キャサリン・オブ・アラゴン

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キャサリン・オブ・アラゴン
Catherine of Aragon
Catherine aragon.jpg
ルカス・ホーレンバウト画、1527年
称号 イングランド王妃
出生 (1487-12-16) 1487年12月16日
Estandarte del Reino de Castilla.svg カスティーリャ王国アルカラ・デ・エナーレス、大司教宮殿
死去 (1536-01-07) 1536年1月7日(満48歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国ケンブリッジシャー、キンボルトン城
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ピーターバラピーターバラ大聖堂
配偶者 アーサー・テューダー
  ヘンリー8世
子女 メアリー1世
父親 フェルナンド2世
母親 イサベル1世
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キャサリン・オブ・アラゴン英語: Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランドヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。スペイン語名はカタリーナ・デ・アラゴンCatalina de Aragón)。しばしばカタリナとも表記される。

現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKと表記された。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、アントニア・フレイザーはヘンリー8世の他の王妃(キャサリン・ハワードキャサリン・パー)との区別のため、意図的にCを採用している。

生涯[編集]

アラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イザベル1世との間の末子としてアルカラ・デ・エナーレスで生まれた。イングランドとの取り決めで1501年ヘンリー7世の長男のアーサー王太子に嫁いだが、その数ヶ月後に花婿は急逝した。

フアン・デ・フランデスによる11歳のキャサリンとされる肖像画,1496年頃

巨額の持参金の返却を惜しんだヘンリー7世は、その弟の次男ヘンリーとの婚約を持ちかけた。しかし1503年に王妃エリザベスが死去すると、彼女を自身の後妻に要求した。さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、ヘンリー7世はこの要求を取り下げた。

イングランド王妃[編集]

再度王太子ヘンリーとの婚約が双方の合意で成立したが、それは旧約聖書レビ記」にある「人もし兄弟の妻を娶れば汚らわしきことなり」の一節に抵触する恐れがあった。なお、カスティーリャ・アラゴン両王家はランカスター家ヨーク家の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから[1]、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった。そのため時の教皇ユリウス2世は教会法規により、特別な免除を与えて許可した。

1509年、ヘンリー7世の死により王位を継承したヘンリー8世と再婚した。1513年、フランス遠征中の夫に摂政を命じられていたキャサリンは、突然侵攻してきたスコットランド軍に対し、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードに反撃を命じ、ノーフォーク公はフロッドンの戦いで大勝した。また、1517年5月1日に起きたロンドンの暴動(魔のメイ・デー事件)[2]では、ロンドンに滞在中のスペイン人が多数殺害されたにもかかわらず、キャサリンは暴動の主犯者たちを恩赦した。

ヘンリー8世とキャサリンとは最初は仲睦まじかった。しかし、キャサリンは度重なる流産と死産に見舞われた。1511年に男児ヘンリーを出産したが、53日間で亡くなっている。1516年に生まれた女児メアリーであったため、ヘンリーの愛情は徐々に冷えてしまう。ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。男の跡継ぎが一番大事にされていた時代だったこともあるが、それまでイングランドが女王の下で安泰だったことがなかったためでもある。テューダー朝の歴史はまだ浅く、薔薇戦争の惨禍はまだ記憶に生々しく残っていた時代であり、王家の安定的な継続はヘンリー8世個人の私欲にとどまらない切実な問題であった。更にヘンリーはキャサリンの度重なる流産と死産は亡き兄アーサーの怨念ではないか、兄の妻と結婚したものは呪われる、という聖書の教え通り、この結婚は呪われているとすら考えるようになっていた[3]

Joanna Denny "Anne Boleyn"によれば、キャサリンは非常に敬虔なため、妊娠中もしばしば断食をし、それが死産などに繋がった可能性があるという。その為、当時のローマ法王はキャサリンの先夫アーサー王子宛に、キャサリンは断食しなくても良いという特赦状を送った。

離婚[編集]

1533年、キャサリンはヘンリー8世から結婚の無効を突きつけられ、王妃の座を追われた。その椅子に座ったのはかつてキャサリンの侍女であったアン・ブーリンである。

キャサリンは離婚を死ぬまで認めなかったが、ヘンリー8世からは王太子アーサーの未亡人としてのみ遇され、庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられた。監禁に近い生活であったが、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代同様評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだ。この頃の「公式」なキャサリンの呼び名はPrincess Dowager(王太子未亡人)である。 この頃、キャサリンはフランシスコ会の修道士の衣服を着て過ごしたという。その高潔さはトマス・クロムウェルら敵対する立場の人々をも感嘆させるものであった[4]

なお、この離婚のため教皇クレメンス7世と対立したヘンリーは、1534年に国王至上法を発布して自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱した。

1536年にキンボルトン城(Kimbolton Castle)で没した際、最後の書類に「イングランド王妃キャサリン」の署名を残した。娘メアリーにはスペインから持参した持ち物のうち、わずかに残った毛皮1枚、金の鎖、十字架のペンダントを残した。そして、甥である神聖ローマ皇帝カール5世に対し、メアリーの庇護を求める手紙を残した。

