォルニアまでも駆けつけた。[69]

1838年7月15日、[70]エマーソンはハーバード神学校の神学会館に招かれて卒業演説を行った。それは「神学校演説」として知られることとなった。彼は聖書の奇跡を疑問視し、イエスは偉大なる人間であり、神ではないと宣言した。伝統的キリスト教は、オリエントやギリシアでオシリスアポロンをそうしたように、キリストを半神に仕立て上げてしまった、と彼は語った。[71]彼の発言は、教会主流派や一般のプロテスタント社会では冒涜に値した。そのため、彼は無神論者で、[71]若者の精神を毒すると非難された。批判に対し彼自身は応じず、他の人に弁護させた。その後30年間、彼はハーバードに再び招かれることはなかった。[72]

超越クラブは1840年7月に、最大の機関誌である'The Dial'を出版開始した。[73]彼らは1839年8月には雑誌を企画していたが、1840年の1週目まで仕事を始めなかった。[74]ジョージ・リプリーが編集長で、[75]マーガレット・ヒュラーが監修者であった。数人に断られた後、エマーソンは彼女を選んだのだった。[76]ヒュラーは2年程在任してエマーソンが引き継ぎ、エレリー・チャニングソローを含む、若い作家達の才能を伸ばすことに雑誌を活かしていった。

1841年、2冊目の著作である'Essays'を出版した。そこには有名な'Self-Reliance'が含まれる。[77]彼の叔母はそれを「無神論と偽の独立宣言の奇妙な寄せ集め」と呼んだが、それはロンドンとパリで好評を博した。この本の成功が他にも増して、彼の国際的名声の基盤となった。[78]

1842年1月、エマーソンの長男ワルドは猩紅熱で他界した。[79]彼は自身の悲しみを、詩'Threnody'の「喪いゆくこととは、死にゆくことに他ならない」や、[80]評論'Experiance'で語った。同じ月にウィリアム・ジェームズが生まれ、エマーソンは名付け親になった。

ブロンソン・オルコットは1842年11月、「良い建物と良い果樹園と大地のある、素晴らしい100エーカーの農園をつくる」計画を公言した。[81]チャールズ・レーヌは90エーカー(360,000m2)の農園を、1843年5月にマサチューセッツ州ハーバードに購入した。それは超越主義に部分的にインスピレーションを受けたユートピア構想に基づく共同体である、フルーツランドとなる予定だった。[82]農園は共同体の労働により運営され、動物は労役に用いない。参加者は肉を食べず、羊毛も毛皮も用いないというものだった。[83]エマーソンは、彼自身が実験に関与しないことを「残念に思う」と語った。[84]例えそうでも、エマーソンはフルーツランドが成功するとは思っていなかった。「彼らの主張は全くもって高い精神によるものなのだが、いつも最後にはもっと土地と金をよこせと言うのだ」と彼は書いている。[85]さらにオルコットは、フルーツランド操業の困難に対し準備をしていなかったと認めた。「我々の誰も、夢に見た理想的生活を現実的に行っていく準備をしていなかった。だから失敗に終わったのだ」と彼は記している。[86]この失敗の後、エマーソンはコンコードにオルコット一家のための農場を買う手助けをした。その農場をオルコットは'Hillside'と名付けた。[86]

'The Dial'は1844年4月をもって廃刊した。ホラス・グリーリーはそれを、「この国でかつて出版された、最も個性的で思索的な定期刊行物の最期」と報じた。[87](1929年から数回、同名の無関係な雑誌が刊行されている)

1844年、エマーソンは彼の2番目の評論集'Essays: Second Series'を出版した。ここには'The Poet'、'Experience'、'Gifts'、そして1836年のものと同名だが異なる作品の'Nature'が収録された。

エマーソンはニューイングランド及び国内の多くの地域で有名な講演者となり生計を立てていた。1833年に講演を始め、1850年代には年間80回にも及んだ。[88]1回につき10ドルから50ドルを受け取り、通常冬の「講演シーズン」には2,000ドルを下らない収入が舞い込んだ。これは他からの収入より多かった。何年かは6回の連続講演で900ドルを稼ぎ、ボストンの冬の連続講演で1,600ドルを手に入れた。[89]彼はその収入で所有地を広げることが出来、ウォールデン湖のそばに11エーカー(45.000m2)の土地と、その近くの松林数エーカーを購入した。彼は「およそ14エーカーの土地と水域の領主」と自らについて書いている。[85]

