クラクフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
クラクフ (Kraków)
[[ファイル:
Krakow 78.jpg Barbakan 03tr.JPG The 16th century Renaissance inner courtyard of Wawel Castle (9156659609).jpg
Night view of Cracow.jpg
XII, XIV, XIX, Kraków.jpg Kościół p.w. św. Piotra i Pawła, Kraków.jpg 6887vik Kraków w obrębie Plant. Rynek. Foto Barbara Maliszewska.jpg
Sukiennice Wieczorem.jpg
Collegium Novum Kraków 001.JPG Kraków - Juliusz Słowacki Theatre by night 01.jpg Kraków Old Town at dusk (9159202954).jpg
| 250px | ]]
クラクフ (Kraków)の市旗 クラクフ (Kraków)の市章
位置
ポーランドおける位置の位置図
ポーランドおける位置
座標 : 北緯50度04分 東経19度57分 / 北緯50.067度 東経19.950度 / 50.067; 19.950
歴史
成立日 1257年6月5日
市長 ヤツェック・マイフロフスキ (Jacek Majchrowski)
地理
面積  
  域 326.8 km2 (126.2 mi2)
  都市圏 1,023.21 km2 (395.06 mi2)
標高 219 m
人口
人口 (2014年3月31日現在)
  域 759,144[1]
    人口密度   2,323.0人/km2(6,015.4人/mi2
  都市圏 1,725,894人
    都市圏人口密度   1,686.7人/km2(4,368.7人/mi2
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
郵便番号 30-024 〜 31-962
市外局番 012
ナンバープレート KR
公式ウェブサイト : http://www.krakow.pl/
世界遺産 クラクフ歴史地区
ポーランド
クラクフ、フロリアンスカ通り
クラクフ、フロリアンスカ通り
英名 Historic Centre of Kraków
仏名 Centre historique de Kraków
登録区分 文化遺産
登録基準 (4)
登録年 1978年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

クラクフKraków, Pl-Kraków.ogg ['krakuf][ヘルプ/ファイル], Krakau クラカウ)は、ポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であった。ポーランドの工業文化の主要な中心地でもある。ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城英語版を中心として川の両岸に広がっている。 1038年から1569年まではポーランド王国1569年から1596年までポーランド・リトアニア共和国であった。 1794年からオーストリア帝国領となり、1846年から1918年までオーストリアのクラクフ大公国であった。

人口は約75万で、これはワルシャワウッチに続く第3の規模。

歴史[ソースを編集]

ヴァヴェル城 (Wawel Castle)

クラクフの歴史は、ポーランド王国成立以前は西スラブ民族のVistulans部族が定住し、その後、モラヴィア王国となる。モラヴィア王国はハンガリー人に倒された。クラクフはボヘミア王国となる。 歴史書に初めて記載されたのは、966年アンダルスイベリア後ウマイヤ朝イスラム帝国)のユダヤ人記録家イブン・ヤクブ英語版: Ibrâhîm ibn Ya`qûb)によると、クラクフはボヘミアの交易都市であると記述されている。1038年、クラクフはポーランド(ピアスト朝)となる。

13世紀モンゴルの襲撃でいったん破壊された。14世紀よりクラクフは最盛期を迎え、1364年カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラクフ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていった。モンゴルの襲撃による街の破壊と人口減少後、14世紀のカジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ、当時はヴィスワ川の中洲だった、河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供した。後にユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がっていった。

16世紀後半、ヤギェウォ朝が断絶すると、貴族(シュラフタ)運営の身分制議会(セイム)勢力が強まり、王権の弱体化が進んだ。16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラクフからワルシャワへと遷された。そうした中、17世紀前半の三十年戦争18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃した。18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラクフはハプスブルク君主国のオーストリア領ガリツィアとなった。

