キャサリン・オブ・アラゴン

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キャサリン・オブ・アラゴン
Catherine of Aragon
イングランド王妃
Catherine aragon.jpg
ルカス・ホーレンバウト画、1527年
出生 (1487-12-16) 1487年12月16日
Estandarte del Reino de Castilla.svg カスティーリャ王国アルカラ・デ・エナーレス、大司教宮殿
死去 (1536-01-07) 1536年1月7日(48歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国ケンブリッジシャー、キンボルトン城
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ピーターバラピーターバラ大聖堂
配偶者 アーサー・テューダー
  ヘンリー8世
子女 メアリー1世
父親 フェルナンド2世
母親 イサベル1世
サイン Catherine of Aragon Signature.svg
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キャサリン・オブ・アラゴン英語: Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランドヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。スペイン語名はカタリーナ・デ・アラゴンCatalina de Aragón)。しばしばカタリナとも表記される。

ヘンリー8世との間に男児が誕生しなかったことから、離婚問題が生起し、イングランド国教会創設のきっかけとなった。

現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKと表記された。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、アントニア・フレイザーはヘンリー8世の他の王妃(キャサリン・ハワードキャサリン・パー)との区別のため、意図的にCを採用している。

生涯[編集]

カタリナ王女(1496年頃、フアン・デ・フランデス画)

生い立ち[編集]

スペインの初代共同統治者で「カトリック両王」と呼ばれたアラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イザベル1世との間の末子としてアルカラ・デ・エナーレスで生まれた。イングランドからカスティーリャに嫁し、王位簒奪を巡る抗争終結の象徴となった曾祖母キャサリン・オブ・ランカスター(西名:カタリナ)にちなみ、命名された[1]


次姉はスペイン女王フアナであり、その息子で共同統治者であるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はカタリナの甥にあたる。

政略結婚の背景[編集]

当時のイングランドは、1485年に薔薇戦争が終結して間もなく、ランカースター家の血を引くヘンリー・テューダーとヨーク家のエリザベス王女の結婚により、両家の和合がはかられ混乱も収拾されたばかりであった。エリザベスの伯母で、ブルゴーニュ公妃マーガレットは、一時、イングランド王位僭称者で反乱を起こすパーキン・ウォーベックを公認しており、ヘンリー7世は国内の混乱を抑えるため、マーガレット及びその婿であるハプスブルク家マクシミリアン(後、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)に接近する必要があった[2]

マクシミリアンは自身の子であるマルグリットフアン王太子に、フィリップ(フェリペ1世)をフアナ王女に、それぞれスペイン王家と縁組させていた。さらに、1497年にフアン王太子が、翌1498年にカタリナの長姉イサベルが、そして1500年にイサベルの遺児ミゲルがそれぞれ死去し、次姉フアナが王位継承者となったため、スペインのハプスブルク家による継承が決定的だった。しかも、当時のスペインは、カトリック両王によってレコンキスタが完成され、「新大陸」の発見に沸く等、ヨーロッパ国際社会において勢いを増していた[3]

また、スペイン側も、カタリナの父フェルナンド2世は東方への進出のため、フランスを包囲すべく、ハプスブルク家やイギリスとの縁組を希望していた[4]

このような情勢下で、カタリナとヘンリー7世の長男であるアーサー王太子との縁組が企図された。貪欲なヘンリー7世は巨額の持参金を要求し、駐英大使デ・プエブラが1489年3月12日に交渉をまとめた[5]。しかし、神聖ローマ帝国とフランス王国によるブルターニュ公女アンヌを巡る抗争の中で、1492年にヘンリー7世、フェルナンド2世の双方ともにフランスと条約を結び、カタリナの婚約は一度破談になった[6]

第一次イタリア戦争において、フェルナンド2世はイングランドに前もって根回しし、1495年の神聖同盟にも介入をさせなかった。このことからヘンリー7世はイングランドがヨーロッパ情勢のキャスティング・ボートを握っていることに気付き、再びイングランドとスペインの思惑が一致したことから縁談が再燃する[7]。1497年に新たな条約が結ばれ[8]、最終的に20万クラウンの分割払いで決着した[9][10]