エマーソンはフランスの哲学者ヴィクトル・クザンの作品を読んだ際に、印度哲学に出会った。[90]1845年のエマーソンの日記には、彼が『バガヴァッド・ギーター』とヘンリー・トーマス・コールブルックの'Essays on the Vedas'を読んでいるとある。[91]エマーソンは『ヴェーダ』から強い影響を受け、彼の著作の多くは一元論の色調が濃い。その最たる例のひとつは、'The Over Soul'のうちに認められる。

我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し、人間の内には全なる魂がある。それは智者の沈黙であり、この世界の美である。全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。[92]

1847年から1848年にかけて、エマーソンはイングランドスコットランドアイルランドを旅行した。[93]彼はまた、二月革命六月蜂起の間にパリを訪れた。彼が到着した時、2月の暴動でバリケードを作るために切り倒された木の切り株を見た。5月21日、彼は旧練兵場で、調和と平和と勤労を祝う群衆の只中にあった。彼は日記に、「今年の終わりに、私は革命が一本の木に値したかどうか見定めよう」と記した。[94]この旅はエマーソンの後の作品に重要な痕跡を残した。彼の1856年の著作'English Traits'は、旅行日記や手記に記録した観察に大きく基づいている。エマーソンは後にアメリカ南北戦争を、1848年のヨーロッパで起きた革命と同じ基盤を持つ「革命」であるとみなすようになった。[95]

1852年2月、エマーソンとジェームズ・フリーマン・クラークウィリアム・ヘンリー・チャニングは、1850年に死去したマーガレット・ヒュラーの作品と手紙の編集をした。[96]彼女の死から1週間のうちに、ニューヨークの彼女の編集者ホラス・グリーリーはエマーソンに、「彼女の死の悲しみにより高まっている関心が冷めないうちに」ヒュラーの伝記'Margaret and Her Friends'を出版するよう言った。[97]'The Memoirs of Margaret Fuller Ossoli'という題で出版されたが、ヒュラーの言葉は大幅に修正・改ざんされた。[98]三人は正確さは気にしていなかった。彼らはヒュラーに対する大衆の興味は一時的なもので、彼女は歴史的人物としては残らないと考えたのだ。[99]例えそうであっても、当時は50年代の伝記ベストセラーとなり、19世紀の終わりまでに13版まで再版された。

ウォルト・ホイットマンは1855年に革新的詩集『草の葉』を出版し、エマーソンに贈って意見を求めた。エマーソンは肯定的に評価し、返事として5頁の称賛の手紙を送った。[100]エマーソンの承認は『草の葉』初版が大きな関心を呼ぶ助けとなり、[101]ホイットマンはその後すぐに第2版を出す気になった。[102]この版はエマーソンの手紙の言葉を引いて、「私はあなたの大いなる経歴の始まりを歓迎します」と、表紙の金色の葉の中に印刷した。[103]エマーソンはこの手紙を公にしたことに抗議した。[104]そして後にはこの作品に対しより批判的になった。[105]

南北戦争時代[編集]

エマーソンは断固として奴隷制に反対だったが、世間の注目を浴びたがらず、この問題について講演することをためらった。しかし彼は1837年7月頃に始まり、南北戦争の間には数多くの講演を行った。[106]はじめは多くの友人や家族が彼よりも活発な廃止論者だったが、1844年以降は奴隷制反対により積極的な役割を果たした。彼は多くの演説や講演をし、とくにジョン・ブラウンコンコードを訪れた際には家で歓待した。[107]1860年、彼はエイブラハム・リンカーンに投票したが、リンカーン奴隷制の完全撤廃よりも北部の保護に関心があることに失望した。[108]南北戦争が勃発すると、エマーソンは直ちに、奴隷の解放を信じると表明した。[109]

1860年にはエマーソンは7番目の評論集'The Conduct of Life'を出版した。この中ではエマーソンは、「当時最も困難な問題のいくつかに取り組んでいる。彼の奴隷制廃止論者としての経験が、結論にかなり影響を及ぼしている」と評される。[110]これらの評論ではまた、エマーソンは、戦争は国家を再生させる意味があるという考えを強く抱いていることがわかる。「南北戦争、国家の破綻、あるいは革命、それはものぐさな繁栄の年月よりも、本質的に豊かなのである」とエマーソンは書いている。[111]

エマーソンは1862年1月末にワシントンD.C.を訪れた。1862年1月31日、スミソニアンで一般講演を行い、「南部は奴隷制を習わしと言い、私はそれを欠陥と言う。文明社会には撤廃することが必要である」と宣言した。[112]次の日の2月1日、友人のチャールズ・サムナーが彼をリンカーンに会わせるため、ホワイトハウスへ連れて行った。リンカーンはエマーソンの著作に親しんでおり、講演にも行ったことがあった。[113]エマーソンのリンカーンへの疑念は、この面会の後に軟化した。[114]1865年コンコードリンカーン追悼礼拝で彼は演説し、「有史以来の幾多の悲劇の中で、彼の死の知らせほどに悲痛を生む死が、後にも先にもあるだろうか」と語った。[113]エマーソンはまた、サルモン・ポートランド・チェース財務長官、エドワード・ベイツ検察長、エドウィン・マクマスターズ・スタントン陸軍長官、ギデオン・ウェルス海軍長官、ウィリアム・シューワード国務長官を含む多くの政界の要人と会った。[115]