1815年ウィーン議定書によりロシアプロイセンオーストリア保護国であるクラクフ共和国となる。1846年2月、クラクフ市民が反オーストリア蜂起・クラクフ蜂起を起こしたが失敗に終わる。オーストリアに併合されてクラクフ大公国となり自治特権は失われた。この蜂起は2年後に起こる1848年ヨーロッパ革命の先駆的運動とも評価される。[要出典]19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たした。第一次世界大戦を経て、1918年にポーランドが独立を果たしポーランド第二共和国となった。第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けた。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラクフのヴァヴェル城英語版からポーランド総督府の統治にあたった。1945年、ソ連軍が支配下となった。

第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが創設された。オスカー・シンドラーが経営していた工場は、クラクフ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていた。工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行される時、彼らを連れ戻しモラヴィア地方のツヴィッタウ(: Zwittau、現スヴィタヴィ英語版)-ブリュンリッツ(: Brünnlitz、現ブルニェネツ英語版)にある自分の工場へと送った。

クラクフの歴史上、ポーランド国内でも多くのユダヤ人が在住した街であった。ホロコースト反ユダヤ主義から逃れるため、ユダヤ人はアメリカイスラエルなどへ移住した。現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬、ユダヤ人による「シャローム」祭が開催される[2]アメリカイスラエルなどから、ポーランドから移住していったユダヤ人が訪れる。

地理[ソースを編集]

近隣の都市としては、約70キロ西にカトヴィツェ、100キロ北東にキエルツェ、75キロ東にタルヌフ、85キロ南にザコパネが位置している。

気候[ソースを編集]

クラクフの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 15.7
(60.3)
21.0
(69.8)
25.2
(77.4)
29.6
(85.3)
33.3
(91.9)
35.5
(95.9)
36.1
(97)
36.7
(98.1)
33.1
(91.6)
27.7
(81.9)
21.2
(70.2)
18.9
(66)
36.7
(98.1)
平均最高気温 °C (°F) 1.1
(34)
1.5
(34.7)
7.9
(46.2)
13.7
(56.7)
19.8
(67.6)
22.1
(71.8)
24.2
(75.6)
23.9
(75)
19.2
(66.6)
13.6
(56.5)
5.0
(41)
2.9
(37.2)
12.9
(55.2)
日平均気温 °C (°F) −2.1
(28.2)
−1.8
(28.8)
3.8
(38.8)
9.6
(49.3)
14.1
(57.4)
18.0
(64.4)
19.6
(67.3)
19.3
(66.7)
14.7
(58.5)
9.2
(48.6)
2.6
(36.7)
0.0
(32)
8.9
(48)
平均最低気温 °C (°F) −5.3
(22.5)
−5.1
(22.8)
−0.5
(31.1)
5.5
(41.9)
9.0
(48.2)
13.8
(56.8)
15.0
(59)
14.7
(58.5)
10.2
(50.4)
4.8
(40.6)
0.2
(32.4)
−2.9
(26.8)
5.0
(41)
最低気温記録 °C (°F) −29.9
(−21.8)
−29.4
(−20.9)
−22.9
(−9.2)
−9.4
(15.1)
−2.7
(27.1)
0.6
(33.1)
4.3
(39.7)
2.0
(35.6)
−4.1
(24.6)
−7.9
(17.8)
−17.7
(0.1)
−25.5
(−13.9)
−29.9
(−21.8)
降水量 mm (inch) 34
(1.34)
34
(1.34)
35
(1.38)
42
(1.65)
56
(2.2)
84
(3.31)
90
(3.54)
82
(3.23)
55
(2.17)
44
(1.73)
41
(1.61)
34
(1.34)
631
(24.84)
平均降水日数 15 12 13 9 11 12 13 13 11 12 14 12 147
 % 湿度 82 82 77 68 63 69 71 74 75 79 83 86 76
平均月間日照時間 43 54 102 144 189 204 208 183 153 105 51 33 1,469
出典: Institute of Meteorology and Water Management

文化[ソースを編集]

ダ・ヴィンチ
『白テンを抱く貴婦人』
織物取引所と中央広場

クラクフはポーランド文化の中心地であるといわれる。また第二次世界大戦であまり被害を受けなかったこともあり、世界遺産に登録されている旧市街には、歴史的な建造物が多く残っている。なかでも旧王宮であるヴァヴェル城英語版聖マリア教会英語版、織物会館などがある。