スペイン王家はランカスター家ヨーク家の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった[注釈 1]。そのため時の教皇ユリウス2世は教会法規により、1498年に特免状を与えて許可している。

アーサー王太子は1499年と1500年に代理結婚式を挙げ[11]、カタリナとも文通をしていた。特に1500年にアーサーが代理結婚式の後に送った手紙には、父ヘンリー7世の意向(早期の結婚)が反映されているものの、深い愛情が綴られ、カタリナはまだ見ぬ夫に対して親しみを感じるようになった[12]

イングランドへ[編集]

アーサー王太子との結婚・死別[編集]

14歳のキャサリンは、1501年5月21日にグラナダを出発しスペイン内陸での巡礼を経て[13]、10月2日にプリマスに到着した[1]。そしてイングランド各地で奉迎を受けながら、11月4日にリッチモンド宮殿でヘンリー7世及びアーサー王太子と対面した。11月12日にロンドンに入城した。ヘンリー7世は、二人の将来における王位継承の正統性を印象付けるために様々な配慮をした[14]。その一つが、さまざまな見世物(パジェントリ)で、アーサー王伝説聖カタリナにちなんで二人を讃える演目が披露された[15]。一連の行事の中で、キャサリンの案内役は12歳の第二王子ヘンリー王子であり[16][17]、またバッキンガム公エドワードはキャサリンに強い印象を残して友情で結ばれる[18]。このとき、キャサリンが着用したドレスのファージンゲールは、たちまちイングランド宮廷に流行し各国に広がった[19]

11月14日に聖ポール大聖堂(w:Old St Paul's Cathedral)でついにアーサー王太子と華燭の典を挙げた。プリンス・オブ・ウェールズが妃を迎えるのは黒太子以来、史上2番目の出来事とされた[20]。婚礼の食事、舞踏会が終わり、アーサーとキャサリンは寝室へ向かう。このとき、二人が肉体関係を持ったか否かについては、この時点では重要視されなかった[21]

12月にアーサーの静養に伴ってウェールズラドロー城へ赴く。しかしウェールズの気候に慣れたはずのアーサーも、流行の感冒にかかり、1502年4月2日に急逝した。

再婚問題と不安定な立場[編集]

二人の結婚に先立ち、ヘンリー7世の三男エドマンド王子も夭折している。従って、テューダー家の後継者の男子は次男ヘンリーのみとなり、ヘンリー7世は王朝の安泰とスペイン及びハプスブルク家との関係を彼に託すこととなった[22]

第二次イタリア戦争において、イングランドの援軍を期待していたキャサリンの両親もアーサーの逝去に動揺する[23]。そして、イングランド側に対し、持参金の返還と結婚に伴って得た資産(寡婦財産)の引渡しを求める一方、ヘンリー王子との縁組を進めるよう働きかけた[24]

夫を失い、また両親からの直接の慰めの手紙も無く、失意のキャサリンは、ロンドンのダラム司教館で、孤立しながらも静かに暮らすこととなった[25]。唯一の慰めは、アーサーの弟妹達の訪問だった[26]

当時、若い未亡人は持参金とともに帰国するのが常識だった[20]が、ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から[27]、ヘンリーとの婚約を持ちかけた。

キャサリンがヘンリー王子と再婚するにあたり、アーサーと肉体関係があったか否かが重要となった。これは兄弟の妻と肉体関係を持つことを禁じた旧約聖書レビ記18章16節や20章21節に抵触するためである。デ・プエブラはこの事実の確認にあたり、新床に祝福を与えたジェラルディニ神父は「関係はあった」としたが、女官長マヌエル夫人は「関係はなかった」とし、ヘンリー王子との再婚を望むイサベル女王は後者を信頼した[28]。背景にはダラム司教館における権力闘争があったが、デ・プエブラは失脚し、ジェラルディニは帰国する事態になった[29]。キャサリンはジェラルディニを失ったことを悲しみ、同胞スペイン人にも警戒しなければならないことを認識した[30]。マヌエル夫人の言を逆手に取ったヘンリー7世は、寡婦財産も生活費も渡す必要はないとし、さらにスペイン側もイタリア戦争の軍事費から金銭援助を行わず、キャサリンは経済的に困窮する中で、マヌエル夫人と信仰に依存せざるを得なくなる[31]