1862年5月6日、エマーソンが庇護していたヘンリー・デイヴィッド・ソローが44歳で結核のため亡くなり、エマーソンは彼に讃辞を贈った。1849年にソローが "A Week on the Concord and Merrimack Rivers" を出版して以降不和となったものの、エマーソンは彼を親友と呼び続けた。[116][117]もう一人の友ナサニエル・ホーソーンは1864年、ソローの2年後に死去した。ホーソンがコンコードに埋葬される際は、棺側葬送者の一人となった。「陽光と新緑の燦めく中」であったとエマーソンは記した。[118]エマーソンは1864年、アメリカ学芸協会のメンバーに選出された。.[119]

晩年と死[編集]

エマーソンの墓 スリーピーホロウ墓地
墓の拡大図

1867年より、エマーソンの健康状態は悪化していった。彼はあまり日記を書かなくなった。[120]1871年の夏か1872年の春頃からエマーソンは記憶障害があり、[121]また言語症に苦しんだ。[122]70年代終わりには、時に自分の名前を忘れ、誰かが具合を尋ねると、「とてもいいです。私は精神機能を失いましたが、でも完全に良好です」と答えた。[123]

エマーソンのコンコードの家は、1872年7月24日に火事になった。近隣に助けを求め、消火をあきらめ、できる限り家財を守ろうとした。[124]火はエフライム・ウォレス・ブルの片腕の息子、エフライム・ブル・ジュニアによって消し止められた。][125]家の再建を助けるため、友人達が寄付を集めた。そのうちフランシス・カボット・ローウェルは5,000ドルを集め、レバロン・ラッセル・ブリッグスは10,000ドルを集め、ジョージ・バンクロフトが個人的に1,000ドルを寄付した。[126]エマーソンは終始Old Manseで家族とともに過ごしたが、避難所提供の申し出もあった。招待はアンネ・リンチ・ボッタ、ジェームズ・エリオット・カボット、ジェームズ・トーマス・フィールズ、アニー・アダムス・フィールズからであった。[127]火事によって、エマーソンの本格的な講演活動には終止符が打たれ、その後は特別な時、親しい人達の前でだけ講演をした。[128]

家が再建されている間、エマーソンはイギリス、ヨーロッパ大陸、エジプトを旅行した。1872年10月23日、娘のエレンと出発した。[129]妻のリディアンは友人と共にOld Manseで過ごした。[130]エマーソン達は1873年4月15日、友人のチャールズ・エリオット・ノートンと一緒に、オリンパス号でアメリカに帰国した。[131]エマーソンのコンコードへの帰還は町をあげて祝福され、学校は休校になった。[122]

1874年、エマーソンは詩文選'Parnassus'を出版した。その中にはソローその他は勿論のこと、アンナ・レティシア・バーボールドジュリア・キャロライン・ドールジャン・イングロールーシー・ラルコムジョーンズ・ベリーが含まれた。[132]詩文集は1871年秋頃には元々準備されていたが、出版社が校訂を求めたため遅れたのだった。[133]

記憶障害に戸惑い、エマーソンは1879年には公共の場に姿を見せなくなった。オリバー・ウェンデル・ホームズは、「エマーソンは記憶障害と、言いたいことを表す言葉を見つける多大な困難から、人前で自分に信を置くことをためらっている。あの時の彼の狼狽を見るのは苦痛だ」と書いた。[123]1882年4月21日、エマーソンは肺炎と診断された。彼は1882年4月27日に死去した。エマーソンはマサチューセッツ州コンコードスリーピーホロウ墓地に埋葬された。[134]彼はアメリカの彫刻家ダニエル・チェスター・フレンチに寄贈された白装束をまとい、棺に収められた。[135]

ライフスタイルと信条[編集]

晩年のエマーソン

エマーソンの宗教観は当時しばしば過激とみなされた。彼は万物は神とつながっていて、そのため万物は神聖であると信じた。[136]批評家達は、エマーソンは中心なる神の像を取り払おうとしていると考えた。ヘンリー・ウェアー・ジュニアは、エマーソンは「世界の父」を取り去り、「孤児院の子供達」だけを残す危険性があると述べた。[137]エマーソンは部分的に、ドイツ哲学聖書批判学に影響を受けている。[138]超越主義の基礎となる彼の見解では、神は真理を明らかにする必要はなく、真理は直接自然から、直観的に体得することが出来ると示唆している。[139]