クラクフには国立美術館、各種博物館や美術館など文化施設が存在する。レオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」があるチャルトリスキ美術館や、日本の美術品収集家フェリクス・"マンガ"・ヤシェンスキの日本美術コレクションが展示されている「日本美術・技術センター“マンガ”館」(館名の「マンガ」の由来は葛飾北斎北斎漫画で、建物の設計は磯崎新)、ポーランド人画家ヤン・マテイコらの作品がある国立美術館。

聖マリア教会のラッパ[ソースを編集]

聖マリア教会
聖マリア教会と「ライコニック」

中世、モンゴル軍の襲撃に逢った際、ラッパ吹きが危険を周知させるためラッパを吹いている最中に矢で射殺されたという言い伝えがある。それに倣い、広場にある聖マリア教会の塔の上からは、一時間おきにラッパが吹き鳴らされ、演奏中に突如途絶する。この伝統は中世から連綿と続いている。

この時報としての「ヘイナウ・マリアツキ」(聖マリアのトランペットコール)は1392年の公文書に記載されているものが最古の記録だが、「ヘイナウ」がハンガリー語由来の外来語であることから、遅くともそれより数十年前の、ハンガリー王を兼任していたポーランド王ルドヴィク1世の治世には既に定着していたようである。当時は、市の東西南北それぞれにあった城門にもそれぞれラッパ士がいた。聖マリア教会でのラッパの途絶が途絶すると、4つのうちいずれかひとつの城門のラッパ士がその後のメロディを受け継いで、その城門の開閉を市内外に知らせていた。ヘイナウ・マリアツキはその長い歴史の中で、知られている限り二千人以上の人々が担当している。

ヘイナウ・マリアツキの演奏

ヘイナウ・マリアツキは、これまで2度だけ「聖母の涙」という、キリスト教音楽の別の曲にとって代わられた。1度目はポーランドが生んだローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の帰天(逝去)の日である2005年4月3日、2度目はポーランド大統領レフ・カチンスキ夫妻が飛行機事故で急死した翌日の2010年4月11日

ヘイナウ・マリアツキの由来となったのはクラクフを襲撃したモンゴル騎兵たちであるが、彼らを模したヒゲもじゃのマスコット「ライコニック」は、キリスト教の祭日「聖体の祝日」に毎年開催される「ライコニックたちの祭り」(ライコニキ)の主役。


オブヴァジャーネック[ソースを編集]

クラクフ式オブヴァジャーネックの屋台

「クラクフ式オブヴァジャーネック」(obwarzanek krakowski、オブヴァジャーネックとは「一度茹でてから焼いたパン」の意味)はクラクフのユダヤ人文化の代表格。市内でライセンスを取得したパン屋だけが製造販売できる。起源は17世紀のクラクフのユダヤ人コミュニティー。オブヴァジャーネックは、ベーグルの原型の1つとされるようでもある。アメリカのベーグルとは異なり、表面はやわらかく水分や弾力性は乏しい、素材(小麦)のままの味が強くなっている。プレッツェルに似ているとも言われる。

スポーツ[ソースを編集]

世界遺産登録基準[ソースを編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

交通機関[ソースを編集]

クラクフ市内のトラム
空港

クラクフ西方の郊外に、バリツェ空港(ヨハネ・パウロ2世空港)がある。

鉄道・長距離バス

クラクフ中央駅は、各種の普通列車および特急列車などで国内外の主要都市と結ばれている。

市内交通

主要な公共市内交通手段はバスとトラムである。

教育機関[ソースを編集]

主なランドマーク[ソースを編集]

クラクフに縁のある著名人[ソースを編集]

姉妹都市[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Stan ludności, 2014. Tablice bilansowe: Małopolskie (ZIP Archive, direct download) Demografia.stat.gov.pl
  2. ^ http://www.fkz.pl/index.php?lang=e

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]