ヘンリー7世にとって、この縁組は本意ではなく、再婚問題を先延ばししつつ、翌1503年エリザベス王妃が産褥死すると、彼女を自身の後妻に要求した[27][32]。さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、イサベル女王は激怒する手紙をデ・プエブラへ送っている[33]第二次イタリア戦争で優勢なスペインに対し、ヘンリー7世はこの要求を直ちに取り下げる一方、正式にヘンリー王子との婚約が決定された[27]。こうして、1503年6月23日、ヘンリー王子との婚約が英西双方の合意で成立した[34]。婚約式において、アーサーとの結婚は成立していないことを根拠に教皇に結婚の許可を申請することが決定され、また婚礼はヘンリーが15歳に達し、残りの持参金が支払われた時点で行われることとなった[35]

キャサリンはやがて病気がちになり、婚約者ヘンリー王子の訪問を心待ちにするようになった。一方のヘンリー王子も、兄嫁への憧憬は愛情に変わっていった。イタリア戦争での勝利を理由に、スペイン側は教皇からの許可に圧力をかけるが、許可は降りないまま1年余りが経過する[36]。死期の近付いたイサベル女王は、教皇からの特免状(勅書)を非公開の条件で取り寄せ、そして教皇の意に反して公開して娘に王妃の地位を確保し、1504年11月26日に崩御した[37]

この頃、スペイン国内情勢もイサベル女王の崩御から、カスティーリャ王位を継承したフェリペ1世とフアナ夫妻に対し、フアナとキャサリンの父であるアラゴン王フェルナンド2世が対立し混乱が起きていた。マヌエル夫人は、フェリペ1世とヘンリー7世の対面の機会を作るため、キャサリンの姉フアナへの思慕を利用しようとしたが、キャサリンはこの事件を契機に、マヌエル夫人を解雇した[38]。その後、1506年9月26日にフェリペ1世が急死するとフアナが発狂したため、フェルナンド2世はスペインにおける実権を取り戻し、1507年7月にキャサリンを駐英大使に任命するとともに初めて金銭的援助を行った[39]

父王ヘンリー7世は持参金の残額が未払いだったこととレビ記のタブーから、結婚を許可しなかった[27]。大使になったキャサリンは、今や苦境にあるスペインの立場を自覚する。しかし後任の駐英大使ゴメツ・デ・フエンサリダはヘンリー7世の不興を買い、またキャサリンの侍女達の不遇を煽って対立させる[40]。ヘンリー王子との結婚を諦めることは無いキャサリンに、スペイン人の従者達は反抗心を示し、イングランド人からも疎遠にされていった[41]

ヘンリー8世との再婚[編集]

王妃キャサリン(1500年代、ミケル・シトウ画)

王妃として[編集]

1509年4月21日ヘンリー7世がついに崩御。王位を継承した、18歳の若き国王ヘンリー8世はキャサリンとの結婚しか念頭になく、枢密院での議論を無視し、父王の喪が明けぬ6月3日に立会人一人だけの結婚式を強引に挙げる[42]。こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、6月30日に戴冠式が執り行われた[43]。ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とフランス王国ヴァロワ家)であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて国際社会における地歩固めをする意義があった[44]。結婚当初は、夫婦仲は非常に円満だった。

1513年、フランス遠征中の夫に摂政を命じられていたキャサリンは、突然侵攻してきたスコットランド軍に対し、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードに反撃を命じ、ノーフォーク公はフロッドンの戦いで大勝した[45]