エマーソンは1844年まで熱心な奴隷制廃止論者になることはなかったが、日記から、若い頃から奴隷制への関心は始まり、奴隷を解放することを夢見てさえいたことがわかる。1856年6月、アメリカ上院議員チャールズ・サムナーの直後、廃止論者としての断固とした見解を打ち出した。エマーソンは、彼自身が契機とならなかったことを悔いた。「生まれ落ちるや否や、一直線に審問者の鉄槌を取る人達がいる。かくも素晴らしく、我々は道徳律に常に満たされている」と彼は書いた。[140]夏の攻撃の後、エマーソンは奴隷制について公言し始めた。「私は奴隷制を排除しなければならない。さもなくば自由を排除することになる」と、その夏コンコードの集会で語った。[141]エマーソンは奴隷制を、人間の不正行為の例として、とくに聖職者の職務にある時に用いた。1838年初頭、エリア・パリシュ・ラブジョイという名の廃止論者の出版者が、イリノイ州オールトンで殺害されたことに触発され、エマーソンは初めて公に反奴隷制の演説をした。「勇敢なラブジョイが言論の自由のために彼の胸を暴徒の凶弾に差し出したのは別の日だったが、来るべき時が来て死んだのだ」[140]ジョン・クインシー・アダムスは、ラブジョイを殺害した暴徒は、「アメリカ大陸じゅうの地震同様に震撼させた」と語った。[142]しかしながらエマーソンは、改革は軍事行動ではなく道義的合意により達成されるものだと主張した。1844年8月1日、コンコードでの講演で、廃止運動支持をより明確に言明した。彼は「我々はいかなる実際的倫理問題を公然と論じる時も、この運動とその持続によって主に恩恵を受けている」と述べた。[143]

エマーソンは男性に性的関心を抱いたことがあったようだ。[144]ハーバード大学2年時、マーティン・ゲイという若い新入生に惹かれ、彼について性的な詩を書いている。[53][145]彼はまた生涯を通じ、アンナ・ベーカーや[146]カロリーヌ・スターギス[147]といった様々な女性に熱を上げた。[53]

影響[編集]

~ Ralph Waldo Emerson ~
Issue of 1940

コンコードの賢者と呼ばれたエマーソンは、講演者や演説家としてアメリカの知的文化を先導する発言者となった。[148]'The Atlantic Momthly'と'The North American Review'の編集者であるジェームズ・ラッセル・ローウェルは彼の'My Study Windows'(1871)の中で、エマーソンは「アメリカで最も絶え間なく人を引きつけた講演者」であるだけでなく、「講演様式の開拓者の一人」であるとコメントした。[149]1849年にエマーソンに会ったハーマン・メルヴィルは、エマーソンは「宗教心に欠け」「知性に対する自惚れが強すぎて、最初は物をそれ自体の名で呼ぶことに尻込みする」と当初は考えたが、後には「偉大な人物」と讃えた。[150]聖職者で超越論者のテオドア・パーカーは、エマーソンが他者に影響を与え、鼓舞する能力について記している。「エマーソンの輝かしい才能が冬の夜に現れ、ボストンを漂い、無邪気な若者達の目にその大いなる幕開けを、美と神秘を見上げさせて、しばし魅了する。またそれは新たな道へ、新たな希望へ彼らを導くことで、永久的な霊感を与える」。[151]

エマーソンの作品は、ウォルト・ホイットマンヘンリー・デイヴィッド・ソローのような同時代人だけに影響を与えたのではなく、現在に至るまでアメリカや世界中の思想家・著述家に影響を与え続けている。「エマーソンが19世紀で最も影響力のある作家だと言うのはやや賛同を得難いが、今日学者達は大いに関心を寄せている。ウォルト・ホイットマンヘンリー・デイヴィッド・ソローウィリアム・ジェームズは肯定的エマーソン論者である。ハーマン・メルヴィルナサニエル・ホーソンヘンリー・ジェームズは否定的エマーソン論者であるが、彼の対極に位置していることからも、影響を免れない。T.S.エリオットにとって、エマーソンの評論は'足手まとい'だった。賢者ワルドは1914年から1965年までは権威を失ったが、ロバート・フロストウォレス・スティーブンスハート・クレインといったアメリカの主な詩人達の作品の中に生き残り、栄光を取り戻した」。[152]

