ソッツィーニ派

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Faustus Socinus.

ソッツィーニ派は、レリオ・ソッツィーニが唱え、その甥のファウスト・ソッツィーニが展開した精神運動。

初期はエラスムスの原典批評に影響され、聖書への理性の適用を主張(理神論?)。後期には三位一体説やキリストの神性をともに否定した。ソッツィーニの見解は、「キリストは永遠の救いの道を教え、しかもわれわれが彼にならうことによって、その目標に達しうるように導いたという点で救い主になった」というもので、キリストは模範的人格であり、その他の属性はないとする(神の御子ではないと極端な?)。

影響[編集]

イタリアからの亡命者によってスイスで運動の基礎がつくられ、その後ポーランドにもたらされた。イギリスではユニテリアン教会の創始者ジョン・ビドルや政治思想家リチャード・プライスとプリーストリー、ポーランドではコメニウスなどにその影響がある。ヨーロッパ啓蒙思想の一つの源流と見なされる。

早期のユニテリアン主義への影響は非常に強かった。英国国教会ルーテル教会はユニテリアンの信者を「ソッツィーニ派」と呼んだが、ポーランド兄弟団、或いは小改革派教会信者たちは、この名前を拒否した。この名はミシェル・セルヴェことミゲル・セルベトゥスの影響を受けた(ジュネーヴでの恐ろしい殉教の生きながらの火あぶりを見たという。永遠の神の御子!!と最後まで自説撤回しなかったという)イタリア人レリオ・ソッツィーニの名にちなんで付けられた。その甥のファウスト・ソッツィーニはポーランドに来て、その派の指導者になった。

その頃、ポーランド人の貴族ヤン・シェイエンスキーはこの新たな教会が発展するための「静かで隔離された場所」を備えようとしていた。ポーランド国王から与えられた特権を行使して、ラクフの町をつくった。そこはソッツィーニ主義の中心地となった。ヤン・シェイエンスキーは宗教、多くの特権をラクフの町に与えた。

いろいろの宗派に属する人、職人、医師、薬剤師、都市住民、上流階級に属する人がラクフに集まった。さらに聖職者たちがポーランド、リトアニア、トランシルヴァニア、フランス、イングランドから来た。それらの教師たちは、いろいろの宗教をしていたが、1569年から、1572年までの3年間、ラクフは神学論争をする所となった。

その結果、ソッツィーニ派は分裂し、急進的思想を持つ者と、穏健な考えを持つ者に二つになった。こうした状況があったが、ソッツィーニ派が持っていた特色ある、三位一体説の拒否、幼児洗礼の拒否、武器を取らず、公職への拒否、地獄の否定、などは特異だった教理で伝統ある教会の教理とは一線を画することで一致していた。

カルヴィニズムカトリックの聖職者も、この教派には猛烈な反対をしたが、ジグムント二世やステファン・バトーリなどのポーランド国王が寛容だったので、ソッツィーニ主義者たちは自分たちの信条を教えるのに都合がよかった。

ヴォルテールは、『哲学書簡』第7信で反三位一体教徒について「言論においても、帝国におけると同じように、どのような浮沈が起こるか分からない。アリウス派は三百年の勝利と十二世紀間の忘却のあとで、とうとう自分の灰の中から蘇った」と書いている。

彼らの聖書自体(カルヴィニズムの??!)はラテン語ヴルガータフランス語から為されたものだった。それからのちに、シモン・ブドニが彼らの聖書を訂正の改訂を依頼されたが、全く新しい聖書を出す方が善いと考え、1567年頃にその翻訳に取り掛かった。一つ一つの原語を分析し、旧約本文中に翻訳上の難点が在れば、ブドニは欄外注に字義訳を記した。ブドニが目指したのは忠実で正確な聖書翻訳だった。ブドニ訳の全巻聖書は1572年に出版されたが、出版業者等の改悪の憂き目に合い、それの改訂版でその2年後に正確な聖書が完成された。

ソッツィーニ派(ポーランド兄弟団、或いは小改革派教会)の拠点はラクフにあったが、出版活動の印刷機を1600年頃に設置し、ヨーロッパの一、二を争うほどの印刷物で、ヨーロッパ中に彼らの出版物を広めた。

1602年に教育機関を設け、ラクフ大学が設置された。ラクフ大学は神学校だったが、宗派の区別無く学んでいたとされる。宗教以外は外国語、倫理、経済、歴史、法律、論理学、自然科学、数学、医学、体育などの教科があり、大学には大きな図書室があり、その規模は拡大して行った。

発達するように看えたソッツィーニ派だったが、1620年代になると「ポーランドのアリウス派の立場は急速に悪化し始めた」とポーランド科学アカデミーのズビグネフ・オゴノスキーは述べています。それはカトリックの僧職者たちが大胆な行動に出て行ったからだそうです。ラクフ大学の所有者は大学の印刷機で『悪を広めた』と告発された。新しいポーランド国王ジグムント3世ワーザはポーランド兄弟団の敵だった。その後継者ヤン2世カジミエフ・ワーザはカトリック教会を後押しした。頂点に達したのは『十字架を汚した!!』とラクフ大学の学生が故意の罪でイエズス会士に告発された時だった。

1658年、ポーランド議会はソッツィーニ派のメンバーが3年以内に財産をまとめて国外退去せよとの布告を出した。それ以降にその信仰告白をする者は処刑になった。或る人々はシレジアスロバキアオランダへ移動し、そこで出版活動を続けた。トランシルバニアでは18世紀初頭まで教会が機能して居た。集会では賛美歌を歌い、説教を聴き、教えを説明した教義問答書から学んだ。

ソッツィーニ派(ポーランド兄弟団)は聖書の研究者だった。幾つかの聖書の教理を再発見し、それをためらう事なく他の人に伝えた。しかしやがては彼らもヨーロッパ中に散らされて、一致を保てなくなって行った。こうしてしだいに姿を消して行った」と文献は述べています。