また、1517年5月1日にロンドンの暴動が発生する。この時季は遅いイギリスの春を謳歌する祭の期間であったが、貧富の差の拡大や流入する外国人の増加などで国内治安が悪化し、4月あたりから外国人に対する襲撃事件が相次いでいた。そして5月1日のメイ・デー祭当日の朝に暴動が発生、外国人地区を焼き討ちし牢獄を襲って捕らえられていた同胞たちを解放した。大法官だったトーマス・モアは説得を試みたが、投石を浴びて逃げ帰った。その後、軍勢を率いたノーフォーク公によって鎮圧に成功した。300人にものぼった逮捕者の中から13人が翌日に極刑に処せられた。5月7日に残りの罪人の処刑が行われる予定であったが、ロンドンに滞在中のスペイン人が多数殺害されたにもかかわらず、キャサリンがヘンリー8世を説得し恩赦が降りた。

こうした王妃の貢献から、国内での支持は高かった。しかし、結婚生活の中、キャサリンは度重なる流産と死産に見舞われた。1511年に男児ヘンリー王子を出産したが、53日間で亡くなっている。唯一成長したのは、1516年に生まれた女児メアリー王女のみであったため、ヘンリーの愛情は徐々に冷えてしまう。Joanna Denny "Anne Boleyn"によれば、キャサリンは非常に敬虔なため、妊娠中もしばしば断食をし、それが死産などに繋がった可能性があるという。その為、当時のローマ法王はキャサリンの先夫アーサー王子宛に、キャサリンは断食しなくても良いという特赦状を送った。

国際情勢の変化と離婚への動き[編集]

ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、1520年頃から[43]年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。国王自身が戦場に赴くため男子の継承者が重視されていた時代[46]であり、それまでイングランドが女王の下で安泰だったことがなかったためでもある。テューダー朝の歴史はまだ浅く、薔薇戦争の惨禍はまだ記憶に生々しく残っていた時代であり、王家の安定的な継続はヘンリー8世個人の私欲にとどまらない切実な問題であった。さらに、ヘンリーはキャサリンの度重なる流産と死産は亡き兄アーサーの怨念ではないか、兄の妻と結婚したものは呪われる、という聖書の教え通り、この結婚は呪われているとすら考えるようになっていた[47]

ついに、ヘンリー8世は離婚(婚姻の無効)を画策し、ローマ教皇クレメンス7世の特赦を求めはじめた。近年では、フランス王国のシャルル8世ルイ12世が離婚を成立させ、わずかに数十年前の出来事だった[48]一方、教皇の権威は下落し、教皇に対する神聖ローマ皇帝の影響力も無視できなかった[49]

コニャック同盟戦争の推移の中で、1526年、フランスのフランソワ1世はヘンリー8世との協力が必要になり、同盟を結ぶ。さらに1527年5月にキャサリンの甥神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)は、ローマに侵攻し教皇を監禁した(ローマ劫掠)。教皇捕囚という横暴に加え、カール5世は叔母のため離婚を認めぬよう教皇に圧力をかけヘンリー8世はハプスブルク家との離別を決意する[50]。同年8月、イングランドとフランスはアミアン協定を結ぶ[51]。翌1528年1月、ヘンリー8世とフランソワ1世は、カールに対して宣戦布告する。やがてフランス軍の敗北により、戦争はカール5世の勝利によって終結した(貴婦人の和約)。

この頃、イングランドの大法官トマス・ウルジーは、1527年と1529年に教皇との離婚交渉に連続して失敗したため、罷免された。同時期にはフランス留学から帰国したメアリー・ブーリン(既婚者)がヘンリー8世の愛人となって二人の庶子を設けた。またメアリーに続いてアン・ブーリンが帰国し、キャサリンの侍女となったのは1526年頃である。

離婚[編集]

国王の前で議会の弾劾を受ける王妃(19世紀画)
王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)

1531年から法改正等が行われ、1534年にはイングランド国教会が創設されてヘンリー8世はその長となり、ローマ教皇庁から独立を果たす。一連の動きの中で1532年11月14日に国王とアンは極秘結婚し、翌1533年4月12日に公表された[52]。このときアンは妊娠しており、生まれてくる子を庶子にしないための措置だった[52]。レビ記を逆手に取ったヘンリー8世はカンタベリー大司教トマス・クランマーに命じて婚姻の無効を承認させ、5月23日にキャサリンはアムプティルに隠棲させられる[53]6月1日にアンの戴冠式が行われ、9月7日エリザベス王女(後のエリザベス1世女王)が誕生する。イングランドでは、この後、このエリザベス1世の時代まで30年余りにわたって宗教に起因した混乱が続くこととなる。