ハロルド・ブルームは彼の著作'The American Religion'の中で、アメリカ宗教界の預言者としてエマーソンを繰り返し引用している。この本の中では主に、エマーソンが生きた時代に興ったアメリカ固有の宗教であるモルモン教キリスト教科学だけでなく、ヨーロッパの片割れよりもグノーシス的とブルームの言う、主流のプロテスタント教会にも言及している。'The Western Canon'の中でブルームは、エマーソンをミシェル・ド・モンテーニュと比較している。「私が知る唯一同等の読書経験は、アメリカのモンテーニュであるラルフ・ワルド・エマーソンの手記と日記を果てなく読み返すことである」。[153]エマーソンの詩の数篇はブルームの'The Best Poems of the English Language'に収められているが、ブルームは彼が挙げるエマーソンの評論の最高傑作、'Self-Reliance'、'Circle'、'Experiance'と、'Conduct of life'のほぼ全部にはどの詩も及ばないと書いている。ブルームの信じるところでは、連の長さ、韻律、言い回しは息づかいで決まっていて、チャールズ・オールセンの原型になったということだ。[154]

名前が由来するもの[編集]

作品[編集]

  • Nature (1836)
  • The American Scholar (1837)
  • Divinity College Address (1838)
  • Literary Ethics (1838)
  • Essays: First Series (1841)
  • Man the Reformer (1841)
  • The Conservative (1841)
  • The Method of Nature (1841)
  • The Transcendentalist (1842)
  • Essays: Second Series (1844)
  • The Young American (1844)
  • Representative Men (1850)
  • English Traits (1856)
  • Brahma (1857)
  • The Conduct of Life (1860)

著作(日本での出版)[編集]