その死はヘンリーとアン・ブーリンによる毒殺ではないかという噂が広まることとなった。しかし、今日の研究では死因はガンによるものだったという説が有力である。

葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も厳禁とされた。しかし、キャサリンを慕う住民たちはそれを無視して進んで葬列に加わり、行列は500人にも及び、キンボルトンから40キロ北のピーターバラ修道院まで代わる代わる棺を担いだという。

ヘンリー8世の正嫡の男子で唯一生存したエドワード6世が15歳で病死すると、紆余曲折を経てキャサリン所生のメアリーが王位に即いた。「ブラッディ・メアリー」(血塗れのメアリー)と呼ばれた女王メアリー1世である。

メアリーが即位するとキャサリンの名誉は完全に回復され、ヘンリーとの婚姻関係も有効である、とされた。

ミケル・シトウによる『マグダラのマリア』。キャサリンをモデルにしたと考えられている。

補足[編集]

「偉大なるエリザベス1世の生母と対立した女性」または「ブラッディ・メアリー女王の母」という理由から、意図的に歴史を改竄し、キャサリンを誹謗する著作もあることは否定できない。現在では、キャサリンの埋葬されたピーターバラ大聖堂にある墓所に「Katheren Queen of England」という墓碑銘が掲げられており、今日もなおキャサリンに対して抱かれるイングランド国民の敬意をうかがい知ることができる。

系譜[編集]

キャサリン
(カタリナ)
父:
フェルナンド2世 (アラゴン王)
(カスティーリャ王フェルナンド5世)
祖父:
フアン2世 (アラゴン王)
曽祖父:
フェルナンド1世
曽祖母:
レオノール・デ・アルブルケルケ
祖母:
フアナ・エンリケス
曽祖父:
ファドリケ・エンリケス[1]
曽祖母:
マリアナ・デ・コルドバ
母:
イサベル1世 (カスティーリャ女王)
祖父:
フアン2世 (カスティーリャ王)
曽祖父:
エンリケ3世 (カスティーリャ王)[2]
曽祖母:
カタリナ[3]
祖母:
イサベル
曽祖父:
ジョアン(アヴェイロ公)[4]
曽祖母:
イザベル・デ・バルセロス[5]

[1]はエンリケ2世 (カスティーリャ王)の弟ファドリケの子孫。

[3]は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、ペドロ1世の次女コンスタンサの一人娘。よって、[2][3]の結婚は、[2]の祖父エンリケ2世 (カスティーリャ王)(トラスタマラ朝の祖)が異母弟で嫡出子のペドロ1世(ボルゴーニャ朝)から王位を簒奪しており(第一次カスティーリャ継承戦争)、両家の合一と和解という歴史的意義がある。

[4]はジョアン1世 (ポルトガル王)の王子で、兄にドゥアルテ1世エンリケ航海王子、また[4]たちの母はフィリッパは、[3]の異母姉である。

[5]はジョアン1世 (ポルトガル王)の庶子アフォンソ1世 (ブラガンサ公)の娘。よって[4]と[5]の結婚は叔姪婚となる。

脚注[編集]

  1. ^ ペドロ1世が王位を簒奪された後、その二人の娘は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントコンスタンスが、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーイサベルが嫁いでいる。そして、コンスタンスのカスティーリャ王位放棄とともに、その子キャサリンがカスティーリャ王エンリケ3世に嫁した。
  2. ^ この時季は遅いイギリスの春を謳歌する祭の期間であったが、貧富の差の拡大や流入する外国人の増加などで国内治安が悪化し、4月あたりから外国人に対する襲撃事件が相次いでいた。そして5月1日のメイ・デー祭当日の朝に暴動が発生、外国人地区を焼き討ちし牢獄を襲って捕らえられていた同胞たちを解放した。大法官だったトーマス・モアは説得を試みたが、投石を浴びて逃げ帰った。その後、軍勢を率いたノーフォーク公によって鎮圧に成功した。300人にものぼった逮捕者の中から13人が翌日に極刑に処せられた。5月7日に残りの罪人の処刑が行われる予定であったが、キャサリンがヘンリー8世を説得し恩赦が降りた。
  3. ^ MacCulloch, Diarmaid (1995). The Reign of Henry VIII: Politics, Policy and Piety. New York: Palgrave Macmillan. ISBN 0-312-12892-4, p139
  4. ^ Chapuys, Eustace (Imperial Ambassador) (1533). Calendar of State Papers, Spanish IV.

参考文献[編集]

  • キレーン『スコットランドの歴史』 2002年 彩流社 ISBN 4-88202-772-0
  • 大野真弓『新版英国史』山川出版社 1984年 ISBN 4-634-41010-9
  • 石井美樹子『薔薇の冠』朝日新聞社
  • 小西章子『スペイン女王イサベル』
  • ダイクストラ好子『王妃の闘い』
  • Joanna Denny "Anne Boleyn"
  • Antonia Fraser "The six wives of Henry VIII"アントーニア・フレイザー『ヘンリー八世の六人の王妃』創元社)

登場作品[編集]

小説[編集]

  • Carolyn Meyer "Patience, Princess Catherine"
  • Jean Plaidy "Katharine of Aragon" Three river press(Three novels in one volume)
  • Philippa Gregory "The constant Princess"
  • Laurien Gardner "The Spanish Bride"