キャサリンは離婚を死ぬまで認めなかったが、ヘンリー8世からは王太子アーサーの未亡人としてのみ遇され、(ヘンリー8世との結婚自体が無効であるため)庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられた[45]。監禁に近い生活であったが、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代同様評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだ[45]。この頃の「公式」なキャサリンの呼び名はPrincess Dowager(王太子未亡人)である。

この頃、キャサリンはフランシスコ会の修道士の衣服を着て過ごしたという。その高潔さはトマス・クロムウェルら敵対する立場の人々をも感嘆させるものであった[54]

1536年にキンボルトン城(Kimbolton Castle)で没した際、最後の書類に「イングランド王妃キャサリン」の署名を残した[45]。娘メアリーにはスペインから持参した持ち物のうち、わずかに残った毛皮1枚、金の鎖、十字架のペンダントを残した[45]。そして、甥である神聖ローマ皇帝カール5世に対し、メアリーの庇護を求める手紙を残した。その死はヘンリーとアン・ブーリンによる毒殺ではないかという噂が広まることとなった。しかし、今日の研究では死因はガンによるものだったという説が有力である。

葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も厳禁とされた。しかし、キャサリンを慕う住民たちはそれを無視して進んで葬列に加わり、行列は500人にも及び、キンボルトンから40キロ北のピーターバラ修道院まで代わる代わる棺を担いだという[45]。奇しくも葬儀の日、アン・ブーリンは男児を死産し、ヘンリー8世の寵愛を失うことが決定的になると、同年5月に処刑される。その後もヘンリー8世は次々と再婚、そして離別と処刑を繰り返し、1547年に崩御した。

ヘンリー8世の正嫡の男子で唯一生存したエドワード6世が15歳で病死すると、ジェーン・グレイを巡る混乱を経て、キャサリン所生のメアリーが王位に即いた。「ブラッディ・メアリー」(血塗れのメアリー)と呼ばれた女王メアリー1世である。

メアリーが即位するとキャサリンの名誉は完全に回復され、ヘンリーとの婚姻関係も有効である、とされた。

後世における評価[編集]

現在では、キャサリンの埋葬されたピーターバラ大聖堂にある墓所に「Katheren Queen of England」という墓碑銘が掲げられており、今日もなおキャサリンに対して抱かれるイングランド国民の敬意をうかがい知ることができる。

子女[編集]

唯一、成人したメアリーも子に恵まれず、キャサリンの系譜は絶えている。

  • 女児 - 流産(1510年)
  • ヘンリー(1511年) - コーンウォール公、夭折
  • 男児 - 死産(1513年)
  • 男児 - 死産(1514年)
  • メアリー(1516年 - 1558年) - イングランド女王メアリー1世
  • 不明 - 流産(1517年)
  • 女児(1518年) - 生後すぐ夭折

系譜[編集]

キャサリン
(カタリナ)
父:
フェルナンド2世 (アラゴン王)
祖父:
フアン2世 (アラゴン王)
曽祖父:
フェルナンド1世 (アラゴン王)
曽祖母:
レオノール・デ・アルブルケルケ
祖母:
フアナ・エンリケス
曽祖父:
ファドリケ・エンリケス[1]
曽祖母:
マリアナ・デ・コルドバ
母:
イサベル1世 (カスティーリャ女王)
祖父:
フアン2世 (カスティーリャ王)
曽祖父:
エンリケ3世 (カスティーリャ王)[2]
曽祖母:
キャサリン・オブ・ランカスター[3]
祖母:
イサベル
曽祖父:
ジョアン (アヴェイロ公)[4]
曽祖母:
イザベル・デ・バルセロス[5]
[1]はカスティーリャ王エンリケ2世の弟ファドリケの子孫。
[3]は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、カスティーリャ王ペドロ1世の次女コンスタンサの一人娘。よって、[2][3]の結婚は、[2]の祖父エンリケ2世(トラスタマラ朝の祖)が異母弟で嫡出子のペドロ1世(ボルゴーニャ朝)から王位を簒奪しており(第一次カスティーリャ継承戦争)、両家の合一と和解という歴史的意義がある。また、本項人物の名の由来となった。
[4]はポルトガル王ジョアン1世の王子で、兄にドゥアルテ1世エンリケ航海王子、また[4]たちの母はフィリッパは、[3]の異母姉である。
[5]はポルトガル王ジョアン1世の庶子ブラガンサ公アフォンソ1世の娘。よって[4]と[5]の結婚は叔姪婚となる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ カスティーリャ王ペドロ1世が王位を簒奪された後、その二人の娘は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントコンスタンスが、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーイサベルが嫁いでいる。そして、コンスタンスのカスティーリャ王位放棄とともに、その子キャサリンがカスティーリャ王エンリケ3世に嫁した。