  • 『Civilization,art,eloquence and books; essays.』 Dept.of Literature,Tokio Daigaku,、1873年
  • 『Culture and behavior; essays.』 Dept.of Literature,Tokio Daigaku,、1882年
  • 『Essays of Emerson.』1、Kyushundo,、1889年
  • 『エマーソン氏一語千金』 蓮沼磐雄訳、1897年
  • 『恵磨遜の書簡』 ノルトン編、民友社訳、民友社、1901年9月。
  • 『偉人論 標註』 大谷正信訳、大日本図書、1903年10月。
  • 『恵馬遜傑作集』 大谷正信訳、大日本図書、1906年11月。
  • 『処世論』 高橋五郎訳、玄黄社、1910年2月。
  • 『エマーソン論文集』第1編、水島慎次郎訳、内外出版協会、1910年3月。
  • 『大英国民』 水島耕一郎訳、博文館、1912年7月。
  • 『エマーソン論文集』 戸川秋骨(明三)訳、玄黄社、1912年
  • 『社交論』 高橋五郎訳、日進堂、1913年
  • 『偉人論講話』 栗原古城訳註、東亜堂書房、1913年
  • 『エマアソン全集』第1-8巻、国民文庫刊行会〈泰西名著文庫 第2部〉、1917年
  • 『自然論 附・エマソン詩集』 中村詳一訳、越山堂〈世界名著文庫 第10編〉、1920年
  • 『エマスン詩集』 中村詳一訳、聚英閣〈泰西詩人叢書 第2編〉、1923年
  • 『世界大思想全集』第21巻、春秋社、1931年
  • 『代表偉人論』 平田禿木訳、玄黄社、1932年
  • 『自然論』 片上伸訳、岩波書店〈岩波文庫 952〉、1933年
  • 『代表偉人論』 柳田泉訳、春秋社〈春秋文庫 第3部 第3〉、1933年
  • 『自然論』 柳田泉訳、春秋社〈春秋文庫 第3部 第5〉、1933年
  • 『エマスン論文集 第1巻. 歴史・自恃・報償 他3篇』 戸川秋骨訳、岩波書店〈岩波文庫 1808-1813〉、1938年
  • 『エマスン論文集 第2巻. 細慮・勇壮・大霊 他4篇』 戸川秋骨訳、岩波書店〈岩波文庫 1808-1813〉、1939年
  • 『エマスン論文集 第3巻. 経験・人格・作法 他5篇』 戸川秋骨訳、岩波書店〈岩波文庫 1808-1813〉、1939年
  • 『代表偉人論』 柳田泉訳、春秋社松柏館〈春秋社思想選書〉、1941年
  • 『代表偉人論』第1-5、柳田泉訳、春秋社松柏館〈清明文庫〉、1946年
  • 『アメリカの学者 他3篇』 高木八尺斎藤光訳、新月社〈英米名著叢書〉、1947年
  • 『エマスン論文集』 原一郎訳註、筑紫書房〈Helix Library〉、1948年
  • 『英国の印象』 加納秀夫訳、新月社〈英米名著叢書〉、1948年
  • 『エマソンの言葉』 志賀勝訳、西村書店、1948年
  • 『英国の印象』 加納秀夫訳、新月社〈英米名著叢書〉、1948年
  • 『エマソン日記抄』 富田彬訳、新月社〈英米名著叢書〉、1948年
  • 『代表偉人論』 柳田泉訳、春秋社〈思想選書〉、1949年
  • 『エマアスン選集』第1,2冊、関書院、1949年
  • 『学問の仕方』 市橋善之助訳、星光書院、1950年
  • 『英国の印象』 加納秀夫訳、研究社出版〈アメリカ文学選集〉、1957年
  • 『エマソンの日記』 ブリス・ペリー編、富田彬訳、有信堂〈アメリカ思想史叢書 第9〉、1960年
  • 『エマソン選集 第1巻 自然について』 斎藤光訳、日本教文社1960年
  • 『エマソン選集 第2巻 精神について』 入江勇起男訳、日本教文社、1961年
  • 『エマソン選集 第3巻 生活について』 小泉一郎訳、日本教文社、1961年
  • 『エマソン選集 第4巻 個人と社会』 原島善衛訳、日本教文社、1960年
  • 『エマソン選集 第5巻 美について』 斉藤光訳、日本教文社、1961年
  • 『エマソン選集 第6巻 代表的人間像』 酒本雅之訳、日本教文社、1961年
  • 『エマソン選集 第7巻 たましいの記録』 小泉一郎訳、日本教文社、1961年
  • 『人間教育論』 市村尚久訳、明治図書出版〈世界教育学選集〉、1971年
  • 『エマソン論文集 上巻 自然他6篇 略年譜』 酒本雅之訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1972年
  • 『エマソン論文集 下巻 大霊・円他6篇 訳者解説』 酒本雅之訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1973年
  • 『自然と逍遥』 H.D.Thoreau著、青山義孝編註、旺史社教科書部、1988年2月。ISBN 4-87119-501-5
  • 『自己信頼と償いについて』 生駒幸運編、旺史社教科書部、1992年4月。ISBN 4-87119-556-2
  • 『エマアソン全集.第1巻 論文集 上巻』 平田禿木訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9414-1ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第2巻 論文集 下巻』 平田禿木訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9415-XISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第3巻 代表偉人論』 平田禿木訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9416-8ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第4巻 社交及孤独』 戸川秋骨訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9417-6ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第5巻 英国印象記』 平田禿木訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9418-4ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第6巻 文学及社会』 戸川秋骨訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9419-2ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第7巻 自然論、演説及講演』 戸川秋骨訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9420-6ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『エマアソン全集.第8巻 人生論』 戸川秋骨訳、日本図書センター、1995年10月。ISBN 4-8205-9421-4ISBN 4-8205-9413-3 (セット)
  • 『自然について』 斎藤光訳、日本教文社〈エマソン名著選〉、1996年12月、選集の新装版。ISBN 4-531-02111-8
  • 『精神について』 入江勇起男訳、日本教文社〈エマソン名著選〉、1996年12月、選集の新装版。ISBN 4-531-02112-6
  • 『自己信頼 新訳 世界的名著に学ぶ人生成功の極意』 伊東奈美子訳、海と月社、2009年2月。ISBN 978-4-903212-10-4
  • 『エマソンの「偉人論」 天才たちの感化力で、人生が輝く。』 伊藤淳訳、浅岡夢二監修、幸福の科学出版〈教養の大陸books〉、2009年10月。ISBN 978-4-87688-368-4
  • 『エマソン詩選』 野田明ほか訳、未來社〈転換期を読む〉、2016年5月。ISBN 4-624-93446-6

脚注[編集]