出典[編集]

  1. ^ a b 石井 1993 .p.14
  2. ^ 君塚 2014 .p.42-44
  3. ^ 石井 1993 .p.12-13
  4. ^ 石井 1993 .p.22
  5. ^ 石井 1993 .p.22
  6. ^ 石井 1993 .p.24-26
  7. ^ 石井 1993 .p.26-27
  8. ^ 石井 1993 .p.27
  9. ^ 石井 1993 .p.42
  10. ^ 森 1994 .p.126
  11. ^ 石井 1993 .p.27-28
  12. ^ 石井 1993 .p.28-29
  13. ^ 石井 1993 .p.15
  14. ^ 石井 1993 .p.62
  15. ^ 石井 1993 .p.64-71
  16. ^ 石井 1993 .p.62
  17. ^ 石井 1993 .p.72
  18. ^ 石井 1993 .p.60-61
  19. ^ 石井 1993 .p.63
  20. ^ a b 森 1994 .p.127
  21. ^ 石井 1993 .p.76-77
  22. ^ 君塚 2014 .p.44-45
  23. ^ 石井 1993 .p.99-101
  24. ^ 石井 1993 .p.103
  25. ^ 石井 1993 .p.104
  26. ^ 石井 1993 .p.105
  27. ^ a b c d 森 1994 .p.128
  28. ^ 石井 1993 .p.107-110
  29. ^ 石井 1993 .p.111
  30. ^ 石井 1993 .p.112
  31. ^ 石井 1993 .p.114-115
  32. ^ 石井 1993 .p.118
  33. ^ 石井 1993 .p.119
  34. ^ 石井 1993 .p.121
  35. ^ 石井 1993 .p.122
  36. ^ 石井 1993 .p.127
  37. ^ 石井 1993 .p.128-129
  38. ^ 石井 1993 .p.145-152
  39. ^ 石井 1993 .p.177
  40. ^ 石井 1993 .p.187-219
  41. ^ 石井 1993 .p.220
  42. ^ 森 1994 .p.128-129
  43. ^ a b 森 1994 .p.129
  44. ^ 君塚 2014 .p.47-48
  45. ^ a b c d e f 森 1994 .p.133
  46. ^ 君塚 2014 .p.48
  47. ^ MacCulloch, Diarmaid (1995). The Reign of Henry VIII: Politics, Policy and Piety. New York: Palgrave Macmillan. ISBN 0-312-12892-4, p139
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  49. ^ 森 1994 .p.130
  50. ^ 君塚 2014 .p.48-49
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  52. ^ a b 森 1994 .p.132
  53. ^ 森 1994 .p.132-133
  54. ^ Chapuys, Eustace (Imperial Ambassador) (1533). Calendar of State Papers, Spanish IV.

参考文献[編集]

登場作品[編集]

ミケル・シトウによる『マグダラのマリア』。キャサリンをモデルにしたと考えられている。

小説[編集]

  • Carolyn Meyer "Patience, Princess Catherine"
  • Jean Plaidy "Katharine of Aragon" Three river press(Three novels in one volume)
  • Philippa Gregory "The constant Princess"
  • Laurien Gardner "The Spanish Bride"

戯曲[編集]

映画[編集]