  1. ^ 367日誕生日大事典の解説”. コトバンク. 2018年1月28日閲覧。
  2. ^ a b Richardson, 263
  3. ^ Ward, p. 389.
  4. ^ Emerson & Thoreau”. Wisdomportal.com (2000年6月6日). 2012年2月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年10月26日閲覧。
  5. ^ Richardson, 18
  6. ^ Allen, 5
  7. ^ a b Baker, 3
  8. ^ McAleer, 40
  9. ^ Richardson, 22?23
  10. ^ Baker, 35
  11. ^ McAleer, 44
  12. ^ McAleer, 52
  13. ^ Richardson, 11
  14. ^ McAleer, 53
  15. ^ Richardson, 6
  16. ^ McAleer, 61
  17. ^ Buell, 13
  18. ^ Richardson, 72
  19. ^ Field, Peter S., Ralph Waldo Emerson: The Making of a Democratic Intellectual, Rowman & Littlefield, 2003, ISBN 0-8476-8843-7, ISBN 978-0-8476-8843-2
  20. ^ Richardson, 29
  21. ^ McAleer, 66
  22. ^ Richardson, 36?37
  23. ^ Richardson, 37
  24. ^ Richardson, 38?40
  25. ^ Richardson, 92
  26. ^ McAleer, 105
  27. ^ Richardson, 108
  28. ^ Richardson, 116
  29. ^ Journals and Miscellaneous Notebooks of Ralph Waldo Emerson, Volume IV: 7
  30. ^ Richardson, 88
  31. ^ Richardson, 90
  32. ^ Sullivan, 6
  33. ^ Packer, 39
  34. ^ Ralph Waldo Emerson, Uncollected prose, The Lord's Supper, 9 September 1832
  35. ^ Ferguson, Alfred R. "Introduction to The Journals and Miscellaneous Notebooks of Ralph Waldo Emerson, Volume IV". Cambridge, Massachusetts: Belknap Press, 1964: xi.
  36. ^ McAleer, 132
  37. ^ Baker, 23
  38. ^ Richardson, 138?
  39. ^ Richardson, 143
  40. ^ Richardson, 200
  41. ^ Packer, 40.
  42. ^ Richardson, 182
  43. ^ Richardson, 154
  44. ^ Emerson, Ralph Waldo. Early Lectures 1833?36. Stephen Whicher, ed.. Cambridge, Massachusetts, Harvard University Press, 1959. ISBN 978-0-674-22150-5
  45. ^ Richardson, 190
  46. ^ Wilson, Susan. Literary Trail of Greater Boston. Boston: Houghton Mifflin Company, 2000: 127. ISBN 0-618-05013-2
  47. ^ Richardson, 206
  48. ^ Lydia (Jackson) Emerson was a descendant of Abraham Jackson, one of the original proprietors of Plymouth, who married the daughter of Nathaniel Morton, longtime Secretary of the Plymouth Colony.
  49. ^ Ideas and Thought”. Vcu.edu. 2012年10月26日閲覧。
  50. ^ Richardson, 193
  51. ^ Richardson, 192
  52. ^ Baker, 86
  53. ^ a b c Richardson, 9
  54. ^ a b Richardson, 91
  55. ^ a b Richardson, 175
  56. ^ von Frank, 91
  57. ^ von Frank, 125
  58. ^ Richardson, 245
  59. ^ Baker, 53
  60. ^ Richardson, 266
  61. ^ Sullivan, 13
  62. ^ Buell, 45
  63. ^ Watson, Peter. Ideas: A History of Thought and Invention, from Fire to Freud. New York: Harper Perennial, 2005: 688. ISBN 978-0-06-093564-1
  64. ^ Mowat, R. B. The Victorian Age. London: Senate, 1995: 83. ISBN 1-85958-161-7
  65. ^ Menand, Louis. The Metaphysical Club: A Story of Ideas in America. New York: Farrar, Straus and Giroux, 2001: 18. ISBN 0-374-19963-9
  66. ^ Buell, 121
  67. ^ Rosenwald
  68. ^ Richardson, 257
  69. ^ Richardson, 418?422
  70. ^ Packer, 73
  71. ^ a b Buell, 161
  72. ^ Sullivan, 14
  73. ^ Gura, 129
  74. ^ Von Mehren, 120
  75. ^ Slater, Abby. In Search of Margaret Fuller. New York: Delacorte Press, 1978: 61?62. ISBN 0-440-03944-4
  76. ^ Gura, 128?129
  77. ^ [1], Essays: first series, Retrieved April 24, 2010
  78. ^ The Bedside Baccalaureate, David Rubel, ed. (Sterling 2008), p. 153.
  79. ^ Cheever, 93
  80. ^ McAleer, 313
  81. ^ Baker, 218
  82. ^ Packer, 148
  83. ^ Richardson, 381
  84. ^ Baker, 219
  85. ^ a b Packer, 150
  86. ^ a b Baker, 221
  87. ^ Gura, 130
  88. ^ Richardson, 418
  89. ^ Emerson as Lecturer, R. Jackson Wilson, in The Cambridge Companion to Ralph Waldo Emerson, Cambridge University Press, 1999
  90. ^ Richardson, 114
  91. ^ Sachin N. Pradhan, India in the United States: Contribution of India and Indians in the United States of America, Bethesda, MD: SP Press International, Inc., 1996, p 12.
  92. ^ The Over-Soul from Essays: First Series (1841)
  93. ^ Buell, 31
  94. ^ Allen, Gay Wilson. Waldo Emerson. New York: Penguin Books, 1982: 512?514.
  95. ^ Koch, Daniel. Ralph Waldo Emerson in Europe: Class, Race, and Revolution in the Making of an American Thinker. London: I.B. Tauris, 2012: 181?95.
  96. ^ Baker, 321
  97. ^ Von Mehren, 340
  98. ^ Blanchard, Paula. Margaret Fuller: From Transcendentalism to Revolution. Reading, Massachusetts: Addison-Wesley Publishing Company, 1987: 339. ISBN 0-201-10458-X
  99. ^ Von Mehren, 342
  100. ^ Kaplan, 203
  101. ^ Callow, Philip. From Noon to Starry Night: A Life of Walt Whitman. Chicago: Ivan R. Dee, 1992: 232. ISBN 0-929587-95-2
  102. ^ Miller, James E., Jr. Walt Whitman. New York: Twayne Publishers, Inc. 1962: 27.
  103. ^ Reynolds, David S. Walt Whitman's America: A Cultural Biography. New York: Vintage Books, 1995: 352. ISBN 0-679-76709-6.
  104. ^ Callow, Philip. From Noon to Starry Night: A Life of Walt Whitman. Chicago: Ivan R. Dee, 1992: 236. ISBN 0-929587-95-2.
  105. ^ Reynolds, David S. Walt Whitman's America: A Cultural Biography. New York: Vintage Books, 1995: 343. ISBN 0-679-76709-6.
  106. ^ Gougeon, 38
  107. ^ Gougeon
  108. ^ McAleer, 569?570
  109. ^ Richardson, 547
  110. ^ Gougeon, 260
  111. ^ Emerson, Ralph Waldo: The Conduct of Life, Boston, MA: Ticknor & Fields, 1860: 230.
  112. ^ Baker, 433
  113. ^ a b Brooks, Atkinson; Mary Oliver (2000). The Essential Writings of Ralph Waldo Emerson. USA: Modern Library. pp. 827, 829. ISBN 978-0-679-78322-0. 
  114. ^ McAleer, 570
  115. ^ Gougeon, 276
  116. ^ Richardson, 548
  117. ^ Packer, 193
  118. ^ Baker, 448
  119. ^ Book of Members, 1780?2010: Chapter E”. American Academy of Arts and Sciences. 2011年4月6日閲覧。
  120. ^ Gougeon, 325
  121. ^ Baker, 502
  122. ^ a b Richardson, 569
  123. ^ a b McAleer, 629
  124. ^ Richardson, 566
  125. ^ Baker, 504
  126. ^ Baker, 506
  127. ^ McAleer, 613
  128. ^ Richardson, 567
  129. ^ Richardson, 568
  130. ^ Baker, 507
  131. ^ McAleer, 618
  132. ^ Richardson, 570
  133. ^ Baker, 497
  134. ^ Sullivan, 25
  135. ^ McAleer, 662
  136. ^ Richardson, 538
  137. ^ Buell, 165
  138. ^ Packer, 23
  139. ^ Hankins, Barry. The Second Great Awakening and the Transcendentalists. Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2004: 136. ISBN 0-313-31848-4
  140. ^ a b McAleer, 531
  141. ^ Packer, 232
  142. ^ Richardson, 269
  143. ^ Lowance, Mason (2000). Against Slavery: An Abolitionist Reader. Penguin Classics. pp. 301?302. ISBN 0-14-043758-4. 
  144. ^ Shand-Tucci, Douglas (2003). The Crimson Letter. New York: St Martens Press. pp. 15?16. ISBN 0-312-19896-5. 
  145. ^ Kaplan, 248
  146. ^ Richardson, 326
  147. ^ Richardson, 327
  148. ^ Buell, 34
  149. ^ Bosco & Myerson, Emerson in His Own Time, 54
  150. ^ Sullivan, 123
  151. ^ Baker, 201
  152. ^ October 12, 2008, the New York Times.
  153. ^ Bloom, Harold. The Western Canon. London: Papermac. 147?148.
  154. ^ Schmidt, Michael The Lives of the Poets Wiedenfeld & Nicholson , London 1999 ISBN 9780753807453
  155. ^ “Emerson Unitarian Universalist Association Professorship Established at Harvard Divinity School” (プレスリリース), Harvard Divinity School, (2006年5月), オリジナル2007年2月8日時点によるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20070208200456/http://www.hds.harvard.edu/news/pr/emerson_uu.html 2007年2月22日閲覧。 
  156. ^ Department of Philosophy of Harvard University
  157. ^ Staten Island on the Web: Famous Staten Islanders”. Nypl.org. 2014年2月20日閲覧。
  158. ^ Full Biography 2012?2013 | Emerson String Quartet”. Emersonquartet.com. 2012年10月26日閲覧。
  159. ^ Varsity Academics | Home of the Concord Review, the National Writing Board, and the National History Club”. Tcr.org (2011年4月22日). 2012年10月26日閲覧。

外部リンク[編集]